小学生とゲンボー先生のページ22
 
 
 
玉川学園・玉川大学


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こんにちは、茨城県常北町の石塚小の所です。私達は、修学旅行で鎌倉に行きます。その前に色々調べます。私達は、大仏の作り方を調べます。鎌倉の大仏の作り方は、奈良の大仏の作り方といっしょですか?教えてください。

ゲンボー先生

所さん,メールをありがとう.

奈良の大仏と鎌倉の大仏は同じような作り方でできています.

次の説明を絵にしてごらん・・そうすると良く分かる!

1.大仏を作る場所の土をかため,基壇(きだん)という大仏さんがおかれる場所を作ります.

2.次に大仏の大きさの木組みを作ります.

3.その木組みに大仏さんの内側にあたる土の型を作ります.

4.土の型の周りに足場を作って,銅を流し込む厚みの分の土を塗り表面の模様(もよう)を作る.これが大仏さんの外側のもようになります.これはいっぺんに作るのではなく1平方メートルくらいずつ作ります.

5.4の土の表面に雲母(うんも)という土どうしがくっつかない粉をぬります.

6.そのうえから鋳型(いがた=金ぞくを流し込む”かた”)になる土をていねいにかぶせる.

7.6の土が完全に乾いたら,4の土を削り取ってしまう.そうすると中が空洞になる.

8.6の土を焼いてかため, 空洞に溶かした銅を流し込む.

9.これをくり返しながら上へ上へと作り上げていくのです.そのたびに土を盛りますから,まるで小さな山ができた感じになります.

10.最後に銅が冷えて固まったら,山をくずします.そうすると6の鋳型が出てきますからそれを削ります.そそて表面をきれいにします.

11.大仏さんの中にある3の土をどかします.木型(きがた)も出してしまいます.それから中をきれいにします.

12.きれいになった大仏のつぎめ部分を「鋳掛け」(いかけ=「しろめ」という銅と亜鉛の合金を熱で溶かして接着剤にします)という技術でつなぎ合わせます.接合面(せつごうめん=くっつく部分)にはあらかじめ,溝をほって互いにくっつきやすいようにしておきます,「鋳からくり」といいいます.

13.最後に頭の部分をくっつけてできあがりです.

14.大仏さんができた鎌倉時代には大きな屋根があったそうですが,あとになってこわれてしまい,それからず〜っと今のようになっています.

ところで大仏さんは下の基壇にくっついていません.地震があっても横にすべって力を分散するようにできています.お寺の山門(さんもん=一番外の大きな門のこと)の柱の下に石があるのも同じ原理です.山門は地震のときに横に動いて地震の力を分散してしまいます.ずれたらあとで元の位置に戻すのです.

この石があるから地震でもこわれない!すばらしい昔の人の知恵です.

鎌倉のある湘南地方は過去に何度も大きな地震がありましたが,大仏さんや大寺院の山門が壊れずにのこっているのはそのためなのです.大仏さんを作ることや,地震から守る方法など,今から700年も前にそういう技術が日本にあったということが「スゴイ!」と君は思いませんか?

鎌倉に行ったら大仏さんの中や外をよく見て,つなぎ合わせた部分がどうなっているか観察してきてください.ちょっとちがった見方で大仏さんを見ることができますよ.

お寺の山門もだよ・・・

ゲンボー先生


新潟市立大野小学校六年 結香

このホームページに、どうして農民の暮らしについて載せないのか教えてください。できれば農民の暮らしについて、載せてください。お願いします。

ゲンボー先生

結香さん.メールを有り難う.

農民の生活は記録が残っている武士の生活に比べて分からないことが多いのです.

でも,最近になって各地で発掘(はっくつ)が行われ少しずつ分かってきました.しかし,京都を中心とする近畿地方(きんきちほう)と関東や東北地方ではその生活ぶりはかなりちがっています.今から説明するのは日本中を足して割ったような「平均的」な農村の様子です.

1.農家といっても広い土地を持つ豊かな農家もあれば,土地を持たずに小作人として働く貧しい農家もあった.

2.中でも有力な農家を「豪族」(ごうぞく)といい,この人達が武士になった.

3.豪族を中心に村がまとまり,戦の時は村民が武装して武士にしたがった.

4.家は大きいものから小さいものまで様々.大きい家は母屋や御厨(みくりや=台所),厩(うまや),隠居屋(いんきょや)などがあったが,貧しいところでは「ほったて小屋」程度.ふつうの家は母屋と厩は分かれていたみたいです.

