小学生とゲンボー先生のページ26 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
勇輔君 メールをありがとう。
現在の大阪城は平成7年〜9年に作りなおされたものですから、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が作ったときのものではありません。
大阪城は天正11年(1583年)から何年もかけて作られました。外から見ると5層(ごそう=五階だて)ですが、中は七階になっていたそうです。秀吉という人はなにかと「はで」が好きな人でしたから、美しい絵や金でかざられていたといわれています。
しかし、戦争や火事で何回か焼けてしまい、徳川時代の長い間天守閣(てんしゅかく)はつくられないで、260年間そのままになっていました。
昭和6年(1931年)に大阪市民の寄付(きふ)をもとに、コンクリート作りのがんじょうな天守閣をつくりました。このときにつくられたのが4層7階で現在のお城のかたちになりました。(先生も小学校3年生の時に行きましたよ。)しかし、そのお城も古くなったので、平成の時代に修理(しゅうり)しなければならなくなりました。
今回作りなおさしたときに、5階から7階をつなぐ回廊(かいろう)をもうけたために、前のお城より1階多くなりました。つまり今度のお城は4層8階ということですね・・・その回廊部分が6階というわけです。歩くだけのところなので案内も5階の上が7階になっちゃっているんですね・・わかりましたか?
むずかしい字や言葉はほごしゃの方にきいてね・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう。日本には奈良時代から長さや、重さ、量などの単位がありました。それはすべて中国から伝えられたものです。しかし、単位は同じでも時代によって長さや、重さ、量がことなっていました。鎌倉時代は経済の発達した時代ですから、もののやりとりに決まった単位を使うことはとても重要なことでした。しかし、地方ごとにビミョーに異なっていました。さてその単位ですが鎌倉時代も江戸時代も同じです。以下に書きました。しかし、実際の量や長さは異なります。
長さ
1里は 36町 3.9272727 km
1町は 60間 109.0909 m
1段(反)は 6間 10.90909 m
1丈 は10尺 3.030303 m
1間 は6尺 1.8181818 m
1尋 は6尺 1.8181818 m
1尺 は10寸 0.3030303 m
1寸 は10分 3.030303 cm
1分 は10厘 3.030303 mm
1厘 は10毛 0.3030303 mm
1毛は 1/33 mmです
広さは
1町は10段 0.991736 ヘクタール
1段(反) は10畝 9.9173554 アール
1畝 は30坪 0.99173554 アール
1歩は30坪 0.99173554アール
1坪は10合 3.3057851 平方メートル
1合は10勺 0.33057851 平方メートル
1勺は 0.033057851 平方メートル
1平方寸 9.182736 平方センチメートル
です。
重さは
1石は10斗 180.39068リットル
1斗 は10升 18.039068 リットル
1升 は10合1.8039068 リットル
1合 は10勺 1.8039068 デシリットル
1勺 18.039068ミリリットル
ゲンボー先生
ゲンボー先生
大樹君。メールをありがとう・・
色々な説がありますが、約1000万人というのが一番有力です。今の東京都の人口より少ないというわけですね。ですから今みたいに家がたくさんなかったし、田んぼや畑もずっと少なかったのです。
単純に計算すると田んぼや畑は今の13分の1です。そのころの風景をちょっと想像してみてください・・・・
ゲンボー先生
舞さん。メールをありがとう。
古墳と一言に言ってもおおきいのから小さいのまで様々です。世界最大の前方後円墳(仁徳天皇陵)はおそらく一人です。この時代の古墳は一人が基本で、たまに二人の場合があります。おそらく近しい間がらの人でしょう。庶民が入る横穴古墳も一人が基本ですが、たまに二人があります。これも家族でしょうね・・・
時代が新しくなると庶民のお墓は穴の中に複数でいれたり、河原においたりとずいぶん粗末な扱いになります・・・・ほとんどの人がお寺や神社に葬られるようになるのは江戸時代になってからなのですよ・・・・・
ゲンボー先生
1、おでこにある点の意味と大きさ。
2、立ったら高さはどれくらい。
3、何故こんなに大きい。
4、大仏の中身。
5、服の大きさ。
6、台座の由来。
