小学生とゲンボー先生のページ14 玉川学園・玉川大学
そこで 質問なんですが「元寇の始まった理由」を教えて下さい。その他 「元寇」についてだったらなんでも教えて下さい。よろしくお願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.さっそく答えましょう・・・何でもということですが,きりがないので「なぜ元が攻めてきたか」「日本の武士がどう変わったか」について説明します.
元は現在のモンゴルです.日本よりずーと北にある草原の国です.農業よりも羊を中心にした牧畜の国でした.ちょうど日本が鎌倉時代の頃(ころ)チンギス・ハーンという人が現れモンゴルを統一して,回りの国を侵略(しんりゃく)し始めました.
もともと馬に乗ることと弓がうまかったモンゴル人は,騎馬兵(きばへい=馬にのって戦う兵隊)となってたちまち周辺諸国(しゅうへんしょこく=まわりの国々)を戦いでうばっていきました.元軍は都市の回りを沢山の兵隊で取り囲み「全滅」か「支配を受けるか」をせまりました.
先生は昔アフガニスタンのシャル・イ・ゴルゴラというモンゴル軍に滅ぼされた町のあとを見てきましたが,700年たった今でも草1本生えていない赤く乾燥(かんそう)した土地に,人や動物のくだかれた骨が散らばっています.ゴルゴラの戦ではチンギス・ハーンの息子が戦死したのです.怒ったハーンはゴルゴラの「ありんこ」から人間まで.全ての生きものを殺しつくせと命令しました.もちろん草一本も残さずです・・・
焼きつくされ殺されつくされたその上に,骨は細かく砕かれて地面にまかれたと記録にあります.まったくその通りなので先生はおどろきました.と,まあ,こんな具合でしたからどの国もみんな元を恐れていました.チンギス・ハーンの一代で40の国を支配し数百万の人間を殺したと記録されています.
チンギス・ハーンが死んだ後,第5代皇帝フビライのときには高麗(こうらい=朝鮮)と宋(そう=中国)を支配し都を今の北京ににおき,元という国にしました.元は西はハンガリーから東は朝鮮半島にまで領土を持つ史上最大の大帝国です.元は支配した国の財産を奪い,技術者を連れ去っていきます.
もともと元は牧畜国家(ぼくちくこっか)ですから農業国家のように複雑(ふくざつ)な政治組織(そしき)(せいじそしき)はありませんでした.基本的には他国から「奪う」なのです.しかし,元が大きくなるにつれて,ただ奪うだけでは相手が弱ってしまい,結局は取れなくなってしまうことに気付いて交易することを考えました.
マルコポーロはイタリアからやってきた商人ですが,元との貿易で大きな利益を得ます.このような商人は数多く,元はこのような商人に今のパスポートにあたる通行手形を与えて優遇しています.そのために道路も整備(せいび)されました.
で,日本を狙(ねら)ったのはなぜか?なのですが,これは日本が残っていたからと考えるのが一番良いみたいです.
日本は山ばっかりの島国でモンゴル人にはあまり魅力的ではありません.事実,日本にきた使者が書いた報告書に「日本は山ばっかりの野蛮国(やばんこく=遅れた国)だからわざわざ軍隊を送る価値はない」とあります.
ただ,金が出る国といううわさは周辺の国にありました.ちなみに日本は中国読みで「ジップン」です.(福建省の言葉)これをジパングと聞いたマルコポーロが「東方見聞録」(とうほうけんぶんろく)で黄金の国ジパングと紹介しました.以後,ジャパン.とかジャポン,と日本が呼ばれるわけです.
さて元は残る東南アジアやインドまでも支配地にしようと軍隊を送っています.ベトナムでは大激戦(だいげきせん)が繰(く)り広げられたと記録されています.世界中が恐れる元なのですが,たった一カ国だけ「な〜んにも知らずに人々が暮(く)らしている国」がありました.それが日本でした.
フビライは日本のことを知り,その国を支配しようと思いました.そこで日本国王に対して手紙を出しました.日本国王とは天皇のことですが実際には幕府が強い軍事力を持っていましたから,手紙はまず鎌倉へ届けられました.その後朝廷にも回されましたが,結論は「無視」です.今でも当時でも国の手紙(国書といいますが)に返事をしないというのは,外交上のルール違反(いはん)です.島国の日本は世界の動きに鈍感(どんかん)な国だったのです・・・国書を持ってきた人は満足な返事を得られずにモンゴルに戻りました.
ところで手紙の内容はこうです・・「大蒙古帝国の皇帝から書を日本国王につかわす・・・」出だしからして日本を完全に見下していますね.
