玉川学園・玉川大学
ここは日本のお友達との交流の広場です.ゲンボー先生とのやり取りもここで行います.
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お米は、1俵60キログラムですが、4斗と言う単位でも使われるとお父さんに聞きました。何故4斗という単位なのですか?1斗とか5斗とかきりの良い数字では何故ないのですか?またそれは、いつからそうなったのですか?教えて下さい。
ゲンボー先生
若菜 さん メールを有難う.
まず,日本の容積の単位です.
1合(ごう)=180ミリリットル
1升(しょう)=1.8リットル(10合)
1斗=(と)18リットル (10升)
1石=(こく)180リットル(10斗)
になります.日本の国ではながいあいだ経済の中心が「お米」でした.特に江戸時代になってから,その国の大きさや強さを表す場合(石)と言う単位が使われていたのを若菜さんは知っていますか?例えば加賀100万石とか,伊達62万石なんていうのを聞いたことはありませんか?
農民が作り収穫したお米の半分は武士が税としてとりました.これらのお米はさらに商人が買って町で売られたのです.この時のお米を売ったお金が武士の生活をささえていました.
お米は船に運ばれて江戸や大阪などの大都市に運ばれました.たくさんの人が住んでいてお米が必要だからですね.
ところでお米は玄米の状態で「米俵」につめて運ばれました.米俵は人間がもって船に運んだり,荷車につんだり,倉庫に入れますから,あまり重いと持てないし,軽いと能率が悪いですね.そこで幕府は「1俵」の量を決めました.それが4斗だったのです.これだと72リットルで,お米の重さだと約60キログラムになるのでした.
60キロだと人間が肩に担げるからです.つまり今から400年前ごろに江戸幕府が,長さや量や重さの単位を日本中同じにしたときに1俵の大きさも決められたのです.
その名残で,袋になった今でも60キロがお米を入れる袋の単位になったのです.
こういうことは,いろんなところにあります.
例えば土地の値段をいうときには「3.3平方メートルあたりいくら」といいますが,あれは1坪という古くからの日本の単位なのです.また,家の柱と柱の間の長さも「間」(けん)と言う単位を使います.
それぞれの国には独特の単位があります.アメリカだってイギリスだってフランスだって世界中にそれぞれの単位があるのですが,それはその国の人が長い時間をかけて作り上げてきた大切な文化なのです.
面白いのはそれらの単位が例えば長さだと,人間の指の関節の長さや,手を広げた時の長さなどがそれぞれ基準になっていることですね.ですから似ているものもあります.
ところで,世界の人が互いに旅行したり貿易したりするようになると,それぞれの単位が違っているとややこしくなりますよね.そこでメートル,グラム.などの世界共通の単位ができたのです.これをメートル法といいます.フランスで考えられた単位です.
日本は一時期,全ての単位をこのメートル法にしましたが,不便なこともたくさんあって今では,つごうの良いように使えばいいということになりました.
そうだよね「ご飯3合炊いといて」とはいうけど「540ミリリットル炊いて」とは言わないもんね.
そうそうお酒の1升ビンは1.8リットルです.これは君も知っているかもしれませんね.一時期「1.8リットルびん」といいました.変なの・・・
若菜さん これでわかりましたか・
ゲンボー先生より
ぼくは、茨城県北茨城市立中郷第一小学校5年生の拓実といいます。
総合学習で、お米について調べています。インターネットで調べていたら、このホームページを見つけました。
グループのみんなといろいろ相談して先生に質問することになりました。よろしくお願いします。
2.鎌倉時代では田植えは女性の仕事だったそうですが、そのわけを教えてください。
(重労働だったのに、なぜ女の人がやっていたのでしょうか?)
3.コシヒカリと他の米の成分の違いはなんですか?
(米の種類によって成分の違いがあれば教えてください。)
今日、ぼくの家に集まってみんなで総合学習のグループワークをする予定になってい
ます。返事のメール待っています。お願いします。
ゲンボー先生
拓実君 メールを有難う.今日の放課後にみんなで勉強するの・・・頑張ってね・・
3.番と同じ内容なので一緒に答えます.
