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左から石橋山から見た三浦半島,大庭の庄に咲くつゆくさ,土屋一族の墓所,相模の象徴”大山”,渋谷の庄に咲くレンゲ

玉川学園玉川大学・協同 多賀歴史研究所

目次(項目の名前とは異なります)

源義朝,大庭の御厨侵入事件  頼朝軍と反頼朝軍(その違いは?)  武士が守ろうとしたものは何か?

 

ご恩あっての奉公  まとめ  番外編(北条氏と伊東氏)

 


鎌倉幕府は源頼朝によって創られたと言われていますが,実際には相模の武士団が頼朝を利用して創らせたと言っても過言ではありません.このページでは鎌倉幕府創建のもっとも大切な部分を皆さんとともに考えていきたいと思います.

負けるかもしれない頼朝と運命をともにした武士は「なんのために」命をかけたのでしょうか?またどうして頼朝を支えたのでしょうか.教科書では頼朝が関東の武士団をまとめて幕府を創った〜と書いてありますが,実際はどうだったのでしょう・・・


話は義朝(よしとも=頼朝の父)が関東に勢力を広げていた時に戻ります.

天養元年(1144)年9月上旬に源義朝は家来の清原安行と字新藤太,それに国衙(こくが)の役人達を大庭御厨内鵠沼(くげぬま)郷の伊介神社につかわし,一人を殺害し,神官八人に傷害を与え領家・伊勢神宮への供祭料である魚を奪い,大豆や小豆を刈り取っていく事件をおこした.

さらに義朝は10月21日、源頼清と相模の役人たち,義朝の代理人である清原安行,ならびに有力豪族の三浦義明,和田太郎助弘,中村宗平,以下千余騎を大庭御厨内に派兵して乱暴をはたらき、御厨の下司「大庭景宗」の屋敷を荒らして私財を強奪.伊介神社の神官6名を死傷させた.

 

義朝は大庭の御厨(みくりや)のうち,鵠沼(くげぬま)一帯を義朝の領地であると言いがかりをつけて侵入し,家屋を焼き払い農作物を奪い,御厨に住む人々を殺しました.(御厨神社に寄進された荘園のこと.大庭御厨は伊勢神宮内宮に寄進されていた)(鵠沼=藤沢市にある鎌倉よりの地域)

大庭の御厨(みくりや)は1104年〜1131年にかけて,鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が現在の藤沢市から茅ヶ崎市一帯にかけて開発した広大な農地で,13の村があったと記録されています.地図を見れば分かるとおり藤沢市や茅ヶ崎市には相模川をはじめとする,多くの川が作り出した平野が広がり,相模ではもっとも豊かな地域を含んでいます.さらに大庭は海に面していたために漁業もさかんで,後に領家となる伊勢神宮には干しアワビをはじめとして多くの海産物が神様への供物(税)として納められています.領地を有力者(貴族や寺社)に寄進すると国に税を支払わず,寄進先に年貢を払うことになります.そのかわり外部から侵略されにくくなり安心して生活を送ることが出来ます.教科書に「不輸の権・不入の権」と書かれていることですね.つまり,大庭の庄は不輸・不入の権を持った寄進地系荘園ということになります.

ところで,大庭の庄のように伊勢神宮などの神社に寄進された荘園のことを特別に「御厨」(みくりや)と呼びます.「神様の台所」という意味です.ですから税も神様に捧げる「供物」(くもつ)といいます.

 

 
不輸の権・不入の権を表す図

 

豪族達はこぞって自分の領地を都の有力者に寄進しましたが,国の支配下に入る土地も残しておきました.こうした土地を国衙領(こくがりょう)といいます.有力な豪族は国府の役人になるためにそうした土地を残しておいたのです..豪族の多くは自分の立場を有利にするため力に応じて次のような官位(かんい)を持っていました.(豪族とは大きな土地を支配する農民のことで,彼らが土地を守るために武装したのが武士というわけです)

(「すけ」は」長官を補佐する次官です)今なら助役

(「じょう」裁決する権限を持っています)今なら部長

(「さかん」その地域をまとめる権限があります)今なら課長 

国府での最高の位は「国司」で,位はかみです.守のほとんどは都から派遣はけんされた貴族や皇族たちでしたから,地方豪族の最高位は介ということになります.任期は4年間でそのあいだ自分の所有する田畑の税金が免除されます.しかも権力を持つことができるので,どの豪族も官位を欲しがりました.こうした地方豪族がなった役人のことを「在庁官人」(ざいちょうかんじん)と呼びます.関東地方は新しく開拓されたところが多く,境界争いや跡継ぎの問題でいざこざが多く不安定なために,在庁官人になるかならないかは豪族にとって大きな問題でした.

