みんなの広場「日本のお友達12

玉川学園・玉川大学

ここは日本のお友達との交流の広場です.ゲンボー先生とのやり取りもここで行います.

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三鷹市立第六小学校 5年生沙紀さんより ゲンボ−先生へ 

ホ−ムペ−ジにのせていただき、ありがとうございました。私はあれからすぐに、はしかになってしまい、ずっと寝ていたので、お米についての勉強がおくれてしまいました。でも、先生のホ−ムペ−ジを読みながら宿題をやっています。今は昔と今の米作りをやっています。道具や肥料や農薬など比べるものはたくさんありますが、わからないところがあります。一番に畑のようすがわかりません。教えて下さい。(平成12年5月)

ゲンボー先生

沙紀さんへ

「はしか」とは大変でした.苦しかったでしょう・・・でも子供のうちにやっておいたほうがいいのです.先生のお友達は大人になってから「はしか」にかかり,死にそうになりました.(もちろん生きています・・・)とにかく,病気が治ってめでたしめでたし!!!

で,昔というのがいつのころからか分からないので,縄文時代からいきます.ただし縄文時代は推測(すいそく=そうぞうすること)です.

お米があったことが分かっているのは「縄文時代前期」(いまから5000年前〜6000年前)です.当時の米作りとして考えられるのは.「焼畑」(やきはた)と,水辺の自然栽培(しぜんさいばい)です.

焼畑は山の斜面を切り開いて,火をつけます.このときの灰が肥料になります.一年目は「そば」や「ひえ」を植えます.2年目くらいにお米をまきます,それ以後は野菜を育てます.最後に芋を作るとその土地の養分が無くなり,元の山に戻します.同じ作物を何年も同じ畑で作ると「連作障害」(れんさくしょうがい=同じ養分をすいとり,同じ老廃物(ろうはいぶつ=害になる成分)を土地に戻すためにおこる障害.病気の発生や弱い作物になってしまう)がおきるからです.

昔の人はこうした畑をいくつも持ち,これをローテーションしながら作物を作りました.もともと水辺の作物だった「稲」ですから,沼や池のほとりに籾(もみ)をまいて,お米を作ったかもしれません.いずれにせよ,作られるお米の量は非常に少なく,主食ではなかったと考えられています.

縄文時代の後期から晩期(今から3000年〜2500年前)にかけて,九州では「水田」が作られるようになりました.さらに「すき」や「くわ」などの新しい道具や,田んぼ作りの新しい技術が中国や朝鮮から入ってきて,これが全国的に広がって弥生時代になります.

この時代の水田は川の近くに作られました,まだ水路が完備していないからです.それに,広い面積で土地を平らにすることがなかったので,一つ一つの田んぼがものすごく小さいのです.2〜3メートル四方から,1メートル四方なんていう小さい田んぼもありました.でも水田にはものすごい利点があったのです.それは水が養分を運び,水で老廃物が流されるから毎年同じ場所で「お米」を作ることが出来るのです.これを連作といいます.

弥生時代・古墳時代になると,有力者が現れて大きぼな開発が行われます.つまり水路を作り水田をどんどん広げていったのです.この時代の田んぼは少し大きくなります.10メートル四方とか場合によってはもっと広いものもあります.それは鉄製の農具が使われるようになったからです.

古墳を掘ると古い時代の副葬品(ふくそうひん=死者とともにうめる貴金属や宝石,道具類のこと)は刀ややりなどの武器が多いのですが,古墳時代も中ごろからは農具が多くなります.これは古墳時代のはじめは国ごとの争いがあり,小国家が統一されていったことをあらわし,安定すると土地の開墾(かいこん=荒地や原を田畑にしていくこと)がさかんに行われたことをあらわしています.なぜなら,お米を大量に作ることが豊かで強い国になることだったからです.

やがて,大和朝廷が出来ると重さや長さ,それに面積の単位が決められるようになりました.田んぼは「条里制」(じょうりせい=正式な土地の区割り.約645メートル間隔(かんかく)を条とよび,その中を縦長(たてなが)にくぎって田んぼを作っています)によって,作られるようになりました.今でも香川県にいくとその時代の区割りのままの田んぼを見ることが出来ます.しかしこれは,近畿地方を中心とする西日本の一部の地域に限られています.

大部分の田んぼはきれいな区画ではなく,昔からうけついだままの形や,自然の地形の形に合わせて区画されていました.

平安時代になると,朝廷の土地より貴族や大きな寺.神社が持つ土地が増えました.この土地のことを「荘園」(しょうえん)といいます.耕した土地はその人のものになるという法律が出来たからです.これによって田畑の開墾が急速に広がりました.

鎌倉時代になると,西日本では牛を使って田んぼを耕したり,肥料をまいて収穫量を増やすようになりました.川には水路に水を送るための「水車」も多く作られました.このころから「お米をたくさん作る技術」が発達してきました.また,田植えや稲刈りなどの重労働は,村のみんなが助け合い,共同で作業をすることもさかんになりました.と,同時にそれぞれのふしめに行われる「お祭り」も,大々的に行なわれるようになります.

