玉川学園・玉川大学
ここは日本のお友達との交流の広場です.ゲンボー先生とのやり取りもここで行います.
僕は小学5年生の拓也といいます。今僕たちは世界のおこめについて調べてます。どうしてもわからないことがあります。それはアメリカでひとつの農家の田んぼの面積はだいたいどのくらいかということです。
もうひとつ、イタリアではふつうどんなふうに精米してるんですか?日本とちがいますか?おしえてください!!
ゲンボー先生
拓也君メールを有難う.
アメリカは大農法と言って,広い耕地を大型機械や飛行機を使って管理しています.田んぼの形も広い面積を水平にするために地形の高低にあわせているため,日本のように四角い形ではありません.
種まきは飛行機です.農薬も飛行機でまきます.刈り入れはコンバインやトラクターで行います.
さて,日本もアメリカも地域によって耕地面積がかわります.そこで先生は耕地面積と農業人口の数で農家一軒あたりの平均を出してみました.
日本は約1.2ヘクタール
アメリカ合衆国は63ヘクタールです.
平均で約60倍ですね.
しかし,州によっては400ヘクタールが平均のところもあります.
すごいねえ!少ない人数で大量に作るから「安く」作れるんだよね.そのうち日本人好みのお米を大量に作って日本に輸出するようになります.君が大人になる頃には外国産のお米が大部分になるかもしれません.値段も半分以下になります.これは消費者にとっては良い事ですが,農家の人にとっては大変な出来事です.君達ならどうすれば良いか考えてみてください.このことが一番大切な事だと先生は思います.
次に,イタリアではどのように精米していますか?と言う質問に答えられる資料がありません.ただ,どの国でもほぼ同じように精米していますから,それでよければお答えします.
まず刈りいれたお米は「もみ」のついた状態で乾燥されます.
次にもみを取る「籾摺り」(もみすり)をします.
こうして出来たお米が『玄米』です.このままでも食べられますがかたいので精米します.
現代の精米はコンピュータでお米の水分や温度を調節しながら行われます.
ついたり,回転させたりいろんな方法がありますが,主流は「粒々摩擦方式」です.これはお米とお米をすり合わせて玄米の皮や胚芽(はいが)を取り除く方法です.
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
インドの米作りについて説明します.
インドは人口では世界の2番目,面積では6番目の大国ですが,経済的にはまだまだ遅れた国になっています.
インドにはカースト制度と言う階級制度(かいきゅうせいど)があって,貧富の差(ひんぷのさ)が非常に大きいのがその原因です.
一般の農民は貧しく,機械化はきょくたんに遅れています.大部分の農民は50年以上前の日本のように手作業で田植えや稲刈りを行っています.それでも農民の数と耕地面積が広いためお米の生産量は中国についで世界第2位です.
水田は東インドのガンジス川流域(りゅういき)で多く作られています.東インドはモンスーン気候といい雨季(うき=雨が降る時期)と乾期(雨の降らない時期)があり,この雨季を利用して田植えを行います.日本もモンスーン気候に属しています.(北海道は除く)
4〜5月ごろ種まきをして,10月〜1月に収穫(しゅうかく)する冬種と, 5〜6月ごろに種まきをして次の年の3〜6月ごろ収穫する春種があります.
雨季になると洪水で田んぼも道も村も一面の水です.日本の洪水と違うのはジワ〜っと水位が上がってくるのです.どの品種の米を植えるかはこの洪水の時期と水位によって決まります.
作られるお米はインディカと言う細長いお米です.日本のお米のように粘り気(ねばりけ)はあまりありません.ですからおにぎりとかおすしには向いていないお米ですね.しかしピラフとかカレーには向いています.インドの人は右手だけでおかずとご飯をうまくまぜて食事をします.先生も一度ためしてみた事がありますが,手から腕までが汁でべたべたになってしまいました.インド人は指先しか汚れません.国や場所が変わるとずいぶんちがいますね.
ゲンボー先生より
米は、いつ、どういうふうに、誕生したのか教えてください。
ゲンボー先生
幸平君 メールを有難う.お米がいつどこで出来たかはまだ分からない事もおおくあります.
多分,インドのアッサムというところと中国の長江下流でほぼ同じころ,お米のさいばいが行われたのではないかと言われています.
それまでお米は水辺にはえている野生の植物だったのですが,同じような環境(つまり水田)を作ってそだててみようかあ・・・ということで,冒険心のあるおりこうな人がはじめたのでしょう.それが今から7000年前くらいのことです.
その後お米の栽培(さいばい)は東南アジアと中国に伝わりました.東南アジアではチャオプラヤ川(タイ)のほとりで作られたことが分かっています.これらのお米はインディカ米という細長いお米になりました.
中国は長江(揚子江)でのさいばいが知られていますが,ほぼ同じ時期に日本にも伝わりお米のさいばいがはじまりました.これが今から約6000年前のことです.当時の日本は水田ではなく他の作物と同じように畑で作られていたようです.日本で栽培されたのは丸っこいジャポニカ種でした.
日本で水田が作られるのは縄文時代後期(今から3000年前)くらいからで,北九州で行われました.やがて新しい農具や,土木技術が入ってきて弥生時代が誕生します.これが今から2400年前のことです.
先生の作っているホームページ「中里遺跡」は関東地方で最初に水田を作った遺跡です.
お米は,栄養も有るしおいしいし,保存もききます.やがてお米の作る量で村の強弱がきまりいくつかの村が統合されて国になりました.国と言っても今の町や市程度の大きさです.やがてその国がさらに強いものに統合されてもうちょっと大きな国になります.その支配者のお墓が古墳です.とにかくそのあたりから米作りが日本の社会の基本になりました.
以後,大和朝廷の時代から明治時代の初めまで,日本ではお金の「もと」がお米になりました.
ゲンボー先生より
はじめまして。今、社会の時間で、庄内平野の、土地の様子や、気候について、調べています。いいHPを、教えてください!
ゲンボー先生
涼子ちゃん メールを有難う.新学期でごたごたしていて返事が遅れました.ごめんね・・・
庄内平野は大昔「潟湖」(せきこ)という半分海水,半分真水の湖でした.それが最上川や赤川の土砂によって生まれて出来た平野です.ですからもともと水はけの悪い土地でした.
その庄内平野を現在のような米どころに変えたのは,本間氏でした.本間氏はもともと神奈川県の座間というところの商人でした.行商に来ていた本間氏のご先祖様は,もうけたお金で庄内平野の土地を買いました.当時は荒地のようなところですからとても安いお金で買えたのです.これが江戸時代の話しです.
本間さんはまず水路を作りました.そしてたんぼの水はけを良くしたのです.と,同時に形の悪かったたんぼを耕地整理して四角に変えていきました.
庄内平野は今でも冬になると日本海から強い風が吹いてきます.そして風と一緒に砂丘の砂も飛んでくるのです.一晩にしてたんぼがうまってしまうということもあったそうです.この風はときとして初夏にもふいてきます.せっかく植えた苗が砂に埋まってしまえばそのまま枯れてしまいます.
そこで本間さんは海岸に松の苗を植え始めたのですが,それは何年も何年もかかりました.せっかく植えた苗が風で飛ばされたり.人に踏まれたり.ちょっと大きくなったら切られて薪にされたりしたからです.
それでも本間さんは松をうえ続けました.その姿にうたれて手伝う人も出てきました.やがて松は大きく成長して立派な砂防林になりました.こうして庄内平野は砂の害から守られたのです.
そうしているあいだにも本間家は土地を買いつづけ.ついには日本一の大地主といわれるようになりました.
小作人(本間家で働く農民)も増えました.本間家では水路を作ることにくわえて馬や牛で耕作することもすすめました.こうして以前は胸まで水に浸かりながら農作業をしていた庄内平野の農民は,当時としては最も進んだ(江戸時代)農業を行う農民に変身していったのです.
