小学生とゲンボー先生のページ17 玉川学園・玉川大学
源平合戦について、聞きたいのですが、インターネットの内容がむずかしいので、わかりやすく教えてもらえませんか?よろしくおねがいします。
質問1
源平合戦の戦い方(作戦・戦いのあった場所・武器・服装)について。
質問2
なぜ、源氏が、勝ったのか?
ゲンボー先生
麻美さん メールをありがとう.
1.戦いのあった場所は,下の図の通りです.何ケ所かをクリックするとそこの写真を見ることができます
2.作戦ですが,義経の「ひよどりごえ」や「はっそうとび」,あるいは木曽義仲の「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の火牛の戦法」と,源平の戦いには「奇抜」(きばつ=かわった)な戦いが有名です.
しかし,これらは江戸時代の歌舞伎(かぶき)や,本などでおおげさに「面白く」とりあげたもので,それがいつのまにか源平の戦いのイメージになってしまったものです.
たしかに源氏方には東国の勇敢(ゆうかん)な武士が多く,平氏方は「命が惜しい」西国の武士や貴族化した武士が多かったのですが,平氏だってやられっぱなしではありませんでした.
この時代の戦い方の基本は「一騎うち」(いっきうち)です.互いに名乗りあって相手の顔と名前を確認してから戦います.
ですから,大勢いて敵味方が入り乱れてしっちゃかめっちゃかになっているときでさえ,「俺はだれだれ」と名乗り合っていたのです.戦争の常識(じょうしき)からするとずいぶんのんびりしていますね.ところが,負けちゃうと必ず首を切り落とされました.なぜなら,相手の首をもっていけば,新しい土地をもらって地頭に任命(にんめい)されるからです.相手が偉(えら)ければ偉いほど恩賞(おんしょう)はよくなります.だから目立つように目立つように戦ったのです.
ところで,多くの戦いで形にとらわれない夜襲(やしゅう=真夜中にこうげきすること)や奇襲攻撃(きしゅうこうげき=とつぜん,こうげきをすること)を源氏側はとりました.でも言っておきますが,やはり戦いの最中でも「名乗った」のですよ.ただ平氏側は寝ぼけていたり,予想外(よそうがい)の事があったため,準備が出来ていなかったり,あわてていたために負けちゃったケースが多いのです.
3.この時代の武器は「太刀」(たち)「よろいどおし」「なぎなた」「弓矢」です.
「太刀」はそりが強く片手で戦えるようにやや細身の刀です.馬に乗りながらでも使いやすいようにできています.
「よろいどおし」は名前のとおり,組み伏せた相手の身体を刺すための小さな刀です.これで敵の心臓をついたり,首を切ったりするのです.
「なぎなた」は主に歩兵が使いました.敵(てき)の足を切ったり,相手を切りつける道具です.
「弓矢」はとても大切な飛び道具ですね.馬に乗りながら正確にうつ訓練(くんれん)を「やぶさめ」とか「笠がけ」といい,今でもお祭りのときなどに行われています.また,互いに矢の届(とどく)くところまで近づいて「矢合わせ」ということもやりました.「かぶら矢」はうつと「ぶーん」と音を立てて飛びます.戦いの前や矢合わせの時にうちます.
矢じりの先も二股(ふたまた)に分かれているものや,ささったら抜けないような形をしたものなど,色々あります.
4.戦の時の服装ですが,「こそで」という下着の上に「よろい直垂」(しただれ)という服を着ます.それから足袋(たび)を履(は)き.手袋をつけます.さらに「すね当て」や左腕(ひだりうで)に弓の弦(つる)が当たらないように篭手(こて)をつけます.
その上にいよいよ鎧(よろい)をつけるのです.
鎌倉時代の「よろい」や「かぶと」は,どれもきらびやかです.それは,自分の戦いぶりが目立つからなのです.
5.源氏が勝った一番の理由は,東国の武士が自分達の生活を守るために必死に戦ったからです.
力の無い頼朝が多くの東国武士に支えられたただ一つの理由は「武士の生活を守る組織」がほしかったからなのです.ですから頼朝が死んだあと二人の息子には用が無いので,暗殺(あんさつ)されてしまいましたね.
「武士のための」「武士による」組織が幕府なのです.
麻美さん まだ難しいようだったらまたメールをください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
という質問にさっそくお答えしますが,面白い質問なので「灰」の利用法もいっしょに教えちゃおうね.
