小学生とゲンボー先生のページ24 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
ご家人は将軍から認められた領地からの収入で生活をしていました.長いあいだ大きな戦が無かったために収入(しゅうにゅう)は増えません.子供達は増えます・・戦があれば敵からうばった土地を分配してもらえるのにそうではありません.仕方がないから手持ちの領地を分けます.つまり1枚のピザを切り分けるようなものですね.
追い打ちをかけるように元寇(げんこう)がありました.当時の戦は自分のお金で戦いましたから出費はかさむばかりです.
広い領地を持つ御家人はそれでも余力がありました.しかし.もともとせまい領地しか持たない御家人は大変でした.そうした御家人は酒屋(さかや)とか土倉(どそう・つちくら)という金貸しから借金しました.サラ金ですね・・利子が払えない御家人は領地をうばわれます.御家人が破産してしまえば幕府を支える人がいなくなってしまうわけで,あわてて徳政令(とくせいれい)という借金棒引きの法律を出しました.貧しい御家人は一時楽になりましたが,その後は借金もできなくなってしまったのです.だって,金貸しは徳政令が再びだされたら困るからです.
こうしたことが根底にあったために幕府がつぶれたのです.別に武士が天皇の政治を望んだからではありません.建武親政(けんむのしんせい)がすぐにつぶれて足利尊氏が新しい武士の政権が作れたのは,そうした武士の支持があったからなのです.
いつの時代も多くの人から支持を得られなければ政治を行うことはできないのです.・・今も同じですね.
ゲンボー先生
「幕府」の意味をくわしく教えてください。
ゲンボー先生
真衣さん.メールをありがとう.
幕府とは近衛(このえ=天皇を守る軍)の大将や征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=朝廷に逆らう人々と戦う軍で一番えらい人)のいる館のことをさします.もともとは戦時中に張った幕で仕切られた内部のことを言いました.
その後,江戸時代の後期の学者によって「将軍がいるところ」すなわち「政治をするところ」という意味におきかえられて「幕府」が今で言う「政府」と同じ意味に使われるようになったのです.つまり「幕府」は学者が使う「学術用語」(がくじゅつようご=研究するときに使われる言葉)なのであって,当時の人がそう呼んでいたわけではないのです.
時々,時代劇で「幕府の命令じゃ」とか「幕府に逆らうのか」などというせりふを役者が言っていることがありますが,あれは間違いなのですよ.また,江戸時代には「〜藩」(はん)という呼び方もされていません.「〜家」(け)と呼んだのです.これもドラマではよく間違えていますね.
鎌倉幕府も当時そう呼ばれていたわけではありません.私たちは「幕府」と言われると何となく「ちゃんとした武士の政府」という感じがしますが,そこに「ごかい」が生まれてしまいます.
鎌倉幕府は日本を全部しはいしていたわけでもないし,常に朝廷(ちょうてい)の仕組みの中で政治を行っていたのです.
だからといって武士の政府が弱かったというわけではありません.武士社会やそれに関係するところには大きなえいきょう力を持っていました.つまり貴族の時代から武士の時代に変わっていくその途中の政治の形なんだと理かいしておくといいと思います.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
茜さん.メールをありがとう.この質問はとても多いですね・・・
頼朝さんは鎌倉以外に行くところはなかったのです.鎌倉は先祖代々源氏の土地でした.しかしそれ以外に頼朝さんの家系が持つ領地は無く.すべて他の豪族の支配地でした.味方になった三浦氏や千葉氏が頼朝に「鎌倉に行きなさい」といったのはそうした意味からなのです.
教科書や本には「三方が山,一方は海で敵から守りやすい」と書いてありますが,それはご先祖様が鎌倉を領地にしたときの話で,頼朝さんがそう思っていたかいないかは別として,そういうこと以前に,そこにしか行くところがなかったのです.
しかも,頼朝は「幕府」という名前の政府を開くつもりもありませんでした.幕府という「武士が日本を支配する政治の仕組み」は徳川家康が本格的に考え出したことで,頼朝さんの時代にはそういう考えはないと言ってよいのです.
しかし,味方になった多くの武士達の利益をまもる組織は作りました.それが後に「鎌倉幕府」と呼ばれる政治の組織です.「武士の生活を守る組織」を作る気持ちになったのは,関東地方の武士の気持ちを語った「上総介」(かずさのすけ)や「三浦氏」「千葉氏」などの有力な家来がいたからです.
教科書に書いてあることは後の学者が「結果」をみてまとめたものですから,「頼朝が武士のための幕府を開くために鎌倉に移った」というふうになっています.結果としては正しいのですが,いきさつとしてはちがいますね.
しかし,だからといって頼朝さんがやったことの価値にかわりはありません.頼朝さんは貴族の時代から武士の時代に移し変えた一番の中心人物なのです.
ゲンボー先生
国立大学附属横浜小学校6年 円香
ゲンボー先生
円香さん。メールをありがとう。地頭(じとう)には、「荘園」(しょうえん)という農地からとれた作物を集めて持ち主(領主=りょうしゅ)や、国の役所に年貢(ねんぐ=税のこと,お米やもので集めました)をはらう仕事や、犯罪人(はんざいにん)をつかまえる警察(けいさつ)の仕事がありました。
守護は国ごとにおかれ地頭をまとめる役と、警察の仕事をしていました。どちらもはじめは源義経をつかまえることをめいもくにおかれたものです。
関東地方の地頭のほとんどは「自分の領地」をもっていましたが、関西地方の地頭の多くは「他人の領地」にはけんされた「関東地方の武士」でした。ですから関西地方の地頭は乱暴をはたらいて、むりやり農民から農作物をとったり、反対に領地の持ち主や農民に気をつかいながらすんでいた人もいました。
守護(しゅご)もはじめのころは地頭と「たいとうの立場」で「まとめ役」というかんじだったのが、鎌倉時代の終わり頃になると地頭を支配する力を持った守護にかわっていきました。
場所や時代によっても地頭や守護のあり方は違っていたのです。
次の室町時代になると守護はまた大きく性格が変わってきます.君はこれからこのことを勉強すると思いますが,そのとき鎌倉時代の守護とどう違うのか?どうしてそうなったのか?ということを考えてください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
「てふてふ」=ちょうちょ・「ふぇいけ」=平家・「まおす」=(申す)のように,昔の人の話し言葉と現代語とでは発音がちがっているのです.化粧も「けわい」といっていました.