お米の生産量もどんどんのびて庄内藩の経済は本間家でもつといわれるほどになりました.
本間家は小作人を大切にしました.借金が返せない人には,その分水路を作る作業をさせて返済にかえました.また馬を買うお金は,馬を使うことによって生産が伸びた分から返済させました.
本間家は農地を開拓し整理し,農民を育てたのです.今日の庄内平野を語る時本間家の偉業ぬきに語る事は出来ません.ところが教科書には書いてないんだなあ・・・難しいからでしょうね・・・
お米は気候や土地が合えば出来るというものではないのです.庄内平野のように条件がとても悪いところでも人々の努力によって条件を作り出してきたのです.日本の米作りの歴史とは全て自然との戦いでした.
涼子ちゃんの住む讃岐平野は水が少ないところでしょ?
でも奈良時代の昔から人々が努力して「ため池」を作りましたね.16000あるため池のほとんどは農民が田んぼをつぶしてまで作ったため池です.それがあるため高松藩の経済が成り立ったのですよ.
もしため池が中なかったら,高松市はちっぽけな町にしかなりませんでした.人口もいまよりず〜っと少ないはずです.(詳しくは先生のため池のページを見てくださいね)
今の庄内平野は農民の努力で更に耕地整理をおこない機械化を進めて「おいしい」「やすい」お米の生産を目指しています.お米の輸入が進みこれから年々値段が下がってきます.狭いところや効率の悪いところの米作りは難しくなっていきますが,庄内平野や新潟平野,八郎潟などの広い場所での米作りはもっと近代的に変身して盛んになるだろうと言われています.
最後に
すぐれたホームページは先生のページにもリンクをはっている「ゴロベエ」さんのホームページです.ただゴロベーさんは同じ山形県でも庄内じゃないんだ・・
gooとかで検索してごらんなさい. http://www.goo.ne.jp/
それから,庄内平野も良いですが,君の住む讃岐平野のことを調べる事を先生はすすめます.
ゲンボー先生
社会で稲をバケツで育てることができるか勉強しています。資料を下さい。
ゲンボー先生
資料はありませんが,稲をバケツで育てる事はできます.その場合大切な事は水のかんりです.
水を多くしたり少なくしたりしなければなりません.それは近くにあるたんぼを見れば分かります.稲は必要な時にたっぷりと水をやらなくてはなりませんし.実がついて色が変わってきたら今度は水を抜かなくてはなりません.
ところがバケツの場合,ちょっと油断すると完全にからからになってしまいます.そうならないようにしてください.といってやりすぎると根がくさってしまい,せっかくのお米がとれなくなってしまいます.
その時期になったら,バケツの底に穴をあけるといいかもしれません.ですから本当は栓のついたプランターのほうがいいと思いますよ.
最後に
1週間ごとでもいいし,節目ごとでもいいのですが君に観察日記をつけることを先生はすすめます.出来れば写真もとっておいたほうがいいと思います.
※できたら先生もそれを見たいと思います・・・・
ゲンボー先生より
ご質問をします。
1,米に付く虫などを殺す役目を持つ農薬はいつごろから使われ始めたんですか?
2,農薬を使う前はどうやって虫を殺したりしていたんですか?
3,農薬を使う前と、使ってからではどのくらいちがいがあるんですか?
4,農薬をつかって作った米は、ナゼ悪いといわれるんですか?
すごくいっぱい、質問をして、すいませんが答えてください。
ゲンボー先生
いえいえ,どんどん質問してくださいね
1.の答え.
農薬は古くから農民の夢でした.だってせっかく作った稲が枯れたり,虫に食われたりしたら,とれる量が減るから悲しいでしょ.ところが農薬が一般の農民に多くつかわれるようになったのは昭和30年代になってからです.まず,アメリカの化学会社が作ったものが日本に入ってきました.
当時先生は君達と同じ年頃でしたが,朝礼の時先生が「しばらくはたんぼに近づいちゃいけないよ」と僕達に伝えてくれました.農薬をまいたたんぼには赤い布が印としてつけられました.
当時の農薬は人間の身体にも悪いような強いものだったのです.でも,今では毒性の低いものが使われるようになってきました.
2.の答え
昔の人は「虫追い」とか「鳥追い」という行事を行って虫や鳥の害から稲を守ろうとしました.つまりお祈りです.これでは本当に病気や虫の害から稲を守る事は出来ませんね.そこで農民はわらや松の葉っぱなどを燃やして煙をおこし,これで虫をおっぱらったのです.
また「いもち病」という稲が枯れる病気が発生した場合は,その稲を根こそぎ抜いたり,たんぼ全体を焼いたりして伝染するのを防ぎました.
3.の答え
農薬は身体に悪いと言うことで最近では低農薬や無農薬の米が好まれるようになりましたが,実際に農薬が無ければ世界の食糧生産は今よりもず〜っと低くなってしまいます.これでは貧しい国ではたくさんの人が飢え死にする事になります.農薬の発明によって世界の食糧生産は飛躍的(ひやくてき=進み方がおおはばなこと)にのびました.お米の生産量だってすごく増えたのです.
日本は昭和40年代までず〜っと米不足の国でした.昭和40年代の半ばになって,日本は歴史上始めて米不足でなくなったのです.政府がお米作りを奨励(しょうれい=さかんにすすめること)したのも大きな要因(なにかが成り立つのに必要な原因)ですが,農薬と肥料によって生産が増えたのも大きな要因といわれています.
ですから単純に「農薬」=「悪い」とは言えませんね.大切なことは,その薬が人間を含む動物に害があるのかないのか,まく時期や量はどうなのか?ということだと思います.
4.の答え
農薬はうまく使えば人間のためになりますが,一方では残留農薬(ざんりゅうのうやく=植物や動物に残っている農薬)の量が多かったり強かったりすと健康に悪いものになってしまいます.そこで,無農薬とか低農薬の米が良いと言われるようになりました.
ところで農民が農薬を使うのは「病気や虫の害」から作物を守る以外に,見栄えの良い作物が好まれる.つまり高く売れるという,買う人側(消費者=しょうひしゃ)の意識も大きな理由になっています.少しぐらい虫が食っていたり,曲がっていたりしただけで買わないという私達の行動も,農家が農薬を多くしなくてはならない原因の一つなのです.
農家の人も農薬は出来るだけ少なくしようと努力していますが,私達も少しぐらいのことなら気にしないで買うようにすれば,もっと農薬を少なくすることができますね.
先生はフランスにいたことがありますが,八百屋さんに並んでいる野菜には泥がついていたり,葉っぱに虫食いのあとが残っていたりしました.フランス人は洗えばいいことだ,それに虫が食べるくらいおいしいのだ.と一向に気にしていませんでした.日本人は見栄えばかりを気にするなあと,先生はつくづくそう思いました.
さて君はこのことをどう思いますか?また,自分ならどんなことができますか?そのことを考えてください.
ゲンボー先生より
社会の勉強で調べ物をしています。
お米は,南の国から始まったのに,日本でどんどん北に上がっていっていまでは,北の方が生産は多いのは、どうしてですか?どうして,北に上がっていったのですか?
ゲンボー先生
めぐみさん メールをありがとう.ご返事が遅れてごめんなさいね.
お米は確かに南からきましたが,もともとの発祥の地であるインドのアッサムというところは夜になると寒くなるところで,昼の暑さとの差の大きなところでした.つまり,稲には寒さに強い性質が最初からあったのです.
日本には,縄文時代前期ごろ(6千年前)に入ってきましたが,このころは畑で他の穀類(アワやヒエ)などと一緒に作られていたようです.