源義朝が大庭の庄に侵入したときに連れていた「国衙の役人」というのは,こうした在庁官人のことだったのです.大庭の御厨は伊勢神宮に寄進された荘園でしたが,※国レベルではなく国司が認めた荘園だったので,高座郡に属す大庭の御厨の中で,鵠沼を鎌倉郡の一部とした義朝がその権力を使って,三浦氏や中村氏を使って侵略した事件でした.※国レベルで認められないと正式な荘園とは認められなかったのです.

 

大庭の御厨が豊かな神奈川県央地域にあるのに対して,三浦氏,中村氏土肥氏は中村氏一族の領地には丘陵部が多く,水田になる低地沖積地=ちゅうせきちが少ないことが分かります.つまり源義朝・三浦氏・中村氏は「水田になるべき沖積地が領内に少ない」という同じ立場にあります.三浦氏や中村氏は相模の有力な在庁官人でしたが同時に源義朝の郎党ろうとう=家来でした.彼らは相模の中央に近く豊かな地域「相模平野」への進出という共通の目的を持っていたのです.その後三浦氏は義明の弟「義実」(岡崎義実)を平野の北である大住郡に配し,さらにその子「義忠」(真田与一義忠)を北西部に配しました.

一方,中村氏は宗平の息子である実平(土肥実平)を湯河原・早川に配し,その弟の宗遠を土屋に配しました.土屋と真田は距離も近く両氏は姻戚関係いんせきかんけい=結婚して親戚になることを結びます.つまりこの時点において平野部を取り囲む三浦一族と中村一族の包囲網ができあがったというわけです.そしてその要が源義朝でした.

 

中村一族と三浦一族の結びつき赤が中村氏青が三浦氏で表してあります.

中村庄司 宗平中村太郎 重平
         |       
       土肥次郎 実平遠平
         |            
       土屋三郎 宗遠
         | 
         娘   
         ‖ 真田義忠
         岡崎義実 
(岡崎義実は三浦義明の弟)土屋義清(土屋宗遠の養子)

これに対して大庭氏は同じ県央地域に領地を持つ渋谷氏や糟屋氏かすやと手を結びますが,そのつながりは三浦氏や中村氏の結びつきに比べてさほど強くありませんでした.それは大庭氏が鎌倉党と呼ばれる一族なのに対して糟屋や渋谷はそれぞれが別の一族だったからです.

 

 赤字は頼朝に従った武士団青字は大庭景親軍に従った武士団ピンクは「武蔵」の日和見グループです.

この図を見ると一目瞭然ですね.頼朝の挙兵を言いかえると「相模平野をめぐる領地の獲得争い」と言っても過言ではありません.石橋山の合戦は土肥実平の領地内で行われましたが,頼朝軍300に対して大庭軍は3000というその差十倍の力の差がありました.一見すると頼朝軍は不利に見えますが,三浦氏の援軍が嵐のために遅れさえしなければ,大庭軍を挟み撃ちに出来たわけです.基本的に「丘陵部の豪族群」が「平野部の豪族群」を包囲している形に変わりはないのです.

頼朝が兵を挙げるときに従った相模の武士団のほとんどは,父の義朝時代から関係のあった者たちでした.そしてその中心は三浦氏です.三浦半島に勢力を持つ三浦氏は東京湾の対岸である安房や上総,それに下総といった現在の千葉県の豪族とも深いつながりを持っていました.特に安房地方は三浦氏の強い影響下にあったといわれ,石橋山の合戦で敗走した頼朝一行が後に船で相模灘,東京湾を横断して安房に逃げ込んだ理由がここにあります.三浦氏は相模平野へ進出して勢力を拡大するために,同じ立場にあった中村氏と手を結び,立場の危うくなった頼朝をうまく担ぎ出し,父祖の頃からの願望を実現しようとしたのです.

 

上の図は石橋山の合戦時の頼朝軍と,大庭景親を大将とする反頼朝軍です.反頼朝軍に参加している者たちの多くは「相模平野」という好立地にいる武士団で,頼朝軍の主力はそれをとりまく丘陵地域の武士団です.これを見ても「頼朝」の旗揚げと呼ばれる戦が「持てる者」と「持たざる者」の戦いであったことを物語っています.

反頼朝軍の構成を見ると一族の結束は弱く,戦いの最中から頼朝側につこうとしていた武士団(赤字)や,頼朝軍が有利になったと見るやそちら側についた者が数多くいたことが分かります.なぜ,武士たちはこうした行動をとったのか?このことを解明することが,まさに「頼朝軍勝利」の原因と,鎌倉幕府そのもの本質を知ることにつながります.