それが化粧(けしょう)となったのは室町時代以後のことです.現代の言葉の原型はこの時代にできたといわれています.
山本君がタイムマシーンで昔にいっても室町時代なら何とか言葉が通じますが,鎌倉時代や平安時代にいっちゃうとかなり苦労すると思いますよ・・(笑)
中学生になると昔の人の文章を読むことになりますが,そのときに「どんな言葉があるか」「今とどこが違うか」「当時はどう発音していたか」なんていうことを考えてみるといっそう勉強が面白くなると思いますよ.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
どんな時代も永久に続いたものはありません.今の時代もいつか終わりがやってきます.時代の始まりは「さあ新しい政治を行うぞ!」という「いきごみ」がありますから,力強いのがとくちょうです.やがて社会が発展してくると,組織がしっかりして・・・と,ここまではいいのですが・・
最高ちょうに発展すると組織が大きくなりすぎて,きまりが増え・・・だんだんと形式的な,息苦しくてつまらない社会になってくるというのが,歴史のパターンなのです.
江戸時代は,経済がとても発展しているにもかかわらず,武士は農民からお米を年貢でとっていました.お米は商品ですから,年によって価格が上下します.これが武士の生活が苦しくなった第1の原因です.
世界の発展から取り残されたということもあります.アメリカのペリーが力で開国しなくても,やがて日本は鎖国をやめなくてはならない日が来たでしょう.
「人間は平等なんだ」という新しい考え方も出てきました.
つまり,武士の時代を支えていた「米使いの経済」も.「鎖国」も,「身分制度」も江戸時代の終わりにはボロボロだったのです.
だから明治時代になって,わずか数年で日本はガラリと変わることができたのです.しかし,そうしたことが行われるためには,その時代を引っ張っていく人が必要ですね.明治維新(めいじいしん)には優れた若者がたくさん出て,日本を引っ張っていきました.やがてその日本も,アジアを自分の思いどうりにすることに失敗して,時代が大きく変わりました.今の日本はそういうことの上になりたっています.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
まみさん.メールをありがとう.
土地問題のことや,犯罪を裁判する「問注所」(もんちゅうじょ)
武士を統率して,戦争の時に指令を出す「侍所」(さむらいどころ)
財政のことや政治を行う「政所」(まんどころ)
と,それぞれの役所ごとの名前で呼んでいました.
京都にあって朝廷や西日本の武士の政治を行うところが「六波羅探題」(ろくはらたんだい)などなど・・先生のページにも時期ごとの政治組織が書いてありますから,それを見てください.(変化する幕府の組織)役所はそれらの名前で呼ばれていました.じゃあ,鎌倉にある組織を全部まとめてなんと言っていたか・・それがないのです.
この時代,御家人と呼ばれる鎌倉側の武士は,将軍と一対一の主従関係(しゅじゅうかんけい)を結んでいましたから,しいていえば将軍の別の呼び名「鎌倉殿」(かまくらどの)が,組織全体をも表す言葉になっていました.他にも六波羅(ろくはら)のように地名が組織を表していたものもあります.機会があったら調べてみてください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
紅仁美さん.メールをありがとう.
武士にもいろいろいて,広い土地を持つ豊かな豪族(ごうぞく)から,その豪族に使われている家来(けらい)まで様々です.ふつうの農民はふだんは農業をしていて,戦争が始まると武装して豪族のもとで戦います.この人達を郎党(ろうとう)と言います.※武士の棟梁(とうりょう)と言われる,源氏や平氏などのより高い地位の人からみると豪族も郎党と言うことになります.
もっと貧しく自分の土地を持たない農民も戦争になるとそれぞれの地主について戦います.農民ではなくて豪族や土地持ちの農民の家で働いている人は,戦争中も主人の馬の世話をしたり,食料や衣服を持って移動し,時には戦います.この人たちを所従(しょじゅう)とか下人(げにん)といいます.
では豪族は何をしているかと言えば,忙しいときには自分の土地を耕したりすることもありましたが,鎌倉時代の中ごろになると武士と言う仕事が専門化して,普通は幕府の仕事をしたり領地の中のことをしています.領地の中とは水を引くことや田んぼや畑をどこに作ろうかとか,牧場を広げようとかそういうことです.
つまり鎌倉時代くらいでは,武士と農民がはっきりと分かれていないのです.・・というよりも農民が自分たちの土地を守るために,武器を持って戦った・・やがて,その中から専門的な武士が生まれたと言うことになります.もっと詳しく知りたかったら「貴族から武士へ」を見てください.そして感想があったら先生にも聞かせてください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
桃子さん.メールをありがとう.
それまでの仏教はお経の意味もむずかしいし,お坊さんもどちらかといえば貴族をはじめとする上流かいきゅうの人を相手にして,一般のしょ民に仏様の話をする人は多くなかったのです.そのころのお寺は今と違って「大学」や「文化センター」という性格が強かったからです.
