小学生とゲンボー先生のページ8 玉川学園・玉川大学
小学生の質問あれこれに戻る
中学生とのやりとりはこちら
こんにちは 私は山梨県の西条小学校の6年生です.クラスで鎌倉について調べることになりました.「なぜ源 頼朝は 実朝 頼家 3代で途切れてしまったのですか」図書室や図書館ではのっている本を見つけられませんでした.ゲンボ−先生おしえてください
ゲンボー先生
メールをありがとう.ゲンボー先生です.では,さっそく質問に答えましょう.
まず,なぜ流人だった頼朝が幕府を開き,将軍になれたのか?ということです. (るにん=都から遠くへ行かされる罪人のこと)
しかも,関東には沢山の武士団がありましたが,源氏より平氏のほうが多かったのです.
石橋山の合戦(いしばしやまのかっせん)で破れ,命からがら逃げた頼朝ですが,有力武士団の三浦氏や千葉氏が味方につくと,源氏とか平氏とかには関係なく頼朝に味方をする武士が増えていきました.
なぜでしょう・・・その理由をあげてみます.
1.関東の武士は領地(りょうち)争いがあっても都から離れていたため,なかなか裁判(さいばん)を受けられなかった.また,裁判しても一部の貴族や身分の高い平氏につごうのよい裁き(さばき)だったため,公平ではありませんでした.だから強いものが勝つということで,一般の武士は安心できなかったのです.
2.「大番役」(おおばんやく)といって,京都へ行き,都の警備(けいび)をさせられました.もちろん全て自費(じひ=自分でお金を出すこと)でした.しかも京都では身分の低い侍として,ものすごく軽く扱われていました.
武士でいばっていたのは都の平氏だけです「平氏に非(あら)ずんば人に非ず」です.
※同じ平氏でも地方にいる平氏は,他の武士団と同列でした.(同じレベルということ)
ということで,関東に住む武士団は「武士を守り,武士のための政治をする人」をまち望んでいたのです.頼朝は平清盛(たいらのきよもり)と戦った源義朝(みなもとのよしとも)の子で源氏の直系(ちょっけい)です.御先祖様の源義家(みなもとのよしいえ)は,関東の武士をひきいて東北で大活躍した人です.義家は朝廷が武士達に恩賞(おんしょう=ごほうび=土地のこと)を与えなかったために,自らの土地やお金を関東の武士団に与えています.義家のことを八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)とも呼びます.これなら知っているかな?
そんなこともあって,関東武士団の頼朝に対する期待というものがありました.しかし頼朝がどんな人物かは大部分の武士達はしりませんね.ですから頼朝が兵をあげたはじめのころに味方する武士は多くありませんでした.
ところが,石橋山の合戦で惨敗し(ざんぱい=めちゃくちゃに負けること)命からがら千葉に逃げた頼朝に,大豪族の千葉氏や上総の介(かずさのすけ)が味方につきました.もともと頼朝を大将として戦った北条氏や大豪族三浦氏もいます.そのことを知った多くの豪族が「あっという間」に味方につきました.
頼朝は石橋山の合戦で負けた40日後になんと3万あまりの兵を従えてしまったのです.それだけ関東地方の武士が,平氏の政治に不満をもっていたことがわかりますね.関東の武士は「自分達のための」指導者を待ち望んでいたのです.
頼朝が鎌倉に幕府を開いたのも関東の守りを固め,武士のための政治をするためでした.政所や侍所,それに問注所は幕府政治の柱ですが,どれも武士のために作られた役所です.(三つの役所の働きは教科書で調べてね)
頼朝は御家人(ごけにん=将軍の家来になった武士)どうしの領地争いには,必ず自ら裁判の場に立ち会いました.そして双方の言い分を良く聞いて,公平に判決したと記録に残っています.
武士にとって最も大切なことは自分の領地を守り,平和に暮らし家族が繁栄することです.
将軍と御家人は「御恩」と「奉公」の関係で結ばれていることを習いましたか?御恩とは御家人の持つ土地を保証することです.書類に「ここからここまでは誰々の土地」と書いて認めることと.敵が攻めてきたら将軍が命令して,みんなでやっつけてしまうことなのです.
奉公とは将軍のために働くことです.第1に「いざ鎌倉」といって将軍のために戦うことです.第2に,鎌倉や京都で幕府の役人として働くことです.こうして将軍は御家人を守り.御家人は将軍を守るという,武士の助け合いの組織が出来上がりました.これが幕府です.
かんちがいする人が多いので.あらためて説明しますが.幕府が出来たからといって日本中が幕府に従(したが)ったわけではありません.一番の政府は朝廷です.特に近畿地方(きんきちほう)より西は朝廷の政治がつづいていました. 幕府は武士という,それも主に関東の武士という特定の集団のための政治組織なのです.承久の乱以後は幕府の力が強くなり,実際の政治はかなり幕府が行いますが,それでも朝廷は政府として存在します.
さて,そんな頼朝も事故であっけなく死んでしまいます.長男の頼家は生まれながら将軍の子として育てられたために「わがまま」でした.
土地争いでみんなが真剣に考えているところに現れ,いきなり土地の図の真ん中に線をひいて「これで文句あるか」とやったのは有名な話です.こんなたよりにならない人が将軍では困ります.けっきょく頼家は伊豆の修善寺(しゅぜんじ)というところで暗殺(あんさつ=何ものかに殺されてしまうこと)されました.続いて将軍になった実朝は,武士というより貴族的な人で,馬にのって刀をふりまわすことよりも,和歌を歌っているほうが好きな人でした.中国にあこがれ大きな船を作らせたのは有名な話ですね.その船は大きすぎて海に浮かばせることは出来なかったそうです.
こんな実朝ですが,頼家の子供(公曉=くぎょう)にこれまた暗殺されてしまいます.誰かが「本当はお前が将軍になるはずだったのに」と公曉をそそのかしたといわれています.
(誰が頼家,実朝の兄弟を暗殺させたのかは歴史のなぞですが,大体見当はついています.ただそのことは君たちがもう少し大人になってから調べてみてください.)参考「実朝さんには二つのお墓がある」
いずれにせよ,頼家も実朝も,御家人を守る将軍としては不十分な人でした.御家人達はそのことを良く知っていました.ですから大多数の御家人は頼家や実朝にはあまり期待はしていなかったのです.
以後は頼りにならない人を将軍にするより,将軍はかざりもので,実際は有力な御家人が話し合いで決めるという体制になりました.それが執権政治(しっけんせいじ)で,北条氏が初代の執権です.しかし,この政治も代々北条氏が執権(しっけん)を続けるうちにおかしなことになりました.
いつでも質問をくださいね.皆さんの学習がうまくいくことを祈っています.
ゲンボー先生
ホームにもどる 注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.