玉川学園・玉川大学
ここは日本のお友達との交流の広場です.ゲンボー先生とのやり取りもここで行います.
初めまして。今、社会科の勉強で米について調べています。わたしは、まえ、お正月に神社で売っていた米でできた七福神のことを調べたくなりました。米の粒はとても小さいのに顔や服などがきれいに描いてあってびっくりしました。ほかにも動物の絵がかいてあるものもみたことがあります。
こういうものはどこで作られているのですか。どこかの伝統工芸品なのですか。教えてください。(平成12年4月)
ゲンボー先生
美佳さん メールをありがとう.
昔から日本では,小さなもの,細かいものを作るのが得意な人が多かったのです.特にお米には,他のものにはない特別の「思い」がありました.
お米という字を分解(ぶんかい)すると八十八という字になる,つまり88の手をかけて作られる尊い作物だ.なんて言ったり.八という字はオメデタイ字なのでいいとか.そういうことを大切にしていました.今でもそういうことは残っています.お年寄りに聞いてみてください.
また,お米は「豊か」さの 象徴( しょうちょう=カンバンみたいなもの)でした.そのお米に七福神が描いてあったりしたら,これはもう「おめでたい」に決まっています.それでお守りに入れたり,今ではキーフォルダーに入れたりして売っているのです.
では誰が描いているかといえば,今ではそうしたことを専門にやる人がいて,その人に頼むのです.で,その人たちがどこにいるかといえば,どこかの地方に特別多くいるということではなく,それぞれ手先の器用な人があちこちにいて,描いているのです.大きなものじゃないからどこへでも運べますよね.
ということで最近では,おとなりの国「台湾」でも作っています.
話は違いますが似ているので書きますが,実はお正月に売っている「破魔矢(はまや)」やお守りの多くは,中国や台湾で作られるものがおおいのです.
ですから,君のいうようなどこかの伝統工芸品ではありません.
せっかく,お米のことを調べているのにちょっと期待はずれの説明でごめんなさいね.
でも,「お米の伝統的な使われかた」のことを勉強しようと思ったらいっぱいありますよ.
お米で作られているお菓子.とか「わら」でつくられるもの.とか,独特のお米料理とかね・・・
ホームページの「みんなの広場」に,小学生の勉強が出ているからそれを参考にしてください.
またメールをくださいね.
ゲンボー先生より
ゲンボー先生こんにちは。さっそくメールを送ってくださいましてどうもありがとうございました。ぼくは宮城県仙台市立北中山小学校の涼人です。今日は米作りにはどんな問題があるのかということと庄内平野の気候や土地の様子を教えてください。どうかよろしくお願いします。
ゲンボー先生
お早う,涼人君.
今回の質問のうち1番目の「米作りの問題」ですが,その中でも一番重要な「日本と外国との関係」については「お米の学習」「みんなの広場」「日本のお友達」2ページに「米の自由化」.3ページに「減反(げんたん)」がでていますから,ちょっと難しいけど参考にしてください.
庄内平野は,秋田平野,越後平野などと肩を並べる,日本の代表的な米どころです.庄内平野に行くと,きれいに区画された田んぼがどこまでも続き,青々とした稲の葉が風にそよいで,それは美しい光景です.お米が自由化されて外国からどんどん安いお米が入ってきても,この平野は米作りが続けられると言われています.(その理由は最後に説明します)
そんな庄内平野ですが,昔からそれほど恵まれていたわけではないのです.それどころか,冬は雪が多く,その上日本海から吹く風が沢山の砂を運んできて,一夜にして田んぼをダメにしてしまうこともありました.さらに,庄内平野は大昔「潟湖(せきこ)」といって,海とつながる大きな湖でした.(秋田県の八郎潟も以前は大きな潟湖でしたが,今は埋め立てられています.)潟湖だった庄内平野は最上川が運んでくる土砂で埋められていきました.しかし,もともとがそんな湖ですから,水はけのものすごく悪いじめじめ湿った土地だったのです.
そんなところですが,夏の気温は高く,最上川や赤川などからの水が豊富にあること,そして土地が肥えていることなど,お米作りの良い条件はそろっていました.
しかし,とても大きなマイナス面がありました.(1)湿田(しつでん=水の多い水田)であるため,田植えなどの農作業が大変なのです.農民は胸まで泥田の中に入って作業しなければなりませんでした.(2)稲は田植えの時期や花が咲く頃は水をたくさん必要としますが,穂が出てお米が熟してくるとこんどは水田の水を抜いて乾燥(かんそう=かわかすこと)させなくてはなりません.湿田だとこれが出来にくかったのです.そのため収穫量がへりました.(3)冬に雪が多いために,田んぼの雪が春まで残り田植えの時期が他の地域より遅れた.ということもあります.さらに(4)秋になると急速に気温が下がるために,庄内平野の農民は限られた日数の中で米作りをしなくてはなりませんでした.ちょっと気候が狂ったり,田植えの時期を間違えると,とたんに収穫量がへってしまうのです.
