小学生とゲンボー先生のページ25 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
メールをありがとう.
鎌倉宮は鎌倉幕府を倒した時の天皇「後醍醐天皇」の第三皇子「 大塔宮護良親王」(だいとうのみやもりながしんのう)をまつった神社で,明治2年に明治天皇によって創られました.
この神社の裏手に,鎌倉幕府によってつかまえられていた「護良親王」が入れられた土牢(つちろう)があるためです.いったらぜひ見てください.
鎌倉宮は鎌倉駅前からバスに乗って行くのが一番便利です.駅の案内で路線の番号を聞くのが一番イイでしょう.帰りは歩いて鶴岡八幡宮に行ってもいいし,とちゅうで寄り道をして「釈迦堂切り通し」(しゃかどうきりとうし)や「頼朝の墓」に行ってもいいですね.道が狭いので車に気をつけてね.
鎌倉宮から山道を通って建長寺に抜けるハイキングコースもあります.ちょっときついけど,途中に見晴らしのいいところもあってなかなかいいですよ.これですと北鎌倉の駅から帰ることになりますね.建長寺に抜けると円覚寺や東慶寺もあります.ただし女の子だけで山道へ入ってはいけません.大人の人がいたほうが安心です.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
「常陸大掾氏」ですね?「ひたちだいじょうし」と読みます.平安時代の後期に常陸(ひたち=今の茨城県)の大掾(だいじょう=役人のくらい)となった平家の子孫です.本来ならば平(たいら)のなになに〜と言う名前があるのですが,代々常陸を治めたので大掾という職名が家の名前になった一族です.
ゲンボー先生
梶原景時のことを教えてください。
ゲンボー先生
メールをありがとう.
梶原景時は頼朝が伊豆の目代(国主の代理人=平家の家来)をたおしてから,相模(さがみ=神奈川県)の三浦氏や中村氏と手を組んで関東地方の武士を従えようと動いている最中,石橋山(小田原の近く)で平家の軍勢と戦ったときに出会ったのが最初です.
平家軍3000人対頼朝軍300という戦いは誰が見ても頼朝の負けです.めちゃくちゃにやられた頼朝は数人の武士と湯河原(神奈川県)の山の中を逃げますが,その時に頼朝を救った一人が梶原景時だったのです.景時は平家軍にいましたが,頼朝を発見したのに見逃しました.
このことから頼朝は景時を命の恩人と思い,一番信頼できる家来と大切にしたのです.景時も頼朝の信頼に精一杯応えようとしました.景時は頼朝にとってマイナスなことはすべて消し去るための努力をしました.そのために義経をはじめ頼朝のじゃまになる人のことをすべて報告しました.そのために命を失った人が何人もいました.頼朝には信頼されていた景時ですが,仲間の武士からは油断のできない男,すぐに頼朝に話してしまう信用できない男と思われていました.
頼朝の死後に景時のことを良く思っていない武士が命を狙うようになりました.そこで景時は息子や家族を連れて京都に登り,兵を集めてそうした武士たちと戦おうと思ったのです.
ところが静岡市の郊外をさしかかったところで見つかり,戦いになって自害したと言われています.梶原山はその場所といわれているのです.
ゲンボー先生
1、武士が政治をするようになって、農民の暮らしは良くなったのだろうか
2、室町時代になって(それまでの時代と比べて)、民衆の暮らしはどうかわったか
3、織田信長の天下統一を民衆はどう思ったか
4、検地や刀狩りによって、民衆の生活は良くなっていっただろうか
という問題が出ました
インターネットでも資料集でも調べましたが良く分かりません。両親にも聞きましたが、わかりませんでした。よろしくお願いします
ゲンボー先生
詩織さん.メールをありがとう・・太変だね・・(笑)
1.良くなったところもあれば苦しくなったところもあります.鎌倉幕府は全国の荘園(農地をふくむ村々)に地頭を配置しました.これは知ってるね・・分からなかったら先生のホームページで調べてください. http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/syouen/syou-el1.html
です.
近畿地方より西に配置された地頭のいくさきには「持ち主=豪族・貴族・大きな寺社など」のいる荘園がありました.そうした荘園に行った地頭は,自分たちの取り分を農民から取り上げなくては生活ができませんから農民をおどかして働かせる地頭も数多くいました.
