鎌倉幕府と呼ばれている東国の武士政権(ぶしせいけん=武士の政府)は,153年間(1180〜1333)のあいだに大きく変化しました.このページではその移り変わりをとおして武士にとっての「鎌倉幕府」を考えていきます.
玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所
頼朝が旗あげして関東の豪族達(ごうぞくたち=広い土地をしはいしている力のある農民)をまとめて「御家人」を組織(そしき)していった頃の図です.平家方の豪族や平家軍そのものと戦うために,軍の司令部(しれいぶ=作戦をかんがえるところ)ともいえる「侍所」をまず初めに作りました.三浦氏の一族である和田義盛(わだよしもり)が別当(べっとう=頼朝の代理=実さいの責任者)です.頼朝や協力した豪族にとって一番大切なことは「敵対勢力の排除」(てきたいせいりょくのはいじょ=はむかう者をやっつけること)と「豪族達の信頼を得る」ことですから,戦で奪った(うばった)敵の領地はその働きに応じて公平に分配されました.こうして頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ関東の豪族達の信頼を得ていったのです.
この頃は頼朝自らが直接御家人に対して「本領安堵」(ほんりょうあんど=その豪族の領地であることを認めること)や「新恩給与」(しんおんきゅうよ=戦いでうばった領地を分配すること),あるいは支配した国の役人を任命していました.会社でいうと創業(そうぎょう=できはじめ)の頃で,社長と社員が密接(みっせつ=仲がいい)な関係にある状態(じょうたい)と同じです.
関東の豪族をまとめいよいよ木曽義仲(きそのよしなか)や平家の軍隊と戦うころの組織図です.役所の数も増えて,それまで頼朝一人に集中していた仕事がそれぞれの内容に応じて分かれていきました.武士は戦いには慣れ(なれ)ていますが書類を作ったり,法律(ほうりつ)を作るのは苦手です.そこで頼朝は京都から有能(ゆうのう=すぐれた)な人材(主に下級貴族)を集めて事務的(じむてき)なことをまかせようとしました.しかし,どのようなことでも,最終的には必ず頼朝が目を通し,話を聞いて決めていました.
追討使(ついとうし)は関東の武士集団に逆らう勢力(せいりょく)をやっつけるためにできた戦時の司令部(しれいぶ)の役割をもっています.
また各荘園や村から兵糧米(ひょうろうまい=戦争に必要な米)を集めることを名目に占領地(せんりょうち)に「地頭」を配置していきました.関東で地頭に任命されるということは,もともと豪族が持っている土地を安堵(あんど=認めて保障すること)されることでした.
鎌倉殿勧農使(かまくらどのかんのうし)とは戦で荒れた農地を復興(ふっこう=もとにもどすこと)することや,新しい開拓地(かいたくち=原っぱや林を田畑にした土地)を広げることをすすめる役割を持っていました.なぜなら明治時代になるまでの日本経済の基礎は農業だったからです.とくにお米はお金と同じ価値をもっていましたから,広い農地を支配して,たくさんのお米を得ることが,生活の向上や軍備(ぐんび=ぶきやへいたいをそろえること)をすすめる上で不可欠(ふかけつ=はぶことができないこと)だったのです.
平家が壇の浦(だんのうら)に滅びた後,「義経追討」(よしつねついとう=義経をうつこと)を名目に作られた組織です.義経の追討(ついとう)は表向きのことで実際には朝廷や西国(さいごく=京都あたりから西のちいき)に対する影響力(えいきょうりょく)を持つためにこうした仕組みが作られました.総追捕使(そうついぶし)や国地頭(くにじとう)が後に国ごとに置かれる「守護」のもとです.初めから守護という名前の司令官(しれいかん)を置くと朝廷にうたがわれるために,あくまでも義経を捕まえる(つかまえる)ためとしておいたのです.まだまだ朝廷の力は強く,頼朝も朝廷を利用しようとは思っていましたが,表だって逆らうことまでは考えてはいませんでした.
この頃になると政権(せいけん)としての組織がしっかりしてきました.分業化(ぶんぎょうか=しごとの種類がこまかくわかれること)も一層(いっそう=さらに)進みましたが基本的に御家人(ごけにん)と鎌倉殿(かまくらどの=将軍のこと.つまり頼朝のこと)との関係は親密で,頼朝も問注所の裁決(さいけつ=決まること)には必ずかかわり,公平な裁きを行うことを心がけていました.
今日,幕府(ばくふ)といわれている組織ができた頃の組織図です.教科書や年表でもこの年に鎌倉幕府が成立したと書いてあります.頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になったからなのですが,頼朝自身は3年間で将軍職(しょうぐんしょく)をやめてしまいました..
緑色で囲った部分が鎌倉にあって,頼朝の政治を直接補佐(補佐=ほさ=手伝うこと)していた組織です.公事奉行人(くじぶぎょうにん)とは京都から呼び寄せた事務的な仕事をする人々のグループです.政所や問注所の事務を行い,影響力も強くなっていました.そのために昔から鎌倉殿と主従関係を持ち,政権を支えてきたという自負がある御家人との対立も目立つようになってきました.特に頼朝の側近だった大江広元(おおえのひろもと)や三好康信(みよしやすのぶ)は組織作りや法律作りに大きな影響力(えいきょうりょく)を持っていました.