縄文時代も後期の終わり頃になると(3500年前)北九州で水田が作られるようになりました.そして晩期という一番最後の時期から弥生時代になると(2500年前)水田の技術は北へ北へと進んでいきました.
水田と新しい農具の技術は船でも運ばれました.先生のページ中里遺跡は 関東地方で一番始めに水田を作った遺跡です.おそらく瀬戸内海からやってきた人達によって伝えられたものです.見てください.
しかしそれ以前に日本海ルートをとおって東北地方にも伝えられていたのですよ.青森県の津軽地方です.東北は寒いはずなのに・・・そうなんです.さっきも書いたとおりお米にはもともと寒さに強い遺伝子があったから,条件さえあえば東北地方でも栽培できたんですね.
また,それとは別に大和朝廷ができて奈良時代になって,更に平安時代頃になると,関東地方や東北地方の原野が開拓され,水路がひかれ水田の面積も広がっていきました.
江戸時代になるとついに蝦夷地と呼ばれた北海道の南のほうで稲作が始まりました.でもさすがに寒くてはじめの頃はなかなかうまく稲が育ちませんでした.先生のページの「石狩平野」を見てください.
品種の改良や土の改良を続けて,明治時代になってようやく石狩平野や上川盆地でもお米が作られるようになりました.
めぐみちゃんが北へ北へと書いたのは,日本の開拓が北へ北へと進んだからなのです.
そうまでしてお米を作ったのにはわけがあります.お米は他の作物に比べ保存がきくしおいしいから,お金と同じ価値をもっていました.江戸時代には藩の大きさを表すのにも「何万石」(なんまんごく)と,お米のとれる量でその国(藩)の大きさを表しました.武士は農民から米を年貢としてとって,それを売ってお金にかえて生活していたのです.お米はお金と同じだったんですね.
私達のご先祖様は,少しでも時分たちの生活をよくしたいために,土地を切り開き,水を引き,品種の改良に取り組んでお米を作りました.こうして日本は世界で一番北でもお米が作れる国になったのです.
ゲンボー先生より
お米を、炊く前と炊いた後に、何か成分に違いはあるんですか?
なるべく早く、教えて頂けるとうれしいです。
ゲンボー先生
佳恵さんメールを有難う.
デンプンがアルファ化されて,消化に良くなります.もちもちして,食べやすくなるという事です.先生も,よく生のお米を食べると「お腹こわすよ」といわれたものです.お米はそのままですとデンプンが硬いままで消化されにくいんです.
理科でも習ったとおりデンプンは糖に変わりエネルギーのもとになりますね.佳恵さんもしっかりご飯を食べて,パワフルに勉強と遊びに頑張ってください.
詳しくはこちらのページを見てください.
ゲンボー先生より
今日社会の時間に、弥生時代の米作を勉強しました。クラスのみんなの疑問は,味と品種です。
ぼくの住む富山県は、とてもおいしいコシヒカリがとれます。肥料もきっと無い時代なので、どんな米なのかちょっと心配です。先生知っていたら、教えてください。
ゲンボー先生
大輔君メールを有難う.
富山のお米は美味しいね.先生の家でも富山産のコシヒカリを食べています.
弥生時代のお米には「これ」という品種がありません.今はたんぼによって「こしひかり」「日本晴れ」「ササニシキ」と品種を分けて作っていますが.弥生時代にはそのように品種の選別が進んでいなかったため,白いのや黒いのや赤いのがごちゃまぜに栽培されていたようです.
日本のお米が品種ごとに分けられたのは奈良時代になってからのことです.
肥料が一般的に使われるようになるのは鎌倉時代からです.それでもお米は水田で栽培されますから,必要な養分は水や泥からとる事が出来ますね.
畑でお米を作ると数年でとれなくなります.理由は簡単,お米にとって必要な養分が土からなくなってしまうからです.そして育つのにいらない物質が残るからです.
その点水田は,毎年新しい土が運ばれて来るし,不要な成分も流してしまうので毎年同じ場所でお米が出来るのです.日本人が一ヶ所に定住するようになったのは,水田が広がってからなんですよ.
ところで日本でお米が栽培されるようになったのは,縄文時代前期ころ(6000年前)かもしれないのです.ただし水田で栽培されるようになったのは,北九州で縄文時代後期(3500年前),関東地方で縄文時代晩期の終わりごろ(2500年前)といわれています.
先生の別のページに「中里遺跡」というのがありますから,それを見てください.では,元気で頑張ってください.
ゲンボー先生より
社会の教科で、お米のことを勉強しています。そこで私は、「なぜ、お米が世界に広がったか」を調べることにしました。
わたしは、3年前ドイツに住んでいましたが、そこでもお米を買ってご飯を炊くことが出来ました。また、家族とヨーロッパを旅する時も、南のイタリアや北のフィンランドなど、いろんな国々でお米(ご飯)を食べていることを知りました。どうして、世界の多くの国ではご飯を食べるようになりましたか。
教えて下さい。お願いします。
ゲンボー先生
みつるさん メールをありがとう.
稲作が広まったのと,お米が広がったのとでは大きく意味がちがってきます.
稲作は,はじめインドで始まり,やがて東南アジア,中国,日本に広まりました.それはモンスーン気候という雨季と乾期がはっきりしている地域に適した作物だったからです.やがて稲はイタリアやスペインなどの,ヨーロッパでも比較的暖かい地方でも栽培されるようになりました.
(それ以外にはアフリカのニジェール川流域でも,全く別の種類のお米による稲作が行われていました.)
やがて,アメリカ大陸が発見されてヨーロッパの人が移住すると,アメリカ合衆国の南の方,特にミシシッピ-川流域で稲作が始まります.このお米はヨーロッパ人が好むインディカ種という細長い種類です.
さらに,カリフォルニアに日本人や中国人が移住すると,丸っこいジャポニカ種が作られるようになりました.
アジアではお米は主食になりました.パンのもとである小麦より栄養があるため.たくさんの人が養えました.いまでもアジアの人口密度が高いのはそのためなのです.
一方ヨーロッパでは「おかず」,つまり副食としてお米は好まれました.ヨーロッパでは白米のまま食べるより,リゾットやパエリヤ,それにピラフなど味付けご飯みたいにして食べるのはそのためです.君がいたドイツでも一般のドイツ人はそうやって,インディカ米を調理したものを食べていたはずです.フィンランドも同じです.
1970〜80年代になるとドイツにも仕事の都合で日本人が多く住むようになりました.そこで,日本人がよく行くストアなどでジャポニカ種のお米が売られるようになったのです.このお米はほとんどがアメリカ産だったと思います.ドイツでは気候が合わないためにお米は出来ないのです.また日本産は値段が高くて少ししか売れないからです.
お米は長い歴史のなかで栽培地が広がり,独特の食べ方が生まれ,そうして栽培地を越えて世界の人々に食べられるようになったのです.
ゲンボー先生より
田んぼ以外でお米の出来るところはありますか。
ゲンボー先生
翔平君メールをありがとう.
日本に始めてお米が入ってきたときは「畑」で作られていました.それを陸稲(りくとう)または「おかぼ」と呼んでいます.
ところが畑でお米を作ると,次の年にはとれる量がへってしまうのです.なぜなら,お米に必要な成分が土から吸い取られ,お米に必要な成分が減っていくからなのです.こういう現象を「連作障害」(れんさくしょうがい=つづけて作るとおきる,まずいこと)といいます.
いっぽう「田んぼ」は水を入れるために新しい養分や土が入ってきますし,不要な成分が流されてしまいますから連作障害はおきません.
縄文時代後期から北九州で水田が作られると,お米の生産量はとても増えていきました.やがてそれが広まり,新しい技術や道具が入ってきて弥生時代になりました.
