小学生とゲンボー先生のページ19 玉川学園・玉川大学
鎌倉時代には、宋銭が使用されていたのですか。おしえてください、おねがいします。あと、宋銭とは、どう言う物なんですか。
写真とかありましたらぜひ見せてください。おねがいします。
ゲンボー先生
諭司君 メールをありがとう
先生は写真を持っていないので,ホームページで調べてみてください.
なぜ,外国のお金が使われたかというと,日本製のお金の品質が悪かったからなのです.鎌倉時代の中期から後期は経済や交通が盛んになって,諸国(しょこく)の物産(ぶっさん)があちらこちらで売られるようになりました.
それまでは,食べるものや着るものは自分で作るか,物々交換(ぶつぶつこうかん)といって,物の交換(こうかん)でまに合っていました.ところが商品の種類や量(りょう)が多くなるとどうしてもお金が必要になってきました.
ところが日本製のお金は,割れていたり,さびて穴があいていたりと,ようするにぼろっちくて使い物になりませんでした.
しかし,宋(そう=中国)では大量に品質のよいお金が作られていましたので,商人がこれを輸入したため,日本でも使われるようになったのです.はじめの頃,幕府は宋のお金を使うことを禁止したりしましたが,「じゃあ,いいのを作ってみろよ」と言われてもできなかったので,けっきょく宋銭(そうせん)が使われていました.
日本で外国に負けないようなお金が作れるようになったのは,江戸時代のことなんです.
勉強をがんばってくださいね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
閻魔寺(えんまでら)の正式な名前は「円応寺」(えんおうじ)で,北鎌倉にある建長寺(けんちょうじ)の近くにあります.地図をつけたのでそれを参考にして行ってください.鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)から歩いて20分くらいかと思います.フリーパスがあればバスでもいけるね.
拝観料(はいかんりょう)は200円ですから,君たち小学生は多分その半額でしょう.
閻魔寺には国宝の「閻魔大王座像」(えんまだいおうざぞう)があります.せっかくそこまで行くのなら円覚寺(えんがくじ)や建長寺(けんちょうじ),東慶寺(とうけいじ)にも行くといいですよ. 東慶寺の墓地に行くと鎌倉時代の古いお墓があります,「やぐら」という横穴をがけに掘って,中に五輪塔(ごりんとう)という供養塔(お墓)があります.
でも,お墓とかお寺ばかりじゃつまんないね〜
海岸に出ると砂鉄がとれますよ.もし行けたら磁石を持っていってごらん.特に多いのが稲村が崎,由比が浜にもあるなあ.
フリーパスのバス券があるからそれを買うと便利です.鎌倉駅東改札口を出て左側の販売所でかえます.種類がいくつかあるので自分達の行動とあわせて選びましょう.基本的な終日フリーパスは大人で700円(子供半額?)です.
ゲンボー先生
1.貴族の始まりと終わりはそれぞれ何時代ですか。
2.貴族が始まったきっかけは何ですか。
3.貴族時代が終わったきっかけは何ですか。
ゲンボー先生
メールをありがとう
1.貴族(きぞく)は律令政治(りつりょうせいじ=律令は中国が作った法律を日本風にしたもの)が始まった,奈良時代から,第2次世界大戦で日本が負ける昭和20年までいました.(明治時代以後は華族(かぞく)といいました)
2.貴族の前は氏姓制度(しせいせいど)といって,各地の豪族(ごうぞく)に位を与えていました.これが古墳時代のころの話です.やがて中国の進んだ制度である律令政治を真似て日本でも,天皇に仕える有力な豪族(ごうぞく)に官位(かんい=くらい)を与えて,いろいろな特権を与えました.これが貴族の始まりで,日本では平安時代に有名な藤原氏(ふじわらし)がいます.平安時代は貴族の時代で,彼らは立場を利用して大きな富をえて政治を思うがままにおこないました.
3.明治時代になるとドイツの制度を取り入れて政治を行うようになりました.そのときにそれまで貴族だった人たちに加えて,明治維新(めいじいしん)で活躍(かつやく)した人を加えて華族(かぞく)という,地位を与えました.これは名前は代わっても貴族と同じです.
ところが昭和20年に戦争に負けて,国の主権者(しゅけんしゃ=一番大きな権利を持っている中心の人)が国民となったときに華族令は廃止(はいし)され,そのときに貴族はいなくなりました.
※鎌倉時代は武士の時代といわれています.確かに関東地方の武士が結束(けっそく)して頼朝を立て武士の政権を作りましたが,京都には朝廷もあったし,天皇も貴族もいたのです.基本的には幕府は朝廷の中の一つの組織(そしき)です.
幕府が朝廷に対して力を持つのは鎌倉時代の後半です.それでも,日本の統治者(とうちしゃ=支配者)は天皇であり,法律の根幹(こんかん=おおもと)は律令なのですよ.
本当に武士が中心に政治を行うようになったのはもっとあとのことで,完全に朝廷をおさえて武士の政治を行うのは江戸時代になってからといってもいいのです.
ゲンボー先生
これからだす質問にこたえてください。
1.何をモデルに作ったのか
大きくわけると,仏像(ぶつぞう)には立っているもの,座って(すわって)いるもの,それに横になっているものがあります.鎌倉の大仏様は座っている姿の中でも,もっとも高いレベルだと言われています.奈良の大仏様も座っていますがどこが違うでしょう?くらべてみてください.