鎌倉時代の人は頼朝の作った政権のことを「幕府」とは呼んでいません.幕府とは本来,近衛の大将(このえのたいしょう=天皇をちょくせつ守る軍隊の大将)の本営(ほんえい=司令部)や館を指す言葉で,頼朝の頃からは征夷大将軍の館も幕府と呼ばれるようになりました.つまりこの時代に幕府といえばそれは将軍の家だったのです.武士の政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代の後半で,そのころの学者が,頼朝が征夷大将軍になったこの年に「鎌倉幕府ができた」と本に書いたので,以後ず〜っと「イイクニ作ろう鎌倉幕府」ということになってしまったというわけです.実際の武士政権はもっと早い段階にできていたのです.
頼朝が死んだ後,頼家(よりいえ)や実朝(さねとも)が将軍となり「鎌倉殿」と呼ばれますが,二人には父頼朝のような政治家としての才能はなかったようです.そこで政権を作る時に中心となった豪族達(ごうぞく)の間に,実権をめぐっての争いがおきました.
北条氏は鎌倉殿の母方の家柄(いえがら)で,血のつながりもあったのですが,まず比企氏(ひきし=頼家の妻の一族)に利用されそうになった頼家を暗殺(あんさつ)し,ついで三浦氏による実朝暗殺を黙認(もくにん=だまってみとめること)しました.こうして,他の御家人に利用されそうな頼家や実朝にかわって,京都から貴族を呼んで,その人を将軍にしました.北条氏は将軍の位を「名誉職」(めいよしょく=実権を持たない高位の職)にしてしまったのです.
そして北条氏と他の豪族達の話し合いできめる組織を作ったのです.なかでも最も中心になるのが執権(しっけん=将軍の補佐役=名目上は補佐役でも実質的にはトップ)で,代々北条氏がその職についていました.しかし,北条氏が中心とはいっても評定会議(ひょうじょうかいぎ)など有力御家人の意見も尊重(そんちょう)されていましたから,このころの幕府は合議制(ごうぎせい=話し合いで物事をきめる)で,御家人中心の政治が行われていたといってよいでしょう.なかでも北条泰時(ほうじょうやすとき)は「御成敗式目」(ごせいばいしきもく=武士の生活にあった法律で江戸幕府にまで影響があった.「貞永式目」(じょうえいしきもく)ともいう)を作るなど,武士政権の発展に力をつくしました.
専制政治(せんせいせいじ)とは一人の人間や,一族の利益をもとめるだけの政治のことです.
北条時頼(ほうじょう ときより)の頃になると,北条氏は三浦氏など他の有力御家人達との権力争いに勝ち抜いて,大きな力を持つようになりました.なかでも義時(よしとき)依頼の嫡流(ちゃくりゅう=本家)を得宗家(とくそうけ)とよび,執権すらも名誉職(めいよしょく=名前だけのくらい)になってしまいました.政所(まんどころ)や問注所,侍所などの主な組織のトップは全て北条氏一族で固められ,その中心に得宗家(とくそうけ)があったのです.
得宗家には御内人(みうちのひと)とよばれる家臣団(かしんだん=けらいのあつまり)があり,この家臣団までもが得宗家の権力)を利用して政治に大きな影響力を持つようになりました.仲でも平頼綱(たいらのよりつな)という人物は北条貞時(ほうじょうさだとき)が第9代執権のときに内管領(うちのかんりょう)という北条家の最高位の家臣となり,有力豪族であった安達泰盛(あだちやすもり)とその一族および安達氏に味方する豪族を滅ぼしてしまいました.これを霜月騒動(しもつきそうどう=1285年11月)と呼びます.騒動などと言うと「ちょっとしたいざこざ」という感じがしますが,実際には大きな戦いでした.以後得宗家に対する御家人勢力がことごとく滅ぼされて,この間鎌倉は「恐怖政治のるつぼ」と化したと言われています.図は得宗家の独裁政治(どくさいせいじ=他の意見を聞かずに政治を行うこと)を現しています.得宗が自ら執権になれば,すなわち執権が最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)になるので赤字にしてありますが,そうでない時はかざりものでした.こうして鎌倉時代の後期には完全に北条一族が政権をひとりじめしていたのです.
14代執権でもあった得宋(とくそう)北条高時(たかとき)のころあっけなく幕府が滅びてしまうのは,政権を支える御家人たちの得宗家に対する反感(はんかん)があったからなのです.そうした御家人の期待を一身にになって登場したのが足利高氏(あしかがたかうじ=後に尊氏と名を変える.室町幕府を作った人)でした.
頼朝が幕府を作る時には,豪族達にそれまでの政治に対する大きな不満がありました.頼朝は戦いながらそのことを学び「武士にとって利益のある」政権作りを目指しました.だからこそ,関東に朝廷に対抗する武士政権を作ることができたのです.
反対に北条氏(得宗家)は武士全体の利益を忘れて一族の繁栄(はんえい)だけを目指したために滅びてしまいました.この後に足利尊氏が一度は戦に負けながら,最後に豪族達の支援(しえん=たすけ)を受けて政権を作り直していきますが,その様は頼朝が政権を作っていく過程と非常によく似ていますす.
「歴史はくり返す」といわれますが,それは私達の生きる現代にもあてはまることです.歴史を学ぶことは未来を学ぶことなのです.
余談(よだん=おまけの話)ですが,江戸幕府を開いた徳川家康は鎌倉時代のことを詳(くわ)しく書いた,吾妻鏡(あづまかがみ)を政治の参考書にしていたといわれています.優れた政治家は歴史を良く学んでいるという例です.
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制作・著作 玉川大学・玉川学園・協同:多賀歴史研究所 多賀譲治