さて,質問の件ですが,うまくやればバケツでもプランターでもお米を作ることは出来ます.
お米は土と水と太陽の光さえあれば,どこでも作る事ができますが,水田がもっとも効率的(こうりつてきむだがなく)たくさん作れるのです.
ゲンボー先生より
私が今調べている事は産地ともう一つの住所があるのはなぜ?というのを調べています。けれどなかなか見つからないんです。この前、新潟県産コシヒカリの米袋に札幌の住所が書いてあったんです。
もし、このことがわかったらここにメールを下さい。
ゲンボー先生
札幌の住所はそのお米を取り扱って,お米を精白しブレンド(種類や産地の異なるお米を混ぜること)し最後に袋づめしたところなのです.
収穫されたお米は,モミ米のまま袋に入れて倉庫に保存されます.米問屋(生産者とお米屋さんの間にあるお店.一般の人には売りません)は必要に応じて,倉庫からもみ米を出して籾摺り(もみすり)し,それを一般のお店に売ります.お米屋さんはそこで玄米を精白して,何種類かのお米を混ぜて,品質を一定にしてそれを袋に詰めます.この最後に袋に詰めたお米やさんのある住所が書かれているのです.※もちろんお米の中には混ぜないで,そのまま売るものもあります.普通そういうお米は高いお米です.
ゲンボー先生より
志茂小学校の五年生の早智子さんも同じ質問をくれました.
ゲンボー先生
晃子さん メールをありがとう.
いっぱいあるよ・・・
「日本晴」「ゆきひかり」「むつほまれ」「ひとめぼれ」「きらら397」「あきたこまち」「はつぼし」「ふさおとめ」「ササニシキ」「コシヒカリ」「あきほ」「つがるロマン」「ゆめあかり」「まなむすめ」「はえぬき」「きぬひかり」「はなえちぜん」「はつしも」「あけぼの」「夢つくし」「ひのひかり」「森のくまさん」「ほしのゆめ」「かけはし」「雪の精」
こんなところでいいですか?
「森のくまさん」・・・・・食べてみたいなあ・・・
ゲンボー先生より
社会の勉強であきたこまちのことを調べています。
古米はどう使われるのか、教えてください。
ゲンボー先生
かおりさん メールをありがとう.
古米や古古米の処理はとても難しいのです.なぜなら古米や古古米になるお米は政府が買い上げた高い値段のお米だからです.
政府は農家の生活安定と,お米を多く作って日本人の皆にお米が行きわたるように,お米の値段を一定に決めていました.こうすれば農家の人は安心してお米を作ることが出来るからです.(他の作物はとれた量によって値段があがったり下がったりと収入が不安定だったからです.)
日本は昭和30年代までは米が不足していましたが,そういう政策(せいさく=政府がお金を出してするしごと)があったことで昭和40年代になると,主食であるお米が100%自給できるようになりました.ところがその後も,毎年お米がとれつづけ,今度は米あまりになってしまったのです.
古くなったお米も,政府が税金を使って買い上げたお米ですから,値段を下げるわけにはいきません.外国に売るにも売れず,おせんべいに入れたり,肥料にしたり,家畜のエサにしましましたが,なにを作るにしても原料のお米が高いために売れないのです.作れば作るほど損をするというへんな現象(げんしょう)がおきました.
黄変米(おうへんまい=古くて黄色くなったお米=食べられません)を焼いたり捨てたりしたこともありました.
餓死者が出るような災害のあった国に援助米として送った事もあります.しかし同じ一億円分のお米を送るにしても,もっと安く作れる国が送る量とはくらべものになりませんね.日本はこれで評判を落としてしまいました.ただであげているのに・・・
政府は,方針を変更して外国からお米を輸入することにしました.急に安いお米が入ってくると日本の農家が困るので,はじめは高い税金をかけて日本のお米と同じくらいの値段に調整しますが,これも外国との約束で年々安くしていくことになっています.君が大人になる頃には10キロ1000円ぐらいになっているはずです.やがて,政府の買い上げも無くなるでしょう.古米や古古米などいう現象もおきなくなるはずです.
現在では政府が買い上げる量そのものがへっているためと,減反(げんたん=田んぼを減らす)が進んでいるために,古米の量も少し減ってきました.余ったお米は,災害や不作,あるいは戦争になったときのために溜めておく「備蓄米」になっています.
では,古くなった備蓄米はどうなるのか?さっきも書いたとおり何にするにしても難しいのです.そこで政府は援助米に向けようとしています・・・・これからはどうすればいいんでしょうね?みなさんで考えてみてください.
ゲンボー先生より
地域による米作りの歴史のページを見たのですけど「石狩川流域には泥炭層が堆積し,これらの事業のみではとても水田を作ることは困難でした. ※泥炭=寒冷地のため植物の分解腐食が進まず,土が炭化植物の状態のもの.戦前の農民は燃料に使っていた.したがって農耕には適さない.そこで,農民は遠くはなれた山間地域から腐食土を運び客土をしました.当時はトラックもブルドーザーも無い時代です.人々は馬ソリに土を載せ日に何十回も遠い道のりを往復しました.」と書いてあるんですが
「農民は遠くはなれた山間地域から腐食土を運び客土をしました」とのことですが、遠くはなれた山間地域の場所が知りたいんです.教えて下さい。おねがいします。
ゲンボー先生
純典君 メールを有難う.
質問の件ですが,残念ながら先生の持っている資料には「どこ」と明記してありません.したがって「ここ」とは答えられませんが,付近の丘や山のふもとだったと思います.
さて,戦後の場合ですが新篠津(しんしのつ)というところでは,世界銀行からお金を借り入れ水路を作り,泥炭の下にある腐葉土(黒土)を掘り表土の上に持ってくるというやり方で「客土」をしました.遠くまで行かなくても,5〜6メートル下に,北海道が暖かだった4000年くらい前の土があったのです.
しばらくは新篠津でもお米が作られました.しかし,結果的には米作りがうまくいきませんでした.
1.冬の厳冬期に表土が凍り配水設備が壊れてしまう.
2.舗装道路も下の土が氷で盛り上がり,春になって融けるので波打ってしまう.
3.それまで政府が,一定の価格で買い上げてくれたお米の価格が「自由化」でさがり,採算が取れなくなってしまった.
4.それによって大型機械の代金返済の予定が出来なくなってしまった.
ということで,稲作から手間のかからない「とうもろこし」などへの転換が行われています.
今後,寒冷地でも美味しいお米の開発や,農家の経営安定化政策でもない限りは,石狩平野での米作りは難しくなるといわれています.
ゲンボー先生より
ドーナッツについてしらべます。
ドーナッツは何でドーナッツと言う名前なのか?
ドーナッツはいつ、どこで生まれたか?
おしえてください。
ゲンボー先生
メールをありがとう!君たちへのしつもんですが「お米の学習」ページを見てメールをだしてくれたのですか?
ははは・・先生はお米のことは良く知っていますが,ドーナッツのことは知りません.だけど,食べるのは大好きなので,ちょっとしらべてみました.
まず新潟県にあるお菓子やさんのホームページにあったことを書きます.
ドーナツの由来(粉、その他の材料をねり合わせ油であげた物)はかなり古く、1780年代にはすでにヨーロッパにあった。
これは当時としてはひじょうに高級なもので、クリスマス、あるいは復活祭(ふっかつさい)、又は誕生祭(たんじょうさい)とかに家庭で作られ、お互いプレゼントしあっていた。これがアメリカ大陸に広く伝わった。1847年頃である。
いずれにしても、ドーナツの歴史は古く、言語はドウ(生地)ナッツ(ウオールナッツ落花生等)で生地に木の実などをねり合わせて油であげた物であった。
ドーナツのしゅるいを大きく分けると3つに分けられる。
1.ケーキドーナッツ・・ ケーキ、ビスケット生地(きじ)に近いもの,ベーキングパウダーをまぜたもの.
