小学生とゲンボー先生のページ10 玉川学園・玉川大学
岡部小学校6年の、知佳と言います.
質問です。平安時代(鎌倉時代も)の貴族の暮しはどんな感じだったのですか?
教えてください!お願いします!! H12.6
ゲンボー先生
知佳さん,メールを有難う.
平安時代の貴族の話ですが,基本的には鎌倉時代もあまり変わらないのでここでお答えします.
平安時代は貴族が政治の中心いた時代です.ところが貴族といっても位が高く裕福(ゆうふく)な人もいましたが,そうでない人もいて,「貴族の生活」といっても「こうだった」と言いきれないところもあります.
これから説明する生活は右大臣藤原師輔(うだいじん,ふじわらのもろすけ)という,位の高い人の一日です.
5時ごろ起床(時計などないので大体です)
歯を磨く顔を洗う
鏡に向かって化粧をする(男もです)
暦を見て今日一日の吉凶を占う
神様にその日一日が良い日であることを祈る
昨日あったことを日記に書く
10時ごろ朝食
お風呂(5日に一度.お湯を身体にかけるもので,今のお風呂とはずいぶん違います.ちなみに裸ではなく「浴衣」(ゆかた)をきて入りました.また蒸風呂(むしぶろ)といって蒸気をたいたところに入るサウナのようなお風呂もありました.)
髪形を整える
爪(つめ)を切る(手と足の日にちが決まっている)
衣冠(いかん)という服に着替える
宮廷に出仕する(仕事をしに行く)
12時ごろには屋敷に帰る
午後4時ごろまで囲碁(いご)や蹴鞠(けまり)などして遊ぶ
午後4時ごろ夕食を食べる
読書やお酒など飲みながら雑談する
午後10時ごろ寝る
というものでした.はたらく時間が短いですね・・・・・・また,一年をとおしてたくさんの行事があり,これをとても大切にしていました.
家は「寝殿造」(しんでんづくり)という広い庭のあるりっぱな家でした.これは教科書に出ていますからそれを参考にしてください.
食事は普通2回で朝は「おかゆ」
夕食には「ご飯」(玄米)・「煮魚」・「煮あわび」・「大根味噌漬」(だいこんみそづけ)・「ナスの塩漬け」・「カブのお吸い物」
など,何種類ものおかずがありました.デザートにはお菓子まで出されています.
上のメニューは,ある一日のもので,一年を通しては「あゆ」「かつお」「ひらめ」などなどの季節の魚や野菜.それにイノシシ・鹿・きじ・ウズラなどの動物の肉も食べていました.
ですが生ものを食べることは少なく,肉や魚は塩漬けや乾燥(かんそう)させたものを,材料にしています.アユは「なれ寿司」といって,お米と一緒に漬けて醗酵(はっこう)させたものを食べていたという記録も残っています.
貴族にとって大切なことは教養(きょうよう)を身につけることでした.それが和歌(わか)であったり囲碁(いご)であったりしたわけです.また,こういうことを通じて政治の大切な話しもされました.
「貴族のような生活」といいますが,一日の食事にも困ることがあった庶民の生活とは雲泥の差(うんでいのさ=ものすごいへだたり)がありますね.
こんなところで良いでしょうか?
もっと知りたいことがあったらまたメールをください.
ゲンボー先生より
はじめまして!私は、美濃市立美濃小6年の「まな」です。社会の授業で鎌倉幕府について勉強しています。
{多くの武士が幕府に味方したのはどうしてだろう。}教えてください。H12.6
ゲンボー先生
まなさん メールをありがとう.
君が知りたいのは「承久の乱」についてですね?でも,もしかしたら頼朝が幕府を作るときのことでしょうか?どちらにしても同じような答えになりますから,それを説明します.
武士というのはそもそも,農地を持つ有力な農民が武装(ぶそう)したものです.もちろん,土地の広さや作物の取れる量によって家来の数は違っていました.
農民が刀や弓を持って武装するというのはなぜでしょうか?
それは土地の境界線(きょうかいせん)をめぐっての争いや,他の豪族(ごうぞく)や役人が,土地をうばったりすることがとても沢山あったからなのです.
平安時代は貴族が中心の政治をしていました.貴族は自分の持っている土地(荘園といいます)には,地方の役人が入れない「不入の権」(ふにゅうのけん)と税金を払わなくてもいい「不輸の権」(ふゆのけん)を持っていました.