現在の和歌山県にあった「あてがわ庄」の農民は「私たちが山で木を切り出しているところへ地頭がやってきて,麦を作れといっています」「言うことを聞かないと女子どもの耳を切り取ったり,鼻をそぐといっています」という訴えを荘園の持ち主にしています.
いっぽう,もともと荘園の持ち主だった地頭がいるところは,今のようなところと比べて農民を大切にしました.また,地頭の性格も大きく関係しているようです.岡山県の新見というところでは,秋の収穫の時に農民を招いて宴会を開いています.また,お米や鉄(新見の庄では鉄の生産をしていました)を高い時期に売って利益を上げたりもしています.なぜそういうことが分かるかと言えば記録が残っているからです・・面白いね・・
関西や中国地方は進んでいた地域でしたから,地頭の中には「うまく経営する」ということを考えていた人もいました.そういうところでは,むりやり農民に命じて「生産をあげろ」というのではなく,どうしたら農民のやる気をおこしたり,同じ量でもより多くの利益を上げることができるかと言うことを考えていたのです・・これは現代にも通ずることですね.
2.室町時代は鎌倉時代より一そう経済が盛んになり,人や物の行き来がはげしくなりました.ということは庶民にも物の売り買いをすることが広まったということになります.江戸時代のように「士農工商」といった身分も決められていませんでしたから,農民から商人や職人,あるいは武士になる人もいました.
土地を持たない農民や技術を持たない人々はいつの時代も苦しい生活をしていましたから,室町時代にかぎったことではありませんね.
3.信長の天下統一は完全ではありませんでしたから,人々が「天下統一」についてどうこう考えることはなかったと思います.ただ,信長の支配下にあった国の人は「楽市楽座」で経済が盛んになったり,土地の開拓が盛んになって良かったと思っている人が多かったと思います.なかでも明智光秀(あけちみつひで=後に信長を殺す人)は良い政治を行って領民から「生活が楽になった」と喜ばれていたそうです.反対に信長の敵だった国の人々は信長をおそれていました.なぜなら信長のやり方はてっていしていて,皆殺しなどを平気でおこなったからです・・信長は天才的な政治家でしたが,やりかたも強引で,よい人にはよいが悪く思う人もたくさんいたというわけです.
4.検地の目的は正確な収穫量を知って,大名をコントロールすることでした.つまりアブナイ大名は生産量(収穫量)の少ないところへ・・というぐあいにね・・また,農民にとっては作られる量がわかっちゃうので年貢をバッチリ取られると言うことになります.
刀狩りの目的は,農民の反抗をおさえるためですから,年貢を多く取られても反抗できなくなってしまったわけです.
大名が最もおそれる一揆(いっき=農民が武器を持って反抗すること)はこうしておさえられていきました.
つまり検地と刀狩りは「武士が農民を完全に支配する」ためにおこなわれたのです.このことは江戸時代になって完成します.だから江戸時代の農民は苦しかったのです.
ですから答えはかんたん・・農民の暮らしは苦しくなっていったのです.
兵庫県三木市立豊地小学校、6年生のK.Aです。戦死をした人のお墓の形は、どうして普通の病死した人のお墓と形が違うんですか?
ゲンボー先生
メールをありがとう.それはお墓じゃなくて「石碑」ではないですか?個人のお墓は各家庭で作るものですから大きさや形にそれほどの差はないと思います.
国のために死んだ人には村とか町とか県とか国が「忠魂碑」(ちゅうこんひ=国のために死んだ人をたたえる碑)や慰霊碑(いれいひ=霊をなぐさめる碑)という形で,個人や地域の戦死者をたたえたり,霊をなぐさめたのです.
ですから君が言っているお墓のようなものには文字がたくさん書かれていませんか?今度,チャンスがあったら読んでごらん.
その人たちがどのような戦いでどのように死んだかが分かると思います.
それも日本の歴史を知る上でのよい勉強になりますね・・・
ゲンボー先生
〈はじめての質問です〉昔は、源頼朝には名前と名字の間は「の」がついていたのに、北条政子の場合には「の」がつきません。「の」はどういう場合につけるのですか?朝霞第3小学校5年生 ゆうこ
ゲンボー先生
ゆうこさん.メールをありがとう.
