小学生とゲンボー先生のページ21 玉川学園・玉川大学
鎌倉の大仏と、奈良の大仏の違いをおしえてください。
ゲンボー先生
あゆみさん.メールをありがとう.
奈良と鎌倉の大仏の一番の違いは,国の事業として天皇の命令で作ったのと,庶民(しょみん)がお金を出し合って作ったと言うことだと思います.
1.奈良の大仏は743年に聖武天皇(しょうむてんのう)の詔(みことのり=言葉=ほとんど命令)によって,作ることが決められました.そして752年に完成し「開眼会」(かいげんえ=仏の像が完成し魂を入れること)が行われました.
聖武天皇自身は信心(しんじん)深い人で「一にぎりの土,一本の草だけでも庶民が持ってくれば,それを手厚く受け取るように」と言ったのですが,下に伝わるに従ってそれが命令に変わっていきました.大仏の建立(こんりゅう=お寺や仏像を作るときに使う言葉)は多くの人々の労働(ろうどう)とお金を使って,9年という長い年月をかけて作られました.
2.一方の鎌倉の大仏は,浄光(じょうこう)という一人の庶民が中心となって,多くの人々の寄付(きふ)で作られました.その中には北条氏や他の御家人(ごけにん)もいました.しかし,幕府が命令して作ったものではありません.記録にはたくさんのお金が集まりそれを溶(と)かして大仏を作ったと書かれています.
また,はじめの頃には,回りに建物があってその中に大仏はありましたが,嵐(あらし)でこわれてからはそのまま雨ざらしになり,今に至っています.雨ざらしになってもいまだにしっかりとたっている?座っている・・のは,背中の部分に窓があって晴れた日にはここを開けて乾燥させるからだと言われています.
あゆみさんが今度鎌倉に行ったら,ぜひ大仏様の中に入ってそれを確かめてきてくださいね.
ゲンボー先生
今度、修学旅行で鎌倉に行きます、色々と調べておいて、楽しい旅行にしようと思います。僕も、今度このホームページに参加したいと思います。 ありがとうございました。(^。^)
ゲンボー先生
根岸 慧 君
メールをありがとう.いつでも質問してきてください.鎌倉は今,若葉・青葉の一番きれいな季節です.お寺や遺跡を巡って回るのだと思いますが,目的を一つ持って歩くといっそう面白いと思いますよ.お天気が良くなることを祈っています.
しつもんなんですけど、鎌倉時代の仕組みってどうなってたんですか??教えてくださ〜い!!
ゲンボー先生
メールをありがとう.まず,関東で旗揚げした頃には戦争に勝つことが第一ですから,司令部(しれいぶ)となる侍所(さむらいどころ)ができました.次に,公文所(くもんじょ)を作りましたがこれは,源頼朝という個人と家族(つまり源家)の私的な役所だったと言われています).当時の三位(さんみ=くらいの一つ)以上の貴族は公文所を開いてよいことになっていました.彼らは自分の領地以外に広大な荘園を持っていましたし,多くの人間を養っていたので収入や支出をはっきりさせて,年間の予算を組んでいたからです.
その頼朝が関東の豪族(ごうぞく)をたばねて木曽義仲(きそのよしなか)をうち破る頃には,ご家人間の争いごと(主に土地をめぐっての争い)を調停(ちょうてい)する問注所(もんちゅうじょ)や公文所を発展させた政所(まんどころ)などの組織が作られていきました.
このように,頼朝はその時期ごとに必要な役所を作っていったのです.そこで働く役人ははじめの頃は都から呼び寄せました.彼らは朝廷の仕組みや役所の仕組み,書類の書き方を知っていたからです.頼朝は武士の棟梁(とうりょう=親分)ということから,「武士」と言うイメージが強いのですが,実際には武士をまとめてはいたが,皇族の子孫としての一面もあったのです.ですから,子供の頼家(よりいえ)や実朝(さねとも)もそうした部分を持っていたわけです
本当の意味で関東に武士の政権が確立するのは,北条氏(ほうじょうし)が実権(じっけん)を握(にぎ)る執権政治(しっけんせいじ)になってからです.ところで,先生のページにも書いてありますが,これらの政治組織を当時の人は「鎌倉」とか「東国」と読んでいました.将軍は鎌倉殿(かまくらどの)です.役所はそのまま問注所とか侍所と呼ばれていました.じゃあ,それらをまとめて幕府と呼んだのはいつの頃か・・といえばそれがなんと江戸時代のことなのです.しかも後半・・・
私たちは幕府と言う言葉のひびきで「ちゃんとした武士の政治組織」 というイメージを持ってしまいますが,実際にはそうではありません.私たちが今日「鎌倉幕府」と呼んでいるものは,武士の成長にあわせて作られていった「武士をまもる組織」なのです.やがてその力は朝廷より強くなりますが,形式的にはあくまでも朝廷のなかにある一つの組織でした.