それで,地方の有力な農民や豪族(ごうぞく=広い田畑を持つ豊かな農民)はきそって貴族達に,自分の領地の名目上の持ち主になってもらいました.こうして自分達の土地を守ろうとしたのです.それでも領地争いは無くなりませんでした.
やがて,貴族の政治はすたれ平氏による武士の政治が行われましたが,平氏は貴族と同じことをしました.しかも自分達一族のことしか考えていませんでしたから,地方の武士はあいかわらず不安な生活を送っていました.
また,武士は名目上の土地の持ち主である貴族の家を警護(けいご)する役目も持っていましたが,とても身分の低いものとしてあつかわれていました.
頼朝さんが最初,少ない兵力で戦ったにもかかわらず,数ヶ月後に数万の関東武士が味方についたのは,「頼朝さんなら我々を守ってくれる」という思いがあったからなのです.
幕府を開いた頼朝は家来となった武士(御家人といいます)と「ご恩」と「奉公」の主従関係(しゅじゅうかんけい)を 結びました.
「ご恩」とはまず,その武士が持っている領地を認めることでした.次に,幕府のために尽くした人(将軍のために戦った人のことです)に手柄として,敵から奪った土地を与えました.
そして御家人どうしの領地争いは「話し合いで解決する」こととして,役所を作ったのです.その役所を問注所(もんちゅうじょ)といいます.
今まで「自分の身は自分で守る」しかなかった武士は,敵が攻めてきたら幕府が守ってくれるし,隣との争いも無くなるのでとても喜びました.
しかも幕府は武士の生活を守る政府として朝廷と付き合いました.それまで「身分の低いもの」と京都で言われつづけた武士の地位も高くなりました.
鎌倉幕府が出来たのはこうした「武士の願い」中でも関東地方の武士の願いががあったからこそなのです.頼朝さん一人では絶対に出来ません.
承久の乱
さて,頼朝・頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)の親子が三代で絶(た)えると,幕府の有力御家人の間で,実権(じっけん)をめぐって争いがおきました.
このときとぞばかりに後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が中心となって,幕府をつぶし,ふたたび全国を朝廷(つまり貴族)中心の政治にしようということになりましたた.
近畿地方(きんきちほう)や中国,四国,九州には幕府に従(したが)わない武士も数多くいましたから,朝廷はそうした武士を味方にすれば必ず勝つと信じていたのです.
実は関東でも「どうしようか」と迷う武士もでてきました.
このとき頼朝の奥さんだった北条政子がこう言いました「あなた達は頼朝様が鎌倉に幕府を開く前にどんな生活をしていましたか?身分は低く,いつ起こるか分からない争いにいつもおびえていたではないですか.今日,武士の生活が安定し平和な暮らしが出来るようになったのは誰のおかげですか?また,以前のようになりたかったら,まずこの私を殺してから敵方につけばよい」といいました.
この有名な演説(えんぜつ)で,それまで迷っていた武士たちは,結束(けっそく)して朝廷側と戦いました.これが承久の乱(じょうきゅうのらん)です.
承久の乱で幕府は大勝利をおさめます.このことによって西日本にも幕府の支配地域が広がっていったのでした.
武士が武士のために選んだ道です.多くの武士が幕府の味方についた理由がこれでわかりましたか?
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
涼子ちゃん,メールをありがとう.
早速答えますね.
先に答えからいくと,武士の心が離れてしまったからなのです.
幕府が出来たのは頼朝一人の力ではありませんでした.関東に住む多くの武士達が味方についたからなのです.ではなぜ,武士が頼朝の味方になったのでしょう?
もともと,武士は農民でした. 土地の広さによって家来の数は違っていましたが,隣(となり)との境界争(きょうかいあらそい)いや力のある豪族(ごうぞく)に土地を奪(うば)われたり,よけいに税をとられたりということは,あたりまえのような時代でした.だからしかたなく武器を持って自分達の身を守ったのです.武士である平氏が政治の実権(じっけん)をにぎってはいたものの,彼等はそれまでの貴族と同じような政治を行っていましたから,ごく普通の武士にとってはいいことなどほとんどありませんでした.そのうえ普通の武士は身分も低く「いやしい者」として犬のように扱われていたのです.