1.ズバリ肥料(ひりょう)です.草や木を燃やしたあとにできる灰はアルカリ性なので,酸性(さんせい)の土をきらう植物には大変助かります.人間の身体だってアルカリ性がよいと言われています.
2.肥料のつづきです.植物が育つためには,窒素(ちっそ)・リン酸・カリの3種類の物質(ぶっしつ)が必要です.窒素は葉っぱを作ります.リン酸は根っこを作ります.灰は3番目のカリ肥料として実を作ります.ですから灰をまくとお米や麦などのとれる量が増えたり,「ウリ」などが大きく立派になります.
3.昔は山の斜面(しゃめん)を焼いて畑にする「焼き畑」(やきはた)が各地で行われていました.草や木を焼はらうことで肥料になる灰がたくさん土に混ざるとともに,害虫や悪い菌(きん)がいなくなるという一石二鳥の農業だったのです.
焼き畑では毎年同じものを作ることが出来ないため,場所をかえながら畑を作っていきました.そうして何年かすると最初に畑にしたところが雑木林(ぞうきばやし)になって,またそれを畑にかえていきました.現代では化学肥料ができたことや労力(ろうりょく)が大変なので,四国や九州の山奥でほんの数ケ所だけになってしまいました.
それ以外にも灰には多くの利用法がありました.
4.薬として使われました.焼いてできた灰には「ばい菌」がいません.そこで切り傷やすり傷などの時,傷口に灰をぬって血を止め傷口をかわかすことに使われました.
5.染め物(そめもの)をする時,最後に灰を溶いた水につけると色落ちがしなくなります.また,灰自体も染料(せんりょう)として使われたそうです.
6.油汚れなどの食器は灰で洗うと「うそ」のようにきれいになります.つまり洗剤(せんざい)にも使われました.
7.髪(かみ)を洗う時も昔の人は灰を使ったそうです.灰で洗うと髪の油分がとれてサラサラになります.
8.陶器(とうき)の釉薬(うわぐすり)になりました.釉薬とはガラス質のツヤツヤの部分です.高熱で陶器を焼くとそこにかかった灰が釉薬になります.出来上がりは部分的にツヤツヤの表面ができてシブ〜イ仕上がりになります.
9.灰汁抜き(あくぬき)の元になります.トチの実やドングリはそのままでは「渋くて」とても食べられません.ところが灰を溶かした水「灰汁」(あく)につけると,あら不思議!シブがとれてしまうのです.これはコンニャクも同じです.
昔の人は,草や木が燃えたあとの灰まで大切に使っていたんですね.
ゲンボー先生
何度もうかがえる場所(きょり)ではないので大変ご迷惑かと思いましたがなにかうかがえないかと思い、メールを送らせてていただきました。迪子/智沙子/恵里沙
私たちの調べているテーマは
1、だれがつくったのか
2、最初、六地蔵はどのあたりにあったのか
3、むかしは、どのような方法で処刑されたのか
4、1人1人、顔の形がちがうのはどうしてか、
5、6つの苦しみとは何か
6、いつごろできたのか
このような事を特に調べたいと思っております。
ゲンボー先生
迪子さん・智沙子さん・恵里沙さんメールをありがとう.
申し訳ないのですが,鎌倉の六地蔵について詳しいことは知りません.わかったら先生が君たちに聞きたいくらいです.ですから質問の1と2はわかりません.6については実際に見に行けばわかるのですが・・・年号が書いてありましたか?
分かることだけ書きます,
鎌倉で有名な六地蔵と言えば御成町(おなりまち)から長谷に向かう差点にある「六地蔵」ですね.鎌倉時代の刑場(けいじょう=罪人を死刑にするところ)があったところで,後の人が殺された人の霊(れい)をとむらうために作ったと言われています.
「六地蔵」は11世紀頃からさかんに作られましたから,ちょうど平安時代(へいあんじだい)の終わりごろからですね.お寺や墓地の入り口に置かれることが多いようです. 先生もあちこちのお寺で見ましたがその多くは江戸時代のものでした.
六地蔵とは、地蔵が六道(地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人界(じんかい)、天上(てんじょう)に,死んだあとに生まれ変わる人々を助ける六種の分身です.
6つの道と,6種の分身とは
「地獄道」罪が罪を生む苦の世界、地獄道にいる『檀陀地蔵(だんだじぞう)』
「餓鬼道」飢え、欲ばりの世界、餓鬼道にいる『宝珠地蔵(ほうしゅじぞう)』
「畜生道」動物的無道徳の世界、畜生道にいる『宝印地蔵(ほういんじぞう)』
「修羅道」争い続け、平和のない世界、修羅道にいる『持地地蔵(じじじぞう)』
「人界道」生老病死、天災に悩まされる世界、人間界にいる『除蓋障地蔵(じょがいしょうじぞう)』
「天上道」天上界にいる『日光地蔵(にっこうじぞう)』
ですから,顔だちも少しずつちがうのです.先生が鎌倉時代の古道(足柄峠)で見た六地蔵の写真を紹介しましょう.