ところが鎌倉時代になると「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)ととなえるだけで極楽に行けますよ,とか「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)とお経の題をとなえるだけで救われますよと..人々にも分かりやすい仏教がうまれました.これらの宗派をおこした人はせっきょくてきにしょ民のあいだに入って仏様の教えを広めたのです.それ以外には座禅(ざぜん)をして心の苦しみを仏様に救ってもらう宗派も生まれました.これらを禅宗(ぜんしゅう)といいますが,どちらかといえば武士にこのまれました.特に臨済宗(りんざいしゅう)は鎌倉幕府の実力者である,北条氏がまもっていたため鎌倉武士のあいだに広まったのです.ところで,この時代になって庶民に仏教が広まったのはなぜでしょう?考えてみてください.
各宗派のことについては先生のページのトピックスにありますから,そちらを参考にしてください.そのページに行く
中学生も同じような質問をしています.そのページに行く
ゲンボー先生
けやき小学校 優
ゲンボー先生
優さん.メールをありがとう
氏とは(うじ)とも読むし(し)とも読むし,場合によっては(じ)となまることもあります.どれも意味は同じ「一族」ということです.
日本語も英語もフランス語も(多分他の言葉も)「ひびき」や「いいやすさ」から前の言葉とくっつけたり,発音をかえることがあります.
「ふじわらうじ」より「ふじわらし」のほうが言いやすい.「たいらし」でもいいけど「へいし」の方が言いやすい.そして「げんうじ」や「げんし」より「げんじ」のほうがひびきがいい・というわけです.
ところでこれらの呼び方は後の世の人がつけた呼び名で,当時の人は「平家」(へいけ)「源家」(げんけ)「藤原家」(ふじわらけ)や「藤氏」(とうじ)と呼んでいました.
ゲンボー先生
日本が鎌倉時代の時アメリカなどの国はなにをしていたのですか?教えてください!
ゲンボー先生
当時,アメリカという国はありませんでした.北アメリカはイヌイット(エスキモー)やアメリカンインディアンが狩猟民族の生活をしています.南アメリカにはティワナク帝国が栄えました.ティワナク帝国は有名なインカ帝国の前の時代です.アメリカが国になるのは18世紀になってからです.
ヨーロッパでは商工業が盛んになり「神聖ローマ帝国」(しんせいローマていこく)という国が十字軍を中東やアジアを侵略(しんりゃく)しました.そのお返しというわけではありませんが,鎌倉時代の終わり頃にはモンゴルが勢力を持って,東ヨーロッパまでを支配しました.
というわけで,場所が異なれば国々の様子も変わります.面白いのは日本も中国もヨーロッパも程度の差はあっても商工業が盛んになったということですね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
あかねさん,メールをありがとう.
庶民の家からは
1.「調理具」まな板・包丁・鍋・五徳・おろし皿(表面がおろし金のようになっている)・お玉しゃくし・火ばし・調味料(味噌や塩,ひしおなど)を入れたかめ・
2.「食器」おしき(おぼん)・おわん・お皿・おはし・しゃもじ
3.「おもちゃ」こま・はごいた・さいころ・しょうぎ
4・「履き物」げた・ぞうり・板金剛(いたこんごう=わらじの中に木の板をいれたもの)
5・「化粧用具」鏡・くし・べに皿・お歯黒皿(歯を黒く染めるための液体を入れる小皿)
6.「その他」おかね・火打ち石・ひょうそく(お皿に灯心をつけた照明具)・つづら(服などをしまっておく箱)・針・糸
などが発見されたり,絵やその他の資料で分かっています.参考に「中世の町を歩く」を見てください.
君は昔の道具を見てどんな感じがしますか?
ゲンボー先生
北条氏に逆らって、死んでいった人々は何人くらいいましたか?あと、北条時宗は何の病だったんですか?
ゲンボー先生
奈々さん,メールをありがとう.シンガポールはどうですか?先生もずいぶん前に考古学の資料集めでラッフルズ博物館の収蔵庫に入りびったていたことがあります.きれいな国でした.
さて,北条氏に逆らって死んだ人の数ですが,これは多いよ〜〜〜
つまりそれは頼朝が死んだあと北条氏と権力を争った豪族とその家来の数ですから・・・はっきりって正確な数は分からないほど多いのです.でも滅びた豪族は分かりますからその名前と理由を説明しましょうね.
鎌倉幕府は,関東地方の豪族たちが自分たちの土地や財産を守るために頼朝に協力してできた「武士のための政権」です.はじめの頃は信頼のおける頼朝が中心になって,頼朝の個人的な組織に多くの家来(御家人といいます)が仕えるというかたちをとっていました.
ところが頼朝が亡くなると,次の将軍をめぐってごたごたがおきてしまったのです.
長男の頼家は体格も良く武芸に秀でた人でしたが,父親と違って「御家人のために政治を行う」という基本的な姿勢ができていませんでした.父頼朝のように命をかけて戦い自分たちの力で幕府を作ったのではなく,生まれながらにして将軍の子として不自由なく育ったから,御家人の苦労や望みなどが分からなかったのです.
領地をめぐって御家人同士が争っていた裁判の場で,頼家は「えい面倒くさい,これで決まりだ」と絵図の真ん中に線を引いてしまったといわれています.武士にとって自分の領地は父祖から受け継ぎ命をかけて守らなければならない大切な土地です.手のひらほどの広さでもこだわっているのに,そういう武士の思いが頼家には分からなかったのです.また人の奥さんが好きになり,その主人をわざと京都に送り,その間に奥さん奪ってしまったということもありました.これには母親の北条政子が怒りました.このようなことがあったため御家人からの信頼は失われていきました.