そんな場所でしたが,ここに見逃せない一つの物語があります.物語と言ってもそれは本当にあったことです.
江戸時代に相模の国(現在の神奈川県)から,一人の商人が庄内にやってきました.この商人は商売でもうけたお金で,土地を買いそこを開墾(かいこん=野原を田や畑にしていくこと)していきました.やがて水田は広がり小作人(地主から土地を借りて農業する人.収穫量に応じて地主に年貢を払った.)も増え,その地方でも有数(ゆうすう=数ある中でも大きいということ)の大地主になっていきました.これが本間家です.「本間様にはおよびもないが,せめてなりたや殿様に」という江戸時代の歌が今でも残っています.これは「本間家ほどの大金持ちにはとてもなれないけど,殿様くらいにはなりたいなあ」という意味です.本間家は代々地主でしたが,やがて日本一の大地主と呼ばれるようになります.あんまり金持ち過ぎて,東北地方の大名にお金を貸していました.もちろん庄内藩は本間家なしではやっていけなかったのです.
しかし,本間家がこれほどの力を持つようになったのにはちゃんとした理由があります.本間家は日本海側に広がる砂丘に10万本の松を植え,これを砂防林にしました.これで季節風で運ばれてくる砂の害を防ごうというわけです.10万本という数もすごいですが,その努力も大変でした.植えた松の苗が風で飛ばされてしまうので,何年も何年も繰り返し繰り返し松はうえられました.こうして砂防林ができあがり,庄内平野は砂の害に悩むことはなくなりました.
また,水路を作り湿田を乾田に変えていく工事も行われました.特に明治時代になると,佐賀平野の農業技術者を呼んで大規模な排水路を作りました.この排水路は今でも立派に使われています.
不作の時には小作人の借金を帳消しにしたり,新しい土地を開拓させたりしました.また,農民には低金利(安い利子)でお金をかして馬で田んぼを耕すことをすすめ,庄内平野全体の米生産量を増やしていきました.
更に農業試験場を作り,庄内平野の気候に適した品種の改良を行い「酒田早生」という品種をここから産み出しました.(この項、酒田市立光丘文庫様のご指摘により修正いたしました。有り難うございます。H26.11.20)
このように,本間家は,農民を育て農業技術を進歩させ,土地を広げ,改良をするという開拓者のリーダー的な性格を持った地主でした.農民から年貢をとるだけの武士や地主とは大きく異なっているのです.
そのために農民からは「本間様」と親しみをこめて呼ばれるようになりました.そんな本間家ですが第2次世界大戦に日本がやぶれて(1945年),農地改革が行われると占領軍の命令で「農地改革」が行われ,小作人が耕している土地を全て安い値段で小作人に売ることになりました.このために本間家は2000町歩(約2000ヘクタール)の土地の大部分を失いました.
しかし戦後も地域の文化の発展に貢献(こうけん=やくだつこと)したり,農業試験場を作って品種の改良に力をつくしました.また,優秀な学生のために奨学金(しょうがくきん=学費など勉強するのに必要お金を出して手助けすること)をもうけ,多くの学生を育てました.このお金で東京や外国で勉強して偉くなった人がたくさんいます.
今では美術館と図書館が残るだけですが,庄内平野に残した本間家の足跡(そくせき)は大きく,いまでも「本間様」とよばれています.
本間様が大地主でなくなった以後は,今度は農民自身の手で庄内平野はかえられていきました.たとえば山から新しい土を運んできて(客土=きゃくど,といいます),土地を若返えらせました.次に機械化をすすめ土地を深く耕して肥料を入れ,土地を肥えさせたり.作業を楽にしていきました.
更に区画整理を進め田んぼの形を整えました,このとき田んぼは南北に長い長方形にされました.それは西からの風を受けて,乾燥が必要な時期に早く土地や,刈り取った稲束を乾燥させるためです.もちろんトラクターや田植え機を使うのにも,四角い土地のほうがいいですよね.つまり一石二鳥の区画整理をしたわけです.
どうです,涼人君,このホームページに出ている,讃岐平野や石狩平野,それに「輪中」の濃尾平野と,どれも今では立派な田や畑になっていますが,こうした先人たちの大きな努力があったことを忘れないでください.君の住む宮城平野にも必ずこうした歴史があるはずなのです.何気なく見ている田んぼでも,そこに来ている水は自然にそこに流れてきているのではありません.いつ?だれ?が作ったのでしょう.機会があったら調べてみてください.
※自由化になっても庄内平野が残るといわれている理由です.
(1)区画整理が進んでいるために,将来に大規模水田にしやすい.大規模な水田になれば大形機械を入れて少ない人数で大量のお米が作れる.そうなるとお米の価格も低くなり,外国から来る安いお米にまけない.
(2)今のところ,外国のお米にくらべて味がいい.味が良くて安ければ当然売れるのです.しかし,これは安心できません.なぜなら外国の農民も日本人好みのおいしいお米を作るからです.実際,アメリカやオーストラリアではそうした研究がどんどん進んでいます.
以上です.難しいところがあったら,先生や保護者の方に聞いてくださいね.