玉川学園・玉川大学
ここは日本のお友達との交流の広場です.ゲンボー先生とのやり取りもここで行います.
お米について質問があります。
東南アジアが原産のお米が、なぜ日本では北の方でたくさん作られているのですか?もしわかるようでしたら、教えて下さい。(平成12年4月)
ゲンボー先生
沙紀さん メールを有難う.
さっそく質問に答えましょう.ちょっと難しいところもあるので先生や保護者の方にも聞いて下さい.
今まで,お米は東南アジアが原産地といわれてきましたが,研究が進んでインドのアッサム地方がおおもとの原産地であることが分ってきました.アッサム地方は日本よりは暖かいのですが,高地にあるため夜は涼しくなります.ですからお米の性質の中に(遺伝子=「いでんし」がその性質のもとになります)は,もともと寒さに対する抵抗性があったのです.
その後,お米は東南アジアと中国に広がっていきました.つまり一つは南に.もう一つは北に向かって行ったということですね.そのうちのいくつかが,およそ6000年前に日本にやってきました.縄文時代の前期といいます.この時代には水田の技術がありませんでしたから,お米は畑で作られたようです.今までの研究では主食として作られていたのではなく「ひえ」や「あわ」と同じように雑穀(ざっこく)として作られていたようです.また,とれた量も少なかったようです.やがて.縄文時代の終わり(晩期=ばんき=3000年前〜2300年前)ころから弥生時代になると水田の技術が伝わり,お米が沢山作られるようになりました.
ただしこの頃のお米は白いお米以外に,赤いお米(赤米)や黒いお米(黒米)が入り交じって作られていたようです.
お米はおいしい上に保存ができます.それでこの時代からお米を沢山作る人が権力者(けんりょくしゃ=他の人を支配する人)になっていきました.ムラはやがて小さな国にになり,水路が作られ水田が広がって行きました.
さらに時代が新しくなると小さな国が統一されて大きな国が出来上がりました.それが大和朝廷です.この時代の地方の豪族(ごうぞく=地方をおさめる権力者)のお墓が古墳です.
君も帆立貝の貝殻のような「前方後円墳」とか丸い丘のような「円墳」というのを社会科で習ったでしょう.古墳時代のはじめの頃は,死者と共に埋葬(まいそう=お墓にほうむること)されたのは,剣や鉾(ほこ=やり)などの武具(ぶぐ=ぶき)でしたが,古墳時代も中ごろになると,「くわ」や「すき」といった農具が多く埋葬されるようになりました.このことからも当時の権力者にとって,農業技術の進歩や水利(すいり=水をひいたり,流したりして調節すること)が大切だったことがわかります.
時は過ぎ,奈良時代ごろになると白いお米,赤いお米とだんだんに分けられて作られるようになり平安時代には.品種が分けられて作られるようになります.
この頃になると朝廷の力は東北地方にまでおよび,大々的な開墾(かいこん=原野を畑や水田にしていくこと)がすすみました.
もともと,東北地方でもお米は作られていましたが,人が沢山住むようになるとお米の生産量を増やす必要が生じました.もちろん朝廷や有力な貴族にはらう税の関係もありました.こうしていくうちに,農民達は寒さに強いお米を選別(せんべつ=よりすぐっていくこと)していき,お米の生産地が北へ北へとのびて行きました.
やがて江戸時代になると,大名の力はとれたお米の生産量で決まるようになりました.何万石というのをきいたことがあるでしょ.あれはお米の取れ高のことなんです.ですから大名は必死になってお米を沢山作ることを農民に奨励(しょうれい=すすめること)しました.
水を暖かくして生育しやすくする方法や,早く田植えをする方法と,それは様々な技術が江戸時代に生まれました.それと同時にもっと寒さに強い品種も作られました.