そこで,北条氏は頼家を伊豆の修善寺(しゅぜんじ)というところに閉じこめました.このときに頼家の奥さんの家系である比企氏が北条氏に滅ぼされました.比企氏は頼家が将軍になって実権を握ろうとしたからです.
次の将軍実朝は頼家の弟です.しかし,三浦氏と北条氏との実権争いに巻き込まれ頼家の息子の公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいます.公暁は三浦氏にそそのかされて実朝を殺したと言われています.この三浦氏は後に北条氏と戦い滅ぼされました.その間にも三浦氏の親せきであった和田氏が滅ぼされています.
このように幕府内での実権をめぐって北条氏と他の豪族が戦いました.そして北条氏が残り執権政治を行うようになったのです.ちょうどそのころには義時や泰時など優れた人が北条氏から出てたこともあって,鎌倉幕府は執権政治によって安定しました.義時や泰時,それに後の執権時頼は政治の仕組みをととのえ法律を整備し,武士による政治の基礎を固めました.
しかし,長く執権政治が続き北条氏の力が強くなりすぎると他の御家人との差がひどくなり,不満も出てきました.そうした御家人を代表する安達泰盛を北条氏の直接の家来である平頼綱が滅ぼしています.
ドラマでも殺し合いの場面が多くありましたが,不安定な時期にはそのようなことも実際にあったのです.しかもそれはすべて北条氏が関係しているのです.ちょっと怖いですね.
さて時宗の病ですか?本当の死因はわかりません.時宗は34歳の若さで急死しました,病になってから1週間後になくなっていますから.心臓でしょうか脳疾患でしょうか?それとも伝染病でしょうか?謎です・・・君はどう思いますか?
またメールをください.勉強頑張ってね.
ゲンボー先生
ゲンボ−先生
正平君.実におもしろい質問をありがとう.これを調べてなにを知りたいのか,先生はそれが知りたい・・教えてください.
鎌倉時代の天気は・・わかりません.でもすごく大ざっぱなことや記録に残っている日は分かるときがあります.では,大ざっぱに・・
鎌倉時代のはじめ頃から日本の平均気温は少しずつ下がり,終わり頃には「小氷期」よ呼ばれる寒い時代になったといわれています.鎌倉時代の終わり頃に二毛作で麦が作られるようになったのは,お米の収穫量が減ったからではないかという説もあります.
さて,詳しいお天気ですが時々貴族の書いた日記や吾妻鏡という記録にかかれています.
吾妻鏡にある「風雨」は22,「雪」は119,「雷」は160カ所です.いずれも鎌倉の天気ですね.先生はこれを吾妻鏡のCDで調べました.
君の場合,面倒くさいでしょうが「吾妻鏡」のホームページがありますから,そこをみて一つ一つ調べるしかないです.先生のホームページの「学習を助けるリンク」にあります.
たとえば1191年(建久2年)の記録には
2月10日 己丑 細雨降る(ささめふる)
2月15日 甲午 風烈し(かぜはげし)
2月17日 丙申 雪降る、地に積もること五寸 (約15センチ雪が積もった)
と書いてあります.ページは月ごとになっていますから,そのページを開いて検索を使って(雨・風・雪・雷)などを探すか,一日ずつ見ていくのです.お天気はだいたいその日のはじめに書いてあります.時間はかかりますが学習としてはやりがいがありますよ・・やってみますか?
先生は上の記録を見て,大陸からくる高気圧の動きと南からやってきた移動性の低気圧の動きが何となく分かるような気がします.17日には閉塞前線が関東を通過したのでしょう・・現代の春先の大雪と同じパターンですね・・おもしろいね・・・
ゲンボー先生
勇紀
ゲンボ−先生
勇紀君.メールをありがとう.
鎌倉幕府を滅ぼそうとしていた人はたくさんいました.その人たちの中心になったのが後醍醐天皇です.しかし,天皇や力のない朝廷だけではとても幕府と戦うことはできませんでした.
そこで天皇は幕府に不満を持つ武士たちを集めたのです.なかでも有名なのは,御家人ではなかったけど戦いの強かった楠木正成(くすのきまさしげ).幕府の有力な御家人新田義貞や足利尊氏などがいます.
もちろんそれ以外にも多くの武士がいましたが,なぜみんなは幕府を滅ぼそうと思ったのでしょう?その答えは君が見つけてください.
先生のホームページの中にある「元寇」にもでていますよ・・
わかったら先生にも教えてください.
ゲンボー先生
お墓の歴史の年表を作りたい。資料が無いので教えて
ゲンボー先生
泉ちゃん。メールをありがとう。
人間がお墓を作るようになったのは、今から約6万年前のネアンデルタール人の頃からです。日本の場合は1万年前の縄文時代からお墓があったことがわかっています.多分それ以前からあったのでしょうが発見されていません.
そのころのお墓は穴を掘ってうめただけです.あるいは貝塚という貝の捨て場にうめられています.
縄文時代の後期になると貝塚や土溝墓(どこうぼ=穴を掘ってうめるお墓),以外に土溝墓の上に石をドーナッツのように円形においたストーンサークルが現れます.また,縄文時代中期頃から幼児や子供を大きな土器に入れて,家の中にうめるお墓もでてきました.
弥生時代になると,九州地方には甕棺(かめかん)という大きなかめに遺体をいれて埋めるお墓が現れました.また有力者は方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という回りにみぞを掘った四角い形の盛り土をしたお墓もあらわれました.このお墓が古墳という大きなお墓にかわっていくのです.