5.農業が主ですが,川で魚をとることや,山へ行って木を切り出すことも行われていました.つまり農村は衣食住が自給の生活なのです.

6.畑では芋や野菜が作られていました.気候が温暖(おんだん)な西日本では近畿地方を中心に二毛作(にもうさく=一年に同じ畑で2種類の作物を作ること)も行われていました.

7.各地で水路やため池が作られ水田が広がっていきました.農民は初夏に田植えを行い,平行して畑で作物を作り,山で木を切り出し,水路を造り,狩りや漁をするという忙しさです.ですから収穫(しゅうかく)のよろこびはひとしおです.

8.秋にはお祭りもありましたが,今のように派手ではありません.

9.お正月や節句などの節目の行事は大切にしました.

10.着ているものは「麻」が中心で,ほとんど自分で作るか物々交換で得ていました.

11.江戸時代と異なりけものの肉は食べても良かった.

こんなところでしょうか・・農民ではありませんが庶民の家を復元した「草戸千軒遺跡」のページがありますので.そちらを参考にしてください.先生のページの「中世の町を歩く」です.

ゲンボー先生


中田小学校6年生の滝田です。

鎌倉時代の武士の館は、どうなっていたのですか?

ゲンボー先生

メールをありがとう.

武士の館といっても,大きいのから小さいのまで様々でした.

広い土地をもって多くの農民を支配していた有力な農民と,そうでない農民とでは家の大きさがちがうということは分かりますね...広い土地を持っていた有力な農民を豪族(ごうざく)といいました.この人達が村を治め武士団の中心になった人たちです.ふつうの農家の人は「郎党」(ろうとう)といって家来になりました.

土地を持たない小作人は「下人」(げにん)とよばれ,馬をひいたり,武士の身の回りの世話をしました.全員が農民であり,また武士でもあったのです.

さらに,こうした武士団をまとめている大有力者がいます.この人を「棟梁」(とうりょうといいます.源氏や平家はこの棟梁ですね.つまり頼朝は武士の棟梁というわけです.

頼朝くらいの武士になると大きな館を作りましたが,一般の武士はごくふつうの家に住んでいました.先生のページにある武士の館はかなり裕福な豪族のものです.

その絵に出てくる館の説明は,知りたいところをクリックすれば出てきますから,それを読んでください.

「鎌倉武士の生活と館」です.それでもっと知りたいことがあったらまたメールをください.

ゲンボー先生


はじめまして、私は、香椎東小学校の6年の野村といいます。

武士の世の中について教えていただきたいことがあり、メールしました。

武士中心の世の中は、農民がとても貧しい暮らしをしていると聞きました。それで、その貧しい暮らしはどのようなものだったのか教えていただけませんでしょうか。

ゲンボー先生

野村さん,メールを有り難う.

広い土地をもって多くの農民を支配していた有力な農民と,そうでない農民がいました...広い土地を持っていた有力な農民を豪族といいました.この人達が村を治め武士団の中心になった人たちです.ふつうの農民は「郎党」(ろうとう)といって家来になりました.

土地を持たない小作人は「下人」(げにん)とよばれ,馬をひいたり,武士の身の回りの世話をしました.全員が農民であり,また武士でもあったのです.

さらに,こうした武士団をまとめている大有力者がいます.この人を「棟梁」(とうりょうといいます.源氏や平家はこの棟梁ですね.つまり頼朝は武士の棟梁というわけです.

分かりますか?つまり農民にも豊かな農民とそうでない農民がいて,武士も農民なのだから,武士の生活が良くて農民の生活が苦しいということはできないということです.

武士の生活が良くて,農民が貧しいというというイメージは,テレビや映画などによって映し出された江戸時代の小作農民の生活からきているものです.江戸時代にだって豊かな農民は沢山いました.同じように鎌倉時代にだって豊かな農民は多くいたのです.

そりゃあ.いつの時代だって貧しい農民の生活は悲惨です.しかしそれがすべてではありません.テレビにはずいぶん誤った場面があります.植え付けられたイメージで歴史を見てはいけないということですね.

私たちは「ものを覚える」ことではなく「見る目」や「判断力」をつけるために勉強をしていきましょう.先生も勉強中です・・頑張りましょう!