2.イーストドーナッツ・ パン生地に近いものにイーストをまぜたもの。
3.フレンチドーナッツ・ ベーキングパウダーもイーストもまぜず、玉子あるいは空気の気泡(きほう=あわ)を抱かせたもの。
※ドーナッツは英語で doughnutsと書きます.ドウはパンとかパン生地のこと,ナッツは木の実ですから,はじめのころはクッキーみたいなもので,穴があいてなかったのでしょうね.それをキリストの誕生際(つまりクリスマス)や復活祭(キリストがうまれかわった日のお祭り)に食べていたということです.
それが,あげやすいとかかわいいとかで,穴があいたのでしょう.お砂糖をまぶしたりチョコレートをかけるようになったのはず〜っとあとになってからです.
今,みんなが食ベているのはフレンチドーナッツですね.
あ〜,おなかが減ってきた.先生も今日のかえりに「ドーナッツ」を買います.
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
ゆうかさん,メールをありがとう.
お米の品種改良はかなり昔から行われていました.おそらく稲の栽培が始まった6〜7千年前からあったことだと思います.
人々は経験的に「病気に強い稲」「たくさん実をつける稲」「早く育つ稲」「美味しいお米」と,選別しながら稲を育ててきました.
ただ,昔は今ほど選別化が進んでいないので,弥生時代ころの水田には赤いお米や黒いお米,それに白いお米がごちゃ混ぜになって栽培されていたようです.
記録をみると,日本では奈良時代にお米の品種に名前がつけられていますから,そのあたりから今のように種類ごとのお米が別々に栽培されるようになったようです.
江戸時代には北海道でも寒さに強い品種が作られています.今では,国や県の農業試験場,それに種苗(しゅびょう)会社で,毎年のように新しい品種が作られています.
ただ,現代の日本では「コシヒカリ系」が好まれているために,コシヒカリの遺伝子を引き継ぐ種類が多いといわれています.最後に先生が知っているお米の品種を教えてあげましょうね.
「日本晴」「ゆきひかり」「むつほまれ」「ひとめぼれ」「きらら397」「あきたこまち」「はつぼし」「ふさおとめ」「ササニシキ」「コシヒカリ」「あきほ」「つがるロマン」「ゆめあかり」「まなむすめ」「はえぬき」「きぬひかり」「はなえちぜん」「はつしも」「あけぼの」「夢つくし」「ひのひかり」「森のくまさん」「ほしのゆめ」「かけはし」「雪の精」
ずいぶんたくさんあるでしょう・・・まだまだ,これ以外にもあるんですよ.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
君はどう思う?
お米は日本人の大切な主食ですが,世界の人にとっても大切な食糧なのです.お米はパンの原料である小麦よりはるかに栄養価が高く,同じ栽培面積でより多くの人が養えるという貴重な穀物です.
ヨーロッパや西アジア,それに北アメリカに比べ東アジアや南アジアの人口が多いのはお米を食べるからだといわれているくらいです.
今世界からお米がなくなったら,おそらく数億の人が飢え死にしてしまいます.
またお米から作られている製品も全て無くなっちゃうんですからたいへんだよね.
ところで,お米からはどんなものが作られているだろう.考えてみてください.
これでいいですか?
ゲンボー先生
今、私達は、「お米の歴史」を調べています。
そこで、質問です。
<1>お米を日本に最初に持ち込んだのは、誰でしょうか?
分かりませんが今から6000年前ぐらいの縄文時代の人です.
<2>日本にお米が伝わったのは、何時代でしょうか?
岡山県の「あさねばな遺跡」という縄文時代前期の遺跡から,稲にある独特の細胞「プラントオパール」が発見されています.ただし,どうやって栽培されていたかは分かりません.
<3>日本に伝わったお米の種類は、ジャポニカ種ですか?インディカ種ですか?
ジャポニカ種です.
<4>インドから、日本にお米が渡ってくるときの一番有力なルートを教えてください。
インドからビルマをとおって,山を越えて中国の雲南省に伝わり長江を下って,華南地方から海をとおってきたと考えられています.
忙しいのに、どうもすみません。四問も。でも、なるべく早く答えてくだい。(明日か、あさって中には、できれば答えてほしい。)また質問があったときには、よろしくお願いします。
どうぞ,またの質問を待っています・・・だけど,他にもたくさんの人から質問が来ているので,早く答えるという希望にはそえないこともあります.
ゲンボー先生より
今、社会の授業で、お米の銘柄の由来を調べています。このホーム・ページで、「コシヒカリ」「あきたこまち」「日本晴」などの名前の由来がわかりました。どうも、ありがとうございました。僕の家で食べているお米は、「ひのひかり」です。お米屋さんに聞きに行ったりしましたが、分かりませんでした。それで、「ひのひかり」の名前の由来が、分かったら教えて下さい。よろしくお願いします。
ゲンボー先生
ヒノヒカリはコシヒカリを品種改良して、温かい地方でも安定して収穫があり.美味しく病気にも強い、新しい品種といわれています.君が住んでいる九州で急速に栽培が広がっています.
コシヒカリはもともと新潟県にある農業試験場で作られました.農林1号と農林22号という品種を両親としています.
もともとお米は暖かい地方の作物でしたが,遺伝子の中に寒さに強い性格がありました.コシヒカリは特に昼間に暑く,夜に急速に涼しくなる地域でおいしく育つ品種だったのです.「魚沼産コシヒカリ」がおいしいと言われるのは,新潟県魚沼郡がそういう気候の土地だったからなのです.
日本人のお米に対する味覚がコシヒカリにあったため,コシヒカリは日本中で作られるようになりました.ところが今書いたように,昼と夜の温度差の少ない南の地方ではあまり美味しくなりませんでした.
そこで,コシヒカリを改良して,温かい地方でも本家のコシヒカリに負けないものをつくりあげました.それが君が食べているヒノヒカリです.ヒカリはコシヒカリからとった名前です.
コシヒカリは漢字で書くと「越光」です.越とは新潟,富山.福井あたりの古い国の名前です.新潟は越後,富山は越中,福井は越前です.
ヒノヒカリは宮崎県総合農業試験場でコシヒカリと愛知40号(黄金晴)を掛け合わせて作られました.宮崎の古い国の名前は日向(ひゅうが)です.その頭の日とヒカリをくっつけてヒノヒカリという呼び名にしたのです.
作った人の気持ちと,由来がわかる良い名前ですね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生へ
メールどうもありがとうございました。この前、「ひのひかりの名前の由来」を質問した長崎県西彼杵郡大島町立大島東小学校5年の、遼です。「ひのひかり」の名前の由来が分かり、助かりました。グループのみんなとまとめて、クラスで発表したいと思います。また、分からないことがあったら、メールするかもしれません。その時は、またよろしくお願いします。ゲンボー先生も、元気で頑張って下さい。
ありがとう遼君も頑張ってね.
質問します
1.コシヒカリはどんな「改良」をしたんですか?
コシヒカリのお父さんとお母さんは「農林1号」と「農林22号」です.この二つをかけあわせてコシヒカリが誕生しました.掛け合わせると言っても稲の場合,開花する時間がほんのわずかで,しかも一斉に花が開き一斉に閉じてしまうのでそれぞれ異なった種類の稲を受粉させるのはとても難しいのです.
通常,開花と同時にオシベを小さなはさみで切り落とします.切り落とすと言ってもあんなに小さなモミの一つ一つでそれをやるのですから,気の遠くなるような作業ですね.そうして数千の花のメシベに別の稲の花粉をつけて受粉させます.こういう地道な作業の上に新しい品種が作られていくのですが,成功するより失敗するほうがはるかに多いのです.