面白いことに気がつきましたね,名前に「の」がつくのは女性の場合もありますが,やはり男性のほうがはるかに多いですね・・昔は家をつぐのは「男子」ということが多かったということからきています.
この時代は個人も大切ですがそれよりも「家」や「家名=かめい」がもっと大切と思われていました.当時の武士は家の名に恥じない行動をすることや,よい働きで家の格を上げることに努力したのです.
それは家の勢いがましたり,分家が増えて広い土地を支配するようになれば「いくさ」のときに有利になるからです.戦争に負ければ一族が皆殺しになることだってあります.それだけに一族のまとまりが一番大切なことだったのですね・・・
それで,「源=みなもと」という家を代表する「頼朝」なので「みなもと(の)よりとも」と言われたのです.同じ源でも地方にたくさん散らばっているので土地の名前をつけて「木曽義仲=きそ(の)よしなか」と呼ばれる例もあります.
ただ,語呂といって響きのよい,わかりやすい,言いやすい方を選んで呼ぶこともあります.
例えば北条義時の場合は(ほうじょうよしとき)とそのまま呼ばれます,しかし,義時の別名「江間小四郎」を使う場合は「えまのこしろう」と呼ばれます.
女性の場合も権力を持った人や有名な人の場合に「の」がつくことがありました.例えば平清盛の奥さんだった平時子「たいら(の)ときこ」や,藤原道長(ふじわらのみちなが=平安時代の貴族.権力があった人)の娘「藤原彰子」は「ふじわら(の)しょうし(あきこ)」と呼ばれています.
また本名ではなく「位」(くらい)で呼ばれる例もあります.平時子は別名「二位の尼」と呼ばれました.江戸時代になりますが「春日局」(かすがのつぼね)という人もいました.
さっきも書いたように,昔は個人と言うよりも「家柄」や「地位」が大切だったので人の名前も様々に変化しました.ですから子どもの頃の名前と大人になってからの名前が変わったり,地位が変わったり領地が変わったりすると名前も変わったりしたのです.名前と名前のあいだの「の」はそうした昔の家のあり方や社会のあり方を表している一部分といえますね.
むずかしかったね・・・保護者の方にこのメールをみていただいて説明してもらってください.分からないことがあったらまたメールをくださいね.お勉強頑張ってください.
ゲンボー先生
質問するのですが百人一首は誰が作ったのでしょうか?もしかしたら鎌倉時代に関係のない事かもしれませんが返信よろしくお願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.
小倉百人一首を作ったのは 藤原定家(ふじわらのさだいえ1162〜1241)と言う人です. 定家は和歌(わか)を作ることがじょうずで天皇やかまくらばくふ三代しょうぐんの源実朝(みなもとのさねとも)にも和歌を教えていました.
この人が,万葉集(まんようしゅう)や古今和歌集(こきんわかしゅう),新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)などからえらんで作ったのが百人一首です.小倉(おぐら)と名前がつくのは,定家が百人一首を選ぶときにすんでいた別荘が京都の小倉にあったからだと言われています.
また,定家は明月記(めいげつき)という日記をつけていて,平安時代から鎌倉時代になるころの天皇や貴族,平家や源氏のことがよくわかるために,今の人がその時代を調べるのにとても役にたっています.
百人一首に選ばれた歌を作った人は,次のホームページを見ればよくわかりますよ・・ http://www.joho-gakushu.or.jp/kids/kokugo/data/ogura.html
ゲンボー先生
愛媛大学教育学部附属小学校の慶です。返信ありがとうございます。百人一首の作者が分かってよかったです。これからも質問したいと思っています。
これも質問の広場の番外編にのせてほしいと思います。
ゲンボー先生
わかりました.もう少ししたらのせましょう(笑)また質問をくださいね.ところで君は3年生とのことですが自分でメールをうっているのですか?先生のページを読んでいみがわかりますか?
ぼくは、自分でメールを打ち込んでいます。意味はわからないところもあります。
今回の疑問は「なぜ元寇は2度も同じ北九州にきたのか?」という疑問です。分かるはんいでいいので答えを教えてください。
愛知県西加茂郡藤岡町立御作小学校 6年 美波・光保
ゲンボー先生
美波さん,光保さん.またまたメールをありがとう.それも先生のページに詳しく出ているよ・・・あ,そうか・・こりたはずの北九州にというわけだね・・
・それはね,元は第1回目の遠征で負けたと思っていなかったからです.たまたま嵐で船は沈んだが日本は十分に驚いただろう,と思っていたからです.そもそも第1回目の元寇は戦争で日本をやっつけに来たわけではなかったのです,九州を占領する気もなかったと思います.世界の情勢を知らない日本に元の怖さを思い知らせてやろう・・・という感じだったのです.