ゲンボー先生


武士と農民の関係についてくわしく教えていただいて、ありがとうございました。おかげで、勉強になりました。また、メールするかもしれないので、そのときはよろしくお願いします。m(−−)m 野村


静岡県清水市立 高部小学校6年 景子

鎌倉時代の武士の館の主人への貢物について教えて下さい

ゲンボー先生

景子さん.メールをありがとう.

館(やかた)に住んでいる武士は「豪族」といって,広い土地を持ち力のある農民です.いざというときには武士になりました.

豪族(ごうぞく)は自分の土地を耕す(たがやす)のに「小作人」(土地を持たない農民,鎌倉時代には下人と呼ばれていました)を使っていました.小作人は豪族から土地を借りて農業をしていました.収穫(しゅうかく)があれば当然その中から何割かを税として出しました.

犯罪者(はんざいしゃ)をつかまえることを名目に全国の荘園(しょうえん=私有の領地)におかれた武士は「地頭」(じとう)とよばれ,収穫(しゅうかく)の5%をもらう権利(けんり)がありました.彼らは他人の領地を武力でうばい取り,様々な農産物を差し出させたと記録にあります.

ですから,もともと祖先から受けついだところにいる武士(主に関東地方の武士)と,そうでない武士(あとから西国に配属された武士)との間には違いがありました.

ゲンボー先生


兵庫県竜野市立神岡小学校 詩央里「いざ鎌倉」と武士が掛け声をかけると教科書に書いてあったけど、なぜですか?お

しえてください。

ゲンボー先生

詩央里さん.メールを有り難う.

「いざ鎌倉」というのはかけ声ではありません.武士の心を表した標語(ひょうご)です.

鎌倉幕府を支えていた御家人は将軍と主従関係(しゅじゅうかんけい=主人と家来の関係)を結び,「将軍のために命をかけて働く」「働きに応じて恩賞がもらえる」ということになっていました.

それで,幕府が戦うときには一刻も早く将軍の元にはせ参じることが大切,といわれてきたのです.つね日ごろ馬や弓の訓練(くんれん)をして,戦いにそなえること.そしていつでも出動(しゅつどう)できるようにすること,これらを合わせて「いざ鎌倉」といったのです.

ゲンボー先生


よく分かりました!ありがとうございました。 詩央里


合、升、斗、石などを、Kgやカップで計算する時の換算方法を、教えてください。みほ

ゲンボー先生

メールをありがとう.

1石は10斗  180.39リットル

1斗は10升  18.039リットル

1升は10合  1.8039リットル

あとは君の持っている計量カップでためしてみてください.

しかし,このように決められたのは江戸時代になってからで,それ以前は時代によって地方によって町によって少しずつ異なっていました.もちろん鎌倉時代にも何種類もの枡(ます)があって,それを計算するのが大変だったようです.単位を一つにまとめると言うことはよほど進んだ文化を持たないとできないことなのです.

ゲンボー先生


佳奈、長崎市立山里中学校 鎌倉時代に食べられていたもので、現代ではもう食べられていないものにはどんなものがあるでしょうか。教えてください。

ゲンボー先生 

佳奈さん,メールをありがとう.鎌倉時代には料理が発達し現在の料理法の基本がほぼできあがりました.珍しい食材としては「鶴」「青サギ」などの鳥ですが,食べる方法としては煮たり焼いたり蒸したりとほとんど同じです.調味料も「たまり」「お酢」「塩」「砂糖」「山椒」(さんしょ)などなど・・で,どこかの本には「あまりおいしいものはなかった」みたいに書いてありますが,とんでもない.貴族から庶民(しょみん)までそれぞれの生活レベルにあわせておいしいものを食べていました.だってそれが人間の基本だからです.

先生の持っている本に書いてある食べ物は,多少形は変わってますがほとんど現代にもあるものです.

頼朝はスモークサーモンが好きだった.これは先生と同じ・・・(笑)

ゲンボー先生


沖縄県 知念村立 知念小学校 じゅえり&しの 源義経は、何をした人か、教えて下さい。

ゲンボー先生

「じゅえり&しの」さん,メールをありがとう.

源義経は頼朝の弟ですがお母さんはちがいます.お父さんは源義朝(みなもとのよしとも)で源氏の大将でした.

平清盛と戦い平治の乱に負けた父義朝は殺されてしまいましたが,子供の頼朝や範頼(のりより)達は清盛(きよもり)の義母(育ての親)だった人に,殺されるところを助けられました.