 

武士の命・・それは土地

武士とはもともとは農民でした.平安時代になると各地の開拓が進みそれまで原野だったところが畑や田んぼになっていきました.それらの開拓はまず初めに大きな力と財力を持つ東大寺や興福寺といった大寺院,春日大社や伊勢神宮といった大神社,それに藤原氏を代表とする貴族が行いました.こうして新しく作られた広大な農地やそこに含まれる村をひっくるめて「荘園」と言います.

やがて,地方の豪族たちも新しい土地を開拓して農地を広げていきました.特に関東地方は利根川や多摩川,相模川などの大きな河川が多く,それらが作り出していた平野や湿地帯は次々と新しい田んぼや畑にかわっていきました.しかし,立場の弱い豪族の土地はしばしば領地争いや,中央からきた国司や国主の代理である目代によって領地をおびやかされていました.そこで親戚同士や一族で結束を強め自分たちの土地を守るために武装しました.これが武士の始まりであり武士団の始まりなのです.さらに武士団同士が結びつくときには自分たちよりも身分の高い人物をリーダーに選びました.それらが源氏や平氏というわけです.彼らのことを武士の棟梁とうりょうといいます.

棟梁である源義朝が三浦氏や中村氏を従えて大庭の庄(御厨)に侵入したのはまさに,弱い立場の領地(大庭の庄)を周りの豪族たちと源氏が手を結んで奪おうとした典型的な例なのです.そのために大庭の庄(御厨)は,正式に伊勢神宮の領地ということにして貰うための努力をしました.やがて国レベルで御厨として認められて侵入事件もおこらなくなりました.大庭一族がなぜ自分たちの土地を伊勢神宮領にしたのかと言えば,前にも述べたように「不輸の権・不入の権」を手に入れたかったからにほかありません.

土地は農産物を生み出します.なかでも米は換金性がたかくもっとも重要な農産物です.そのために水路を開発し水田を広げることが,豪族たちの最も力を入れたところでした.他には桑を植えて蚕を飼い絹糸を作ったり,木材を切り出したりと土地なくして豪族の生活は成り立ちません.「一所懸命」(いっしょけんめい)とは土地を守る豪族(武士)たちの最も基本的で大切なことを表した言葉です.武士は自分の土地を守ることに命をかけます.領地を守るためには味方さえ裏切ることがあり,それが悪いことだとは思われていませんでした.

 

武士の領地を「守る」・「増やす」契約.それが「ご恩と奉公」

頼朝は初戦の時から味方になった武士団(豪族)の領地を保障してきました.また,敵を破ったときにはその領地を分配しました.武士団がそれまで持っていた領地を保障することを「本領安堵」(ほんりょうあんど).新しい領地を与えることを「新恩給与」(しんおんきゅうよ)といいます.このことをしっかりと行った頼朝は,家来となった武士から「鎌倉殿」と呼ばれ信頼されました.(以後,将軍のことは鎌倉殿と呼ぶ習わしになります.)

「鎌倉殿」の家来となった武士のことを「御家人」と呼びます.御家人になれば自分の領地が他人からおびやかされることはありません.しかも戦の時にめざましい働きをすれば新しい領地を得ることも出来ました.不安定だった相模の武士団(豪族)の生活は頼朝の出現によって安定し発展していったのです.武士はその見返りとして「奉公」しましたが,それはご恩があってのものだったのです.

 

御家人や将軍の役割についてはこちらのページを参考にしてください.

貴族から武士へ 荘園とは何か?荘園が出来る過程と武士が生まれる理由をまとめてあります.(中高生以上を対象にしたページです)

武士と荘園 武士が生まれ発展していく様子を「土地の支配」という観点からまとめたページです.(中高生以上を対象にしたページです)

武士と荘園(簡単ページ) 「武士と荘園」を中学生向けにまとめたページです.

武士と荘園(もっとかんたんページ) 武士と荘園の基本を小学校高学年用にまとめたページです

 

まとめてみましょう

教科書や歴史の本には頼朝が挙兵しそれに関東の武士団がしたがって平家を倒し,鎌倉幕府を創ったとありますが,そうは言い切れないということが分かったでしょうか・・・今までは「主」が頼朝で,「従」が武士団(豪族)ということでしたが,実際に頼朝を動かしたのは伊豆の北条氏であり,相模の三浦氏や中村氏だったのです.その証拠に富士川の合戦で勝った頼朝が「このまま京都に進撃しよう」と言ったとき,上総介を初めとする主だった武士がことごとく頼朝に反対し「まずは関東をまとめることだ」と言ったのは有名な話です.確かに後の頼朝は「鎌倉殿」として武士の最頂点に立ちますが,彼の行った政策はすべて「関東の御家人たちの生活を守る」ということが基本になっています.関東の中でも特に相模の武士は早くから頼朝を利用し自分たちの立場を有利にしようと行動しました.彼らの作り上げた武士政権の組織はその後時代とともに変化しますが,基本である「御家人の土地を守る」という部分には全く変更がありませんでした.相模の武士団が主導権を握り自らの境地を開拓しようとしたからこそ,石橋山で戦死するはずだった頼朝は生き延び奇跡の大逆転を行うことが出来たのです.

