小学生とゲンボー先生のページ4 玉川学園・玉川大学
こんにちは。こちらは、兵庫小学校6年3班です。
鎌倉時代の人々は、ほしいものをどうやって手に入れたのですか?
こんにちは。こちらは、兵庫小学校6年 4班です。 鎌倉時代の市には、どんな物がおいてあったのですか?
ゲンボー先生
関連する質問なので両方の班の人達にはここで答えますね.
鎌倉時代の初め頃は「塩」「鉄」などの生活にどうしても必要だが,自分では作れないものを除(のぞ)いてほとんどの農村では自給自足(「じきゅうじそく」必要なものを自分でつくること)の生活を行っていました.武士は必要なものを農民から年貢としてとっていました.こういう状況ではお金は必要ありませんね.たとえ必要なものがあっても物々交換(ぶつぶつこうかん)で十分にまにあったのです.
ところが,鎌倉時代も中頃になると武士の館のちかくや,交通の便利な十字路(じゅうじろ)や三叉路(さんさろ)のようなところに,人々が商品を持ちよって商(あきない)をする「市」(いち)がたつようになりました.いまでいえば「商店街」(しょうてんがい)というわけです.
商店といっても,いつもそこにお店があるのではなく,4のつく日とか5のつく日だけに市場がひらかれるというものでした.(こうした市を現在では「定期市」(ていきいち)と呼んでいます.)4のつく日だったら4,14,24日という具合です.四日市,五日市,十日市場などという地名が今でも日本のあちこちに残っていますね.君達のすんでいる町の近くにはそうした地名がついているところがありませんか?
さて,市場ではどんなものが売られていたのでしょう?記録を調べてみますと,米・粟(あわ)・そば・芋・野菜・柿・栗・梨・魚などの食料品や,服・おけ・柄杓(ひしゃく)・布・糸などの生活用品,刀・よろい・弓・などの武具など,生活する上で必要なものはほぼ全て売られていたようです.
下の絵は一遍聖絵(いっぺんひじりえ)の「福岡の市」(現在の岡山県長船町)を別の角度から見た「市」の絵です.人々の服装や何を売っているかを見てください.
当然これらの商品を売買するためには貨幣(「かへい」お金)が必要になりますね.つまり,鎌倉時代の中頃から貨幣を使う経済が農村にも少しずつ広まっていったと言われています.
ところで,この当時のお金は中国から輸入した『宋銭』(そうせん)とか『元朝銭』(げんちょうせん)が使われていました.ちなみに宋銭は平清盛(たいらのきよもり)が輸入(ゆにゅう)したといわれています.清盛という人はやはり優れた人だったんですね・・・・
また「市」とは別に「座」というものが発達したのもこの時期といわれています.「座」は特定の商品を扱う場所のことで,今でいえば大阪の繊維街(せんいがい=服などをせんもんに売っている町)や東京の秋葉原電気街のような「問屋街」(「とんやがい」)ということになります.「麹座」(こうじざ)「材木座」(ざいもくざ)などの地名が今でも残っていますが,そうしたところに座があったといわれています.
さて,鎌倉時代というと西も東もみんな幕府の支配下にあったと思うのは間違いで.西日本は古くからひらけ,経済や文化も進んでいましたし,弱くなったとは言ってもやはり朝廷の政治が行われていました.
また,農業技術の進歩も西日本は関東より進んでいたといわれています.したがって市場で扱(あつか)われている商品も鎌倉のような都会は別として西と東ではずいぶん違っていたといわれています.
こんにちは。兵庫小学校6年 飛田、小椋、向井、加藤、国京です。
Q1 平家物語は誰がつくったのですか?
Q2 鎌倉時代の人は、どんな遊びをしていたのですか?
Q3 元軍のほうが人数が多かったのに、なぜ日本に勝てなかったのですか?
ゲンボー先生
A1.平家物語の正確な作者はわかっていません.しかし多分そうだろうという人が3人もいます.
京都の東に比叡山(ひえいざん)という山があり,そこに天台宗(てんだいしゅう)のお寺「延暦寺」(えんりゃくじ)があります.ここで一番偉いお坊さんである「慈円」(じえん)という人が,作らせた人らしい・・ということで,
実際に源平の争乱の内容を調べて書いた人は信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)らしい・・・のです.
ところで,平家物語は「ものがたり」といわれるとおり,読み物ではなく「かたり物」として作られました,「語り」というのは「琵琶」(びわ=弦楽器の一種)という楽器の音にあわせて法師(「ほうし」おぼうさん)が謡った(うたった)ものです.
この平家物語を「語り」にしたのが「生仏」(しょうぶつ)という盲目(もうもく=目が見えない)の琵琶法師(びわほうし=琵琶をかなでて唄うお坊さんのこと)でした.「生仏」はあちこちを渡り歩き「源平の争乱」を主題(しゅだい)としたこの物語を世に広めたといわれています.