2.コシヒカリは改良でどんなお米と改良したんですか?
1と同じですね.
3.どうやっておいしいお米を決めるんですか?
自主流通米価格形成センターという取引場(東京と大阪にある)で等級と価格が決められます.米を集荷するときに抜き取り検査を行い,色,つや,おおきさ,水分の量などで等級を決めます.これらの要素で良い結果が出たものが美味しいお米と言われて,値段も高くなります.というより「美味しいといわれるお米」の成分を調べて,それを数値にして逆算して「おいしい」「「おいしくない」を決めています.
4.良いお米→やわらかいお米、甘みがあるお米、炊いたときにくずれないお米→誰がどうやって決めるか?
3と同じです.
5.お米の言葉の意味→(種もみとは?しろかきとは?)
種もみは,次の年にまくお米のことです.良いお米を残しておきます.しかし毎年これをしていると良く育たなかったり,奇形の稲が出たりするため,種苗会社(しゅびょうがいしゃ)から良い種を買う事もあります.
「代掻き」と書きます.田んぼを作る時にはまず
1.「田おこし」をします.田植え前に耕して土の中に空気を入れます.こうすると土が生き返ります.それに悪い虫が死んでしまいます.
場所によっては田おこしの前に「レンゲ」をまいて花を咲かせるところもあります.奈々美さんはレンゲ畑を見たことがありますか?先生が子供の頃,田植えの前は一面のレンゲ畑で,そこでよく遊びました.レンゲの根っこには根粒バクテリアという,肥料を作り出すバクテリアがつくのでとてもいいのです.これは昔の人の知恵です.
2.耕した田んぼに水を入れます.その時に土を細かくしてやわらかい粘土のようにします.これが代掻(しろかき)きなのです.代掻きをすると土の目が詰まって,それが田んぼの底で栓の役目をして,水が漏(も)れなくなります.
田んぼには水が必要です.その田んぼの底からどんどん水が抜けていったら,いくら水を引いてきても足りませんね.今度田んぼを見てください.田んぼは水路で別の田んぼにつながっています.こうして水がいっぱいになった田んぼから次の田んぼへと貴重な水を次々にまわしていくのです.
先生が以前行った香川県の讃岐平野は水がきょくたんに少ない地域でした.そこの農民は特に代掻きに神経を使っていました.それは貴重な水を一滴も無駄にしないためなのです.
代掻きも長年農民が培ってきた知恵なのですよ.
多い質問なんですが、よろしくお願いします。メール待ってます。
分からないことがあったらまたメールをくださいね.
ゲンボー先生
どうして、コシヒカリのお米はこんなにおいしいのですか。その時の米作りの工夫を、大至急お願いします。10日に発表があるので、9日までに教えてください。
ゲンボー先生
では,手短に説明しましょう.
コシヒカリは新潟県の農業試験場で,農林1号と農林22号を掛け合わせて作られました.
もともと亜熱帯の植物だった稲ですが,遺伝子の中に寒さに強い性質もあったのです.それは原産地インドのアッサム地方が昼暑く夜は涼しかったからだと言われています.
日本に入ってきた稲は,長い歴史の中で日本人好みの粘り気のあるふっくらとしたお米に改良されてきました.
さてコシヒカリもこのご先祖様の性質をしっかりと受け継(つ)いでいますが,昼と夜の温度差が大きいところで,よりその特色を出す稲になったのです.
特に大切なのは肥料をしっかりやること.田んぼをしっかりと耕し代掻(しろかき)きもおこたらないこと.そして何より大切なのは良い水があることなのです.
最近は化学肥料でなく,有機肥料(ゆうきひりょう=たい肥など自然のもので作った肥料のこと)をやったり,耕す前にレンゲ畑にしたりして良い田んぼを作っているところもあります.何をするにしても「努力」が必要ですね.君も今のうちにしっかり勉強して,しっかり遊ぶことが大切です.
ゲンボー先生
学校の宿題でお米の銘柄とその産地について調べたいのですがいいホームページを教えて下さい。日本のお米の名産地とその銘柄がわかるホームページはありますか?
ゲンボー先生
俊一君 メールをありがとう.
銘柄米(めいがらまい)は生まれた県から全国に広がっていて「これは,ここ!」というものは意外に少ないのです.例えばコシヒカリは新潟県で生まれましたが,今では全国ブランドになっています.ササニシキも日本晴れも同じです.
今,九州ではヒノヒカリという米の生産が非常に伸びています.コシヒカリの美味しさと,暖かいところでも,コシヒカリのようなうまさが出る遺伝子を持つ愛知40号とかけあわせたものです.生まれは宮崎県ですが書いたように九州中に広がっています.
つまり美味しくて高く売れるお米は,すぐに他県でも作られるということなのですね.
逆にいえば,他県で作られないお米は,その地域の人の好みがそのお米にかたよっていたり,気象条件や土地の関係からその銘柄が適しているという,特別な条件のところに限られています.
お米の銘柄はたくさんあります.先生のページにあるリンク集の「米専門ページ」の「無料情報」の「米の食味ランキング」を見てください.そこを見るとその地方で作っているものが分かりますよ.
ゲンボー先生
お返事をすぐ送ってくれてありがとうございました。先生のHPみて、宿題の参考にしました。とても役にたちました。
お米って、日本人には大切な物だと思うし僕も、白いごはんが大好きです。また、夏休みの自由研究かなにかでお米のことを、もっとしらべてみたいなと思います。
ぼくの学校には小さな田んぼがあります。僕の学校の5年生は、毎年この田んぼに稲をつくります。
秋には稲刈りをして、とれたお米でおにぎりを作って食べます。今年は僕たちの年なので楽しみです。もうすぐ田植えをするとおもいます。
また、わからないことがあったら質問してもいいですか?これからもよろしくお願いします。
どうぞ,質問を待っています.そのおにぎり先生も食べたいなあ.
メールをありがとう.
難しい質問です.答えから言うと「もうかります」.もうかるから作るのです.
ただし,これからは分かりません.
日本は昭和40年代のはじめ頃まで「米不足」の国でした.特に戦争中(第2次世界大戦)はお米が不足し,敗戦後には満足にお米が食べられなくて大変でした(お年寄りに聞いてごらん).
そこで,政府は戦前からあった食糧管理法(しょくりょうかんりほう)と言う法律を強化して,一人の一月あたりの食べる量を決めて「配給制」(はいきゅうせい=自由に買うのではなく,決まった量が配られるということ.=ただし,お米の配給はお金を払って買うのです)をすすめました.旅行に行った時は帰ってから旅先で食べた分を引かれました.
一方,政府は作られたお米全てを,決まった値段で農家から買い上げました.これは農家にとってうれしい事です.他の作物はできた量や質によって値段が変わるからです.農家の人は今でもその年によって収入が違うのですよ.
ところが米を作っている分には毎年必ず決まった収入が得られますね.これは生活する上でとても安心ですね.それで,全国の農家では頑張ってお米の増産をはかりました.水田の面積もずいぶん増えました.お米がどんどん作られて,ついに昭和40年の前半にお米が百%自給できる国なったのです.
しかし今度は米あまりになってしまいました.つまり毎年食べきれないお米がたまっていくという現象がおきてしまったのです.
政府が買い上げたと言う事は「国民の税金」で買ったということです.その貴重なお米が古米,古古米となって無駄に捨てられて行くという現象がおき,国民の批判がおきました.(その金額は国の予算に悪い影響を与えるほど大きくなってしまったのです)
そこで,政府は減反といって,お米の生産を減らす政策にかえました.減反と言うのは田んぼの面積を減らして畑に変えたり,休耕田(きゅうこうでん)といって何も作らない土地にしてしまう事です.休耕田の多くは荒地になったり,宅地になってしまいました.