教科書では1192年に頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって幕府を開いた,と書いてありますが,別にその時に「幕府を開くぞ」と言ったわけでもないし,組織は徐々(じょじょ)に作られていったので「ここからが武士の時代」ということもできません.「征夷大将軍になって幕府を開く」ということは江戸時代の徳川氏にとって大切なことだったために,そういう解釈(かいしゃく)をしたにすぎないのです.
「あいまいだなあ」とおもうでしょうが,先生は逆に初期の武士たちが自分たちの生活を守るために,少しずつ力をつけ,朝廷に対抗(たいこう)する組織を作っていった思いや努力が見えるようでとても面白いと思うのです.
時期ごとの組織については先生のページにくわしく出ていますから,そちらを見てください.
参考:変化する幕府の組織.
「平氏でなければ人ではない」という言葉がありますが、どんな意味なんでしょうか??教えてください、よろしくお願いします。
ゲンボー先生
かおりさんメールをありがとう.
桓武天皇(かんむてんのう=平安時代のはじめの天皇)は自分の子供に平安京の平の姓を与えて,貴族と同じくらいの身分にして朝廷の役人にしたり,地方の役人にしました.これが平氏の始まりです.平の名前を与えた天皇は他に3人いますが,最も栄えたのが桓武天皇の子孫たちでした.これを桓武平氏といいます.(源氏も同じように天皇の子孫です.源の姓を子供に与えた天皇は多く,21人もいます)
桓武平氏は日本中にちらばり,それぞれの国の高いくらいの役人になりました.そうした人たちの子孫は自分の治めていた国の豪族(ごうぞく=広い土地を支配していた有力者=農民)をまとめて,棟梁(とうりょう)と呼ばれました.こうしたグループのことを武士団といいます.
言い方を変えれば,豪族たちは自分たちの土地を守るために,親子や親せき同士でグループを作りその親分に天皇の子孫という,自分たちにはない良い家柄の人を持ってきたともいえます.こうしたグループは特に関東地方に多く,後に鎌倉幕府を作った源頼朝の家来(けらい)の多くが桓武平氏の子孫たちでした.
さて,都で実権(じっけん)を握(にぎ)った平清盛は同じ桓武平氏でも伊勢(いせ=今の三重県)に勢力(せいりょく)を持っていた伊勢平氏でした.清盛一族が保元の乱・平治の乱をへて実力ナンバーワンになると,伊勢平氏は全国の半分以上の国を支配し,清盛の娘は天皇と結婚し,一族は急速(きゅうそく)に繁栄(はんえい)しました.
そんなとき,ある宴(うたげ=パーティ)で平時忠(たいらのときただ)という清盛の奥さんのお兄さんが,うれしさのあまり「一門に非ざらん者はみな人非人たるべし」(いちもん「伊勢平氏のこと」にあらざらんものはみな,にんぴにんたるべし)といったのです,これだけでは分からないので,後の世の人が「平家にあらずんば人にあらず」とわかりやすくいいかえたのです.
同じ平氏でも清盛一族は繁栄(はんえい)し,関東の平氏たちはいつも戦におびえ,京都に呼ばれては清盛一族(伊勢平氏)に家来として扱われ,その差はとても大きなものでした.しかも清盛たちは自分たちにそむく者はてっていてきに弾圧(だんあつ=つかまえて刑罰を与えること,場合によっては死刑)していましたから,人々の不満はとても大きくなっていたのです.ですから頼朝が関東で大きな力を持つと大部分の平氏も頼朝の家来になったのです.
やがて,平家は木曽義仲(きそのよしなか)や頼朝によって滅ぼされました.清盛一族のほとんどは戦死するか捕まって殺されましたが,なんと時忠だけは見逃されて能登の珠洲(すず)というところに住みました.
時忠の子孫は時国(ときくに)と名乗り, 鎌倉時代以後も能登(のと)の名門として今日にいたっています.
先生も一昨年能登に行き,時忠さんのお墓と時国家を見てきました.写真はその時のものです.