頼朝はそうした武士の期待に答えて,将軍の家来になった武士をご家人(ごけにん)と呼び,領地争いの間にはいって調停(ちょうてい)したり,敵に攻められた時にはみんなで守るという約束をして武士の生活を守りました.幕府の仕組みは全て武士のために作られていたのはそうした理由からなのです.
ところが源氏の将軍は三代で絶えてしまいます.そのあと有力なご家人による政治が行われました.その中心が北条氏です.北条氏は執権(しっけん)というくらいにつき長いあいだ幕府の実権をにぎりました.中には泰時(やすとき)のような優秀な人もいて法律を作ったり,時宗(ときむね)のように元の軍隊と戦って勝利をおさめる執権もいました.
ところが,鎌倉時代も終わりのころになってくると,ご家人自身の生活が変わってきてしまったのです.子供が子供を生みだんだん子孫が増えてくると,領地を分け与えていかなくてはなりません.一枚のピザを大人数で食べるようなものです.
それと,平和が続いたため武士の生活もだんだん「ぜいたく」になってきました.収入はへるのに使うお金は増えていくのですから,苦しくなりますよね.昔は戦争がありましたから敵に勝てばその土地を恩賞(おんしょう)としてもらえましたが,そのころには国内に大きな戦はありませんでした.
元冦(げんこう)は大戦争でしたが敵に勝っても土地はないでしょ・・・・海の向こうからせめてきたんだから.元冦でご家人は恩賞がたくさんもらえると思って張り切って戦いました.その時のお金は全て自分もちです.しかし,恩賞はほとんどありませんでした.
というわけでただでさえ苦しいご家人の生活はますます苦しくなりました.仕方がないから金貸し(かねかし)(土倉=どそう,とか,酒屋=さかや,といわれました.実際に大きな商人だったり酒屋だったからです)にお金を借りました.
しかしこのお金は利子をつけてかえさなくてはならないお金です.収入の減った武士にそれは無理です.それで土地をとられる武士が出てきてしまいました.こうなっては武士がそれぞれの領地を支配し,それで成り立っている幕府がなりたちません.
そこで,幕府は徳政令(とくせいれい)といって,「お金はかえさなくてもいいよ」という法律を出してしまいました.
武士は「借金をかえさなくてもいい!」などと喜びましたが,収入は増えません.ですからまた金貸しにお金を借りなくてはなりません・・・・・・さて,今度はお金を貸してくれたでしょうか?????
ノーです.前回に大損(おおぞん)をした金貸しは武士にお金を貸さなくなりました.あたりまえのことです.で,ますますご家人の生活は苦しくなっていったのです.
ところが,北条氏はいい生活をしていました.十四代執権(しっけん)であった高時(たかとき)は遊んでばかりいました.君がこの時の武士だったらどう思いますか?命をかけて幕府を守りますか?(北條氏は高時の後十六代執権まで続き滅びます。そのとき高時は得宗とくそうという最高権力者になっていました)
先生だったら「いや」ですね.
こうした時に朝廷で後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が幕府を倒(たお)す命令を出しました.結果的には幕府の有力な御家人である新田義貞(にったよしさだ)と足利尊氏(あしかがたかうじ)も朝廷側について幕府をつぶしてしまったのです.
ちなみに,そのあと行われた政治は「建武の親政」(けんむのしんせい)とよばれましたが,貴族だけに恩賞が支払われたり,貴族中心の政治だったために,ちょうど昔,頼朝が武士の期待によって鎌倉幕府を作ったように,今度は足利尊氏(あしかがたかうじ)がその時の武士の心をつかみ,同じように「武士のための」室町幕府(むろまちばくふ)を作ることになったのです.
世の中は一人の人間で作られているのではないという良い例ですね.その室町幕府も貴族的になり,ついには各地で実力のある大名による政治が行われ,互いに戦いあう戦国時代になっていきました.
歴史から学ぶことは昔のことではありません.今とこれからを冷静(れいせい)に判断(はんだん)するために歴史の勉強があるのですよ.
鎌倉幕府がつぶれたのは,武士の生活が悪くなり,武士の生活を守る役目を幕府がはたせなくなったからなのです.
むずかしい言葉もあって,分かりにくいところもありますね.
その時は,君の先生や保護者の方にこのメールを見せて,かみくだいて説明してもらって下さい.
お勉強を頑張って下さい.またメールをくださいね・・・・
ゲンボー先生より
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