そうやって,政府がお米を全部買い上げる,値段も一定,と言う方針は守られました.ところがいくつかの問題がおきたのです.
1.やる気のある農家が「美味しいお米」を作って,政府ではない業者に高く売る.
2.競争が無かったため日本のお米は世界の7倍から10倍という,異常な高値になってしまった.
3.米輸出国から日本も外国のお米を買ってほしいという要求が出た.
です.
1.は当初「やみごめ」とよばれ犯罪とされてしまいました.農民は裁判で争いました.「美味しい米を適正な価格で売って何が悪い」ということです.しかし,どんな法律でもルールはルールです.これは有罪になりました.しかしその裁判と平行するように,「やみごめ」と呼ばれたお米も法律を少し直して「自主流通米」とよばれ,どうどうと売る事が出来るようになったのです.
このころから「コシヒカリ」「秋田小町」などの銘柄米が好まれるようになりました.
2.国民が外国の米事情を知ると「なんて高い米を食わされているんだ」ということに気付いてしまったのです.そして食糧管理制度に対する批判が起きました.
3.そこにアメリカ合衆国をはじめ,米の輸出国が米の自由な貿易を求めてきました.
政府は食糧管理制度が現状に会わないこと,そしてなによりアメリカの圧力によって,ついに米の輸入を決定しました.そのなりゆきは「みんなの広場」の「お米の自由化について教えてください」を呼んでください.
ということで,今もすでにお米は安くなってきていますが,君が大人になる頃は今よりもず〜っと安くなっているはずです.
さてそうなると日本の米作り農家はどうなるでしょう?
広い面積を機械で能率よく作るところ.特別に美味しいお米を作るところ,は米作りが続けられるでしょうが,そうでないところは,自家米以外に作られなくなるでしょう.(作っても売れないからです)しかも農家は老齢化がすすみ,やがて多くの農家が米作りをあきらめるでしょう.
答えの続き.
もうかるところと,もうからないところができるということですね.わかりますか?あとは自分でまとめてくださいね.
ゲンボー先生
今晩は,今僕は社会の学習で『これからの米作り』のことを調べています。インターネットでいろいろ調べてみたんですけど米作りのことはなかなかのっていませんでした。これからの米作りはどのようにかわっていくのか教えて下さい。
ゲンボー先生
開君 メールをありがとう
みんなの広場」の「減反」や「お米の自由化」についての先生の説明をまず読んで下さい.
その上で下に書きます・・・
1.自由化が進みやすくて美味しい米がどんどん外国から入ってきます.
2.米の価格はどんどん下がって,やがて国際価格並みの値段になります.今の7分の1程度です.
さて,そうなると日本の米作り農家は次のようになります.
1.狭いところ,老齢化が進んでいるところは「自家米」の生産のみになります.そしてやがて米は作られなくなります.
2.広い面積を持つところでは,耕地整理をおこない共同,もしくはやる気のある代表者が大型機械で効率よくお米を作るでしょう.もちろんこれは国際価格で作られます.(もうはじまっています)
3.狭いところでも,おいしいブランド米作りに徹する(てっする).(牛肉の自由化が進んでも,米沢牛とか但馬牛とかブランド牛は前より売れているように)
ということになるでしょう.ただしお米は主食であり,牛肉のようにその差が激しくありません.今でもオーストラリア産のコシヒカリは美味しいですから,外国との味競争で生き残れるかどうか微妙なところです.
4.もう一つ.日本の会社が外国で安くて美味しいお米を作って輸入する.これはすでに行われています.やがてアメリカ産のコシヒカリやオーストラリア産のササニシキが,お米屋さんでも沢山売られることと思います.
分からない事があったらまたメールをください.
ゲンボー先生
「改正食糧法」のページに行く.平成16年4月1日からお米の流通が大きくかわりました.必見のページです.
ゲンボー先生
メールをありがとう.よくその事に気がつきました.
5月になると田んぼが耕されて水路から田んぼに水が入ります.みんなそれが当たり前のように思っていますが,田んぼのほとんどはそのままにしておいても水は入ってきません.
つまり,どこからか水を持ってきているのです.地域によって,場所によって異なるのでいくつかのパターンを説明しますね.
1.川から水をひいてくる.
近くの小川に堰(せき)を作って,必要な時に水を水路に流して田んぼに水を入れる.川の水面が低い場合は昔は水車で,今はポンプでくみあげる.
2.遠くにある大きな川からひいてくる.
大きな堰を作って,そこから用水路を掘ってそれぞれの村に支線を作って水をひく.江戸時代から盛んに行われた事業です.先生の住む川崎市には多摩川からひいた二ケ領用水というのがあります.江戸時代に作られ今も使われています.検見川にもあると思いますよ.
3.ため池を作って水をひく
川がないところではため池を作りました.先生のページにある讃岐平野を見てください.ため池は全国各地にあります.先生のいる玉川学園の中にも江戸時代に作られたため池があります.ため池の多くは谷の地形を利用して土手を作り湧き水や雨水を溜めて,田植えや稲が育つ5月〜8月くらいの必要な時期に水門をあけて水を流します.
4.井戸水を汲む
ため池も作れないところでは,井戸を掘ってポンプでくみ上げています.
どれも,人間が作ったものです.今君達が目にしている田んぼの歴史を調べてごらんなさい.きっと誰かが,あるときに作った水路をとおって水が運ばれていると思います.
このように,日本の米作りは人の努力の上になりたっているのです.むずかしい言葉で言えば日本の米作りの歴史は自然との戦いの歴史・開拓の歴史だったのです.こういうことは教科書には書いてありませんが,とても大切なことなのです・・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
本当にもったいない!胚芽(はいが=芽になる部分)にはビタミンBやEがいっぱいあるのだ.しかも玄米の皮は繊維質(せんいしつ)がいっぱい.とてもヘルシーなのです.
でも日本人は長い間に「食べやすさ」を優先させました.それが今日の白米です.
白米は平安時代の貴族が食べ始め,やがて江戸時代になると一般的になります.しかし,武士の生活の中には根強く残っていて,けっこう多くの武士は玄米を食べていたそうです.
さて,胚芽や皮は「糠」(ぬか)になります.これはこれで用途がたくさんありますね.昔の人はこれをワックスや石鹸,食糧の保存などに使いました.先人の知恵です.古いものの中にもたくさん良いものがあるということです.
ゲンボー先生
岩手県で作られたあきたこまちは、なぜ、いわてこまちじゃなくてあきたこまちなんですか。(お米の袋に、岩手県産あきたこまちって書いてありました。)いろいろと調べてみたけどわかりません。
ぜひ教えてください。
ゲンボー先生
沙稀ちゃん メールをありがとう.
コシヒカリは越(こし=新潟県の古い国名)の光.ヒノヒカリは,日(ひ=日向=ひゅうが=宮崎県の古い国名)「むつほまれ」は陸奥(むつ=青森県の古い国名)「あきたこまち」は(秋田美人)「つがるロマン」も津軽(つがる=青森県の津軽半島)「はなえちぜん」は(越前=えちぜん=福井県の古い国名).
このようにお米の名前の中には,その品種が作られた農業試験場のあった場所をつけたものがあります.
これは品種の名前ですから,そのまま他県で作られてもその名前のままで表示しているのです.ですから福井産コシヒカリや茨城産あきたこまちがあってもおかしくないのです.
たとえばハンバーガーショップやフライドチキンのお店で売っているフライドポテト.あれは正確にはフレンチフライドポテトといいます.フレンチつまりフランスの・・ということですね.世界中どこで作られてもフレンチフライドポテトです.