最後に平家物語の言葉を一つ教えましょう,これは「平家にあらずんば〜」に対する言葉です・・
「おごる平家は久しからず・・」・・その気になった平家はすぐにほろびてしまった・・と言う意味です.
ゲンボー先生
鎌倉時代の人は何を食べていたのですか?
ゲンボー先生
鎌倉時代は特に近畿地方(きんきちほう)で農業技術(のうぎょうぎじゅつ)が発達して二毛作(にもうさく)が行われたり,いろいろな種類の農産物が作られはじめた時代です.また道路が整備(せいび)され交通網(こうつうもう)が発達し始めた時期でもあるのです.さらに水上交通(すいじょうこうつう)もさかんで,地方の特産物(とくさんぶつ)が京都や鎌倉といった大都市に運ばれました.
地方でも「市」がさかんに開かれて,商品の流通(りゅうつう)が多くなってきました.また,宋(そう=中国)から珍しい食材や調理法も伝わりました.
「おまんじゅう」もこのころに伝わったお菓子の一つです.先生が萩(山口県)で知り合った高名な料理人の方に当時の調理法を書いた本のコピーを送ったところ,「現在使われている料理法の基本のほとんどがこの時代に行われている」と大いに感心されていました.
一つだけ紹介しましょう「真雁(かり=鳥の名前)の肉を切り分けて,お酒をかけて臭みをとり,ガラを煮て作ったスープの中に入れる.皮は酒炒(さかいり=お酒を入れて炒る.)にしたものをその中に入れる.夏は青菜,春は芹などを入れるとよい.」これは鍋物のレシピです.付け汁にはサンショ味のものが良いとも書かれています.
うまそうでしょ・・他にもたくさんありますが紹介し切れません.しかし,これは貴族や裕福(ゆうふく)な商人,位の高い武士が食べたものです.一般の人はもっと簡単(かんたん)な調理で食べていたはずですが,鳥やけもの肉はもちろん,魚や野菜や時にはお菓子など,私たちが想像するより多種類のものを食べていたと思われます.
調味料だって「塩」 はもちろん,「ひしお」(おしょうゆ)や,「魚醤」(ぎょしょう=魚と塩で作ったお醤油みたいな調味料,うまい!)「味噌」「酢」「あまかずら」(甘い植物)「サンショ」「ゆず」「しょうが」などなど,
無いのはソースにマヨネーズくらいのものです.
冷蔵や冷凍の技術なんて無い時代でしたが,保存食は干物や塩漬けにされて流通していました.頼朝はサケの薫製(くんせい)が大好きだったと記録に残っています.頼朝さんがサケの薫製をかじりながら,いろいろ考えているようすを想像してみてください・・おもしろいでしょう・・(笑)
テレビやドラマだと,人々は貧しい家の中で貧しい食事をしていますが,あれは「江戸時代の貧しい農民のイメージがあって,それよりもっと昔の人はさらにろくなもの食っていなかっただろう」という,現代人のかってな想像なのです.確かに今と比べてしまえば貧しい人が多かった時代ですが,いつの時代だってどこの人だって「おいしいものを食べたい」と思うのは人類共通のことですね.ですからそれぞれの階層(かいそう)の中でいろいろ工夫してご飯を食べていたにちがいないのです.
その食材ですが先生のページにくわしく出ていますから,あとはそちらで勉強してください.
分からないことがあったら,またメールをください.
ゲンボー先生
あと、北条時宗は何の病だったんですか?
ゲンボー先生
奈々さん,メールをありがとう.シンガポールはどうですか?先生もずいぶん前に考古学の資料調べでラッフルズ博物館の収蔵庫(しゅうぞうこ)を見せてもらったことがありました..
さて,北条氏(ほうじょうし)に逆らって死んだ人の数ですが,これは多いよ〜〜〜つまりそれは頼朝が死んだあと北条氏と権力を争った豪族とその家来の数ですから・・・はっきりって正確な数は分からないほど多いのです.
でも滅びた豪族は分かりますからその名前と理由を説明しましょうね.
鎌倉幕府はこのホームページを見れば分かるように,関東地方にいた豪族たちが自分たちの土地や財産を守るために頼朝に協力してできた武士のための政権です.はじめの頃は信頼のおける頼朝が中心になって,頼朝の個人的(こじんてき)な組織に多くの家来(御家人といいます)が使えるというかたちをとっていました.ところが頼朝が亡くなると,次の将軍をめぐってごたごたがおきてしまったのです.