今、総合的学習の勉強で,鎌倉のことについて調べているのですが、わからないことがあるので,教えていただけますか?
私達は,七つの切り通しについて調べています。内容は,由来,いつ,だれが造ったか,などを調べています。由来はだいたいわかったのですが,いつごろ造ったのかと,だれが造ったかは資料がたりず,困っています。なので,もしおわかりになることがあったら教えていただけますか?
ゲンボー先生
仁美さん・愛さん・まゆさんメールをありがとう.
まず,先生のホームページ「鎌倉時代の勉強をしよう」「みんなの広場」「中学生の質問」のなかにある「切り通しの質問」に先生が答えていますが,それはもう読みましたか?
三方を山に囲まれた鎌倉に入るためには崖(がけ)を切り抜いた「切りとおし」を越えなければなりませんでした.極楽寺坂/大仏坂/化粧坂(けわいざか)/亀ケ谷坂(かめがやつざか)/巨福呂坂(こぶくろざか)/朝比奈切り通し/名越坂(なごえざか)がそれです. ところがこれらの切り通しは江戸時代に確定したもので,鎌倉時代にはもっとあったらしいのです.
鎌倉は古くから「東海道」の重要な場所でした.奈良時代の文書にも「鎌倉郡鎌倉郷」(かまくらぐん,かまくらごう)のことが出ています.
ですからその時代からいくつかの切り通しがあったと言うことなのですね.後に鎌倉には郡衙(ぐんが=地域の役所=税を集めたり政治を行うところ) がおかれますから,その時代からもいくつかの切り通しがあったと言うことになります.でないと道も通れないし,税も集められない・・・
こんな訳ですから「だれ」が「いつ」作ったかということは分かっていないのです.平安時代の終わりになって頼朝の御先祖様が鎌倉を領地にしました.この人たちは武士でしたから,とうぜん鎌倉を守りに強い土地にかえていきました.おそらくいくつかの切り通しはこわされ,重要な街道(かいどう)につながる道を残し,さらに新しい切り通しを作ったと思われます.
後に鎌倉に武士の政権ができるとそこに関所が作られました.
君たちは実際(じっさい)に鎌倉に行きましたか?切り通しにも行きましたか?もし行っていたら分かるのですが,切り通しの土質はしっかりとしまった砂層(さそう)と粘土(ねんど)から出来ていますが,実は掘りやすいのです.ですから切り通しそのものを作ることはそんなに難しいことではありませんでした.
むずかしいのは,どこに作るか,どんな形にするかです.
極楽寺坂(ごくらくじざか)切り通しに行くと分かりますが,切り通しをこえた鎌倉がわの高台に砦(とりで)のあとが残っています.敵が攻めてきたら狭い切り通しの上から攻撃するためです.(それでも新田義貞の軍勢にやられて,当時の砦にいたと思われる兵士の首が近くから沢山発見されました.)
君たちの望むような答えにならなくてごめんなさい.「いつ」「だれが」は特定できないのです.
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
洋輔君.拓也君メールをありがとう.
前のお友達にも書きましたが,七切り通しが確定したのは江戸時代です.それらの7つは当時の重要な道につながっていたきり通しです.それ以前にはもっとあったといわれています.鎌倉時代には交通量の多かった釈迦堂(しゃかどう)切り通しですが,江戸時代には人通りも少なくあまり使われていなかった切り通しだったようです.
ところで君は実際に釈迦堂切り通しに行ってみましたか?あそこはトンネルになっていてすごいよね!そのトンネル内に五輪塔(ごりんとう=死んだ人の霊を供養する塔)がまつってあるところからも,鎌倉時代の切り通しだったことが分かります.
ゲンボー先生より
資料を集めているのですが、なかなかよい資料が見当たらなくて困っています。
一つは、今までにお寺などが家事や地震、関東大震災や第2次世界大戦などの被害にあったりしていないのかなということです。円覚寺は火事でかなり焼けたということを聞きましたが、そのほかのお寺や神社などはどうなのでしょうか?ここが私たちの調べていることです。
もう一つは、鎌倉市では国宝などに指定されている、古い建物(お寺)をどのように保護しているのか?と、いうことです。
ゲンボー先生
すみれさん・亜耶さんへ
メールをありがとう.1についてはくわしいことが分かりませんからもう少し調べてからご返事します.