2.大仏は、仏教を、広めるために作ったといわれているが実際広まったか
鎌倉時代は庶民(しょみん)にも仏教が広まった時代です.それまでの仏教はむずかしくて,貴族や高い位の武士など限られた人たちの中でしか広まりませんでした.ところが鎌倉時代になると「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)とか「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)などの念仏(ねんぶつ)やお題目(だいもく)をとなえるだけで,仏様に救われて極楽(ごくらく=天国のこと)にいけるという,とても分かりやすい仏教がうまれました.あとは踊りを踊ったり,座禅(ざぜん)を組むものもあります.大仏はそうした庶民(しょみん)に仏教が信仰(しんこう)されはじめたころに作られたものです.鎌倉の大仏様は庶民が出した一文銭を集めて作られたと言われています.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
鳥山君 メールをありがとう
1333年5月8日に新田義貞(にったよしさだ)が上野の国(こうずけのくに=今の群馬県)で幕府に反旗(はんき)をたてて挙兵(きょへい=軍隊で攻めること)しました.新田義貞が挙兵したことを知った関東の豪族(ごうぞく)達(御家人のこと)は先を争って,新田軍に加わりました.それは長いあいだ北条氏(ほうじょうし)中心の政治が続いたため,多くの御家人(ごけにん)が不満を持っていたからです.
これは,関東で頼朝が兵をあげた時とすごくよく似ていますね.
とにかくあっという間に数万の軍勢にふくれあがった反幕府軍は,1週間後に多摩川(たまがわ)で北条泰家(ほうじょうやすいえ)の軍勢(ぐんぜい)をうちやぶり,そのいきおいで18日は鎌倉への攻撃(こうげき)がおこなわれたのです.
化粧坂(けわいざか),巨福呂坂(こぶくろざか),極楽寺坂(ごくらくじざか)の切り通しで激戦が行われたと言われています.主力だった新田義貞の軍勢(ぐんぜい)は極楽寺坂(ごくらくじざか)切り通しから攻め込みましたが,守る方も必死です.極楽寺坂を守る幕府軍は3日間の攻撃に耐(た)えました.
そこで義貞は極楽寺坂の攻撃を一旦やめて,引き潮だった稲村が崎の浜から鎌倉に入りそこから攻撃をしました.
22日には化粧坂や巨福呂坂(こぶくろざか)切り通しも破れ,鎌倉の町はあちこちから火の手があがり,この世の地獄(じごく)と化しました.
材木座(ざいもくざ)や極楽寺坂周辺で,首のない人骨や,刀できられたあとの残る骨がたくさん発見されていますが,この時の戦いの犠牲者だと言われています.最後の得宗(とくそう=北条氏の中心一族の家長),北条高時(ほうじょうたかとき)もこのときに自殺して,これで鎌倉幕府はほろんだわけです.
ゲンボー先生
亀ケ谷切通しと化粧坂切通しの、鎌倉時代の役割は、どのようなものですか。名前はどういうふうについたのですか。
ゲンボー先生
敦君 メールをありがとう
鎌倉あたりでは山と山のあいだの谷の部分を「谷」(やつ)といいます.関東地方では谷戸(やと)と呼ぶところが多いのでたぶんこれが元の言葉だと思います.亀ヶ谷(かめがやつ)きり通しは「 亀ヶ谷」にあるためにそう名付けられました.
化粧坂(けわいざか)にはいくつか説があって,どれが本当だか分かりません.一つは戦いでとった敵の首を鎌倉に持って入る前に化粧をしたからだというもので,もう一つは切り通しの前に商売人が集まり,その中にはお化粧してお酒の相手をする女の人が多くいたからだというものです.君はどっちだと思う?もしかしたらもっと違うことかも知れません.
さてそれらの切り通しですが,近くに関所があって敵が攻めてきたらそこで戦うようになっていました.鎌倉は周りが山で切り通しと呼ばれるところからしか出入りできなかったからです.亀ヶ谷きり通しも化粧坂切り通しも,ともに鎌倉を守るためにあったのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
あのお墓,実は江戸時代に作ったものです.げんざい頼朝さんのお墓といわれている「あのお墓」は江戸時代に薩摩藩(さつまはん=今の鹿児島県)の第8代目の藩主,島津重豪(しまづしげひで)によって作られました.重豪さんは鎖国中の日本にあって,外国の学問をどんどん取り入れた,「すすんだお殿さま」でした.
その島津さんがなんで頼朝さんのお墓を作ったのか?・・・・実をいうと島津家の祖先は源氏で,もしかしたら頼朝さんの子供かも知れないと言われているのです.江戸幕府の将軍「徳川家」は「源氏の子孫」を名乗っていましたが,実はその家系は新田義貞(にったよしさだ=鎌倉を攻めて幕府を滅ぼした源氏の名門)の子孫から「買った」ものなのです.みんな,そのことを知っていたのですが,表だって大きな声では言えませんでした.徳川家が恐いからです.
そこで,島津重豪さんは「俺のほうが源氏としちゃあ正しいんだぞ」と言うことを示すために,頼朝さんの住んでいた館の裏山に新しくお墓を作ったのです.だからお墓には丸に十の字の島津家の紋つけたのです.その前に置かれている線香立てには江戸時代に考えられた源氏の紋である「笹竜胆」(ささりんどう)の紋がつけられていますが,石の質を見ると,こちらはもっと新しくなってから置かれたものになります.
お墓の形も丸に十の字の紋も明らかに江戸時代に作られたことを物語っています?では本物の頼朝さんのお墓はどこにあるのでしょう????一説によるとお墓の階段の下にある白旗神社(しらはたじんじゃ)だと言われています.明治時代に神社になりましたが,その前は亡くなった頼朝さんのために,奥さんの政子さんによって作られた「法華堂」(ほっけどう)という仏教の建物 があったのです.鎌倉時代の本を見ると「法華堂が最高のお墓」と書いてありますから,そこに頼朝さんのお墓があったのだと考えられています.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
頼朝は12歳で平治の乱に出陣(しゅつじん)し,逃(に)げる途中(とちゅう)でつかまって,平清盛(たいらのきよもり)のところまでつれていかれました.
本来でしたら首をはねられるところを,池禅尼(いけのぜんに)という清盛の義母(実の母にかわって子供を育てる人のことで,この時代のくらいの高い女性は他の女性に子どもを育てることをまかせていました.清盛もそうですが,自分を産んでくれた母より育ての母をしたっていました)の命乞いによって他の弟達とともに助けられました.