「白米の成分」は大きく2つに分けられます,これは「コシヒカリ」も「ササニシキ」も「日本晴」も「インディカ米」も全て同じデンプンとタンパク質です.
食べておいしいお米の条件とはタンパク質が多いということになります.ふつう食べているお米はすべてそうです.以前にも先生が書きましたが(もう読みましたか?「みんなの広場」の「 お米をおいしくする工夫を教えてください」です.)山田錦と言うお酒作りに最も適したお米を食べるととてもまずいのです.どうしてかというと山田錦はデンプン質が多いからなのです.お酒作りにはデンプンが必要なんですね.
逆に食べておいしいのはタンパク質が多い方と言うことになります.
ところで成分的にはほとんど差がないお米なのですが,なぜか銘柄や産地によって差がでてしまいます.
おいしいお米のできる条件とは「水質」の良いところ,昼と夜の「温度差」のはげしいところ,有機肥料を使っているところ,水に酸素が十分にいきわたっている田んぼ.と言われています.最近,田んぼにカモを放したり,有機肥料を使うところが増えたのはそうしたことからなのです.(田んぼにカモを放すと水草を食べてくれて,水かきで水をかき回してくれて,ウンチ(肥料)をしてくれるからなのです.しかも育ったら食べちゃう・・・かわいそう・・・売れるということです)
こうした場所や工夫をして作られるお米は「こし」があって「水分」の割合がよくって,食べると弾力性があって,香りがあって「うまい!」ということになります.
ところで,現代の日本人が最も好むお米が君たちの質問した「コシヒカリ」なのです.コシヒカリは今書いた条件を満たせば満たすほどおいしくなります.なぜなら最初からそういう性質を持っているからなのです,
しかし作られる条件によっては「まずく」もなります.人間と同じで「良い環境」で育たないと「ぐれちゃう」んですね・・・・・・
(君たちも外で遊ばないとだめだよ・・・テレビゲームやゲームボーイ,それに遊技王ばかりだと,身体も丈夫にならないし,第一「馬鹿」になっちゃう・・・身体を動かして,手を使って体験することが一番大切なんだよ.・・とまあ余談はここまで)
2.鎌倉時代では田植えは女性の仕事だったそうですが、そのわけを教えてください。
(重労働だったのに、なぜ女の人がやっていたのでしょうか?)
今は田植も稲刈りもみんな機械でやります.人手が足りないし疲れないからです.それほど田植や稲刈りは重労働でした.便利な機械がなかった昔は大変な作業だったのです.
今はあまり見かけなくなりましたが先生が子供の頃は,腰の曲がったお爺さんやお婆さんがたくさんいました.昔の農作業は田植や稲刈りはもちろん,草取りなど中腰になってやることがとても多かったのです.そのため年をとってから腰がまがってしまったということなのです.
さて田植が女性の仕事だったのは鎌倉時代だけではありません.鎌倉時代以前も江戸時代も明治時代も大正/昭和(40年頃まで)も,いつの時代も.「女性や子供も」「若者も年寄り」も全員の仕事だったのです.今はそうでは無くなりましたが昭和40年の始め頃まで,田植や稲刈りになると学校もお休みになったくらいです.
つまり女性だけの仕事ではなかったということです.ではなぜ「鎌倉時代には田植が女性の仕事だった」,などと言われるのか.それは鎌倉時代から「村の共同作業」がふえてきたためなのです.
田植や稲刈りは辛い(つらい)仕事ですが,収穫(しゅうかく)に結びつく嬉しい作業でもありますね.それで鐘や太鼓で拍子をとったり,きれいな服を着た女の人が一列になって田植をしたりという,半分お祭りのような儀式(ぎしき)が行われました.このようすが絵に残っているため「鎌倉時代の田植は女性がやった」と誤解されがちなのです.
実際に絵のようにやるのは豪族(ごうぞく=その地域で力のある家)の田んぼとか,神社に奉納(ほうのう=神仏にあげる)するお米を作る特別な田んぼで,一般農民の田んぼでは「老若男女」みんなで力を合わせてやったのです.でなければ能率よく終わるわけがありません.これはさっきも書いたとおり機械化が広まった昭和40年代の始めまで続きました.