7、何故目を細めているのか。
8、首の長さ。
以上です。よろしくお願いします。
ゲンボー先生
和典君、メールをありがとう。先生のページは鎌倉時代だから・・奈良時代とチョットちがうなあ・・・・でもせっかくだから分かる範囲でお答えします。
1.白毫(びゃくごう)といいます・・・もともとは白い巻き毛を表していたものですが、仏様の第3の目として水晶などで作られるようになりました。
2.さあ、どのくらいあるんだろう???座ってるときで15メートルだから、立ったら27〜8メートルくらいはいくかなあ・・・・笑
3.当時の日本は神様はバラバラで、一つの神を信仰することはありませんでした。聖武天皇と后の光明皇后は国の政治は天皇が中心の朝廷がおさめ、宗教は毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ=奈良の大仏様の正式な呼び名)を中心とするとしました。そして全国に国分寺と国分尼寺をたててその中にも仏像をおきました。奈良の東大寺は総国分寺ですから、日本の大仏様の中心というわけです。ですからデッカイ仏像を作ったわけです。
4.大仏様の中身は空洞です・・・
5.服の大きさかあ・・・・これはちょっと分からないなあ・・・想像してみてください。
6.台座は蓮華(れんげ)つまりハスの花びらですね・・極楽の池に浮かぶ大きなハスの花です。
7.目を全部開けると、人間の悪いところがすべて見えちゃうからです・・・お釈迦様は人を裁くのではなく、人を救う人だからです。
8.さっき書いたように高さが15メートルですから、写真や絵にあてはめて君自身が計算してみてください。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
美里さん。メールをありがとう.
さて、鎌倉時代には立派な法律がありました。北条泰時(ほうじょうやすとき)という、今で言うと総理大臣にあたる人(執権=「しっけん」といいます)が作った「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)別名「貞永式目」(じょうえいしきもく)といいます。
もともと、日本の国には律令という法律がありましたが、朝廷中心で庶民や武士の生活には当てはまらないし、分かりにくいものでした。泰時は実際の生活にあった法律を作ったのです。この法律は長い間武士の法律の手本として江戸時代にまで続いたものなのです。
どんなことが書いてあったかというと、
・守護や地頭といった武士の仕事の内容
・家の相続
・領地の決めかた(土地争い)
・年貢のこと
・その他、争いのこと
などが、51箇条にわたって書かれていました。 御成敗式目のページに行く
ゲンボー先生
ゲンボー先生
薫さん。メールをありがとう。
貴族の間では「 萱草色」(かんぞういろ)という黄色がかった赤い色が、喪服の色としてふだんは着ない色でした。ちなみに黒が喪服の色になったのは明治時代からで、それ以前は白でした。( 萱草色は平安時代から鎌倉時代の貴族のみです)
階級によっての色分けは貴族や武家で、貴族は黒が一番高級な色、武士は「 浅縹」(あさはなだ=こい水色)が最高級でした。頼朝は貴族でもあったので黒を着ました。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
仁美さんメールをありがとう.
文永の役では元軍 船900せき 兵3万2千人
日本側は九州の武士を中心に多くて約1万人
弘安の役では元軍 船4千4百せき 兵14万人
日本側は 博多に4万人 山口県に2万5千人 瀬戸内海地方から京都までで6万人程度といわれています.
ですから実際に戦った武士は6万5千人くらいだったと思います.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
宝戒寺 は北條義時以後の北條氏が住んでいた館の跡に足利尊氏が建てたお寺です。萩の寺として有名で庭のあちこちに萩が植えてあります。
北條氏は長い間ここに館を構え幕府の政治を行っていました。鶴岡八幡宮にも近く、政所は目と鼻の先です。
ちなみに宿敵三浦氏の館は近くにある横浜国大付属小学校の場所にありました。鎌倉はせまいので重要な建物や有力な御家人の屋敷が近くにあったのです。宝戒寺に行ったのはそういう意味で正解です・・・笑
私はホーチミン日本人学校6年智香です。私は今、平安時代(鎌倉時代)の武士について学習しているのですが、武士の遊びや文化はあったのでしょうか?教えていただければ、うれしいです。よろしくお願いします。
ゲンボー先生
智香さん、メールをありがとう。ベトナムからは初めての質問です。嬉しいなあ・・!