長男の頼家は体格も良く武芸にすぐれた人のようでしたが,父親と違って「御家人のために政治を行う」という基本的な姿勢(しせい)ができていませんでした.父頼朝のように命をかけて戦い自分たちの力で幕府を作ったのではなく,生まれながらにして将軍の子として不自由なく育ったから,御家人の苦労や望みなどが分からなかったのです.
領地をめぐって御家人同士が争っていた裁判(さいばん)の場で,頼家は「えい面倒くさい,これで決まりだ」と絵図の真ん中に線を引いてしまったといわれています.武士にとって自分の領地は父祖から受けつぎ命をかけて守らなければならない大切な土地です.手のひらほどの広さでもこだわっているのに,そういう武士の思いが頼家には分からなかったのです.また人の奥さんが好きになり,その主人をわざと京都に送り,その間に奥さんうばってしまったということもありました.これには母親の北条政子が怒りました.このようなことがあったため頼家の信頼は失われていきました.
そこで,北条氏は頼家を伊豆の修善寺(しゅぜんじ)というところに閉(と)じこめました.このときに頼家の奥さんの家系である比企氏(ひきし)が北条氏にほろぼされました.比企氏は頼家が将軍になったら実権(じっけん)を握(にぎ)ろうとしたからです.
次の将軍実朝は頼家の弟です.しかし,三浦氏と北条氏との実権争いに巻き込まれ頼家の息子の公暁(くぎょう)によって暗殺されてしまいます.公暁は三浦氏にそそのかされて実朝を殺したと言われています.この三浦氏は後に北条氏と戦い滅ぼされました.
その間にも三浦氏の親せきであった和田氏が滅ぼされています.
このように幕府内での実権をめぐって北条氏と他の豪族が戦いました.そして北条氏が残り執権政治(しっけんせいじ)を行うようになったのです.ちょうどそのころには義時(よしとき)や泰時(やすとき)など優れた人が北条氏から出てたこともあって,鎌倉幕府は執権政治によって安定しました.義時や泰時,それに後の執権時頼(ときより)は政治の仕組みをととのえ法律を整備(せいび)し,武士による政治の基礎(きそ)を固めました.
しかし,長く執権政治が続き北条氏の力が強くなりすぎると他の御家人との差がひどくなり,不満も出てきました.そうした御家人を代表する安達泰盛(あだちやすもり)を北条氏の直接の家来である平頼綱(たいらのよりつな)が滅ぼしています.
ドラマでも殺し合いの場面が多くありましたが,不安定な時期にはああしたことも実際にあったのです.しかもそれはすべて北条氏が関係しているのです.ちょっと怖(こわ)いですね.
さて時宗の病ですか?これが分からないのです.
時宗(ときむね)は34歳の若さで急死しました,病になってから1週間後になくなっていますから.心臓でしょうか脳疾患(のうしっかん)でしょうか?それとも伝染病(でんせんびょう)でしょうか?謎(なぞ)です・・・毒殺(どくさつ)という説もあります.君はどう思いますか?
またメールをください.勉強頑張ってね.
質問どのような
源頼朝はどのような世の中をつくりたかったのか教えてください
ゲンボー先生
早川/青良 さん.メールを有り難う.
頼朝が作りたかったというより,頼朝に協力した関東の武士が作りたかった世の中といった方が正しいです.
関東地方は新しい開拓地(かいたくち)で,大小様々(さまざま)な農民が川の流域(りゅういき)を開墾(かいこん)して田んぼや畑を広げていきました.
しかし,大部分の農民は領地争いや,国府(こくふ)の役人にいじめられて(たくさん税を取られたり,人夫(にんぷ)を出させて自分の領地(りょうち)を広げさせたり,時にはせっかく作った田んぼや土地をとられたりもしました)苦しい立場にあったのです.
ですから農民は自分たちを守るために武装(ぶそう=武器を持って守ること)したり,一族で互いに助け合ったりしました.これが武士と武士団の始まりです.武士団とは互いに協力しあいながら何とか自分たちの領地を守ろうとする助け合いの組織(そしき)のことです.
しかし武士と言ってもは弱い立場の農民だったので,おおもとのボスに血筋(ちすじ)の良い人になってもらうことが多かったのです.当時関東地方には朝廷から国司として派遣(はけん=つかわされること)された貴族(きぞく)や皇族(こうぞく=天皇の一族)の子孫が,都に帰らずにそのままその地域に残っていました.それが平氏や源氏なのです.