そして伊豆の韮山(にらやま)というところにある「蛭ガ小島」(ひるがこじま)に数人の家来と住んでいました・・ということですが実は19歳から26歳頃までの間,伊東祐親(いとうすけちか)の館内にあった小御所(こごしょ)にいたことがあります.この時に祐親の娘である八重姫と結ばれ子供が生まれています.成長した頼朝は流人(るにん)といっても血筋(ちすじ)のよい人でしたから,近くの豪族(ごうぞく)達は頼朝を丁重(ていちょう)にあつかっていたのだと思われます.あとからこのこと知った伊東祐親はとても怒り頼朝はふたたび韮山にもどります.
成人してからの頼朝は弓矢がうまかったり,読み書きもできましたから,武芸(ぶげい)や学問をしていたことは間違いありません.乳母の家柄の比企氏(ひきし)や母方の熱田神宮(あつたじんぐう=名古屋にある大きな神社)からはひんぱんにお米やお金が届けられていますから,それほど苦しい生活ではなかったと思います.
それともう一つ,流人とはいっても源氏の嫡流(ちゃくりゅう=家をつぐ正しい血筋の人)であるということで,いくつかの豪族(ごうぞく)の息子達が出入りしていました.後に頼朝が旗あげする時に協力した神奈川県最大の豪族(ごうぞく)三浦氏もそのうちの一つです.
この人たちは頼朝の先祖の源義家(よしいえ)の恩を受けた人や,保元の乱の時に頼朝のお父さんの義朝(よしとも)の家来だった一族の人たちです.
ですから罪人という立場であってもけっこう自由な生活を送っていたのです.
のちに北条時政の娘,政子と結婚したのはあなたも知ってのとうりです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
むずかしい質問です,なぜなら江戸時代のような記録が残っていないからです.そこで先生は鎌倉時代に書かれた農民のすがたが描かれている絵と,農民に関係する法律やお祭りから「すいり」して.その時代の農民の生活をお話します.
農民とひとくちにいっても豊かな農民や貧しい農民もいました.つまり広い農地をもっている農民やそうでない農民,または土地を持たない奴婢(ぬひ=奴隷=どれい)などです.
そこで,近畿地方(きんきちほう)のごく普通の農村や農民について説明します.
農村では川が流れているような低地に田んぼが作られていました,一段高いところには畑が作られています.春にはセリやウドやワラビやゼンマイといった野草が女性の手で摘(つ)み取られました.
川では男達がヤナという魚をとるしかけや.ワナを作って魚をとります.
田植えは男も女も老人も子供も,全員がそうがかりで行いました.豪族(ごうぞく)の田んぼや神社の田んぼはカネや太鼓(たいこ)をならしたりまるでお祭りのようにして田植えが行われました.
農家はほとんどが垣根(かきね)に囲(かこ)まれていて,魔よけのための「しめ縄」が門にはられていました.
貧しい農家は浅い穴を掘ってその上に屋根をのせた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)や,土間だけの狭い家に住んでいます.この人たちの多くは自分の土地を持たないで,大地主(豪族(ごうぞく))の田んぼの下働きをする人たちです.
鎌倉時代になると,村ごとの共同作業が増えてきます.神社やお堂のかんりやお祭りなどですね.それに田植えや稲刈りなども共同作業の方が楽なのでひろまっていきました.
また畑で作られる野菜の種類も増えました.それに稲刈りの終わった田んぼに麦をつくるなどの「二毛作」(にもうさく)が行われるようになったのもこの時代からです.
鉄製の農具もほぼ全国に広まり,開墾(かいこん)が進みただの野原だったところがどんどん田んぼや畑になっていきました.また水をひく用水路もこのころからさかんに作られはじめました.それによって田んぼの面積が広がりました.
とはいっても,現在にくらべれば人口も十分の一ですから今の農村よりず〜っと畑も田んぼも家も少なかったのです.
秋には稲の刈り入れや,山の木の実をとったり鹿やイノシシやヤマ鳥などをとって冬に備えました.もちろん魚や貝も沢山とったことでしょう.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
うわあ,これはむずかしいや・・・・くわしいことは先生にも良く分かりませんが,この時代には正式な奥さん以外に何人か他に奥さんがいて,男の人は奥さんの家を渡り歩くのが基本です.子供は母方で育てるのです.
貴族や有力な武士はあんまりウロウロするわけにはいきませんから,大きな屋敷(やしき)のなかに何人かの奥さんを住まわせていました.
意外でしょ・・・そのかわり女の人も何人か旦那さんがいるということもありました.
家族みんながいっしょにくらすことも,もちろんありましたが,基本は今いったことなんです.
結婚式は身分によって大きくちがいます.
神様の前で式をあげるのは基本です.昔は貴族や皇族,それに有力な武士が正式な奥さんをもらう時だけ,披露宴(ひろうえん)のようなことをおこなってました.披露宴は互いの親族が集まって,同じ食事をたべるということに意味があったのです.今のようにたくさんの人を呼ぶ披露宴が一般的(いっぱんてき)になるのは現代になってからのことです.
君たちもしょうらい結婚式をあげることになりますが,お金をかけることよりも,まず心をつくすことを考えた方がいいと先生は思います.
ゲンボー先生
遥香さん メールをありがとう
「一所懸命」(いっしょけんめい)とは自分の領地(りょうち)に命をかける,という意味です.明治時代以前の日本の経済の基本は農業です.お米がお金のかわりをしていました.つまりお米をうってお金にかえて生活していたのです.
ですから武士にとって,できるだけ広くて農業がしやすい土地を持つことが,強くなるし「豊かになる」ということだったのです.領地には自分の農地もありますし,支配する農民の土地もあります.
しかし,その領地はいつも危険(きけん)にさらされていたのです.となりの領地の武士がせめてくる,京都からやってくる役人が税を重くかけたり,土地をとろうとするなどです.特に関東地方は新しく開拓(かいたく)された土地で,しかも遠く京都から離(はな)れていたために,法律なんか無いのに等しかったのです.