何かを調べる時にはできるだけ多くの資料を集めて,それを整理して,それから「自分で考える」ことが大切なんです.そうすれば,たまたま絵に書いてあるから全部そうだった,などということにはならないと先生は思います.これはどの勉強もいっしょです.
みなさん,頑張って「いいグループ学習」を行ってくださいね.
ゲンボー先生
貴殿のホームページを拝見しました。こどもの学習用のページらしく、私がお聞きするのは場違いかも知れませんが、米糠についても詳しく掲載されていましたので、お聞きする次第です。
私は、●●県庁の環境活動推進課で環境保全のための普及啓発を担当しております。主婦を対象とした環境保全への取り組みのアンケートで、米糠を原料とした洗剤を使用している方がいました。
合成洗剤に比べ、石鹸やアクリルたわしの使用は環境、特に水質保全に有効とは思いますが、先日(1/8)朝日新聞に、石鹸が一概に環境にやさしいとはいえないという記事が載り、その理由は合成洗剤に比べ有機物の量が多いため、生態系のバランスを壊す可能性が高いということです。結論的には、排水方法により使い分けることがよのことでした。
米糠を原料とした、化粧品や洗剤などが販売されていますが、せっけん同様の懸念が考えられないでしょうか?
すべての洗剤は、環境に対しては一長一短であるとは思いますが、トータルとしてなるべく環境負荷が少ないものを、県民の方々に周知していきたいと考えています。
御多忙のところ恐縮ですが、御教授をお願いします。
ゲンボー先生
メールを有難うございます.わかる範囲でご質問にお答えします.
環境保護の観点から「米糠」や「椰子の実」等の自然製品が見なおされて,次々と製品化されていますが,中には原料の一部だけが自然界の物質で,残りの殆どは従来どおりなどというものも市場に出回っています.
なぜなら「天然・自然」のものは「環境に優しい」「人に優しい」という、概念が偏った状況で広く信じられているからなのです.
自然の物ならなんでも身体に良いかと言うと決してそうではありません.漢方薬も使い方を誤れば命を落とします.20世紀になって石炭や石油から抽出された化学薬品によって合成された物質は,人々の生活向上に大きく寄与してきました.ところが,その応用分野の拡大化や生産量の増加によって様々な弊害が生じてきたため,古来より先人が使用していたものが見なおされ、再び私達の生活に戻ってきたというわけです.食品,食品添加物,薬品,農薬等々全ての分野においてです.
農薬を使わずに天敵で害虫を駆除するとか,有機肥料の見直しなどもその文脈上に有るものといえるでしょう.
中には,現代人が見た事も触れた事もないない「サイカチ」などが洗剤としてタイムマシンに乗ってやってきた例もあります.(もっとも,山間部では昭和30年代頃まで使われていましたが・・)
確かに「糠」には大きな功能が有ります.昔の人は糠に含まれるビタミンBやE,アミノ酸の中に防腐効果や,食材の栄養を損なわずに醗酵させる機能があることを経験的に知っていて,それらを上手に利用してきました.野菜の糠漬けや魚の糠漬けがそれです.能登の人は猛毒のフグの卵巣すら糠や塩を使って無毒にする術を知っていました.素晴らしいですね.これはもう文化です.
また,防腐効果と共に糠に含まれている油分が人体の油や垢を溶かし,さらにビタミン類が人の肌に良い事を知っていたため,石鹸が一般に普及するまで糠袋が使われていました.
私の小学校時代に面白い先生がいて,子供達に糠袋を作らせ,それで床や壁を磨かせました.「こんなもの」と初めはバカにしていた私たちですが,しばらくすると「おんぼろ校舎」(明治時代に作られた木造校舎でした)の教室が深い透明感を持った輝きを放つではないですか・・・子供心に「糠ってすごいんだ」と思いました.
先年,そのときの同窓会があり,先生もご健在でこられたのでなかなかの盛況でしたが,そのときにその話題が出たのです.そこで私たちが「先生なんで糠袋なんて使わせたの?」と聞いたところ,ワックスのほうが早くてしかも美しく見えるけど,それは表面だけ.糠でみがくと中からきれいになるからだ.と話してくれました.先生は子供達に「古くても良いものは良い」ということと「丹念に仕事をすれば本当に良い事が分かる」ということを教えたかった,というのでした.