幕府が出来るまでの様子を知りたい方はこちらを参考にしてください.

鎌倉幕府が出来るまで 頼朝と武士団(豪族)が結びついて次第に大きくなりやがて鎌倉に落ち着くまでの様子がまとめてあります.次に続く頼朝(将軍)と武士団の関係についてもふれています.

幕府が出来てからの組織の変化です.

変化する東国の武士政権 鎌倉幕府の仕組みは時期によって変化しています.しかし,ご恩と奉公の関係には変化がありません.そのことについてまとめたページです. 特に北条氏が主導権を握っていく様子が組織上から分かると思います.

鎌倉時代の神奈川県 現在の神奈川県(相模・武蔵の一部)の荘園・豪族・交通のことなどについて分かります.

 

(番外編)北条氏と伊東祐親

頼朝の死後には武士団の間で政権の主導権争いが起こります.キーになるのは頼朝挙兵の時から従ってきた伊豆の武士団で,なかでも頼朝の正室である政子の家筋である北条氏でした.北条氏は14歳の流人「頼朝」を受け入れ,34歳にいたるまで監視という名目の面倒を見てきた伊豆「韮山」(にらやま)の豪族です.のちに有力豪族の三浦氏を滅ぼして幕府内の最有力ご家人になったのは彼らでした.実は伊豆の豪族グループの中で北条氏と並んでもう一つのキーになったのは,石橋山の合戦で300騎の兵で頼朝の背後をおびやかした伊東祐親(いとうすけちか)です.伊東氏一族は現在の伊豆伊東の周辺に勢力を持っていた豪族で,中村氏一族や三浦氏一族さらに北条氏とも親戚関係にあり,頼朝挙兵に関係した有力豪族をすべて結びつける重要な立場の豪族です.

伊東祐親がなぜ頼朝を討とうとしたかは定かではありませんが,娘八重姫と頼朝のことがあったからだと言われています.一説によると祐親ははじめ頼朝を自分の館に招き7年間にわたり厚くもてなしますが,大番役として京都に行っている2年間に八重姫が頼朝の子供を産み,育てていたことに怒ったと言われています.ちょうどそのころ京都では以仁王と源頼政の反乱が起こり,諸国の源氏に反平氏の呼びかけが行われている最中でした.都の平氏が最も危険視している頼朝と愛娘との間に子供が出来たことは,一族を守る立場にある者としても,一父親としても許すことは出来なかったのでしょう.

後に,捕虜となり娘婿の三浦氏に預けられた祐親は,赦免されるやいなや自害して果てます.また,八重姫と頼朝を結びつけた祐親の息子「祐清」(すけきよ)も頼朝が領地を安堵しようと言っていたにもかかわらず,敗戦色の濃い平家に味方し木曽義仲軍と戦い北陸で戦死してしまいます.伊東一族は世渡りの下手な一本気な気風の家柄のように思えます.

一徹といえば頼朝追討の大将だった大庭景親も同様でした.大庭一族は源義朝に領地を侵略されひどい目にあわされているにも関わらず,平治の乱では義朝に従っています.おそらく力関係でそういうことになったのでしょう.義朝が殺され敗北を喫した後に,本来なら斬首されるところを平清盛によって許されます.景親はこのとを終生忘れず以後平氏のためにつくします.景親も祐親もその立場からたまたま頼朝の敵となりましたが,「様子を見てから強い方の味方をする」当時としては武士の当たり前の生き方に比べ,私たち日本人の持つ「武士」というイメージにピッタリの人物と言えます.

権謀術数にたけた北条氏と一徹の伊東氏,機を見るに敏だった梶原景時と,忠節をつくした大庭景親・・・800年前に相模の地で繰り広げられた出来事は武士の時代という新しい歴史の幕開けでしたが,これらの好対照が示した行動はこの後に続く武士すべてが持つ葛藤の始まりだったといえます.


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  制作・著作 玉川大学・玉川学園・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治

 平成15年4月18日作成