多くの豪族(ごうぞく)は心が休まる時がありませんでした.しかし,みんな人間ですから平和にくらしたいという気持ちは同じでした.
そこへ頼朝があらわれて,頼朝の家来なれば,まず「今持っている土地を認めよう」つまり,「土地の境界を決めて持ち主をはっきりさせましょう」ということです,これを本領安堵(ほんりょうあんど)といいます.土地をめぐっての争いは問注所(もんちゅうじょ=さいばん所)という役所で公平に決めましょうということにもなりました.これは豪族(ごうぞく)(武士)にとってはありがたいことですね.
それから,将軍のために戦って手がらをたてれば,そのはたらきによって「新しい領地」をもらうことができました.こうすりゃ誰でもはりきっちゃうよね.このことを新恩給与(しんおんきゅうよ)といいました.
その本領安堵された土地や新恩給与された土地のことを「一所懸命の地」とよんだのです.一所懸命に働いて土地を守るからです.
そして,将軍のために戦う時に「何があっても鎌倉に行くぞ!」「将軍を守るためにつね日頃,武芸にはげむぞ!」という気持ちのことを「いざ鎌倉」といったのです.
一所懸命(いっしょけんめい)は,昭和30年から40年ごろに「発音」だけを聞いて(いっしょうけんめい)が多く使われるようになったのです.
今ではどっちを使っても良いことになっています.
ゲンボー先生
わはは・・メールをありがとう.
でも先生のページは「鎌倉時代」.源氏物語は「平安時代」・・・・時代がちがうんだなあ・・・
しかし,少しは知っているので書きましょう.
ふたり説があります.
一人は醍醐天皇(だいごてんのう)の皇子(おうじ.みこ,ともいう)「源高明」(みなもとのたかあきら)
もう一人は村上天皇のお兄さん「源融」(みなもとのとおる)で,二人とも天皇の子供ですから大きなけん力をもっていました.平安時代の貴族や皇族と言うのは「行事」を行うこと「日記」を書くこと,「遊ぶ」ことが仕事でした.(いいなあ!!!!)
結婚の仕組みも今とはずいぶんちがい,男の人が女の人の家にたずねるのです.男の人は奥さんや子供といっしょに住むことはありませんでした.しかも奥さんは一人ではありません.正室(せいしつ=正式な奥さん)はひとりですが,それ以外に側室(そくしつ)といって,2番目3番目の奥さんがいたのです.
これは一般庶民も同じです.ところが天皇や大貴族はあんまり外をうろうろ歩くことはできないので,広い屋敷のいっかくに,奥さんや子供達を住まわせたのです.
浮気(うわき)と言う感覚(かんかく)のうすい時代です.ですから光源氏のように,次から次へとガールフレンドを作るなんてことが,おおっぴらに認められていたのです.
世界最古の女流小説家の代表作が,このような物語と言うところが先生は「いいなあ」と思うのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
内山さん メールをありがとう.
北条政子さんは頼朝さんの奥さんで,二代将軍の頼家(よりいえ)や三代将軍実朝(さねとも)のお母さんです.
政子の名前が今日まで残っているのは,頼朝が死んだあとしばらくは弟の北条義時(ほうじょうよしとき)と二人で幕府をささえていたからです.
三代将軍の実朝がおいの公暁(くぎょう)に殺されたあと,「このチャンスに」と幕府をうとうとして朝廷が「幕府をたおせ」という命令を出しました.
このことを聞いた関東の御家人(ごけにん)たちを前にして,政子さんが有名な演説(えんぜつ)を行います.その内容は・・
「頼朝様が鎌倉に幕府を作ってくれたおかげで,あなた方はどれだけ助かったでしょう.それまで『はだし』で京都まで行って,公家(くげ=貴族)の屋しきの警備(けいび)をしたり,身分の低いものと馬鹿にされていたのに,今ではちがうではありませんか.身分も高くなり,生活も良くなったのは全て頼朝様のおかげではないですか.もし,この場で朝廷側につき幕府と戦うというなら,今すぐに私を殺し鎌倉に火を放ってここを去り,敵方につきなさい.」
というものでした.御家人達はこの演説を聞いて涙を流し,鎌倉のために戦う決心を固めたのです.
この戦争を「承久の乱」(じょうきゅうのらん)といいますが,大軍を差し向けた鎌倉がわの大勝利に終わりました.
この結果,鎌倉幕府の力は増して,今まで幕府の影響(えいきょう)の弱かった近畿地方(きんきちほう)にも幕府の力がおよぶようになりました.
政子さんはとても頭の良い優れた女性でした.政子さんと結婚していなければ,頼朝さんは多分幕府を開くことはできなかっただろうと先生は思っています.
※幕府という呼び方は江戸時代になってからつかわれました.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
鎌倉でなければ,武士の政治を行うことができなかったからです.
鎌倉幕府(その時代の人は幕府とよんではいませんが)は,関東地方の武士の生活を守るためのそしきです.
教科書や本には頼朝さんが鎌倉幕府を作り,それからは武士が政治の中心だったみたいに書いてありますが,それは大きな間違いです.また「平家のように武士が貴族みたいにならないように,京都ではない鎌倉に幕府を開いた」というのも,見当ちがいです.
鎌倉はもともと頼朝さんのお父さんをはじめとする,源氏が代々持っていた領地でした.関東の武士にしてみれば「昔,関東の武士の親玉(棟梁=とうりょう,といいます)だった,源氏の子孫,頼朝さんの住むところはそこしかなかったのです.だって他の土地はぜ〜んぶ持ち主がいるからです.
その持ち主の持っている土地を「ここが君の土地」とはっきり決めて,他の人との争いをなくしたのが頼朝さんで,そういうことをしてくれたから,みんな頼朝さんの家来になったのです.