一番年長の頼朝は犯罪人として伊豆の韮山(にらやま)というところに行かされました.しかし犯罪人と言っても血筋(ちすじ=いえがら)の良い人だったので,けっこう大切にされていました.やがて時が来て平家を倒すときに味方になる武士があらわれたのも,「この人についていけば自分たちも良くなるかもしれない」と頼朝にかけたからです.

頼朝は石橋山(いしばしやま)の合戦で破れはしたものの,すぐに千葉に逃れ上総の介(かずさのすけ)千葉の介.三浦氏と言った大豪族の軍隊を味方にしてあっという間に,関東中の武士を味方に付けてしまいました.そうして体制(たいせい)を整えた(ととのえた)頼朝軍は静岡県の富士川の近くで弟義経と再会します.このときふたりは手を取り合って涙を流しました.兄頼朝もさぞかしうれしかったことと思います.

そして義経にも軍隊を与えて,まず源義仲(みなもとのよしなか)と戦わせます.義仲は京都に一番乗りして平氏を京都から追い出した木曽(現在の長野県木曽地方)の武将で,頼朝の遠い親せきになります.よく源平の戦いといいますが,それは主に源氏と平氏が戦ったということで,実際には源氏同士だって戦っていたのです.

義経の軍隊は向かうところ敵なしで,平家との戦いも連戦連勝(れんせんれんしょう=勝ちまくること)でした.この部分はたくさんの本に書いてありますからそれを読んでください.しかし,あんまりうまくいきすぎて,ちょっとその気になりすぎたようです.

兄頼朝は武士による武士のための政治を行うというはっきりした目標を持っていました.ですから家来にもかってに朝廷の言うことを聞くなと言ってありました.しかし,義経は朝廷から位をもらってしまいました.朝廷は義経を味方につけて,頼朝の目指す武士の政権を作るじゃまをしようとしました.そのことを見ぬいていた頼朝は弟の義経を叱りますが,義経は兄の考えをよく理解できませんでした.

義経は兄頼朝に逆らって兵をあげましたが,義味方する武士はほとんどいませんでした.それは頼朝の目指す政治が「武士の生活を守る」ものだったからです.反逆者(はんぎゃくしゃ)になった義経はわずかな家来をつれて日本海側から東北地方に逃げました.むかし世話になった奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)がいたからです.

しかしこれは頼朝の思うつぼでした.頼朝は義経をつかまえるという名目で,守護と地頭という役人を全国に配置(はいち)しようとしました.今まで朝廷だけが支配していた土地に関東の武士が役人として入るということは,とても大きな意味を持っています.後に武士の政治が広がる基礎ができるからです.

また義経をかくまっていることを理由に藤原氏をやっつけることもできます.奥州藤原氏は東北地方の大勢力です.関東の武士政権にとってはじゃまな存在ですね.頼朝は藤原氏をおどかしてついに義経を殺させてしまいます.そうしたら今度は「つかまえろとはいったが殺せとはいっていない」と藤原氏をせめてほろぼしてしまいました.

※こうしたいきさつは先生のページにもっとくわしく出ていますからそちらをよく読んでください.

武士の政権を目指していた兄頼朝.戦は強かったけどそれがわからなかった義経.

兄弟だけに悲しいですね・・そういこともあって江戸時代に歌舞伎(かぶき)で義経のことがヒーローとして演じられるようになると,義経のファンが多くなりました.義経が九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれていたのでこうしたことを「判官贔屓」(ほうがんびいき)といいます.以後弱い立場の人を応援(おうえん)することを判官贔屓とよぶようになりました.

ゲンボー先生


岩手大学教育学部付属小学校 六年 隆宏

鎌倉幕府が続いていたころ、頼朝軍と朝廷の関係は、どうなっていたのですか?教えてください!

ゲンボー先生

隆宏君,メールをありがとう.

頼朝は関東の武士の生活を守り,よくするために鎌倉に政権を作りました.鎌倉幕府と言うと何となく武士の政権が全国を支配したみたいに思われがちですが,実際には関東地方と幕府に逆らって負けた地域だけが武士政権の下にあったにすぎません.だいいち「幕府」ではなかったのです.幕府と名付けたのは江戸時代の学者で,その言葉のイメージから「組織がちゃんとしていて」「しっかり政治を行った」と言う感じがしますが.頼朝のころには関東地方の武士だけの組織でした.

ということは,そのころはまだまだ朝廷の力が強かったということですね.頼朝の支配地域(しはいちいき)以外の近畿地方(きんきちほう)や中国地方,それに九州地方などは朝廷の支配力の方が強かったのです.それらの地域は商業も農業も発達した進んだ地域とも言えます.

