はじめに
讃岐平野の農民は水不足との闘いから独特の水利システムを作り上げました.讃岐では今でも多くのため池が利用されていて,ため池なしには讃岐平野の農業は成り立たないといわれています.
讃岐は古くから開拓が行われた土地として知られていて,西暦930年代に書かれた書物によると22,376haが開拓されていることがわかります,これは現在の香川県の耕地面積の実に58%に相当します.古代条里田(こだいじょうりでん)の開拓には当然のこととして水利工事が伴っていたと考えられていて,小さな「ため池」や水路が数多く作られていたと思われます.空海(くうかい)による「満濃池改修」(西暦821年)は有名な話として今日に伝えられています.ただし,今ある1万4千余りのため池は、その大部分が江戸時代に作られたものと言われています.言葉の意味
(古代条里田=律令時代に作られた縦横が均等の整然とした区割りを持つ田のこと).(空海=弘法大師)・(満濃池改修=堤防のこわれた「まんのういけ」をなおしたこと.(ha=ヘクタールのこと.1haは1万平方メートル)
香川県の地図を広げると分かるように,讃岐平野は,南の阿讃山麓(あさんさんろく)より北の瀬戸内海に向けて緩やかな傾斜を持ち発達した平野です.古いため池は,この阿讃山麓の縁辺部(えんぺんぶ:縁の部分)の台地と平地の出合い部に分布しています.これが,丘陵と丘陵の間の沖積谷(ちゅうせきだに)をせき止める「台地ため池」で,満濃池や豊稔池(ほうねんいけ)といった大形のせき止め池がこれらの仲間として知られています.
言葉の意味
(阿讃山麓=徳島県と香川県の境にある山脈のふもと)・(縁辺部=ふちの部分)・(沖積谷=川によって削られた台地の谷の部分)
一方,平野部に作られた「ため池」の多くは「野池」と呼ばれました.野池の多くは水田だったところや,雨の流れていく土地ぞい(水路:「みずみち」といいます)に作られました.多くの場合,平らな土地の四方に堤防を築き上げて作ったため,その形から「皿池」とも呼ばれています. 目次に戻る
上は香川県の地図です.見ても分かるように大きい池は薄茶色で表した山間部の中や近くに集中しています.これらのほとんどは「台地池」です.一方平野部(若草色)には小さな池が点々と分布していますがこれが「野池」になります.同じため池でも作られた場所が違いますね.時代的には「台地池」の方が早くから作られました.「満濃池」はその代表で平安時代にできました.
野池のほとんどは江戸時代に作られていますが,その多くは水田や畑をつぶして作られました.讃岐の人々はこうして米の収穫をふやしてきたのです.大きな川が少なく年間の降水量も少ない讃岐平野では,古くから貴重な水を有効に使うために様々な工夫をしてきました.
ここでは,「親池」と「子池」「孫池」の関係についてお話しましょう.
先ほども書いたたように讃岐平野は山から海に向かってゆるやかに傾斜(けいしゃ)しています.このことを利用して平野の上部にある比較的大きなため池の水を次の池に移しながら,つぎつぎと田んぼに水を入れていくシステムです.
次の池,また次の池へと水が送られ,最後の一滴まで無駄にしない工夫がされています.目次に戻る
それぞれの「ため池」に貯められた水は,代掻き(しろかき),田植えなど必要な時期に,同じ水路で結ばれた田んぼに一せいに流されます.こうして親池→子池→孫池へと水は流れていきます,そしてあまった水をそれぞれの池に貯えておくのです.この水はつぎに水が必要になるときに使われます.
このように,一滴の水も無駄なく使われます.満濃池には59の子池・孫池があり.水門だけでも2,000箇所をこえるといわれています.