その後も,鎌倉の町を作り,武士のための政治を行いましたが,それらはほとんど関東地方の武士の生活を守るというものでした.
ですから,ず〜っと鎌倉に幕府があったのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
文永の役では元軍 船900せき 兵3万2千人
日本側は九州の武士を中心に多くて約1万人
弘安の役では元軍 船4千4百せき 兵14万人
日本側は 博多に4万人 山口県に2万5千人 瀬戸内海地方から京都までで6万人程度といわれています.
ですから実際に戦った武士は6万5千人くらいだったと思います.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
皆さんメールをありがとう.
そういう御家人もたぶんいたと思いますが「この人」という資料がありません.文永の役は主に九州の御家人が戦いました.蒙古襲来絵図(もうこしゅうらいえず)で有名な竹崎季長(たけざきすえなが)もその一人です.
季長は5人の家来をつれて博多に馳せ参じました(はせさんじる=馬にのって急いで参加すること).季長はそこでその日の一番のりを果たします.
一番のりを「先懸」(さきがけ)といい,敵の中にいちばんはじめにつっ込んでいくために,負傷や戦死の確率(かくりつ)が非常に高いものでした.それだけに勇敢な行為(ゆうかんなこうい=ゆうかんなはたらき)であると思われて,大きな恩賞(おんしょう)をもらうことができたのです.この時代の恩賞とは主に領地のことです.
竹崎季長は御家人でしたが,親せき内のいざこざで自分の領地を取り上げられている最中でした.
ですから蒙古が攻めてきた時「これはチャンスだ」とばかりに博多まで出かけたのです.
季長は確かに一番のりでしたが,司令官である守護(しゅご)の命令を無視してつっこみ,あっというまに馬も自分も矢でうたれて,落馬して敵に囲まれ殺されそうになりました.しかし季長は奇跡的に他の御家人に助けられました.
司令官にしてみれば「確かに先懸だが,迷惑なやつ」と思ったにちがいありません.それで季長の先懸を幕府に報告しませんでした.
頭に来た季長は自分の馬の鞍(くら)をうったお金と,烏帽子親(えぼしおや=成人する時に烏帽子と言う帽子をかぶせてくれる,第二の父親)からもらったお金を旅費にして鎌倉にいきました.
鎌倉ではねばりねばって,ついに新しい領地をもらうことに成功しました.このところは先生のホームページにもくわしいのでそちらをよんでください.竹崎季長の説明
さて,大切なのはつぎの点です.
元冦では敵が外国から攻めてきたので勝っても相手の領地をとることができなかったのです.つまり,十分な恩賞がなかった,ということなんです.だから竹崎季長はわざわざ鎌倉までいって恩賞をもらってきたのです.季長のような御家人は少なく,大部分の武士は我慢(がまん)しました.
元冦では戦争で頑張れば恩賞がもらえるというそれまでの常識(じょうしき)がなくなっちゃたのです.
ですから二度めの攻撃(こうげき)に対する準備として「石築地」(いしついじ=石を積み上げた石垣)をつくることや,警備(けいび)にあたれといわれた御家人のなかには「お金ばかりかかって,取りかえすあてがない」ために,「なんだかんだ」といいながら,それをさける武士も出てきました.
つまり少なくとも弘安の役(こうあんのえき)では「借金してまでも」蒙古と戦う武士はいなかった・・もしくは,非常に少なかったということなのです.
元冦によって一時,幕府の力は強まりますが,御家人の生活は苦しくなる一方でした.幕府を支えている御家人の生活ができなくなるということが,幕府がほろびる一番の原因になるのです.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
鎌倉しかなかったのです.鎌倉は御先祖様の八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家のこと)から頼朝の父親である義朝(よしとも)まで代々源氏の領地でした.
頼朝は関東の武士の支持をえて,鎌倉に幕府をつくったわけで,なぜ関東の武士が頼朝を支持(しじ)したのかというと下のような理由があるからです.
頼朝と関東の武士は(御家人といいます)「御恩」と「奉公」(ごおんとほうこ)の関係で結ばれています.奉公とは頼朝の命令にしたがって戦争で敵と戦うことと.鎌倉や京都にいって「役人」としてはたらくことでした.
御恩とは,御家人の持っている領地を認めることと,戦のはたらきぶりによって新しい領地をあげることなのです.
武士にとって領地はとても大切なものです.(日本では明治時代より前は,お米が経済の基本でした.)武士はお米をお金にかえて生活していたからです.鎌倉時代の武士は自分の領地に自分の畑や田んぼを持っていて,家族や使用人を使ってたがやしていました.また領地内の農民を支配してそこから税をとっていました.
その収入で家を建てかえたり,服を買ったり,武器や馬を買ったりしました.食べ物以外のほとんどがその収入で得ていましたから,領地を・・(というより農地)をとても大切にしていたんです.このことは分かりますね?
ですから鎌倉時代の武士は自分の領地のことを「一所懸命の地」(いっしょけんめいのち)とよびました.一生懸命の語源はここにあります.
ところが,幕府ができる前の関東地方は,新しい開拓地(かいたくち)だったために領地の境界線(きょうかいせん)もはっきりせず,となりとの争いがたえませんでした.また,京都からやってくる役人は,自分がもうけようとして,高い税をとったり,ちょっと弱い豪族(ごうぞく)だとみると,その領地をうばったりしたのです.
こうしたことがよくあったために,農民が刀を持って自分達を守ろうとしたのです.これが武士の始まりですね.
特に関東地方の豪族(ごうぞく)(ごうぞく=有力な農民=武士) はほとんどすべてが武士団を作り,自分達の領地を守っていました.
そこへ,頼朝さんがあらわれて「あなたの持っている領地の境界をはっきりさせて,持ち主を明確にしましょう」「いざこざがおきたらさいばんで公平に決めましょう」「あなたの領地がうばわれそうになったら,幕府が助けましょう」「敵と戦って頑張ったら新しい領地をあげましょう」とやったわけですから,我も我もと将軍との主従関係(しゅじゅうかんけい)を結び御家人となったのもわかりますね.