ところが,出来の悪い子供は先生の思いなどは知っちゃいないわけで,そのまま悪事を重ねて今日に至っているというわけです.しかし,何の因縁か再び「糠」の事について調べる事になってしまいました.不思議ですね・・・
さて,糠の洗剤としての効用は人体のみならず,漆器や油汚れの食器にも非常に効果を発揮しますので,先人はこれを大いに利用していたわけです.漆器などは糠でみがくと透明感が出て美しくなる上に,さらに漆の保存効果まで高めるといわれています.
このように,合成洗剤のように少量でしかも劇的効果は無いものの,じんわり効果が出てお母さんの手荒れにも良い,その上環境にも優しいとなると「売れないわけがない」という事になります.とはいってもまだまだその割合は低いのですが・・・・
ですから現時点では米糠石鹸には「良いイメージ」のまま社会に受け入れられているというわけです.
ところが使用量が増えるとどうなるか・・・おそらく新聞に出ていたような事になるでしょう.有機物,とりわけたんぱく質が多いわけですからこれがそのまま川に流されれば,富栄養化が進みプランクトンの異常発生や水性植物の異常繁殖,あるいはそれらに起因する水質の劣化が当然のことながら予想されます.
これに対応するためには2つの方法が考えられます.
その1.浄化施設を作る.
まず下水道の普及率を高めるということですね.●●県は今どのくらい進んでいますか?山間地域では浄化槽の普及ですね.
その2.米糠石鹸に含まれるたんぱく質の除去.
お米にはいわゆる皮の部分と胚芽の部分,それにお米の部分が有るわけですが,皮と本体の間に有る「糊粉層」にたんぱく質が多く含まれています.米糠にはこの糊粉層が多く含まれているのです.たんぱく質は米糠の洗剤としての機能に直接関係がありませんので,これを除去する事によって効果が落ちる事はありません.
ただし,これを除去する事は現段階ではかなり大変です.精白するときに胚芽や皮,あるいは糊粉層を分離する機械や施設がないからです.
ただ,私が考えるには技術的にさほど難しい事ではありませんので,将来ニーズが高まれば,それぞれの用途に応じて分離されることになると思います.つまり「ヘモグロビン」「白血球」「血漿」というようにそれぞれ必要な部分を分離して輸血するようになった成分輸血と同じように,ビタミンBやEが多く含まれている胚芽の部分,繊維質の皮の部分,それからたんぱく質の糊粉層が何らかの原材料になり,それぞれの用途の必要量が増加すればということです.
現在でもたしか,胚芽はビタミン剤の原料になっていたのではなかったでしょうか.
皆様の所で研究を進められてはいかがでしょう?●●ブランドの本当に環境に優しい洗剤が出来るやも知れません.米作りとトータルに考えていけば可能な気がします.
すべての洗剤は、環境に対しては一長一短であるとは思いますが、トータルとしてなるべく環境負荷が少ないものを、県民の方々に周知していきたいと考えています。
お答えしたとおりです.「完璧」なものなどこの世に存在しません.ただ環境の保全は地球規模で行われなくてはならないし,人類にとっての急務でもあるわけです.ベストは難しくてもせめてベターの道を「出来るところから」進まなくてはなりません.
皆様のお仕事が益々発展して行く事を心よりお祈り申し上げています.ご不明な点がありましたらまたご連絡ください.
追伸,我が家でも昨年10月頃より「米糠石鹸」を使い始めました.レンジなどの油汚れが思った以上に良くとれます.家内の手荒れも少し良くなりました.これは従来の洗剤に米糠を混ぜたもののようです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.お米は確かに南からきましたが,もともとの発祥の地であるインドのアッサムというところは夜になると寒くなるところで,昼の暑さとの差の大きなところでした.つまり,稲には寒さに強い性質が最初からあったのです.
日本には,縄文時代前期(6千年前)に入ってきましたが,このころは畑で他の穀類(アワやヒエ)などと一緒に作られていたようです.
縄文時代も後期の終わり頃になると(3500年前)北九州で水田が作られるようになりました.そして晩期という一番最後の時期から弥生時代になると(2500年前)水田の技術は北へ北へと進んでいきました.