武士にも庶民にも貴族にも遊びはありました。これはいつの時代もどこの国も同じです。人間は「遊ぶ」動物でもあるからです。先生などは遊ぶために生きているようなものです・・・笑
子供の頃は「こま回し」「はねつき」「竹馬」「ぎっちょう」(ホッケーのようなもの)「弓矢」「乗馬」などが知られています。弓矢と乗馬は大人になったときに必要な準備と言っても良いかもそれません。しかし、大人も「犬追うもの」(矢じりのついていない矢で馬上から犬をうつ訓練)や笠懸(かさがけ=わらでできたカサを的に矢をうつ練習)」「流鏑馬」(やぶさめ=走っている馬から矢をうって的に当てる訓練)などがありました。これらは訓練ですがゲームでもあるわけです。
庶民の大人は「首」や「胴」にひもをかけて引っ張り合う遊びや、双六(すごろく)などがありましたが、これらは遊びと言うより「かけ」のようなものでした。多分武士もこれで遊んでいたと思います。
すごいのは「投石」です・・敵味方に分かれて石を投げ合うのですが、これは「けが人」も多く出たようです。先生も子供の頃これで遊びましたよ、できるだけあたあらないように・・しかしあたるかもしれないのでスリルがあっておもしろい・・・投石は鎌倉時代にはお祭りとも関係したようです。
武士独自の文化というものは特にありませんが、武士の影響を強く受けた文化はあります。運慶(うんけい)快慶(かいけい)という仏師が作った仏像はとても写実的で、その後の仏像つくりに大きな影響を与えました。絵も写実的で歴史の勉強をすすめる上でとても役に立っています。
武士は「質実剛健」(しつじつごうけん)といって、中身を大切にしましたから、そうした影響が美術や建築に大きく影響しました。この時代に忘れてならないのは「日蓮宗」や「禅宗」(ぜんしゅう)などの新しい仏教の影響です。庶民や武士の多くはこうした新しい仏教を信じました。武士が質実剛健を重んじた一つの理由が禅宗にあります。
このように、武士独自の文化はといえるものはありませんが、武士に影響を与えたり、反対に武士が影響を与えたりしながら、新しい文化が作られていったのは事実です。またメールをください。できたらベトナムの生活の様子なども教えてください・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.何ともいえないですね・・源氏は関東の武士が中心でした.関東の武士は馬に乗るのも上手だったし,なにより自分たちの生活をよくしたいという気持ちが,平家よりずーっと強かったのです.
食事の差はあると言えばありますが,一般の武士は(大部分の)源氏も平氏も同じようなものを食べていました・・・
一番大きな理由は将軍クラスの「精神力」や「作戦能力」が平家より源氏の方が上だったということがあります。ですから全体としては力が上だったはずの平家がやられまくったのです。もちろん奇襲作戦が得意だった義経の力も大きかったと思いますが、今書いたことが基盤になります。(君が混乱すると思って最後に書きましたが,源氏というより「関東の武士」といったほうがいいですね,なぜなら頼朝に従った大部分の武士は平氏の系統の武士だからです.)
ゲンボー先生
ゲンボー先生
もちろんありました・・・・「ぼっとん式」が主流でしたが、川に板をはりだして、そこからするなんて言うのもあります。お便所のことを「厠」(かわや)というのはそこからきています。また、貴族や高級な武士のいた町中では、水洗便所もありました。いまのとはちょっとちがうけどね・・・小川を便所に引き入れてそれをまたいでするんです。トイレットペーパーはなくて「ちゅう木」といううすい板きれでウンチをこそぎとっていました。
この次からは学校と名前を書いてね。ゲンボー先生
ゲンボー先生
真萌さん
メールをありがとう。
源氏といっても鎌倉時代の前から戦いをしていました。有名なのは源頼義(みなもとのよりよし)が戦った「前九年の役」(ぜんくねんのえき)とその子、源義家(みなもとのよしいえ)が戦った「後三年の役」です。どちらも東北地方の領地争いから始まった戦ですが、 源頼義と源義家の戦いぶりはすばらしく、どちらも勝利しています。なかでも義家は朝廷に変わって一緒に戦った武士たちに恩賞(おんしょう=この場合、領地)をあげたので、関東ではもっとも信頼された武士になりました。これがきっかけで関東地方で源氏の名が知れわたったのです。
このころから源氏の本拠地は鎌倉になりました。
その義家から三代目に頼朝のお父さんである、義朝が京都で「保元の乱」と「平治の乱」で戦います。保元の乱では平清盛と手を組んで勝利しますが、自分の父や兄弟とも戦わなくてはなりませんでした。そのことや、清盛に比べて出世の遅かった義朝が清盛にしかけた戦が「平治の乱」ですが、これは義朝の敗北でした。それで、息子の頼朝が伊豆に流されたのです。