他にもそうしたものはたくさんあります,信州そば(長野県),讃岐うどん(香川県),ジャーマンポテト(ドイツ),北京ダック(中国),食べるものばかりだなあ〜〜〜先生は食いしん坊なのです.ははは・・・
沙稀ちゃんも考えてみてください.
ゲンボー先生
お米を始めた人は、誰ですか?
ゲンボー先生
勇介君 メールをありがとう.
世界で最初にお米を作ったのは,現在のインドのアッサム地方に住む人達といわれています.今から約7000年前ぐらいの事だそうです.
そのお米が長い時間をかけて東南アジアや中国に渡りました.日本には中国の南を通って今から約6000年前の縄文時代前期ごろにやってきたようです.
長い間日本ではヒエやアワといった穀物と一緒に畑で作られていました.量もそんなに多くなかったでしょう.そして,今から3500年前ぐらいの縄文時代後期になると,北九州に水田の技術が伝わりました.
さらに2300年前ぐらいになると,本格的な水田技術や農機具が伝わり,お米の生産はどんどん増えていきました.これが弥生時代です.でもその当時のお米は白いのばかりではなく,黒米や赤米もごちゃまぜに作られていたようです.
奈良時代になるとそれらを分けて作るようになり,品種もうまれてきました.
こうして,長い時間をかけてお米は日本人にとって大切な作物になりました.ですから,君の質問の「だれ」はわかりません.しかし,いつの時代にもかならず「だれか」が新しい技術を考えたり,伝えたり,受け入れたことを知っていてくださいね.
先生のページからも入れる「 中里遺跡」は 関東で始めて,水田でお米を作った人達が生活していた村のあとです.ちょっとむずかしいかもしれませんが,きょうみがあったら見てください.
ゲンボー先生
みなさんこんにちは.ゲンボー先生です.
1 お米作りについて困っていることは何ですか.
農家の人は「お米がちゃんと育つよう」にいつも,気を配っています.天候が悪かったり病気になったり,嵐で稲が倒れたり,いろんな悩みがあります.
中でも一番困るのは「お米の輸入自由化」によって価格が下がる事です.でもこれは仕方がありません「国際価格」より何倍も高い日本のお米が,ふつうの値段になるのですから・・・ですから,安く作ること,しかもいまよりず〜っと「おいしく」作る事が求められています.
このための品種改良,耕地整理,機械化,流通の合理化をどうするかによって,日本のお米がやられるか,反対に外国にも売れるようになるかがきまります.(くわしくは先生のホームページ「みんなの広場」を見てください)
2 今,一番売れているお米の種類は何ですか。
全国では「日本晴」が36%で第1位です.2位が31%のコシヒカリ,つづいて25%のキヌヒカリです.
「日本晴」は主に京都や大阪などの関西圏で好まれている品種です.(平成9年度統計)
新しいランキング(あとから送りなおしたメールです)
静岡県磐田市立田原小学校の5年生の渕上斉太,中島浩兵,鈴木聡君へ
この間はメールをありがとう.先生が教えたランキングの数字は平成9年度のものです.11年度の数字が分かったのでお知らせします.
1位 コシヒカリ
2位 ひとめぼれ
3位 ヒノヒカリ
4位 あきたこまち
5位 きらら397
6位 キヌヒカリ
7位 ほしのゆめ
8位 はえぬき
9位 むつほまれ
10位 日本晴
たった3年で日本晴が落ちていますね.ヒノヒカリはコシヒカリと愛知40号をかけ合わせ,暖かい地方でもコシヒカリのように美味しくなる品種で,日向の国(宮崎県)の農業試験場で作られました.それでヒノヒカリといいます.現在九州地方で急速に栽培が増えています.
ゲンボー先生
3 どの季節が一番収穫できますか。
もちろん「実りの秋」です.ただし,場所によっては夏に収穫されるところもあります,鹿児島県の金峰町は7月に稲刈りが行われます.
4 どの月がお米作りの世話が大変ですか。または楽ですか。
いつの時期も楽な月はありません.「田おこし」「代掻き」「苗代つくり」「田植え」「除草」「水の管理」「農薬の散布」「稲刈り」ぜ〜〜んぶです.ただし,稲の穂がついてぐんぐん成長する真夏は比較的楽な季節です.ですから昔から8月の中旬に「お盆」の休みがとられていたのです.
5 お米を作っていて楽しいことは何ですか。
先生は農家の人ではありませんから具体的には分かりません.しかし,自分でも畑でトマトやナスやピーマンなどの野菜を作っているので「作る喜び」はわかります.
1.きれいに耕せたあとの畑を見るのは嬉しいなあ.
2.種をまいて芽がいっせいに伸びてきたらこれも嬉しい.
3.花が咲いて,やがて実が出来る時も嬉しい.
4.収穫する時も嬉しい.
5.食べる時はもっと嬉しい.特に家族や配ってあげた人,つまり他人が喜んでくれるのが何より嬉しい.
農家の人はこれに「収入」が加わりますね.自分で作った作物が高く売れたらうれしいでしょう.でも,農家の人も一番嬉しいのは.一生懸命作った作物がみんなに喜ばれる事ではないでしょうか.多分そうだと思いますよ.
6 僕たちはバケツ稲をやりたいと思っていますが,どんなことに気をつけたらいいでしょうか。
水の管理です.特にバケツは乾燥したり,逆に水が多すぎたりすることがあるので,こまめに面倒を見てあげることが必要です.水の管理は本やホームページ,または実際に田んぼをよく見ていたり,農家の人に聞く事です.
いつ水が必要で,いつ水を抜くのか.これがポイントです.
でも一番大切なのは「これ!」
誰かがやってくれるだろう,飽きちゃった,面倒くさいはだめ!だったら最初からやらないほうがいいのです.
稲も生き物です,枯れたらかわいそうです.
先生は,適当な気持ちでやる子.学校全体で取り組んでいながら「ほったらかし」にして稲をダメにしている場面を何度も見ました.
休み中も含めて,誰がどんな仕事をするのか,責任をはっきりさせてからやらないと絶対に失敗します.
もし,分からないことがあったら無理に答えなくてもかまいませんので,どうかよろしくお願いします。
ははは・・・君達に答えるのは楽しいですよ.お百姓さんが作物を作る喜びとおんなじ・・・人のために何かをやること,そして喜ばれる事が大切なんだなあ・・・
また,メールをください.
ゲンボー先生
質問は「稲は、風でたおれないの?」
ゲンボー先生
幸奈 ちゃんメールをありがとう.
倒れます.倒れると水がかぶって稲がダメになります.倒れた稲の穂が水につくと根や芽が出てしまいます.こうなるともう売れません.ですから農家の人は嵐のあとは田んぼを見まわって稲を立てなおします.
田んぼ全体で、何本植えられるの?
田んぼの面積によります.1株はだいたい2〜3本です.
なえを育てるのにどれくらいかかるの?
場所やお米の種類によって違いますがだいたい半年かかります.
全部で、何種類位お米はあるの?
た〜〜〜〜〜〜〜〜くさん,あるよ.先生のホームページにでているのは,その一部です.
ただ,大きく分けると世界には
インディカ種(細長くパラパラしている)
ジャポニカ種(丸っこくてねばりけがある)
ジャワニカ種(丸っこく粘り気は少ない)※ほとんど作られていません
それと,ほとんど遺伝的に違うお米のグラベリマ種があります.アフリカのニジェール川流域で作られている特殊なお米です.
コシヒカリやササニシキなどの日本の品種はすべてジャポニカ種です.
お米を作るのに、どれ位かかるの?を教えて!!
お金ですか?これは面積や農家によって異なります.せんせいよりも近くのJAや農家で聞いたほうが良いと思います.
これでいいですか?分からない事があったら,またメールをください.
ゲンボー先生