古墳には前方後円墳や円墳,方墳と色々な形があります.この時代の庶民は横穴古墳(おうけつこふん)というがけに横穴を掘って遺体を埋めるお墓も出てきました.
飛鳥,奈良時代になって仏教が入ってくると大きな古墳は消えて,横穴古墳や小型の円墳だけになり,やがて穴を掘ってうめるお墓に戻っていきました.
ただし,皇族や貴族は円い盛り土のお墓やお堂を建ててそれをお墓にしました.平安時代の終わり頃になると五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)という石を積んだお墓が現れました.しかし,この時代の庶民は墓石はなくただ穴の中にうめただけものものです.
その後五輪塔は武士のお墓になりましたが,庶民のお墓がはっきり分かるようになるのは江戸時代になってからなのです.
ゲンボー先生
質問です。鎌倉時代の元や朝廷と戦っていた気持ちを知りたいのです。教えて下さい。
ゲンボー先生
奈津実さん,メールをありがとう.
武士の気持ちですね?・・・・武士は「恩賞」が欲しかったのです.戦いでりっぱな働きをすれば「新しい領地」がもらえたからです.「幕府を守ろう」とか「武士の社会を守ろう」という気持ちを持っている武士はほんのわずかだったのです.
現代人から考えるとちょっとビックリですが,鎌倉時代の武士は「自分と一族の繁栄(はんえい)」が一番大切なことですから,強い方の味方になりました.
幕府が強いときは幕府に・・朝廷が強くなれば朝廷に・・という具合ですね・・武士が,主人のために,とか藩(はん=自分たちがおさめている国)のために命をかける,と教育されるようになったのは江戸時代からです.そのころから武士がサラリーマン的になったと言われています.
君が武士だったらどっちがいいですか?
ゲンボー先生
ゲンボー先生
駆流君メールをありがとう.
150年間も続いた理由は「多くの武士に支持されていたから」です.逆につぶれた理由は「多くの武士が支持しなくなった」からです.ではなぜ武士が支持していたのかというと,武士にとって一番大切なのは「自分の土地を守ること」「家族の命を守ること」「一族が豊かな生活をおくる」ことでした.頼朝は頼朝に従った武士たちの領地を「守る」と言いました.それまではとなりとの境界あらそいや,国府の役人のわるさによって領地がおびやかされていたのです.
さらに,頼朝のために戦った武士には敵からうばいとった領地をその働きに応じて分け与えました.この仕組みは,頼朝が死んで北条氏が実権をにぎってからも続きました.だから関東地方を中心とした武士たちが幕府を支えたのです.
幕府がほろびたのはこの仕組みがくずれて,北条氏だけが良い生活をしていたからなのです.ふつうの武士は平和が続き戦が無くなって新しい領地を得ることができませんでした.子孫はどんどん増えていきます.ですから領地を細かく分けることになってしまいました.こうなると一軒あたりの収入は減りますね・・その上「元寇」(げんこう=モンゴルがせめてきたこと)でたくさんのお金を出費してますます生活は苦しくなりました.
そこへ,足利尊氏や新田義貞などの有力な武士が天皇側についたので,多くの武士が天皇側について,あっという間に鎌倉幕府は滅びたのです.
時代の中心は天皇や将軍ではなくて,一般の武士だったということですね.
ゲンボー先生
けれど、なかなかそれに合う資料がみつかりませんでした。先生教えて下さい!!!!
ゲンボー先生
山口さん,メールをありがとう.
鎌倉時代は武器の発達した戦国時代とはちがって昔ながらのものでした.
ですから,「太刀」(たち)・「鎧通し」(よろいどうし)・「弓矢」が上級武士の武器.「薙刀」(なぎなた)・「弓矢」が下級武士の武器でした.
上級武士は馬に乗り,下級武士は歩くか走りました.戦いは日時と場所を決めてたがいに名乗りあって行われました.名乗りは絶対に必要で敵の首を取ったときにその人が誰かによってもらえる恩賞がちがったからです.恩賞はほとんどが土地でしたから一族の繁栄がかかっていたのです.
戦いの中心は上級武士で下級武士は主人の手伝い程度でした.ですから主人同士が戦っているあいだ下級武士が回りで見ながら励ました,などという記録も残っています.・・
戦いはまず「弓あわせ」といって互いの陣地から弓矢を打ち合います.そこでたがいに矢の届く距離まで近づきます.そのあと馬に乗っている同士が弓で打ち合います,ですから弓矢の練習や馬をうまくうごかす馬術はとても大切なことで,武士の日常の訓練の中心でした.このことを「弓馬の道」といいます.
やがて,刀を抜いて斬り合いますが,お互いによろいを着ているので頚動脈(けいどうみゃく=首にある動脈)を狙いました,弓矢でも刀でも勝負がつかなかったら,相手と取っ組み合って鎧通しで相手の首を刺したり,心臓をついたりしました.
勝った方は負けた武士の首を切り落とします.そこで名前が必要なのです.たくさんの首を取った場合は顔に墨で名前を書いたり,布や紙に名前を書いて貼り付けました.主人が死んだら下級の武士は用がないので戦いからはなれてしまいます.
おもしろいねえ・・今の戦争とは大きくイメージがちがいます.つまりスポーツのようにルールがあったということです.ですから武器が発達しなかったとも言えるのですね・・その必要がなかった・・
つけたしです・・・ですから元が攻めてきたときには日本の武士は困りました.名乗りを上げているうちにやられてしまった武士が続出したからです.それに馬を狙われたのも初めてのことです.