関東の武士団の親分(棟梁=とうりょうといいます)に一番多いのが平氏,次が源氏です.
しかしそれでも,まだ立場が弱い武士は(農民は),自分の土地を名目上(めいもくじょう),中央の有力な貴族や神社,お寺に寄付(きふ)しました.難しい言葉で「寄進地系荘園」(きしんちけいしょうえん)といいます.
領地の名前の上での領主を偉い人にしておいて,自分はその家来という形にしたわけですね.こうするとその領地(荘園)には税がかからなくなります.しかも国府の役人が中にはいることもできなくなります.
こうすれば,かなり安全になりますね.
しかし,その名目上の領主(貴族や寺社)の力が弱まると,とたんに周りから侵略(しんりゃく)されたり役人に無理なことをいわれたりしました.そうしたときには弱くなった領主の上に更に有力な貴族や寺社に領主になってもらいました.
関東地方だけというわけではありませんが,このように武士は涙ぐましい努力をして自分たちの領地を守ったのです.
平清盛(たいらのきよもり)が大きな力で政治を行っていた頃(平氏の政治)は,清盛の一族である伊勢平氏(いせへいし)が主な国の国司になりました.国司の多くは自分ではその国に行かず代理人を行かせました,そうした人を目代(もくだい)といいます.
目代の中には,平氏の力を利用して土地の農民(武士)から多く税を取ったり,働かせたりしました.
同じ平氏であっても身分の差があったということです.関東の農民(武士)達も身分が下に見られ, 名目上の領主の屋敷(やしき)を守るために京都へよばれたり,都の平氏のために警備をさせられたりしていました.
そこに,「平氏を倒すぞ」と頼朝さんが立ち上がったのです.頼朝はまず伊豆でいばりまくっていた目代の 山木兼隆(やまきかねたか)の屋敷をおそい彼を殺しました.
このことに賛同(さんどう=さんせい)した伊豆(いず)の小武士集団が頼朝について鎌倉をめざしました.鎌倉は頼朝の祖先が持っていた土地だったからです.もちろん関東には,頼朝に味方をすると約束していた武士団がいました,それが三浦氏と千葉氏です.
しかし,運悪く頼朝軍は関東にはいる寸前に,藤沢の大豪族(だいごうぞく=有力な武士団)大庭景親(おおばかげちか)の軍に破れてしまいました.これを石橋山の合戦(いしばしやまのかっせん)といいます.(現在の熱海と小田原の中間にあります.)
命からがら逃げた頼朝はまず箱根(はこね)に逃げて,それから海を渡って千葉の館山(たてやま)に行きました.
それは千葉氏と三浦半島から館山に逃げてきた三浦氏の軍隊といっしょになるためです.その後,千葉では大豪族の上総氏(かずさ)が頼朝の味方になりました.上総氏の軍勢は2万人を越えていましたから,頼朝軍はいっきに大勢力(だいせいりょく)になったというわけです.
これを聞いた関東地方の多くの武士団が頼朝の味方になりました.中には石橋山の合戦で大庭氏の味方をしていた武士団もあったくらいです.
なぜでしょう.それは頼朝は協力した武士と主従関係(しゅじゅうかんけい=主人と家来の関係)を結び,それらの武士(農民)が持っている領地を認めて守り,良い働きをしたものにほうびとして敵からうばった領地を分け与えたからなのです.
頼朝の家来(御家人=ごけにん)になれば,もう,名目上の領主にぺこぺこする必要もないし,目代にいじめられることもない.しかも領地争いがなくなる.万が一領地争いがあっても話し合いによって解決(かいけつ)する.ということですから武士にとっては「よいことだらけ」だったのです..
頼朝はこうした武士の気持ちを理解し,平家を破り関東に武士の政治の仕組みを作ったのです.頼朝が作った仕組みは武士の生活を良くするためのものでした.もし頼朝が自分のことだけを考えていたら,多くの武士が心から協力するということはなかったはずなのです.
みなさんが歴史から学ぶと言うことは,年号を覚えたり人の名前を覚えることだけでありません.こうした事実を知ってその時,人がどんなことを考え,どう行動したか.そうした人の生き方を知って自分の生き方や行動の参考にしていくということです.
頼朝さんの考えや行動は今の世の中でも十分に通用することだとは思いませんか?
ゲンボー先生
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