そのあと、頼朝が伊豆や相模の武士たちと戦ったのが、まずはじめに伊豆の韮山(にらやま)で、今で言うと知事にあたる人をやっつけた戦い。これは勝ちです。
次にその時に味方に付いた伊豆の武士300人と、大場景親(おおばかげちか=藤沢市の武士=清盛側)の3000人の平氏と戦った「石橋山の合戦」は完全な負け・・・命からがら安房(あわ=今の千葉県のはじっこ)にげて。体制を整えてから祖先の地であった鎌倉にはいって・・・それから、みんなが言っている源平の戦いが起こります。(先生は源平の戦いではないと思っています。その理由はこれから書きます)
ここまでで何回になりますか?これ以後は「富士川の合戦」「宇治川の合戦」(これは源氏同士の戦い)・「一ノ谷の合戦」「屋島の合戦」「壇ノ浦の合戦」と戦争続きです。平家を倒した頼朝たちはこんどは東北地方の藤原氏と戦います。きりがないですね・・・このように平安時代から鎌倉時代にはじめまで武士が力を付けるとともに「戦争」が多くなってきました。
ところで大切なのはこれらは「源氏」の戦いと言うより、いろいろな武士のトップにいるのがたまたま源氏だったということにすぎないのです。早い話が、源義家や義朝、それに頼朝だって、その下にいて戦った人はほとんどが「平氏」なのです.
源平の戦いといってもそれは後の人がつけた名前で、当時の人は源氏対平家などとは考えてはいませんでした。平清盛一族は確かに平氏ですが、それは伊勢平氏といって、たくさんある平氏の中のごく一部なのです。関東にいた多くの平氏は遠い遠い、もっと遠い親戚です。ですから同じ平氏でも仲間だなどとは思っていません。彼らはそういうことにはこだわっていないのです。自分たちの生活がよくなるというのなら、だれと組んでもよかった。たまたまその時期に関東・・特に相模の武士たちが「俺たちの生活をもっとよくすんべ〜」と思っていたやさきに現れたのが源頼朝だったので、彼を担いで戦争を始めたというわけです。ですから源平の戦いというのは、本当は相模を中心とした関東の武士団対伊勢平氏を中心とした西国の武士団との戦いということになります。
こうしたことが分かっているといないのとでは大違い。そうでないと、なぜ頼朝が鎌倉幕府を作れたか・・という大切な理由が見えなくなってしまうのです・・でも、6年生にはまだむずかしいかな・・・?
戦いのあった年代は自分で調べてね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
奈巳さん。メールをありがとう。
北条時宗は 建長3(1251年5月15日)に生まれ、弘安7(1284年4月4日)にわずか33歳で亡くなりました。元との戦いのために生まれてきたような人です。父親は名執権といわれた北条時頼、母親は一族の北条重時の娘です。幼い頃は正寿・・6歳で元服してから時宗の名をもらいました。しかし一般には相模太郎と呼ばれていました。わずか14歳で連署(れんしょ)という執権を助ける重要な役柄につき、幕府の仕事を行いました。このときの執権は北条政村という人ですが、幼い時宗が大人になるまでのつなぎとして執権をやっていたとも言われています。それほど時宗は北条氏にとっての希望の星だったわけです。
15歳で相模の守(今で言う神奈川県知事)になります。文字通り相模太郎ですね・・・
さていよいよ、元の使者が日本にフビライの手紙を持ってやってきます。それが文永5年(1268年)のことで、2月19日に返書を拒否して、4月5日に執権になりました。つまり元と戦うために執権になったというわけです。
文永11年(1274年)に元軍が攻めてくるまでに九州地方の武士を、博多周辺の防備につかせましたが、知ってのとおり戦い方も武器も違っていたために日本は苦戦します。このときのいきさつは先生のホームページにくわしくでていますから、そちらで勉強してください。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html
二度の元寇を乗り切った時宗は、後に英雄として扱われますが、その苦労は普通の人では理解できなかったでしょうね・・意志の強い人でしたが国書に返書するか、それとも戦うかの決断ではずいぶん悩んだと思います。その時宗の一番の相談相手は宋(中国)から元の支配を嫌って日本にきていたえらいお坊さんの「無学祖元」(むがくそげん)でした。無学祖元は元の兵隊に首を切られる寸前までいった人ですから、元のことを全く信用していません。
悩む時宗にたった一言「 莫煩悩」(ばくぼんのう=あれこれ余計なことを考えるな)と言ったそうです。悩めば悩むほど心配はふくらみ道を誤る。こうと決めたらまっすぐに進みなさい・・と、こういったわけですね。当たり前といえば当たり前ですが、国が滅びるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)で、思い切るというのはとても勇気のいることです・・・やっぱりスゴイ人はスゴイ!