日本の戦いでは馬や水夫(すいふ=かこ,ともいう.船をこぐ人)をうってはいけなかったからです・・元は組織で戦っていましたが,日本は個々バラバラの集団でした・・・日本が元寇で勝てたのは本当にラッキーだったのですね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
越尾君さん,メールをありがとう.
さて難しい質問ですが,平安時代も鎌倉時代も貴族の生活はあまり変わりません.貴族の女性は教養を身につけるために「書道」や「和歌」「作法」の勉強をしました.そして年頃になると朝廷や貴族の官女として働きます.
朝は日の出と共に起きて,つかえる人(天皇や王子の奥さん,高級な貴族の奥さんなど)のための身の回りのことや,歌や遊びの相手をしました.この時代は一日2食ですから10時頃と3時頃には軽い食べ物(いまのおやつ)を食べていました.
お風呂は何日かに1度,それも今とちがって蒸気をたいた蒸し風呂です.今のようにお湯にはいる時は薬湯とといって,「くろもじ」(良いにおいのする木の葉,殺菌効果がある)や薬草入れたお湯に入りました.そうして皮膚病を防いだのです.
髪の手入れもありますね・・髪が長いので「くし」でなでるのです・・場合によっては「しらみ」もとりました・・
夕方はご飯を食べて,夜は暗くなったら寝ちゃいます.たまにパーティーみたいのがあってそういうときはお手伝いをしたり,いっしょに和歌かを作ったりもしました.また,たまにはつかえる人といっしょにお寺や神社を参ったり,紅葉を見に行ったりと小さなレクリエーションもありました.
そして,年頃になると結婚しました.しかし,たいていの場合は子育てはしません.子育ては乳母(うば=めのと,といった)がしたのです.
女性の権利ですが,土地を持つことや財産を分けるなど男女はほぼいっしょでしたから,江戸時代なんかよりずーっと男女同権でした.しかし,政治のことには関わることはありませんでした.
どうですか?貴族のような生活と言いますが,君もしてみたいですか?
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.この次からお名前も書いてね・・
鎌倉時代の武士はまず,
1.弓の練習をしました.「笠懸」(かさがけ)は笠を的に討つ練習,流鏑馬(やぶさめ)は馬で走りながら的を打つ練習.犬追物(いぬおうもの)は犬を放して馬に乗って追いかけて矢を討つ練習(先のとがっていない矢で討ったから犬はちょっと痛いけど死にません)
2.次に馬の練習です.弓を使うにも刀で戦うのも馬が思い通りに動かないとそれは「死」につながるからです.ですから当時の武士はお金はかかっても良い馬を欲しがりました.
3.相撲の練習・・というより相手を組み伏せて刺し殺す練習です.この時代はまだ剣術は発達していないのです.馬に乗って相手を切る,とか脇腹や頸動脈(けいどうみゃく=首の血管)を狙って刺すななどで,まず力で相手を倒すことが大切だったのです.
4.武士のよろいはとても美しかったです・・実用と言うより相手や味方に目立つように作られました.もちろん飛んでくる矢や刀から身を守るようにはできていますが,近くからうたれたり,思い切り刺されたら貫通してしまいます.ではなぜ目立つ色をしていたのでしょう???それは先生のページに答えが出ています,そこをよんでください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
松村さん.メールをありがとう.
これを説明するとすごく時間がかかってしまうので簡単に説明します.あとは先生のページで勉強してください.
貴族の時代は天皇を中心として律令という法律にしたがって政治をしていました.地方は国司という役人が一番上にいて,その土地からとれる農産物や特産物を京都の朝廷に送ったり,地方の政治を行っていました.
平安時代の終わり頃になると,土地を実際に持っている大きな地主が自分たちの土地を守るために武器を持って戦いました.これが武士です.
やがてその人達は仲間を作って強くなり,国司をやめた貴族や皇族をリーダーにまとまり始めました.これが武士団です.平家も源氏もそうした武士団のひとつでした.
特に相模(今の神奈川県)の武士団は互いの結びつきを強めて二つのグループに分かれました.そのうちの一つが源頼朝の味方をしたのです.頼朝は武士の利益を守る政治をめざしました.一つは武士達が持っている土地を認めてあげて守ること,もう一つは戦争の時によく働いたものには敵から奪った土地を分け与えるというものでした.これに賛同した武士がわれも我もと頼朝に味方して,とても大きな武士のまとまりができたのです.
貴族たちは法律をうまく利用して政治をしましたが,実際に武力は持っていませんでした.武士は大きな軍事力で自分たちを守り,やがて朝廷をおどかすようになります.そして武士自身の政治を行うようになっていったのです.それが鎌倉幕府なのです.