鎌倉はそうした御家人が多く住む関東地方にあること,それから先祖からの土地であること,ということからえらばれたのです.三方が山,一方が海という地形でえらんだのは御先祖様で,頼朝さんがそれを理由にえらんだというわけではないのです.
京都の人達は鎌倉を「野蛮(やばん)な未開地(みかいち)の武士どもの町」と思っていました.後に承久の乱で朝廷との戦で幕府が勝ってから,すこしづつ考えが変わってきていますが,それでも都から遠く離れた田舎の町というイメージでした.
しかし,御家人にとっては「自分達を守ってくれる組織がある大切な町」と思っていたのですよ.
幕府が直接農民に出したおふれはありません.農民に対しては支配者である豪族(ごうぞく)が出すものです.そういうところが江戸時代とちがうのです.
これでいいですか?
ゲンボー先生
この時代は天皇や身分の高い人が引退すると,お坊さんになることがよくありました.お坊さんになっても政治をした人もたくさんいます.平清盛もそうした人の一人です.女性はだんなさんが死ぬとお坊さんになりました.男性も女性もお坊さんになることを出家(しゅっけ)といいます.で,女性のお坊さんのことを「尼」(あま)とよびました.ただし,上に名前がつくと(に)といいます.
平安時代の記録(きろく)だと一週間に一回程度で,その他は体を拭(ふ)いていたようです.お風呂といってもこの時代は蒸気(じょうき)を炊(た)く「蒸しぶろ」で浴衣(ゆかた)を着て入ったのです.体を蒸(む)して汗とか汚れとかを表面に出して,それを洗いながしました.ざっぶ〜ん・・とはいるお風呂は主に薬湯(やくとう)といって,「くろもじ」(木の名前,値段の高いヨウジになります)の枝や葉を入れて殺菌しました.貴族の女性はこういうお風呂に入っていました.
一般しょ民はもちろんお風呂なんて入りません.夏は行水,冬は身体をふくだけです.ごくまれにお寺でお風呂を炊いて庶民に入らせたということはありました.
この時代(鎌倉時代)の、女の人の髪は、最高どのくらいの長さですか?
貴族の女性は二メートルなんてのもあったかと思いますが,一般的には50cmくらいでしょう.
シャンプーもリンスもないのに,大変だったろうなあ・・・・洗髪(せんぱつ)をしっかりしないとシラミという虫が髪(かみ)につきます.最近プールでこれにうつる子供が多いそうです.今は薬がありますからシラミを退治(たいじ)することができますが,当時はそんなものはありません.そこで目の細かい「櫛」(くし)が使われました.この櫛ですいてシラミや卵をとってしまおうというわけです.貴族の女性の持ち物に目の細かい櫛があって「すごい技術だなあ」と感心しますが,そのもとがシラミだったとは・・・・
この時代(鎌倉時代)、主に『ひらがな』をよく使っていた人は男の人と、女の人では、どちらですか?
女性です.しかし,文字がかける人はとても少なかったのですよ.庶民はほとんど文字が読み書きできません.庶民が読み書きできるようになるのは江戸時代以後です.
この時代(鎌倉時代)の、平均年齢は、男の人が何歳で、女の人が何歳ですか?(男女で、何歳か?)
これはわかりません.記録がないからです.長生きする人は今と同じように70〜80代まで生きましたが,子供の死亡率や医学が発達していなかったので,平均では50才になるかならないかくらいだと思います.
この時代(鎌倉時代)には、『「犬」は、いる』と、きいたけど、主に誰が、飼っていたのですか?
農家や武士,貴族もかっていました.一般の人も飼っていました.ときどき庶民の墓地から犬の骨も出るからです.もちろん埋葬(まいそう)されてですよ.しかし,最近の研究では西日本では犬の肉を食べていたらしいということも分かってきました.
『犬』は、売っていたのですか?また、売っていたら、誰が売ってるか?
ははは・・・犬を売り買いするのは現代になってからです.子犬を生んだら分けたり,捨てたりでした・・・
もっとも「狆」(ちん)などのように中国から持ってこられた犬は売られたと思いますが,ペットショップのようなものではなく,貿易商からだと思います.これは特殊な例です.(もしかしたら食用の犬は売り買いされていたかもしれませんけどね・・)
PS 今回の質問は、けっこうわかりにくかったかも、しれませんか?また、ゲンボー先生にメールだせたら、だします。
ゲンボー先生
杏奈 さん メールをありがとう
時代はちがいますが先生の知っていることを書きましょう.
江戸時代は「士農工商」といって,身分が決められていました.さらに武士の中では将軍をはじめとして,大名から家来まですべて身分の順番がついていたのです.さらにさらに「家族」のなかでも家長をはじめとして奥さんから子供まで,これにも順番がつけられていたのです.つまり上下間系がハッキリと決められた社会ですね・・・
農民も.町人もすべて同じです.こうした社会制度のことを「封建制度」(ほうけんせいど)といい.そうした社会を封建社会といいます.
その一番上にいるのが将軍であり,一番上の組織が幕府なのです.
江戸時代は世界でも一番厳しい(きびしい)封建社会(ほうけんしゃかい)でした.
さて,キリスト教では「神様の前で人はみな平等」です.この教えと封建制度がなじめるでしょうか・・・・・・???
答えはノーですね.
そこで幕府はキリスト教を禁止しました.さらにキリスト教の教えが日本に入らないように「鎖国」(さこく=外国とつきあわないこと.ただしキリスト教ではない中国や朝鮮,それにキリスト教でも「キリスト教を広めない」と約束したオランダだけとは貿易をしました)までしたのです.
特に九州にはキリスト教信者(切支丹=きりしたん.といいます)が多かったために,幕府や藩の役人がキリスト教信者かそうでないかをしらべるために「踏み絵」を作って全員に踏ませたのです.