「神から天命を受けた元という国は世界一の大帝国である,どんな小さな国でも元に従い交易を行っているのだが,日本だけはそうでないのがとても残念である.今後は兄弟一家のように仲良くなって,貿易をしよう・・・」という内容ですが,言うことを聞かないと大変なことになるよ・・・ということが,にじみでています.
幕府はイエスならイエス,ノーならノーというべきなのですが,ここいらへんはぼかしてしまい,はっきりさせませんでした.
ただ,幕府としても「大変だ」という意識はあったみたいです.ですから九州の御家人に「元という国が攻めてくるかもしれないから警備(けいび)に力を入れよ」という命令を出しています.しかし,この程度(ていど)ではとても元の大軍を防げるわけはないですよね・・・それほど日本は世界の動きを知らなかったのです.それ以外は朝廷も幕府もただひたすら,敵(てき)が攻めてこないように神社やお寺に祈っていました.
フビライは辛抱(しんぼう)強く何回か国書を送りましたが,日本は全て無視しました.ついにフビライは怒って1274年(文永11年)に大軍を日本に送りました.ここのところは,このホームページに先生がくわしく説明していますからそれを読んでください.
幕府は2度目の元寇である弘安の役までの間に,元の使者を2回切り殺しています.これも,外交上許されないことです.元としては2回目の攻撃(こうげき)までに交渉(こうしょう)の余地(よち)があると思っていたわけですが・・・とまあ,こんな具合で日本は断固(だんこ)としたところを見せたわけですが,あのとき嵐(あらし)が来るという幸運がなければ,被害は相当大きかったはずです.
これで日本は「神の守る国」「いざとなったら神風(かみかぜ)が吹いて敵をやっつけてくれる国」という考え方が人々の心に焼き付いた国になりました.第2次世界大戦中も軍が「神風がふいて,敵をやっつけることができる」と国民に宣伝していました.(学校でもそう教えていたそうです.先生のお父さんが子供の頃(ころ)は「神国日本」と教わったそうです・・・そして「神風」が吹くとも習ったそうです・・・)
さて,元寇は御家人の生活を大きく変えました.まず当時の戦いはほとんどが自費ですから,戦いに参加した御家人はずい分お金を使いました.もちろん命を落とす人や家来(けらい)をたくさん失った御家人も数多くいました.
ところで,御家人が幕府の命令で戦うのはそれが「奉公」(ほうこう)だからです.当然「ご恩」という見かえりがあるから戦うのです.(この部分も先生のホームページ「武士と荘園」のページで勉強してください).
日本の武士は集団戦法で戦う元軍の兵士に対して「やあやあわれこそは」と名乗りをあげたり,となりで激(はげ)しく戦っているときに敵兵の首を切り落としていたりと,独特の戦いをおこなっていました.ですから嵐に逃げ遅れた数千の元軍の兵士は全て捉えられ,首を切り落とされています.なぜなら首は恩賞をもらうときに必要なものだからです.(注.南宋とは国交があったために,南宋の兵士は殺されずに奴隷(どれい)にされたと記録に残っています)
しかし・・・です.国内の戦なら相手の領地を奪って分配できますが,外国との戦いでそれが出来ますか?出来ませんねえ・・・ですから,恩賞は非常に少なかったのです.竹崎季長という人は恩賞が無いので頭に来て,九州から鎌倉まで行って抗議をしています.有名な竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)そのときの自分の行動を記録に残すために絵師に描かせたものです.このことも「みんなの広場」にでています.
季長はわずかな領地と馬をもらいましたが,ほとんどの御家人には満足な恩賞はありませんでした.このことが幕府への大きな不満となったのです.
この頃(ころ)になると御家人の生活も贅沢(ぜいたく)になり出費がかさみました.しかも国内に大きな戦が無かったため,子供達に自分の領地を分け与えるようになってしまいました.つまり出費は増えるが収入は減るということです.さらに元寇での大出費・・・
幕府は御家人によって支えられています.その御家人が貧しくなって不満がたかまると・・・さあ,どうなるのでしょうね・・・ここから先はみんなで考えてください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
さて武士の時代の文化ということですが,これは鎌倉時代の文化ということでお答えします.
平安時代は貴族が中心の時代でしたから,建物や文学などは「国風文化」(こくふうぶんか)といって貴族らしいきらびやかなものでした.ところが,庶民であった武士が幕府という自分達の政府を作ってからは,世の中にずいぶんと変化が現れました.特に建築や彫刻の世界では「力強さ」を感じさせるものが出てきました.運慶(うんけい),快慶(かいけい)の仏像や力士像は有名ですね.文学も「好きになったの」「別れたの」というようなロマンス小説みたいなものから,男らしい「平家物語」のような軍記ものが出てきました.竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)に代表されるように, 絵の世界も写実的で力強さにあふれています.