そもそも,頼朝や家来の御家人(ごけにん)の持っている「くらい」はすべて朝廷から与えれたものです.御家人たちは,地頭という頼朝から与えられた職以外に,地方の役人としての職ももっていたのです.

ですから当時の武士の感覚(かんかく)から言えば,日本の国は天皇が支配して,政治の中心は京都にある朝廷.地方にいる我々はその役人でもあるが,困ったときには鎌倉の政権が守ってくれる.また,朝廷はいくら働いても税金が少しくらい安くなるだけだが,頼朝の政権は恩賞(おんしょう)として新しい土地をくれたり,今まで持っていた領地を認めてくれる組織だ.だから頼朝を支持する.というかんじだったのです.こうした武士の生き方を君はどう思いますか?

ゲンボー先生


鎌倉時代と室町時代の絵画の違いについて教えて下さい。ゆきこ

メールをありがとう.

平安時代の後半から鎌倉時代になると,絵が写実的(しゃじつてき)になってきます.(写実的=しゃじつてき=じっさいに見えるとおりにかくこと)鎌倉時代には自分の手柄(てがら)を絵にして子孫に残す人が現れました.その多くは戦での手柄が中心ですが,前後するできごとや日常の生活が自然に描かれているため,鎌倉時代のことを調べる上でとても大切な資料になっています.同じように仏教を広めるお坊さんの物語もあります.

鎌倉時代は武士の力がまして,彫刻(ちょうこく)や建築(けんちく)と同じように絵の世界でも力強く写実的になった時代だといえます.

室町時代になるとそうした描き方とは違ったものが現れました.特に中国の影響を受けた水墨画(水墨画=すいぼくが=色絵の具を使わずに墨のうすい濃いを使って絵をかくほうほう)は仏教の「禅宗」(ぜんしゅう=座禅をして人の生きる道を見つけることを大切にした仏教の一派)ひろがりや,茶の湯(ちゃのゆ=お茶を飲むことを通して,人間の生き方を考えること)が親しまれるにしたがって人々に受け入れられるようになりました.

有名な人に「雪舟」(せっしゅう)がいます.雪舟は1420年に岡山県で生まれ1506年に87歳で没しましたが,40歳代に中国に行って水墨画の勉強をしてきました.日本に帰ってから活躍し,本家の中国に負けない..それ以上の絵を描きました.

ゲンボー先生


平岡南小学校 元春

はきものはどんなものをはいていたのですか?

ゲンボー先生

メールをありがとう.

はき物は,季節や身分やその時によって違います.

・庶民=裸足.下駄.わらじ・金剛(こんごう=わらじのしんに板を入れたもの.丈夫で長持ちします)

・おぼうさん=高下駄.わらじ・ 金剛

・下級武士=はだし.わらじ・ 金剛

・上級武士=わらじ.金剛・革靴 ・浅靴(あさぐつ=きのくつ)

・貴族=浅靴・革靴・下駄・鴨靴(かもぐつ=「けまり」用の靴.

などで,雨の日は「下駄」,旅に出るときは「わらじ」や「金剛」,戦に出るとき馬にのる人は「革靴」,のらない人は「わらじ」,貴族や上級の武士が行事に出るときは「浅靴」というぐあいでした.

また,わらじや下駄や靴もそれぞれ,細かく種類がありますが,あまりふくざつにするとむずしいのでこのくらいにしておきます.

ゲンボー先生


ぼくは、名倉小学校の、富森です。質問は、鎌倉幕府をする所に平氏ばっかりがいて遠くの方に源氏がいて源頼朝は、どうやって幕府を開いたんですか   

ゲンボー先生

富森君,メールをありがとう.

いい質問ですね.良くそのことに気がつきました.

教科書や本には「源平の戦い」と書いてありますが,じっさいに平家と戦った関東の武士の多くは「平氏」なのです.つまり平氏とか源氏とかに関係なく頼朝に味方したということなんですね.

関東地方は新しく拓(ひら)かれた開拓地で,各地の有力な農民は自分の土地を守るために武士になりました.それだけでは不安なので,家柄(いえがら)の良い人を中心に親せきどうしになりました.そのとき平氏の子孫が多くいたために,結果的に関東地方の武士には平氏が多かったのです.

しかし,彼らはそんなことにこだわっていませんでした.それどころか同じ平氏でも都にいて良い生活をしている平清盛達にいい感じを持っていなかったのです.