これでいいですか?もっとくわしくは先生のページで勉強してね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう。
ありました。障子はもともと部屋と部屋をしきる板でした。それが引き戸となって、やがて「ふすま」になります。
平安時代の終わり頃になると貴族の屋しきに現在のような和紙をはった障子があらわれます。これは戸をしめていても明かりが入ってくるからです。
鎌倉時代になると高級な武士の家にも障子はつかわれました。
しかし、一般の人々家に障子がつくのは江戸時代になってからの事です。
ところでどうして君は障子の事を調べたくなったのかな?よかったらば教えて下さい。
ゲンボー先生
大井第一小 6年 未依耶。
ゲンボー先生
メールをありがとう。
円覚寺も建長寺もともに鎌倉時代を代表する禅宗のお寺です。
みどころ
「円覚寺」まず山門といわれる入り口の門がりっぱです。よく見ると(これはどのお寺もそうですが)柱の下に丸い石があります。これは地震の時に建物全体がゆれと共にうごいて(スライドして)こわれるの防ぐためなのです。鎌倉に限らず日本は地震の多い国です。とくに鎌倉では大きな地震のたびに大切な建物がこわれています。それを防ぐためなのです。昔の人の智恵です。
立派な本堂もいいのですが、その回りにある座禅を組むお堂にも目を向けてみましょう。壁に向かって座るように出来ています。これは一人になって心を静かにするためです。武士は禅を好みました。それはなぜでしょうか...なんていうことをかんがえるものいいでしょ。。
仏像は首の部分がとれるように出来ています。これは地震や火事のときに持って逃げるためです。首が大切なんですね。
そうそう、国宝の鐘(かね)がありますが、もしかしたら国立博物館の展示にいって無いかも知れません。
「建長寺」は 円覚寺よりも奥があって広いお寺です。ここでも建物の柱や屋根を見て下さい。とても立派です。 円覚寺とおなじくどの柱も地中にはうめられずに石の上にのせてあります。地震で動いた後は大勢の人でひっぱたり押したりして本に戻すのです。
奥にいくと半僧坊(はんぞうぼう)がありますから是非いってみて下さい。天狗やからす天狗の象がかわいい!
さらに、 半僧坊のすぐうえに展望台がありますからそこにもぜひ行ってみるといい..鎌倉が山に囲まれて一方が海ということがよく分かります。
「明月院」は何といっても「あじさい」です。今が一番の見ごろ、きれいだよ。でも人もたくさんだ。がけの所に穴がほってあってそこにお墓が入っています。この穴の事を「やぐら」といい、中にあるお墓を宝筺印塔(ほうきょういんとう)といいます。明月院のやぐらはかまくらで最大のものです。あと丸や四角の石を五つ重ねたものもありますが、それを五輪塔(ごりんとう)といいます。どちらも武士以上の身分の人のお墓や供養塔(くようとう=霊をなぐさめるとう)です。あちこちのお寺にあるので見て下さい。
お天気が良ければいいね。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
北条政子は武士の奥さんです・・でも二位というくらいを持っていましたから「貴族」ともいえます.
位は一から八まであって,朝廷(ちょうてい=天皇のいるところ)に入れるのは五位以上です.つまり五位以上だと貴族と言うことになるのです.
頼朝の死後政子は「二位の尼」と呼ばれたり,「二品」(にぼん)とも呼ばれていました.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
真紀さん.メールをありがとう.
戦の内容については他のページで調べた方がいいかもしれません.先生のページよりもっと詳しく書いてあるからです.大切なのはどうして源氏が勝てたのか・・ということです.このことについて説明します.
もともと海での戦いが得意だった平家がなぜ負けたか?この点が大切なのです.
義経が率いる関東の武士は上手に馬に乗ったり,弓矢がとくいでしかも勇かんでした.舟での戦いには慣れていませんでしたが,瀬戸内海を中心とする舟に乗って戦うのが得意な武士の協力をえて,平家と十分に戦うことができたのです.
そのうえ司令官だった義経はあらしの時に屋島にわたり敵をやっつけたり,敵の水夫を討って舟を動かなくさせたり(当時の戦では水夫をうつのはルール違反だった)と,それまでの戦のルールを無視しました.こうしたことが重なり合って平家は源氏に負けたのです.
ここで一番大切なのはどうして関東の武士が強かったのか・・ということです.これは先生のページにたくさんヒントがあります.
もう一つ,どうして源氏に味方をする武士が多かったのか・・ということです.
これらのことを考えてみてください.きっと鎌倉幕府ができたおおきな理由が分かると思いますよ.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
史織さん.メールをありがとう.
平安時代に関東,東北地方で大活躍した源義家(みなもとのよしいえ=八幡太郎義家=はちまんたろうよしいえ,ともいわれる)には6人の男の子がいました.長男は早く亡くなり,次男は反乱を起こして家を出されます.
尊氏の祖先「義国」は三男ですが,源の直系をついだのは反乱をこした次男の子ども「為義」(ためよし)でした.為義は義家の孫にあたりますが,義家の養子となって六男となりました.しかし,次男の子どもということで為義が家を継ぎます・為義の子は義朝でその子が頼朝です.
さて,義国は足利の地に領地をもらい,以後「足利」を名乗ります.これが尊氏の祖先と言うことになります.
つまり,時代は違いますが頼朝とは親せきになるわけですね.
君も知っているとおり頼朝の家系は息子の実朝の死によって途絶えてしまいます.源氏として勢力を持ち,しかも頼朝の血筋を持つのは足利氏と言うことになり,家柄から言うとかなりいいのです.
鎌倉時代を通して実権をにぎっていたのは執権だった北条氏で,その140年間足利氏は源氏と言うことで一応うやまわれてはいましたが,政治の中心にいることはありませんでした.
幕府がつぶれるときに足利氏や新田氏といった源氏が中心になったのは,鎌倉幕府が北条氏のものであると武士のほとんどが思っていたのと,幕府を創った頼朝の血筋である足利氏や新田氏が中心になることで多くの武士がまとまっていったからです.(新田氏は足利氏の分家筋にあたります)
さらに足利尊氏が勝者になるのは彼自身頭がよく人を引きつける魅力があったのと,尊氏の弟が政治がうまく,兄に負けないくらい優秀だったからです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
彩加さん.メールをありがとう.
そうだよね・・ごちゃごちゃになるのがふつうです・・
まず,領主ですが読んで字のごとし.「領地の持ち主」です.領地というのは山や畑や川などを含む広い地域のことですが,場所によって大きなところもあれば,小さな所もあります.