宗教の世界では曹洞宗.臨済宗.浄土宗.浄土真宗.時宗.日蓮宗という新しい宗派が生まれ,それまで一部の人のものだった仏教も庶民に広く信仰されるようになりました.
鎌倉時代は日本のルネッサンスという人もいます.ルネッサンスというのは中世のヨーロッパでおきた,生き生きとした文化,レオナルドダビンチやミケランジェロなどが有名ですね.
では,なぜ鎌倉時代の文化が力強く生き生きとしていたのでしょう.
それは,農民の力が強くなってきたからなのです.鎌倉時代になると水車が多く作られるようになって,今まで水田にするのが難しかった土地も水田になりました.水路も多く作られました.新しい土地もどんどん開墾(かいこん=田畑が作られていくこと)されて行きました.
特に西日本では二毛作(にもうさく)といって,一つの畑や田んぼから年に二回作物が取れるようになりました.肥料(ひりょう)を使うようになったのもこの時代からです.生産が増えれば経済も活発になります.各地で市や座がひらかれるようになりました.ここのとことろは先生のホームページで勉強してください.つまり庶民(しょみん)の力が以前より増したということですね.
これには武士の力も大きく関係しています.武士はもともとその土地に住む有力な農民でした.彼らは都にいる貴族と違って,実際にそこに住んでいましたから農業の生産を上げるために大変に努力しました.もちろんそれは自分達一族の繁栄(はんえい)のためですが,農民が苦しくなってはもともこもありません.ですから多くの武士たちは畑の開墾や水路の開発(かいはつ)に大きく関わりました.
このように鎌倉時代は貴族の時代から庶民の時代に移り変っていく時代だったのです.ですから庶民が仏教を信じたり,共同でお祭りをしたりということも広まりました.また,武士は戦いでいつ命を落とすか知れません.そんなことから座禅(ざぜん)を組んで生きることの意味を知る,曹洞宗(そうとうしゅう)や臨済宗(りんざいしゅう)といった禅宗を信じるものが増えてきました.
北条氏が鎌倉に造った「建長寺」や「円覚寺」もそうした禅宗のお寺です.見た目のきらびやかさや優雅(ゆうが)さより,鎌倉時代の人,特に武士は質実剛健(しつじつごうけん)といって「中身」がしっかりしていることを尊びました.
その武士に引きづられる形で庶民の生活も変化していったのです.
さて,菜々子さん今の時代はどうでしょう・・・・「中身」を大切にしているか,それとも「うわべ」だけを追っかけているか・・・人間も同じです.「中身」のある人に先生はなりたいなあ・・・
ゲンボー先生 より
新たな質問です。源頼朝時代武士はどのような政治をしていたのですか。平氏がみきりをつけた貴族の政治との違いを教えてください。
ゲンボー先生
メールをありがとう.さっそく答えましょう.
自分の領地を見たことのある貴族はとても少ないのです.彼らは律令という法律の上にあぐらをかいて,祖先の恩恵(おんけい)を受けるだけの存在でした.ですから荘園(しょうえん)内の農民の生活や生産の向上にはそれほど関心はありませんでした.特に平安時代の中期には「不輸・不入の権」(ふゆ・ふにゅうのけん=税金を払わなくてよい・役人は入ってはいけない)を得て,なにもしないでも荘園が自分のものになり,勝手に年貢が入ってくると,ますます自分の領地のことを考えない貴族が増えてきました.考えているのは歌のこと年中行事のこと,出世のことだけという貴族が多かったのです.(この部分はホームページ「武士から貴族へ」で勉強してください)こうした時代が長く続いたことじたいが不思議(ふしぎ)なのですが,中央がそんなだから地方では武士が団結して強くなっていったのだとも言えますね.
平氏の政治は貴族的でした.清盛は自分の娘を天皇の后(きさき)にしていますが,これは藤原氏などの貴族と同じやり方です.生まれてきた子供は(つまり次期天皇)をおじいちゃんが育てるというのは,この時代の有力者がよくやったことです,時代は少し古くなりますが藤原道長(ふじわらのみちなが)は有名ですね・・・
もっとも平氏が他の貴族と少し異なっていたのは,地方との結びつきが強かったため,荘園の支配が実際的だったというところもあります.それと,宗(そう=中国)との貿易を行ったこと.宗のお金を輸入して貨幣による 経済を発展させようとしたことなどは,それまでの貴族の政治とは違っています.