時宗はその言葉を聞いて決断したのです。この人もスゴイ・・・結果としては日本は負け気味だったのですが、いろいろなことから元の侵略を拒むことができたわけです。運がよかったともいえますが、ここのところは何とも言えません。先生は嵐が来なくても最終的には日本が勝っていたと思いますが・・・
時宗は2度目の元寇があった弘安4年(1281年)から3年後の弘安7年(1284年)に亡くなりました。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
寺元さん。
大仏は国家の平和を祈って作られたといいますが、実際には日本をまとめるための一つの方法として作られました。日本の中心地「奈良」に大仏を作り、それを納める東大寺を総国分寺としました。そして地方の国々には国分寺と国分尼寺を作り、小さい大仏を納めました。これはちょうど日本が朝廷中心で各地に国府があるのと同じです。東大寺の大仏は毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)といい、世界の中心にあって、分身が世界のあちこちにあるというものです。天皇が中心で天皇の代理である国司が地方にあるのとも同じです。
というわけですから、大仏を作るのは国家の事業だったのです。ですから命令です。それでなくても一般の農民は重い税に苦しんでいましたから、この仕事にかり出された人々はかなり苦しかったと思われるます。それに銅を溶か時に毒のガスがでたり、金を塗るときに水銀を使ったりするので中毒患者も多く出たことと思います。ほとんどの人はイヤイヤではなかったでしょうか・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
裕海さん、メールをありがとう。
当時の人々には一族を守る氏神(うじがみ)様がいました。豪族でもある武士は自分の領内の見晴らしの良いところや、家のそばに氏神様をまつる神社や祠(ほこら)を作りました。そうして一族の平和や農作物の豊作を祈ったのです。君が見た鳥居とほこらにはそういう意味があるのです。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
繭子さん、メールをありがとう
保元4年(1169年)の記録には 正六位上源朝臣頼朝(しょうろくいのじょうみなもとのあそんよりとも)と書いてあります、これは頼朝が12歳の時の本名です。平家を倒した頃は(1185年ころ)は前右兵衛佐源朝臣頼朝(さきのうひょうえのすけみなもとのあそんよりとも)と名乗っています。また、幕府を作った頃には前右大将源朝臣頼朝(さきのうだいしょう〜)と名乗っています。
つまり、こういうことです。
12歳の頃は正六位という位をもった源氏の頼朝でしたが、平家を倒したときには新しい職はなかったので、以前の職だった右兵衛佐を「以前はそうだった」と源朝臣頼朝にくっつけています。
そして幕府ができて地位が安定すると、朝廷から右大将の位をもらいました。頼朝は本当は征夷大将軍の肩書きが欲しかったので、右大将は三日でやめてしまいました。それで征夷大将軍になるまでは前右大将〜と名乗っていました。
このように、昔の人は位(正六位のような)をもらったり、職(右大将や相模の守、庄司など)をもらうたびに名前の前に肩書きがつきました。これが正式な名前です。しかし、これらの名前では目下の者が呼ぶことはできません。ですからテレビなどで「頼朝様」なんて呼ぶようなことは絶対になかったのです。頼朝というのは目上の人が呼ぶときの名で、目下の人がその名前を呼んではいけなかったのです。これを「いみ名」といいます。
では頼朝さんは他の武士からなんと呼ばれていたかというと、佐殿(すけどの)とか鎌倉殿(かまくらどの)あるいは御所様(ごしょさま)と呼ばれていました。また鎌倉時代の大事な記録「吾妻鑑」(あずまかがみ)には武衛(ぶえい)と書かれています.武衛は右大将になるまでの呼び名で「前右兵衛」の別の呼びかたです。鎌倉殿とは鎌倉にいて俺たちを守ってくれる棟梁(とうりょう=武士団のトップ)に対する尊称(そんしょう=尊敬して呼ぶ名前)です。
そうそう、頼朝が元服するまでは「鬼武者」(おにむしゃ)でした、ですから小さい頃は鬼武者とか、三男だったので三郎などと呼ばれていたのでしょう。12歳で元服すると頼朝の名をもらいました。家来からは「三郎様」とか「御曹司」(おんぞうし=源氏の子供たち)と呼ばれていたはずです。
