小学生とゲンボー先生のページ1
 
 
 
 
玉川学園・玉川大学


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質 問

僕の名前は、玉川学園小学部の6年生の丸山です。 僕は今、社会で鎌倉見学のまとめで銭洗い弁天の事をやっています。 そこで銭洗い弁天の入口に、「宇賀福神」(うがふくじん)という言葉が、目にはいったんですけど、いみがわからなくて本で調べたんですけど、どの本にものっていませんでした。 どの本にのっているかおしえてください。

ゲンボー先生

今ここに本がないので君に紹介することが出来なくて残念ですが,先生が知っていることを話しましょう.
「宇賀神」(うがじん)とは穀物(こくもつ)の神様のことです.それが「福の神」となり,弁財天(べんざいてん)と同一視(どういつし=同じように見られたり考えられたりすること)されるようになりました.だから君たちが見た「銭洗い弁天」に天女形の像があったでしょ?それで弁財天=宇賀神=宇賀福神となるわけです.
お参りに来た人達はあそこで,お金を洗っていたでしょ.ああすれば”お金が増える”つまり幸福になるというわけですね・・・・他には「白蛇」や「狐」を祭ったものもあるそうです.
ところで,君は面白いところに目を付けたね・・・何かを研究する上では,そうした視点をもつことがとても大切なことなんだ.その姿勢をいつも大切にしてくださいね.



質 問

私は、玉川学園小学部の6年生石和,栖原です。 私達のしつもんは、若江島で拾った、うつわのかけらについてです。 この拾ったかけらは、他のかけらと違う点がたくさんあります。 その違う点とは、まず色です。他のうつわは、茶色っぽい色なのにこのなぞのかけらは、 緑っぽい色なのです!! それに、ほかのかけらには見られない、白い点々と、白い線があります。 これは、なにに使われたうつわなのでしょう?

ゲンボー先生

土を焼いて作った器は土器(どき)→陶器(とうき)→磁器(じき)と大まかに分けて3つの種類があります.
土器は小学部にも置いてある縄文式土器や弥生式土器,あるいは土師器(はじき)などです.陶器は厚手の焼きもので釉藥(ゆうやく=うわぐすりのこと)をかけるのが一般的です.君たちが美術の時間に作るのはほとんどこれです.
磁器は焼く温度がとても高いために中がガラス質になっています.みんなが使っている「お茶碗」なんかそうだよね.
で,今回の質問にある『緑っぽい色.白い点々.白い線』の器のかけらですが,それは青磁(せいじ)という当時としては大変貴重で高価な器のかけらだと思われます.
当時の日本の技術では青磁を焼くことは出来ませんでした.したがって,君たちの拾った器の破片が青磁だとしたら,それははるばる大海原をこえて中国から来たものなのです.
鎌倉時代にも平氏の時代と同様に宋(そう=当時の中国)との交易を行っていましたから,九州の博多(はかた)を中継(ちゅうけい)して和賀江島(わかえじま)に宋の品物がついたのです.その時に何らかの理由で青磁がこわれたか,航海中に割れたかして和賀江島に捨てられたのでしょう.
もし割れずに売買(ばいばい=売り買いのこと)されていたらその青磁は位の高い武士・高僧・豊かな商人などの特別な人々に使われたはずです.当時の一般的な庶民(しょみん=普通の人)の食器は土器や陶器で,高い青磁には手がでなかったのです.
で,君たちの質問だけど,実際にそれがお皿なのか,鉢(はち)なのか,壷(つぼ)なのか破片を見ないと分かりませんが,実用というより鑑賞用(かんしょうよう=見て楽しむためのもの)に近かったと思います.
と,そいう訳ですからその「青磁」,大切にしてくださいね.

 

 

 

※最近の研究では,鎌倉の町中では後期になると庶民も青磁や白磁を使うようになったことが分かってきました.それだけ経済が発達してきたことを表しています.ただし,「もよう」のきれいなものや大型の高級品は,寺社や高級武家の調度品として扱われ,一般庶民の手に届くものではありませんでした.写真は十三湊(とさみなと=青森県)出土の高級青磁皿



質 問

こんにちは。玉川学園小学部の6年生の雲居です。この間鎌倉見学に行って頼朝の墓 も見てきました。そこに、安永8年 薩摩藩 源 重豪が建て直したと書いてあり、 また墓には○に十と笹りんどうの2つのマークがありましたこれはいったいなんな のですか? 

ゲンボー先生

よく気がついたね.実は君たちが見た頼朝さんの墓は鎌倉時代のものではないんだ. 鎌倉時代のお墓は五輪塔という5つの丸い石や屋根型の石を積み上げたもので,もっと 質素で小さいものが多いのだよ.最初のお墓はそんなものだったのです. じゃあ,君たちが見たあのお墓は一体なんなの?ということになるんだけど.あれは お墓に書いてあるとおり安永8年(1779年)薩摩藩「島津重豪」(しまづしげひで)という鹿児島藩のお殿様がたて直したものということなのです.実は薩摩藩主(さつまはんしゅ)は代々島津氏がついできまし た.で,島津氏というのはご先祖様が源氏だったらしいのです.それで,その子孫の島津重豪 という人があのお墓を作り直したというわけ. マークは◯に十が島津氏の紋(もん)で,笹りんどう江戸時代に考えられた源氏の紋(もん)なのです.この紋も彫られています.