キリスト教信者ならマリア様やイエス様の絵を踏むことができないからです.はじめのうち「踏み絵」は紙に描かれていましたが,すぐに破けてしまうので金属で作ったのです.それでも余りにも多くの人に踏ませたので表面がツルツルになってすり減ってしまうものもありました.
さあ,踏み絵を踏むことができなかった信者はどうなったでしょう・・・???
役人はそうした信者に「転べ!」(ころべ)といいました.つまり「信者をやめろ!」というわけです.そこで思いきって絵を踏めば許されました.そして仏教のお寺の信者になったのです.
踏まなかった信者はどうなったかといいますと「火あぶり」「はりつけ」などの死刑が待っていました・・
世界の歴史の中ではキリスト教徒がずいぶん殺されましたが,一番多く組織的に信者を殺したのが江戸幕府です.踏み絵は人の心を試す道具だったのです・・・君が見た踏み絵も「踏まなかったために殺された人」がたくさんいたのだと思います.
さて,中には絵を踏んだけど「信者」のままでいた人々もいます.そうした人達を「隠れ切支丹」(かくれきりしたん)といいます.九州の天草地方には特に多いそうですが,日本中にいたそうです.
これでいいですか?
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
もちろんありました.なかでも「宋」(そう=中国)との貿易は盛んで,青磁や白磁(せいじ・はくじ=やきもの)や絹(きぬ)製品,お金,香木(こうぼく=良い香のする木),薬,それに中国が貿易しているヨーロッパや他のアジアの国々の珍しいものがたくさん輸入されました.
日本からは,金・真珠(しんじゅ)・水銀(すいぎん)・硫黄(いおう)などの貴金属類(ききんぞくるい),松・ヒノキなどの木材,扇子(せんす)や螺鈿(らでん=貝を埋め込んで絵がらをつけたウルシぬりの製品),びょうぶ,よろい,刀などが輸出されました.
貿易は主に博多(博多=北九州)でしたが,最近になって日本海側におおきな港があってそこでもさかんに貿易がされていたことがわかりました,青森県の十三湊(とさみなと)は東北地方では最大の国際貿易港でした.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう
昔の人々はいつも「死」ととなりあわせでした.ききん・戦争・疫病(えきびょう)・台風・地震・けが,などなど・・・
鎌倉時代だって同じです.
しかも戦争になれば殺すか殺されるかですし,ききんになれば飢え死にしちゃうし,自然の災害(さいがい)にもほとんど無抵抗(むていこう)でした.子供の死亡率(しぼうりつ)も高くまともに大人まで成長できる子供は半分ていどでした.
高い漢方薬や薬師(くすし=医者)は貴族や位の高い武士,それにお金のある商人のようなほんの一部の人達だけのものでした.
一般の人々は昔ながらの薬草をぬったり飲んだりしました.そしてもう一つ「お祈り」がありました.今の人は病気のもとはばい菌やウイルスだということを知っていますが,昔の人はそんなこと知りません.悪い病気は悪い行いや悪い霊がとりついておこると信じられていました.
また,武士は戦争でいつ死ぬかわかりません.また,殺したくない相手(子供など)も場合によっては殺さなくてはなりません.
鎌倉時代・・だけではありませんが,本当にきびしい時代だったのです.
それまでの仏教は天皇や貴族を中心に一部の人だけに広まっていただけの宗教でした.ほとんどの人は昔から日本にあった「神道」(しんとう=神様=人や石や木や動物などなど)を信じ,神社にお参りしていたのです.
ところが平安時代の終わりごろから鎌倉時代になると,新しい考えの仏教がたくさん誕生しました.
浄土宗(じょうどしゅう)・浄土真宗(じょうどしんしゅう)・時宗(じしゅう)・日蓮宗(にちれんしゅう)・曹洞宗(そうとうしゅう)・臨済宗(りんざいしゅう)などです.
これらの仏教の特ちょうは「わかりやすい」ということです,「なんまいだ」「なんみょうほうれんげきょう」と唱(とな)えれば極楽(ごくらく)にいける,踊(おど)れば極楽にいけるというものでしたから,庶民にも急速にひろまりました.
特に鎌倉武士の間には臨済宗(りんざいしゅう)がひろまりました.臨済宗は禅宗(ぜんしゅう)ともいい,座禅(ざぜん)を組んで(やったことがありますか?),自分を見つめなおす仏教です.北条氏は特に臨済宗を保護しました.
こうしたことから,鎌倉の周辺には多くのお寺がたてられるようになったのです.
今度いった時にはどのお寺がどんな宗派(しゅうは)かを調べると面白いと思いますよ.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.契介君.孔明君.
無視する以外に方法が考えられなかったのです.フビライの手紙は「貿易しようね,仲良くしようね,嫌だったら戦争しちゃうよ」という,半ばおどしの手紙です.蒙古(もうこ)としては自分達は世界最大の国で,日本はちっぽけな島国です.とうぜん「おれたちのほうが上」だと思っています.
大陸のように陸続きの国々は蒙古の恐さを知っていますから,属国(ぞっこく=家来の国)になることを受け入れるところも多くありました.
フビライはとうぜん日本もそうするだろうと思っていたのです.
ところが,日本人は蒙古のことをほとんど知らなかった・・・
しかも島国で「国際交流」なんて大昔に遣唐使(けんとうし),遣随使(けんずいし)がいったきりで,その後朝廷のような政府が正式の交流をしたことがなかったのです.(商人は貿易をしていましたよ)
つまり朝廷や幕府は国際感覚(こくさいかんかく)がほとんどゼロだったのです.幕府は手紙にどう答えていいのかわからなかった・・・
相手がどんなに「見下してきても」それに対応する方法が必ずあります.特に日本は島国ですから,うまくやれば蒙古に支配される心配はなかったはずなのです.