このように、昔の貴族や武士はその時々の地位や立場によって名前が変わっていったのです。ですから何という名前を使っているかと言うことを勉強すると、その年代がいつ頃なのか、その人がどういう立場だったのかが分かるというわけです。
先生のページに土肥実平という人の名前について書いてあるページがありますから、そっちも見てください。大人向けでちょっと難しいけど・・
清盛は最終的に前太政大臣平朝臣清盛 となります。でもこの人には別名があります。「入道相国」です。清盛は太政大臣(とうじは、”だいじょうだいじん”と呼びました、のちに”だじょうだいじん”とよびます)をやめたあと、出家してお坊さんになります、相国(しょうこく)とは太政大臣を表す名前です。お坊さんと言っても形だけで、実権は握っていました。・・・・わかりにくいねえ・・・・
しかし、繭子ちゃんは面白いことに興味を持ったね・・なんにでも興味を持つことは大切なことです。学問の始まりです。がんばってください。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
農民は朝早く起きます(日の出とともに)
涼しいうちにまず朝の仕事をしてしまいます。畑や田んぼを耕したり、水路を掃除したり・・季節によっては田植えや稲刈りもありますね.
一段落したら、朝食です。食事は普通一日二食ですが、重労働の時には三食になったようです。この時代に太った人は少なかっただろうね・・
朝食が終わったら、さっきの続きです。陽が高くなったらちょっと休憩・・このときに軽く何かを食べることもありました。
川や海が近いところでは魚を捕ったり、山に入って山菜やをとったりもしました。また、秋には鹿やイノシシを捕ることもあったと思います。当時のメニューにはイノシシや鹿以外にツルとかサギなどの鳥の名前もありますから、野鳥もとったでしょうね・・・
涼しくなるとまた、農作業です。
女性は布を織ったり、食事を作ったり・・洗濯したり・・・
夜には食事をして、暗くなったら寝ます。
それ以外に、領主とよばれる豪族のところで下働きをすることもありました。また、領主に従って戦に出ることもありました。当時の農民の家には刀やよろい、などの武器や武具があるのが当たり前でした。(特に中部地方や関東地方では・・・)
とにかくお日様が出ているときは働いていたわけです・・大変ですね。しかし、楽しみもありました。当時の絵を見てみると太鼓や笛で拍子を取って田植えをしたり、そのあとお祭りをしたり。もちろん刈り入れの時にもお祭りはありました。そうやって息抜きをしていたのですね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
竹崎季長は1246年頃に生まれていますが、没した年代は分かっていません。1281年には弘安の役に参加し、有名な「竹崎季長絵詞」を1293年に描かせていますから47歳以上は生きていますね。 今のところそこまでしかわかりません.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
杉浦さん。当時の武士(身分の高い)は馬に乗って戦っていましたから、まず馬の訓練をしました。次に弓矢の訓練で、馬に乗って弓をうつ練習もしました。つぎに相撲です。当時は剣道はありませんので、まず馬に乗りながら斬り合ったり、組み伏せたりするので相撲が必要でした。
だって、敵と戦うときに馬が言うことをきかなかったら相手に斬られちゃうし、弓があたらなかったり力が弱かったら確実に首を切り落とされちゃうんだから、真剣に練習しました・・・
武士の心構えはいくつかあります。
1.強い方につく・・あれ!っと思うでしょうが、この時代の武士は有利な方についたり、そのうち強くなるだろうと言う人と組んで戦をしました。かけですね・・だから、どっちが勝つか分からないような戦の時には、家族が半分になってそれぞれにつくということすらありました。そうすれば半分は生き残るからです。・・・自分の領地や一族を守るためにはなんだってしたのです。
2.いつ死んでもいい・・というのは結構難しいけど、実際にいつ死んじゃうか分からないので、覚悟を決めていました。しかし、最後まであきらめないで戦うという気概も持っていました。