つまり,こういうこと・・・
 
 
 
源頼朝=源氏の棟梁(とうりょう=トップの人)=笹りんどう※江戸時代に源氏の紋は「笹りんどう」だったのではないかという誤解から考えられた家紋です
 
    ↓
 
    ↓(源氏の先祖と子孫の関係)※とおい血のつながり
 
    ↓
 
源重豪=島津重豪=◯に十
 
 

島津氏の御先祖様が源氏で,もしかしたら頼朝さんの子供だったかもしれないという説があります. 一方,徳川氏のほうは「祖先は源氏」といっていますが,本当はちがうらしいのです. 鎌倉幕府以後代々の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の位は「源氏」だったため,同じ征夷大将軍になるために「源氏」の血筋(ちすじ)であるとしておきかったのです. そこで徳川家に反感を持ち,力をつけた島津氏は「俺のほうが家柄がいい」,徳川氏は源氏じゃない・・ということを暗に示すために頼朝の墓を作り直したのだと言われています.頼朝の本当のお墓は近くにある「白旗神社」の場所にあったようです. 


  質 問

ゲンボウ先生へ こんにちは玉川学園小学部の雲居です。メールありがとうございました。今度ぼく専用のメールアドレスが できるので、そうしたらお伝えします。ところで質問ですが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)・楠木正成(くすのきまさしげ)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)はどういう役割を果たし、もとはどういう位だったのですか?

ゲンボー先生

簡単なようでとても難しい質問ですね.では基本的なことを理解してみましょうか.

後醍醐天皇=朝廷
承久の乱(1221)以後,朝廷の力は弱くなった(承久の乱を調べてごらん)
本来強いし偉い(えらい)はずの朝廷が,『どうして武士の政権(幕府)なんぞにおさえられとるのだ!』と思っています.

北条氏=執権(将軍のほさ役)※君の質問にはなかったけど大切だから,登場してもらいます.
北条氏は頼朝の奥さんだった政子の家柄で,三代将軍実朝が暗殺されてから執権(しっけん)として幕府の最高指導者でした・・・ところで北条氏はもともと平氏だったのだよ・・・これ,あとになって大切です.忘れないでね.

楠木正成=地方(河内/大阪あたり)の豪族(平氏でも源氏でもない地方の武士)
『オレは源氏も平氏も大嫌いだ,だから後醍醐天皇の味方になって幕府をたおすぞ』と思っています.ゲリラ戦法をとる正成は実際に強く幕府軍をなやましたのです.

足利尊氏・新田義貞=幕府の有力な御家人(しかも源氏)
新田は群馬県,足利は栃木県の有力御家人(将軍の家来)でした.特に足利は支配している土地も広く強い御家人でした.二人の共通点は『平氏の子孫である北条氏が源氏である将軍をないがしろにして,好き勝手放題やっている.どうも気に食わん』でした.
だから後醍醐天皇や楠木正成たちが幕府に反旗をひるがえしたときも,あまり正成と戦争をやる気はありませんでした.それでもそれぞれ二人は天皇方と戦いますが,新田は早々と天皇方に味方してしまいます.
尊氏は頑張って正成と戦いますが,やがて他の御家人のおす声もあって,天皇方に味方しました.新田は体制を整えて鎌倉を攻め,北条氏をほろぼします.
尊氏は当時京都を支配していた幕府の出張所「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を攻めほろぼしました. さあ,このあと二人はどうなるのでしょうか?あとの授業のお楽しみ!!

雲居君,もっと詳しく知りたかったら本を読んでごらん.
また,ここの流れを学習する上でのヒントは「御家人の暮らしが苦しくなった」ということなのです.どうして,そうなったのかこれがわかると,幕府が滅びた本当の理由がわかるんだよ.


質 問

ゲンボー先生.滑川はどうして滑川というのですか? 玉川学園小学部 雲居

ゲンボー先生

滑川は十二所(じゅうにそう)と二階堂の谷奥に源を発し,由比が浜から相模湾に注ぐ,鎌倉市内を流れる川では最も大きな川です.
上流では川底が凝灰砂岩という石ころの少ない岩の上を,滑るように流れるためにこの名前がつきました.また源流から海に注ぐまで6回も名前が変わっています.胡桃川(くるみがわ),滑川(なめりかわ),座禅川(ざぜんがわ),夷堂川(えびすどうがわ),炭売川(すみうりがわ),閻魔川(えんまがわ)※こわいね!.
一本の川にこれだけ名前があるなんて,”歴史の古い所なんだ”という感じがするね.


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