ですから2度目も朝鮮や中国に近い北九州に来たのです.2度目はあきらかに日本の土地を占領する気持ちがあったと思います.それは船や兵隊の数からも分かることです.
しかし,朝鮮と中国の2カ所から出撃した船団も,互いの連絡がうまくとれなかったり,日本もその気で防御したこともあって,うまくいきませんでした.そうこうしているうちにまた嵐がきて船団は大きな被害を受けることになってしまいました.・・・まあ,日本にとっては大変に幸運なことだったというわけですね.
ゲンボー先生
こんにちは。ぼくは、小学校5年の桜庭といいます。ホームページを見て、質問させてもらいます。鎌倉幕府とは、いつできたんですか。鎌倉時代では、何を主に食べていたんですか。 子供達は、何で遊んでいたんですか。何才位で結婚いていたんですか。平均寿命は、何年ですか。頼朝と義経は、何で仲が悪くなったんですか。よろしくお願いします。北海道松前郡福島町立吉岡小学校 5年 友和
ゲンボー先生
友和君メールをありがとう.
鎌倉幕府は1185年ごろにできました.教科書には1192年って書いてあると思います.先生のホームページにも書いてあるように「このときにできた」ということがないので,守護(しゅご)と地頭(じとう)といって国(くにといっても今の都道府県にあたるものです)や荘園(しょうえん=農地がある土地のこと)を治める人を,頼朝が決められるようになった年が「だいたいの年」といわれているのです.
1192年は頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という位になった年のことで,あんまり意味はないのですが,江戸時代の学者が「この年が幕府のできた年だ」といったので,それ以後そうなっちゃったのです.今では全国的に「イイクニツクロウ(1192)鎌倉幕府」と教えているのでそうなったままなのです.
食べるものはね・・いっぱいありましたよ,材料で言うなら今の輸入品以外のものならほとんどあったといってもまちがいありません.ただし,料理の仕方は少しちがっていたり,食べ方がちがっていました.海辺の人とそうでない人,または身分や貧富(ひんぷ)のちがい,あとは季節によって食べられたものはちがいます.くわしくは先生のホームページを見てください.
子供はいつの時代にも遊びがしごとです.コマや羽子板,「ぎっちょう」と言うホッケーのような遊び.竹馬・・などなど・・すごろくもありました.これらはほんの一部です.いまのように部屋にとじこもって一人か二人でピコピコやってるテレビゲームのような「くら〜い遊び」はありませんでした・・(笑)
結婚は人によってそれぞれちがいます.この当時の人の平均的な寿命は50歳以下ですから,今の人より何でも早かったのです.男子の場合,元服(げんぷく)といって成人になるのはだいたいが14〜5歳です.この年になるいつ結婚してもおかしくありません.ただしいっぱんてきには17歳〜22〜3・4歳くらいかなあ・・女子はもっと早くて12〜3歳で結婚するものそれほど珍しいことではありません.
ただし,結婚といっても今とはだいぶちがいますよ・・ふつうは男の人が女の人に家に住みつきます.生まれてきた子供は女の家が育てます.男の人は別の家にも行ってそこにも奥さんがいます・・こういうのを婿入り婚(むこいりこん)といいます.鎌倉時代になると関東地方・・つまり武士の力が強いところでは,今と同じような嫁入り婚(よめいりこん)がふえてきたようです.
頼朝は武士中心の政治を目指している・・・義経は兄頼朝の言うことを無視して朝廷(ちょうてい=天皇中心の政治)のいうことを聞きそう・・・
ということで,頼朝は戦も強かった義経を「アブナイやつ」と思ったのです.兄弟といっても母親もちがい,身分にも差があたっため,今の人が感じているほど仲良しではありませんでした.頼朝は頭もよく行動力もある人でしたが「うたがい深い」性格だったようで,弟たちはほとんど殺されています・・・こういうことは教科書には書いてないねえ・・
ゲンボー先生
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