しかし,ややこしいことに平安時代の中頃から鎌倉時代というのは,実際の持ち主と名目だけ(名前だけ)の領主が二人いたのです.実際の領主はその土地にすんで人と土地を支配していました.この人たちは「豪族」(ごうぞく)と呼ばれ,本職は農業ですが土地を守るために武士になりました.
名目だけの領主は主に貴族や京都や奈良の大きな神社,大きなお寺でした.なぜなら貴族や大寺社の持ち物ということにすると,領地争いがなくなるし,税金を払わなくてもいいという特典があったからなのです.こうした領地のことを「荘園」(しょうえん)とよびます.
ですから豪族は実力者に領主になってもらい,自分は庄司(しょうじ)とか下司(げじ)などの領主に使えるものとして,荘園を管理する立場になりました.管理といっても実際の持ち主は庄司や下司なんですよ・・ややこしいね.
国司や郡司は朝廷の役人の位です.国司はいまでいうと県知事で,主に京都の貴族や皇族がなりました.源氏や平家の祖先がこれです.郡司は国の中をいくつかに分けた郡の役人ですが,そのほとんどは昔からそこにすんでいた豪族です.
守護や地頭は幕府の役人の位です.鎌倉時代になって頼朝は国ごとに守護をおきました.この人たちは全て武士です.つまり国には国司と守護がいるということになりますね.国司は役所の役人.守護は幕府からはけんされた軍隊や警察の役割を持つ人たちです.幕府の力が強くなると国司は無視されて,守護が国を治めるようになりました.
地頭は領地ごとにおかれた幕府の役人の名前ですが,ちょっと難しくて,関東・中部・東北地方だと土地を支配している豪族です.しかし,近畿地方や西日本では荘園や国の領地にはけんされた警察官という感じです.警察官といってもやがて年貢を集めたり,はけんされた領地をうばっていったりして,実際の領主になっていきました.
整理してみると
国司と郡司はもとからいた国の役人.守護と地頭はあとから幕府が作った幕府の役人.ということになります.こうしてみると「朝廷」対「幕府」という感じがしますね.事実幕府は少しずつ朝廷の権限を弱め武士中心の政治を目指していきました.
六波羅探題とはそうした幕府が京都の朝廷を見張るための役所だったのです.遠く離れた鎌倉幕府に朝廷の様子を知らせて幕府にとって不利な動きがあればおどかしてやめさせたりするのです.それ以外には京都付近にいる武士をまとめたり,京都市内の犯罪者をつかまえたりする役目もありました.
これでいいですか・・やさしくしたつもりですがまだむずかしいね・・・
ゲンボー先生
1.平安時代が終わって鎌倉時代になったのか
2.貴族の世の中から武士の世の中に、どのように移り変わっていったのか詳しく教えてください。
ゲンボー先生
聡君.メールをありがとう.
貴族の世の中から武士の世の中にかわるといってもその境目ははっきりしません.教科書には鎌倉時代は武士の時代と書かれていますが実際にはそうとも言い切れないのです.
将軍と言う位からして貴族の政府である朝廷の軍人の位です.それいがいに武士の位をあらわす相模の守(かみ)とか三浦の介(すけ)という「守」「介」も朝廷の役人の位です.このことから分かるのは,武士の位は朝廷からもらっていたと言うことですね.幕府そのものが朝廷の中の一つの組織なのです.
支配地でいえば関東・東北・中部の一部は武士の支配地域といえますが,その時代の日本の中心地,近畿や中国地方は朝廷の支配地でした.鎌倉時代の日本は場所によって武士の支配地と朝廷の支配地に分かれていたということになります.
ではどのようにかわっていったのか・・まずはじめは守護・地頭という幕府の役人を国や領地ごとにおいたということです.国にはもともと国司という朝廷の役人がいますが,守護は幕府がわの人間・・つまり武士です.最初の頃は国司より弱い存在でしたが幕府が強くなるとだんだんに実力をもつようになりました.
地頭は警察官という名目で各領地におかれましたが,近畿地方のように朝廷の力が強いところにはいませんでした.しかし,承久の乱(じょうきゅうのらん)という朝廷と幕府がいくさをして幕府側が勝つと様子は少しずつ変わっていきます.
それまで朝廷の力が強かった地方にも地頭がおけるようになったからです.地頭は警察官という役目を持っていたと書きましたが実際にはその地域の支配者になっていきました.しかしそれでも領地の半分は朝廷側の人のもちもので,これは鎌倉時代が終わるまでずーっと続きます.
わかりやすく言えば平安時代には完全に貴族が日本を支配していたけど,鎌倉時代になってまず関東・東北・中部が武士の支配地になった.そのとき近畿・中国・四国・九州はまだ朝廷の支配地だった.
承久の乱以後は近畿・中国・四国の一部が武士の支配地域になったけど,「そこまで」,ということになります.
朝廷の力(貴族)がかなり弱まるのは戦国時代になってからで,武士が完全に社会を支配するのは豊臣秀吉の時代頃からと思ってください.
本で読むと鎌倉時代になると武士が貴族にかわって政治を行ったように書いてありますね・・ところが,人間の社会はほとんどの場合いっぺんに変わることはありませんでした.急激に変化したといわれる明治時代だって,しばらくのあいだ人々はちょんまげをゆっていたし,武士も刀を差して歩いていたのです.義務教育は明治3年ですが,その前からほとんどの子どもは寺子屋や郷学という学校に通っていました.地方の農村では長いあいだ江戸時代とかわらない生活をしていました.
ちょっとむずかしいなあ・・分からないところは学校の先生に聞いてみてね.先生のホームページもところどころこのことが書いてありますから参考にしてください.
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