君達は「那須の与一」(なすのよいち)の話しを知っていますか?「扇の的」(おうぎのまと)の話ですよ・・・あれも平家物語の有名な一節(いっせつ)ですね.ところで,一つ面白いことをお話ししましょう.
現代人は笑うときにハハハハハ・・・と笑いますが,鎌倉時代の人はファファファファファ・・・と笑いました.(これホント)ですから当時の人は「へいけ」ではなく「ふぇいけ」と言っていたはずなのです.「ちょうちょ」のことを古い書き方で「てふてふ」とありますが,あれも本当に「てふてふ」と言っていたらしいのです.当時の人の頭の形や口の形は現代人と少し異なっていました.当然発音が違っていたのです.つまりHの発音がFだったのです.また,地方に残る「古い語り」や「能」(「のう」おどり)とか「謡い」(うたい)のなかには平家のことを「ふぇいけ」というように,古くから語り継(つ)がれた発音が残っているところもあります.
A2.当時の絵を見ると子供は「竹馬」・「こま回し」「ぎっちょう」「小弓」「羽子板」(はごいた)などが見られます.
「竹馬」は今のものとは違い,本当に竹の枝にまたがって走り回る遊びでした.
「こま」は今とさほど変わらず,誰のこまが長く回っているかとか,ぶつけあって遊ぶ喧嘩(けんか)ごまです.
「ぎっちょう」とは.いまでいうところのホッケーでしょうか.長い棒(ぼう)で平らな玉を打ちあっていました.
「小弓」は,小さい弓で的を射る遊びで「竹馬」とともに武士の子供達の大切な遊びでした.
「羽子板」は今と同じように羽をついて遊んだものです.バドミントンの元祖(がんそ)みたいなものですね.
大人になると「双六」(すごろく)や互いの首に縄をかけて引っぱりあう「首ひき」,耳にひもをかけて引っぱりあう「耳ひき」などの遊びがありましたが,どれもお金をかける博打(ばくち)でした.身分の高い人は「け鞠」(けまり),「貝合わせ」などお上品に遊んでいたようです.
いつの時代も人間にとって「遊び」は生活の大切な一部分でした.さあ,君達はしっかり遊んでいるかな?(遊びのページに行く)
A3.理由はいくつかあります.分かりやすいように箇条書にしましょう.
文永の役では,はっきり言って日本軍は惨敗(ざんぱい)でした.しかし,次の理由で勝ちました.
1.昼間の戦いは絶対に日本軍の負け.ところが夜になると元軍は船に戻って寝(ね)ていた.ここをゲリラ戦で夜襲(やしゅう)をかけて相手を悩(なや)ませた.
2.元軍は海を越えてきたので,食糧(しょくりょう)や武器あるいは補充(ほじゅう)の兵隊などの補給(ほきゅう)に不安があった.
3.元軍といってもその大半は朝鮮の人や中国の人で無理やり連れて来られた人が多かったため,士気(「しき」やる気)が元軍本体より低かった.
4.日本軍を甘く見ていた.
5.何といってもこれ!「季節はずれの嵐がおきた」そして船の多くが沈没(ちんぼつ)してしまった.
弘安の役ではだいぶ様子(ようす)が違いますよ.日本軍も十分に準備ができたからです.
1.北九州の海岸線に防塁(ぼうるい)を築(きず)いた.
2.集団戦法に対する戦い方がうまくなった.防塁の構築(こうちく)もあって元軍の上陸を許さなかった.
3.そして決めうちはやはりこれ!「またまた,嵐がおきた」です.
東路軍(とうろぐん)=4万人/江南軍(こうなんぐん)=10万人,合わせて14万人の元軍で,生き残って帰れた兵の数は3万数千人足らずといわれています.日本の武士達は溺(おぼ)れているもの,すでに死んで浜辺に打ち上げられているものの「首」を切り落としまくったと言われています.それはもちろん「恩賞」(おんしょう)を貰(もら)うためでした.しかし,前にも述べたように「恩賞」は貰えませんでした.それにしても,遠く異国の地で首をはねられて死んだ元軍もあわれでしたね・・・今も「元軍兵士の首塚」が北九州にあります.
文永の役/弘安の役で吹いた嵐のことを人々は「神風」(かみかぜ)と呼びました.以後日本人には『日本は神国』という考え方が生まれ,困ったときには必ず『神風』が吹くと思われるようになりました.
第2次世界大戦の終わりごろ,アメリカ軍と戦って負けそうになっていた日本軍が,国民に対して「必ず神風が吹く」などと宣伝(せんでん)したのも,鎌倉時代に2度も元の軍隊を打ち破ることのできた最大の原因である,この幸運の嵐が吹いたことからきているのです.
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