その当時の日本人には国と国の付き合いかたが分からなかった.朝廷は返書を出そうとしましたが幕府はそれを握(にぎ)りつぶしました.そして,1度目の元寇(文永の役)の後に来た使者を殺してしまいました.
国際的な常識ではたとえ戦争中でも使者を殺すことは許されませんが、北条時宗は決意を示すために使者を切ったとも言われています。
けっきょく.結論からいえば「知らない」から,国書を無視したり使者を切り殺してしまったのです.たまたま,勝てたからいいようなもので,そうでなければ教科書でも,もっとちがった取り上げられ方をしたと思います. もし,あの時日本が負けていたら,日本の歴史はずいぶんちがったものになっていたでしょうね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう
平安時代と鎌倉時代のことを何で調べましたか?鎌倉時代の人が長生きしたと書いてあったそうですが,それはまちがいです!
鎌倉時代も平安時代も人々の生活は基本的には変わりません.鎌倉時代になると農業の方法が発達していろんなものが作られたり,交通も発達してきましたが大部分の人の生活に大きな変化はありませんでした.
平均寿命というのは子供の死亡率で大きく変わります.今年の二月に鎌倉で墓地の発掘がありましたが,子供の骨もずいぶんありました.病気や飢え,それに親が死んだら子供も死んでしまいます.今のように親のいない子供をあずかるしせつも病院もありません.幕府の命令に「みなし児や病人の死体を道路にすてるな」というのがあります.そうした命令が出るほど子供の死体や病人の死体が転がっていたということです.
まともに大人まで成長する子供は半分以下だったと思われています.大人になっても日照り(ひでり)や洪水(こうずい)などで「ききん」がおきると飢え死にします.病気もありますね,良い薬などなかった時代です.
地震や津波,台風や地くずれでも多くの人が死んでいます.鎌倉の記録ではいっぺんに2万3千人が死んだという地震もあります.
ですから長生きする人はとても運のいい人ということになります.80才まで生きる人はまれで,60歳まで生きられれば「チョー長生き」の部類です.ということで平均すると50才まではいかなかったというのが定説です.これは平安時代も鎌倉時代も同じです..(明治33年ですら男性36,7歳・女性37.4歳)
日本人が長生きするようになったのは,昭和時代になってからが本格的に長生きになったのです.それは医学が発達したのと食生活が豊かになったのと,災害を防ぐ方法が発達したからなのです.(男性が60歳を超えるのは昭和26年。70歳を超えるのが昭和46年です)
ときどき本に,縄文時代(X才)/弥生時代(x才)/奈良時代・・・と,昔にいけばいくほど早く死んで,あとになればなるほど寿命がのびてくるように書いてありますが,あれは「つじつま」をあわせているだけで,根拠(こんきょ=そのことを証明するしょうこ)はないのです.
古墳時代も奈良時代も平安時代も鎌倉時代もほとんど寿命は同じです.へたしたら縄文人のほうが長生きだったかも知れません.縄文時代でも一番古い早期は気温も低く,栄養がたりなくて死んだと思われる人の骨も見つかっていますが,前期や中期は暖かくなり食べ物も豊富で,しかも戦争がない平和な時代ですから,少なくとも奈良時代の人よりは長生きしたと思いますよ.
君たちは日本の歴史の中で一番いい時期に生まれたのだと思ってください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう
なぜ義経は殺されたのでしょうか・・・
「必要なかったからです」からです.もっと別の言い方をすれば「じゃま」になってしまったからです.
頼朝が作った幕府は「関東の武士」の利益をまもるための仕組みです.領地争いや国府(こくふ)の役人にいじめられないために,皆で手を組んで「自分の領地をまもる」というはたらきを持っていました.(先生のホームページを見てください.くわしくのっています)国府の役人の一番上は朝廷です.
つまり頼朝たちが作ろうとしたのは朝廷の力に対抗するための組織(そしき)だったのです.そのために平氏と戦ったわけです.義経は平氏との戦を「源氏のかたき討ち」のように考えていたようです.ですから喜んで朝廷から位をもらってしまいました.源氏を認めてもらって嬉しい!兄も理解してくれるだろう・・・ってね・・・
頼朝を中心とした武士幕府の有力ご家人たちは朝廷の支配からのがれようとしていたわけですから,頼朝の許可なく朝廷から官位をもらってはいけないと武士たちにきつく言ってありました.義経はその意味がよく分からなかったのだと思います.頼朝にしてみれば弟だけにさぞかし残念だったでしょう.ですから鎌倉に入ることを禁じたわけです.
頼朝は天才的な政治家です.そのときから兄弟とはいってもお母さんがちがう義経を利用して,幕府の力を強めようと考えました.
だから,義経が逃げているあいだに,義経を捕まえることを名目にして守護や地頭をおくことを朝廷に認めさせたり,逃げた先の奥州藤原氏にいちゃもんをつけてほろぼしてしまったのです.
仲良く政治をしたらどうなっていたでしょうね・・・他の武士がだまっちゃいないでしょうね・・・義経も同じご家人だ・・特別扱いするなとね・・・
義経は「牛若丸」や「美男子」「戦上手」「悲劇の主人公」というイメージができあがってしまっているために,本当の姿が見えにくい人物の一人です.
そのイメージの大部分は江戸時代の「歌舞伎」(かぶき)によって作り上げられたものです.たしかにすごい人生を歩んだ人だと思います.しかし戦争にしても義経が強かったというより.もともと「関東の武士団」が強かったのです.義経の作戦は敵の裏をかく奇襲戦法(きしゅうせんぽう)でしたが,一歩間違えると味方の被害(ひがい)も相当大きかったはずなのです.
義経のイメージが「すごくよく作られてしまった」ために,第二次世界大戦の前に「義経は死なずに,蒙古にわたってジンギスカンになった」という説が出てきました.けっこう多くの人がそれを信じていました.話としては面白いのですが,義経の首はお酒につけられて奥州藤原氏から届けられていますから違うでしょうね.
ゲンボー先生
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