3.鎌倉幕府ができた頃からは「いざ鎌倉」という言葉が、武士の心構えになりました。将軍が戦うときには何があってもすぐ行くぞ、ということですね。しかし、これとて幕府が強いときだけのことで、弱くなったら幕府を倒す側についた武士は沢山いました。実際、幕府が滅びるときにそうしたことがあちこちでおきました。
4.一番の心構えは「一族の繁栄を願い行動する」でしょうね。それは「領地を守る」、「領地を増やす」と言うことです。これって、君たちの学習のヒントにもなりますよ。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
杉山君、メールをありがとう。
それは地形が大きく関係しているのです。鎌倉の町は周りを海で囲まれている狭い場所です。ですからそれ以上に大きくすることはできませんでした。それに朝廷と違って役所のはたらきも簡単で、そんなに大きな建物は必要ありませんでした。鎌倉の町は鶴岡八幡宮を中心に若宮大路がまっすぐ海に向かってのび、その両側は京都にならってほぼ碁盤目に道がひかれていました。
若宮大路の両側には役所や有力な武士の館がありましたが、道一本奥にはいると商家や庶民の家がありました。
しばらくは、落ち着いた町でしたが、鎌倉時代の後半になると多くの人々が移り住んできて、手狭になりました。そこで、あとから来た人々は現在の由比ヶ浜一帯に勝手に家を建てて住み始めました。この町は道路が入り組んでいてめちゃめちゃという感じです。
幕府がほろびる頃には超過密都市になっていたようです。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
軽部さん,メールをありがとう。
文覚上人はもともと武士でしたが、あやまって好きな女性を殺してしまい僧になったという人です。その後、熊野の那智の滝にうたれるなど修行にはげみ「荒聖」(あらひじり=きびしい修行つんだ僧のこと)として有名になりました。ところがあるお寺の再興運動(さいこううんどう=すたれたものを、もういちどたてなおすこと)で、後白河法皇(ごしらかわほうおう=元天皇でお坊さんになった人、実力ナンバーワンです)の御所(ごしょ=やしき)に入り、むりやり寄付をたのみ、断られると悪口雑言(あっこうぞうごん=きたなくののしること)をはいたという罪で頼朝とおなじ伊豆の国に流罪になっちゃったというスゴイ人です。
文覚はさっそく伊豆の韮山に行き、流人だった頼朝に会います。そして朝に夕に頼朝のやしきにいりびたり、平家をうてとそそのかしました。当時の頼朝には全くその気がなかった(ふりをしていたか・・)ので、はっきりしない態度をしていました。
そこで、ある日文覚はふところから頼朝の父「義朝」の頭蓋骨を取り出し、「これこそ、御父君義朝公の首」(おんちちぎみよしともこうのみしるし)と頼朝に決断をせまったといいます。さらに文覚は京都へ往復し後白河法皇の書いた「平家を打て」という「院宣」(いんぜん=法皇の命令)をもってきたといわれ、こうしたことから頼朝もついに平家を倒す気になったのだと「平家物語」には書いてあります。・・・・・・・・が、後白河法皇の院宣など絶対にもらえるわけもなく・・(第一京都に行くことも不可能です)・・・この話は作りばなしを聞き書きしたといわれています。
頭蓋骨も99.999999%義朝のものではなかったでしょう・・・・文覚は個性の強い話のうまい人ですから、言葉たくみに頼朝を動かそうとしました。その話が大げさになって頭蓋骨だの、院宣の話しになった可能性もあります。もしくは実際に「にせ物」をそろえて頼朝に話したかもしれません。文覚の性格からしてありえない話しではありません。いずれにしても、平和に暮らしている頼朝にはとてもめいわくな話で、頼朝さんもさぞかし困ったことでしょう。平家物語には頼朝の言葉として「あの坊主がよけいなことを思いついたりするものだから、困ったものだ・・」と、この話がばれたときのことを心配していろいろと悩んでいた様子が書かれています。こちらのほうがよほど真実みがありますね。
というわけで、義朝さんの頭蓋骨は「にせ物」というのが常識になっています。この時代は河原に行けば頭蓋骨などいくらも転がっているという時代ですからね・・・・
ゲンボー先生
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