室町時代には鎌倉時代に始まった新しい農業技術が,日本中に広まって行きました.特に戦国時代になると,優れた大名達が自分の国の川を整備し水路を作り,どんどん新しい田んぼを増やしていきました.この頃には下肥(しもごえ=人や動物のフンやオシッコをためてはっこうさせたもの)を使うようになります.

やがて,江戸時代になると幕府や大名が大きぼな「新田開発」(しんでんかいはつ=新しい田んぼを増やすこと)を行い,更に田んぼの面積は広がっていきました.新しい田んぼはきれいな区割りがされています.また,「くわ」「すき」「かま」「とうみ」「せんばこき」などの農具の発達がすすみ,どんどん生産量は増えていきました.更に,力のある農民は「ほしか」という「いわし」から作った,高価な肥料を使い生産量を増やしました.また,各地に大規模な水路が作られたり,川の流れを変えるなどの大きな工事も行われました.こうして,日本は当時としては有数の農業先進国になりました.

やがて,明治・大正・昭和になり,西洋の近代的な機械や技術が入って農業の様子はずいぶんと変わりました.

特に昭和40年ごろになって,耕運機(こううんき)という田んぼを耕す機械が使われるようになると,農家から牛や馬の姿が消えました.農作業もぐっと楽になりました.さらに田植え機ができトラクターが入ってくると,もっともっと農作業が楽になりました.こうした機械を使うようになると,形の不ぞろいな田んぼが整理されて.きれいに区画された田んぼが日本全土に広まっていったのです.しかし,一方では機械を買うためのお金に困ったりする「機械化貧乏」という言葉も生まれました.

現在一番進んだ米作りをしているのが秋田県の八郎潟と山形県の庄内平野といわれています.どちらも広い土地を,大きな機械で耕したり刈り取ったりしています.また,栃木県の鹿沼では農業公社というところが,まとまった田んぼを借りてヘリコプターで種まきをしています.

日本の歴史は「お米の歴史」でもあります.お米はいつも経済の中心でした.ですから昔の日本は「お米」を中心に社会が成り立っていたといってもいいくらいなのです.最近では,お米も余るようになりましたが,昭和40年代までは常に「米不足」だったのですよ.

日本は工業国ですが,その製品を売って儲けたお金で食糧を買っています.今はほぼ100%日本で作られているお米も,やがて30%くらいになる日が必ず来るでしょう.

戦争がおきたとき,または地球の人口がどんどん増えていったとき.今のままで日本人は食べていけるでしょうか?君はどう思いますか?良かったら意見を聞かせてくださいね.

というわけで,大まかに説明しましたが,とくにし知りたいことがあったらまたメールをください.

ゲンボー先生より


三鷹市立第六小学校 5年生沙紀さん

昨日、もう返事が来ていたので、驚きました。ほんとうにありがとうございました。お母さんと一行、一行大切に読ませてもらいました。ちょっと難しいとうころもありましたが、縄文時代からはじまり弥生、古墳、平安、鎌倉、室町、江戸と時代によって違いがあるんですね。それでもお米作りに必死に努力したことがよくわかります。いま私は種もみを家で育てています。まだ芽は出ていなくて、水を吸わせています。いつも食べているお米が歴史があるとは知りませんでした。私はゲンボ−先生の学校で先生の授業をうけたいです。先生は学校の先生なんですか?お米のことだけでなくわからないことや、こまったことがあったら、メ−ルをおくります。 いいですか?(平成12年5月)

ゲンボー先生

教科書の歴史は「いつ」「だれが」「なにを」した,ですね.しかし本当の歴史はその時代の全ての人が作ってきたものなんです.先生の学習は普通の人の生活を明らかにして,それが教科書の中の出来事とどう関係するかを勉強しようと心がけています.沙紀ちゃんが勉強している,「お米の学習」以外に「鎌倉時代の学習」があります.君も6年生になったら「鎌倉時代」のことを勉強しますから,そのときに利用してください.

今回の「お米の学習」では「米作りの条件を作ってきた人々」の歴史を中心に勉強をすすめていきたいと思っています.水と土と種籾さえあればお米が出来ると思ったら大まちがいです.

どんな場所にも,そこでお米を作ろうとした人達の苦労の歴史が必ずあります.このことは学校では教えてくれません.だけどインターネットでなら学校や教室とは関係なしに勉強できますね.また,その土地の子供達と学習しあうこともできます.先生の仕事もそこに目的があります.どの教科でも「教科書にはのっていないけど」「すごく大切なこと」「面白いこと」があります.先生は,みんながそういうことを自由に勉強できるようにと研究しています.

先生は町田市にある「玉川学園」という学校の先生です.沙紀ちゃんの住んでいる三鷹からそんなに離れていません.ゲンボーというのは「ちょうげんぼう」という鷹の仲間が学校にすんでいて,その名前からちょうだいしたものです.以前は中学校で社会科の先生をしていましたが,今は研究所にいます.

またメールをくださいね.

ゲンボー先生より

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