水田と新しい農具の技術は船でも運ばれました.先生のページ中里遺跡は 関東地方で一番始めに水田を作った遺跡です.おそらく瀬戸内海から船でやってきた人達によって伝えられたものです.見てください.
しかしそれ以前に日本海ルートをとおって東北地方に伝えられているのです.青森県の津軽地方です.東北は寒いはずなのに・・・そうなんです.さっきも書いたとおりお米には寒さに強い遺伝子があったから,東北地方でも栽培できたんですね.
それとは別に大和朝廷ができて奈良時代になって,更に平安時代頃になると,関東地方や東北地方の原野が開拓され,水路がひかれ水田の面積も広がって行きました.
江戸時代になるとついに蝦夷地と呼ばれた北海道の南のほうで稲作が始まりました.でもさすがに寒くてはじめの頃はなかなかうまく稲が育ちませんでした.先生のページの「石狩平野」を見てください.
品種の改良や土の改良を続けて,明治時代になってようやく石狩平野や上川盆地でもお米が作られるようになりました.
日本の米作りは北へ北へと進んでいきました.そうまでしてお米を作ったのにはわけがあります.お米は他の作物に比べ保存がきくしおいしいから,お金と同じ価値をもっていました.
江戸時代には藩の大きさを表すのにも「何万石」(なんまんごく)とお米のとれる量でその国(藩)の大きさを表しました.武士は農民から米を年貢としてとって,それを売ってお金にかえて生活していたのです.お米はお金と同じだったんですよ.
私達のご先祖,少しでも生活をよくしたいために,土地を切り開き,水を引き,品種の改良に取り組んでお米を作りました.こうして日本は世界で一番北でもお米が作れる国になったのです.
ゲンボー先生
ですか?20年や30年前に比べると、古代米の生産はふえているんですか?減っているんですか?どのくらいふえているんでしょうか?
ゲンボー先生
友洋君 メールをありがとう。
古代米というくらいですからずいぶん昔から作られていました。
日本にはじめてお米が伝わってきたのは今から約6000年前の縄文時代前期といわれています。しかし、当時どのようにお米が栽培されていたのか、どんなお米なのか,また、どのようにして食べたのかはまだ全く分かっていません。
縄文時代後期になると北九州で水田が作られ、やがて、弥生時代になると新しい農機具の出現によって、稲作は急激に広がりを見せました。
この当時のお米の食べ方は「蒸して食べる」で、「こしき」という底に穴のあいた土器を、一回り大きい土器に入れて、ふっとうした湯気を穴から入れてお米を蒸していました。それはおそらく玄米を食べていたからだと思われます。
ところが、最近になって富山県の遺跡から「弥生時代のおにぎり」が発見され、白米もあったといわれるようになりました。このおにぎりは三角形で今のものとほとんど同じ形をしています。
しかし、お米が品種ごとに作られるようになったのは奈良時代ですから、それ以前は、特に縄文時代や弥生時代は、黒・赤・紫・白米がごちゃ混ぜに栽培されていたと思われます。
今でも、中国の雲南と言うところの山奥にいくと、めでたい日には赤米を炊く風習が残っています。これがお赤飯のルーツです。日本でも平安時代まではおめでたいときには赤米のお赤飯が食べられていたようですが、日本人の味覚にあった白米が主流となって、お赤飯は白米に小豆やささげ豆を入れて炊くように変わっていきました。
では、赤いのや黒いのや紫の米はどうなったかというと、神社の田んぼなんかで細々と栽培されつづけていたのです。
それが、平成のグルメブームで復活しました。さらにヘルシーだということもあって(言われているだけ)、最近ではオーガニックなんとかとか、健康食品だとかのお店で売られるようになりました。先生のすんでいる町田にもそういうお店があります。君の家の近くにもあると思いますよ。
ですから、最近になって生産が増えてきたのです。とはいってもまだわずかです、白米の0.001%にも満たない量です。まだ趣味で作っているレベルのはなしですね。
古代米の名前については友洋くんのほうが、先生より知ってるぞ〜〜弥生時代のおにぎりと,古代米(赤/黒)いろいろ混じっている写真を送ります.
ゲンボー先生