小学生とゲンボー先生のページ11 玉川学園・玉川大学
初めまして。鎌倉時代にかんすることですけど。よりともと、よしつねの間にもう一人兄弟がいると聞いたんですけど。その人は、だれですか。
ゲンボー先生
ご返事がおくれてごめんなさいね.お答えします.それは源範頼(みなもとののりより)と阿野全成(あのぜんじょう),円成(えんじょう=後の義円)の3人です.頼朝のお母さんは父義朝の正式な奥さんでしたが,あとの兄弟はお母さんが違っていました.源範頼のお母さんは遠江(静岡県)池田の宿で働いていた庶民の娘,残りの二人と義経(よしつね)は常盤御前(ときわごぜん)がお母さんです.範頼も義経も平氏と戦いますが,義経のはたらきにくらべて 範頼のほうは今一つぱっとしません.しかし,それだけに兄頼朝からは義経のように警戒(けいかい=あやしまれること)されませんでした.阿野全成は義経よりも信頼されていた弟ですが、後に源頼家の命により八田知家に暗殺されてしまいます.(※以前の説明で梶原景時によって暗殺されたとありましたが、それは誤りです。お詫びして訂正します)
ここから分かること.
1.昔のえらい人は奥さんが一人じゃなかったということ.頼朝は9人兄弟だった.それは戦で敗れても一族を絶やさないこと.もしくは偉い人の子供どうしを結婚させて一族を栄えさせること.などがあったからです.
2.頼朝は兄弟であっても将軍として,言うことを聞かなかったり,他の御家人に利用されそうな弟を殺したということです.幕府をまとめるためにはそのぐらいしなければならなかったのですね.
平和な時代では考えられないことですが,昔の人は自分の領地や地位(ちい=くらい)を守るためには,兄弟親戚(きょうだいしんせき)でも争いました.
貴族の時代から武士の時代に大きく変わろうとしている鎌倉時代には,そういうこともあったということを忘れないでくださいね.
むずかしい言葉があったら保護者の方か先生に聞いてください.
ゲンボー先生
僕は、鎌倉時代〜江戸時代を調べるのが好きです。今日はお父さんのパソコンをつかっています。日本歴史年表では、鎌倉時代の第4代将軍の名前は九条頼経となっていました。でも、第5代将軍の名前がのっていません。第5代将軍の名前を教えてください。よろしくおねがいします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.返事がおそくなってごめんなさいね.さっそく答えます.
鎌倉幕府5代将軍は九条頼嗣(くじょうよりつぐ)という4代将軍頼経(よりつね)の子供です.九条家はもともと京都の公家で五摂家(ごせっけ)の一つです.
北条氏にとっては自分の言うことを聞く将軍が一番つごうがよいのですが,北条氏に逆らう御家人や北条氏のしんせきのなかにも,執権(しっけん)になれる北条氏(得宗=とくそう,といいます)のことを憎(にく)んでいる人もいます.頼経も頼嗣もこうした御家人に利用されたりされかかったため,京都に返されてしまいます.
6代将軍は 後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の皇子宗尊親王(むねたかしんのう)になります.以後は全て天皇の子供(親王)が将軍になるのです.鎌倉幕府は源頼朝が関東の有力な御家人と協力して作りました.しかしそれ以後は北条氏が実権(じっけん)をにぎり「かざりものの将軍」をたて,自らは執権(しっけん)となって政治の中心にいたのです.そのあいだ,北条氏にとって利益にならないもの,または敵になった御家人や親戚(しんせき)はすべてほろぼされてしまいました.ちょっとコワイ話しですがこれは本当のことなのです.
むずかしいことばがあったら,保護者の方か先生に聞いてください.またメールをくださいね.
ゲンボー先生より
今、大きな目当てで、グループにわかれて、「鎌倉幕府がなぜ141年間つづいたか」というのをやっているのです。御恩と奉公についてくわしくおしえてください。それとくわしくのっているホームページもおしえてくだださい
ゲンボー先生です
彩加さんメールをありがとう.
武士は平安時代の中ごろに「自分の土地を守る」ために有力な農民が武器を持って武装(ぶそう)したのがはじまりです.当時は律令(りつりょう)という法律による朝廷の政治はほとんど行われておらず,有力な貴族が沢山(たくさん)の荘園(しょうえん.先生のページの「貴族から武士へ」を見てください)をもってそのお金で政治をしていました.
今の知事にあたる国司(こくし)は都から来た貴族や皇族(こうぞく)が,市長や村長にあたる郡司(ぐんじ),里長(さとおさ)などはその地方の豪族(ごうぞく)がなりましたが,国司やその代理人は自分の利益(りえき)のことばかりを考えていましたから,弱い立場の豪族達は,余計(よけい)に税を取られたり,タダで働かされたり,時には土地を奪(うば)われたり.それはつらく不安な生活を送っていました.
関東地方はもともと原野でしたが,奈良時代から平安時代にかけて多くの農民が移り住んで開拓(かいたく)をした地域(ちいき)です.ここにも武士がうまれました.弱い立場の武士(有力な農民)はやがて互いに結束(けっそく)して武士団を作ります.自分一人より沢山いたほうが安全だからです.
そのときに武士団をまとめる人を「血筋の良い人」にもとめました.当時の日本人は今の人とはくらべものにならないほど「家柄」(いえがら)とか「血筋」(ちすじ)を重んじました.だから天皇の子孫である「平氏」や「源氏」が尊(とうと)ばれたのです.
こうして,武士団を束(たば)ねて行った人のことを「棟梁(とうりょう)」といいます.頼朝は棟梁というわけです.関東地方のほとんどの武士団を束ねたからです.
頼朝が幕府を開き将軍となってからは,武士たちは「ご恩と奉公」(ごおんとほうこう)の関係で結ばれる御家人(ごけにん)と呼ばれるようになりました.では,ご恩と奉公とは何でしょう?
ご恩の第1は「本領安堵」(ほんりょうあんど)です.武士が持っている土地を保障(ほしょう)することです.つまり「ここからここまでの土地は誰々(だれだれ)さんのものである」と決めることなのです.
これは当時,領地の境界をめぐっての争いが多かったことと,力のあるものが自分より弱いものの領地を力で奪うということが多くあったからなのです.これが戦争の第1の原因ですから,「自分の土地が保障される」ということは,武士にとっては一番の希望だったのです.
ご恩の第2は「新恩給与」(しんおんきゅうよ)です.御家人は将軍のため戦うことを誓っていました.言葉を変えれば幕府という組織のために戦うことです.このようなときに戦いで奪った(うばった)敵の領地を,戦の働きに応じて分け与えました.つまり新しい領地ですね.こうした土地には自分の子供や一族のものが移り住みました.
ですから,鎌倉時代の武士たちは勇敢(ゆうかん)に戦いました,戦いのときに名乗りをあげるのも,よろいやかぶとが派手(はで)なのも,自分の働きが目立つためなのです.奉公は今書いたように「将軍のために戦うこと」でこれを「いざ鎌倉」といいました.
次に幕府の役人として働くことです.場合によっては京都まで単身赴任(たんしんふにん)することもありました.
幕府は将軍を中心として,武士が助け合う組織だと考えてください.この組織に入っていると敵が攻めてきてもみんなで守ってくれるし,隣(となり)とのいざこざも話し合いで解決(かいけつ)できます.
関東の武士たちがこぞって頼朝の家来になったのはそういうことがあったからなのです.
141年目に幕府が滅(ほろ)びたのはなぜでしょうね???皆さんでよく話し合って立派(りっぱ)な答えを出してください.頑張ってね・・・・
ゲンボー先生より
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