ところでお米には面白い性質があって,分けつ(株が分かれて増えること)や茎(くき)が育つ時,昼間は沢山日光をあびて養分をためますが,夜に休ませると無駄なエネルギーを使わずに収穫量(しゅうかうりょう=とれる量)が増えるのです.つまり昼間はあたたかでも夜は涼しいほうがいいのです.このことによって味もよくなるといわれています.
夏の東北地方は日中は暑くても夜は冷え込みます.これがお米にはいいのです.この性質ははじめに書いたように.元々お米が持っていたものです.
ですから今,多くの日本人に好まれている「こしひかり」や「ささにしき」は全て北国で作られました.
江戸時代の終わり頃には北海道の南,つまり函館周辺でもお米は作られるようになりました.やがて明治時代になると多くの人が開拓者として北海道に移り住みましたが,この人たちも大変な努力の末,北海道でお米を作るようになりました.農地に工夫をこらし品種の改良が進んだためです.北海道は平野も広くそれだけ収穫量も多いわけですね.秋田県や山形県も同じく平野の大部分でお米が作られていますから,収穫量も多いのです.
しかし,北海道も東北地方も今でこそ「米どころ」なんてよばれていますが,冷害といって,せっかく育った稲が全てダメになり,飢え死にしたり,子供を売ったりするような時代もあったことを忘れてはいけません.今があるのは農民達の大変な努力があったからなので,そのことをぬきにしてお米のことを勉強することはできません.「お米の学習」ページには,石狩平野や濃尾平野,それに讃岐平野のことを例としてあげておいたので,ちょっと難しいかもしれませんが読んでみてください.
まとめます.
1.もともとお米には寒さにまけない遺伝子が組み込まれていた.(性質があった)
2.お米はお金と同じにあつかわれ,お米を作ることが豊かになることだった.そのために寒い土地でお米を作る技術が発達した.
3.同じように寒さに強い品種が選別されてきた.
4.お米の性質にはある程度温度が低くなることによって,よく育つこともあり.この性質をうまく利用して最近では沢山とれておいしいお米が作られるようになった.
あともう一つ大きな町,つまり東京や大阪から離れていることもあります.新鮮な野菜を作っても,昔は運ぶのに時間がかかりましたから,ダメになってしまいますね.ところがお米は保存がききます.最近になって道路が整備され,交通手段が発達して大都市から離れたところでも,沢山の野菜が作られ運ばれるようになりました.
さらにもう一つ.これは大切です.昭和40年代になるまで日本は米不足の国でした.そのため政府はお米の値段を決めて,必ずその値段で売買させました.他の野菜はとれた量によって値段が日々変わります.沢山とれたからといって収入が増えるわけではないのです.それどころかとれ過ぎるとかえって値段は安くなりました.ですから作れば同じ値段で売れるお米は,農家にとって安定した収入をえるための最も安心できる作物だったのです.さらに台風でダメになっても,冷害でだめになっても政府が補償(ほしょう=お金をだしてくれること)してくれました.この法律を「食糧管理法」(しょくりょうかんりほう)といいます.こうした保護があったためにお米作りにむいている所はほとんどお米を作るようになりました.東北地方は歴史的にも品種的にも立地的(りっちてき=ばしょてき)にも米作りにむいていましたから,お米作りが盛んになったのですね.
ところが,長い間お米作りを保護しているうちに,日本のお米は世界一高いお米になってしまいました(タイの10倍,アメリカの8倍といわれました).消費者(しょうひしゃ=買って食べる人,つまりこのばあい農民以外の人)は怒りました.そこに目を付けたアメリカなどが,安いお米を買いなさいと日本に圧力を加えました.そのために政府は食糧管理法を無くしました.やがて日本でも外国の安いお米が沢山売られるようになります.君が大人になる頃にはお米はもっと安い食べ物になっているはずです.昔はバナナ,今は牛肉がそうです.
でもそうなると,主にお米を作っている農家や地方はどうなるんでしょう?今とはずいぶん違ったことになっているでしょうね. 沙紀さんはどう思いますか?
以上ですが,もっとくわしく知りたいことがあったらまたメールをください.
ゲンボー先生より