さて,頼朝の政治ですが,これは完全に「武士のための政治」です.特ににはじめの頃(ころ)は「関東の武士のための政治」を行っていました.やがて関東武士が西日本に進出するにしたがって,全国規模(ぜんこくきぼ)の武士の権利を守る政治組織(そしき)(せいじそしき)に変わっていきます.武士の権利とは「領地を認める」「新しい土地をもらう」の二つです.それまで立場の弱かった武士は幕府という大きな後ろだてができて,社会的な地位が認められ堂々と胸を張って生きていけるようになったのです.
幕府は朝廷に対抗(たいこう)する武士の権利を守る組織(そしき)でした.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
口を空いているほうを「阿」(あ).閉じているほうを「吽」(うん),といいます.阿吽の呼吸という言い方はここからきています.
阿は外に向かって,吽は内に向かっての気持ちと気迫(きはく)を表しています.この二つが一つのセットになっています.それは一人一人の人間も自分を高め,他に対して良い行いをする.と同じに,相手が積極的(せっきょくてき)に出たらこちらは一歩ひいて受け止める.とか,お互いに自分を主張するだけでなく,相手の立場に立つことが大切といった,バランスが大切だからです.仏教も含めて東洋では古くから「調和」を重んじました,「阿吽」はその一つの形なのです.
狛犬も金剛力士像(こんごうりきしぞう)もともに,調和を大切にする仏様を守る使命を持っています.ところで狛犬って神社にもあるんだよね・・・金剛力士像と狛犬のどちらが古いかは先生は分かりませんが,もとの考え方は一緒(いっしょ)です.誰か狛犬の歴史を調べてみてください.
「こんにちは、越廼小の刀上です。金剛力士は、なぜ東大寺にあるか教えてください。おねがいします。」
という,刀上君の質問ですが,上の説明でわかりましたか.金剛力士像は東大寺だけではなく多くのお寺にあります.
ただ東大寺のは日本最大ですね,誰が作ったかといいますと1203年に,運慶(うんけい)・備中法橋(びっちゅうほっきょう)が東側,運慶の弟子である快慶(かいけい)と越後法橋(えちごほっきょう)という人達が,わずか72日で作ったと記録されています.
ゲンボー先生
こんにちは。私は越廼小学校6年生の担任です。今回は、子どもたちが出した質問に丁寧に答えてくださり本当にありがとうございました。子どもたちは、学習の意欲が高まると共に何よりも、先生からお返事をいただけたことに大変感激していたようです。また、このような機会がありましたら、よろしくお願いいたします。ちなみに、越廼は「こしの」と読みます。福井県の越廼村というところにあり、児童数89名のとても小さな学校です。
ゲンボー先生
越廼村は水仙がとてもきれいなよいところだそうです.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
北条政子(ほうじょうまさこ)は源頼朝(みなもとのよりとも)と結婚(けっこん)しました.1177年のことです.頼朝31才,政子21才の頃(ころ)といわれています.子供は順番に大姫.頼家.実朝の3人です.大姫は6才のときに11才の木曾義仲(きそのよしなか=長野県の木曽地方にすんでいた源氏))の息子である清水義高(しみずよしたか)と結婚しました.これはもちろん普通の結婚ではありません.義仲が京都で平氏を破る前に,源氏同士が争いをおこしそうになったときに,義仲が長男である義高を人質として鎌倉に送ってきたから,和睦(わぼく=なかなおり)の意味をこめて結婚させたものです.
義仲はその後頼朝の命令を受けた源義経に滅ぼされます.この後,義高は埼玉県の入間(いるま)で逃亡する途中でつかまって殺されてしまいます.頼朝は自分自身が池禅尼(いけのぜんに=平清盛の義母)に助けられたからこそ,平氏と戦えるのだと思い,敵(てき)となった義仲の子供を殺してしまったのです.
この話しからも分かるように,頼朝は武士の政治を行うためには兄弟であれ,娘の夫であれ,危険があれば殺してしまうほどの非情なところがありました.こうでもしなければ幕府を作ることは出来なかったのでしょう.それにしても,義高は12才です・・・かわいそうですね・・・
大姫は大変に悲しみ,その後も何度か結婚の話しがあったのですが,全部ことわり20才の若さで病死してしまいます.2代将軍になった頼家は北条時政(ほうじょうときまさ)に暗殺されてしまいます.3代将軍の実朝も三浦氏あやつられた甥の公暁に暗殺されます.
こうして頼朝と政子の間に生まれた子供は全て悲劇的(ひげきてき)に死んでしまいました.
貴族の政治から武士の政治に変わるとき,つまりに世の中が大きく変わろうとしたときには親子であっても,兄弟であっても見殺しにしたり,殺しあったりということがありました.これは,それ以前にもその後にもあったことですから歴史の上では特別なことではないのです.
僕たちは平和な時代に生まれて良かったですね.
ゲンボー先生
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