その後分ったことを書き加えました.
円覚寺にかぎらず鎌倉時代のお寺は何度か火災にあい,また震災にあっています.震災と言っても関東大震災(大正12年)だけではありません.鎌倉時代から今日まで大きな地震が何回もありました.その度にお寺や神社などの古い建物がこわれています.しかし,何回も人々の手によって修理されてきました.木造の建物は西洋の石の建物と比べて燃えやすいと言う欠点がありますが,なおしやすいという長所もあるのです.
2は次のとおりです,小学生にはちょっと難しいかもしれませんから,先生に聞いてみてください.
文化財保護法(ぶんかざいほごほう)と言う法律があって,国宝に指定されると法律にもとづいてお寺を管理しなくてはりません.
1.国宝に指定された仏像などは「盗まれない」ような処置をしなくてはなりません.
2.火事にならないように「電線」や「火元」の管理が決められたようにしなくてはなりません.
3.火事になったらすぐに消せるように,消火栓(しょうかせん)や消火砲(しょうかほう)を置くことを義務付けられます.
4.補修(ほしゅう)や修理(しゅうり)には補助金(ほじょきん)がでます.
つまり,国宝は国民の宝ですから,所有者(しょゆうしゃ)がかってに改築(かいちく)したり売ったり出来ないようになります.さらに盗まれたり焼けたりしないようにするのです.そして現状のままをず〜っと保ち続けなくてはなりませんから,補修(ほしゅう)をするわけです.これにお金がかかります.どこかの柱が腐(くさ)った場合には,まず,腐ったところを取り除きその部分に薬をぬって,さらに充填剤(じゅうてんざい=穴埋めの薬,乾くと固くなる)を入れて,元のとおりの木目や色にぬって分からないようにします.
この程度の補修で間に合わない時には,同じ木で同じように作られたものを同じように立てなくてはなりません.
ですから,そうならないように,常日頃,掃除(そうじ)をしっかりしたり,ちょっとでも異常があったら,すぐに修理します.しかしどんな小さな修理でも文化庁に届け出て,OKが出なければできません.は〜,しんどいですね.
これがお寺のように,個人の持ち物でない場合は管理の仕組みもちゃんとできているし,信者や本山からの援助(えんじょ)もあるのですが,個人の持ち物ですと大変です.
ですから国宝や需要文化財(じゅうようぶんかざい)の家になんかに住んじゃうと,うかうか「たき火」も出来ないし,クーラーだって取り付けられません.僕達は普通の家に住んでいて良かったね・・・
ゲンボー先生より
鎌倉時代の食べ物は何がありますか?それと、その食べ物は何がいくらしますか?おしえてください。お願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう
材料については先生のホームページを見てください.色々出ています.材料は今とほとんど変わりませんが,料理の仕方がちがいます.焼(や)く,煮(に)るが中心で,魚を生で食べたり,揚(あ)げたりする料理はあまりありませんでした.理由は,生だと保存がきかないことと,油が貴重品(きちょうひん)だったからです.
そのかわり,塩漬けの魚や干物(ひもの)は沢山ありました,お魚だけではなくキジやウズラなどの鳥まで干物にしています.特に鮭(さけ)の干物は好まれたようで,記録にも沢山出てきます,これは新潟県の名産として今でも多く作られています.鎌倉時代には「すはわり」とか「すはやり」と呼ばれていたものです.あの頼朝さんも「鮭のすはやり」が好物だったそうです.これは今でも「鮭のとば」と言われてお酒のおつまみになっていますね.特に新潟県の村上市のものが有名です.
また,酢漬けや寿司も多かったようです,お寿司と言っても今のものとはずいぶん違います.お魚のお腹の中におご飯を入れてはっこうさせて酸(す)っぱくしたものです,お酢が自然にできるのです.こうすると腐りにくいからです.昔の人の知恵ですね.いまでも滋賀県にフナのなれ寿司というのが残っていますが,これなど平安時代からの伝統(でんとう)が今でも残っているものです.
さて,値段ですが・・・分からないのです.そういう記録が残っていないのです.
また,ちょっといなかに行くと,お金ではなく「物々こうかん」と言って,物と物を交換して売り買いしていたから,なおさら分かりません.
もっと知りたいことがあったらまたメールをください.
ゲンボー先生より
ホームにもどる 注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.