関東の武士は「自分の領地を認めてくれる」「働きによって新しい領地をくれる」頼朝に味方しました.

ですから鎌倉幕府は「関東地方の武士」が中心になって頼朝を親分にして作った政権だといえますね・・・

ゲンボー先生


豊田市立大林小学校6年 千夏

元と、日本の戦いでなぜ日本が勝ったのですか?暴風雨以外の理由で。教えてください。・・・・

ゲンボー先生

千夏さん,メールをありがとう.

1.元軍は船でやってきました.昼間は陸で戦いましたが夜は船にもどって寝ていました.そこを日本の武士がおそったのです.日本の武士は一対一という古くからの日本の戦い方をしていたため,昼間は集団で戦う元軍にやられまくっていましたが,夜にこっそり忍んでいって戦うゲリラ戦は得意でした.

2.2回目の元寇の時には北九州から山口県までの海岸線に石で壁(かべ)を作りました.これを防塁(ぼうるい)とか石塁(せきるい)といいます.これがけっこう役に立ったのです.最初の戦いで痛い目にあった日本の武士達は壁にかくれて上陸してくる元の兵士を弓でうちました.

3.いずれにしても元が日本を支配するためには,海の向こうから兵隊や武器や食糧(しょくりょう)を送り続けなくてはなりません.当時としてはかなり難しいことですね.結局は日本は島国と言うことで助かったといっても良いのです.

ゲンボー先生


げんぼーせんせい。武士のよろいの事について、 くわしく教えてくれませんか? 平野

ゲンボー先生

鎌倉時代のよろいを一言で言うと「ど派手」(はで)ということになります.赤や緑や青やキンキラでめいっぱい目立つのです.なぜでしょう?

それは,自分を敵にも味方にもよく見てもらうためなのです.なぜなら「はたらき」におうじてもらえる土地の広さが違ったからです.鎌倉時代の武士は将軍と「ご恩」と「奉公」(ほうこう)の関係で結ばれています.

奉公とは将軍のために働くこと.それは役所で働いたり戦争に参加して戦うことです.ご恩とは「自分の領地を認めてもらうこと」と「新しく領地をもらうこと」です.

だから目立たなくてはいけないのです.同じよろいでも戦国時代になると鉄砲の弾から身体を守らなくてはならないのと,動きやすさ..それに派手だと鉄砲で撃たれちゃうので目立たない色になってきました.

そして現代の兵隊は完全に目立たないような色の服を着て戦いますね.時代によって社会によって戦い方や服装も変わると言うことですね.

よろいの写真はこちらのページです.

ゲンボー先生


はじめまして、こんにちわ。福岡町立福岡小学校の加藤といいます。お時間をとって申し訳ないのですが、急ぎの質問です。

私たちは今、貴族と武士のことを個人のテーマで調べています。私は貴族、武士、それぞれの格。(今で言ったら、社長・副社長・部長・課長みたいなものです)それと、その役割を調べているのですが、どうしても良い資料がみつかりません。

ゲンボー先生

武士だけの階級というのはありません.日本では江戸時代が終わって明治時代になるまで,天皇を中心とする朝廷の階級が使われていました.(貴族の位も同じです)

一位・二位・三位(さんみ)・四位と偉い順番になります.それぞれに正と従があって上下二つに分かれています.五位以上が貴族で昇殿といって朝廷の中心の宮殿に上がることができます.つまり天皇の姿を見ることができる立場です.一位から三位クラスは「卿」(きょう)といい,四〜五位が大夫(たいふ・たゆう)です.天皇に会って話ができるのは「卿」です.

六位・七位・八位・初位は下級役人でこれ以外に「外位」があり地方豪族は「外六位」などの位でした.このようなランク付けを「位階」(いかい)といいます.

しかし,平安時代の終わりごろから鎌倉時代には武士の力も強まったため,しだいに武士に高い位階が授けられるようになりました.例えば源義経は従五位ですから,昇殿(しょうでん=天皇のいる館に上がること)が許されました.これは当時の武士としては大変な昇進(しょうしん=くらいがあがること)です.兄の頼朝は正二位までになりましたから,これは貴族と同じ扱いですね.鎌倉時代を通じて将軍は正二位から従三位までの間です.

御家人では有力なもので従四位〜従五位くらいです.

位階とは別に「官職」(かんしょく)がありました.これは役職ですね.位階は社会上の順番ですが,官は職業上の順番です.例えば近衛(このえ=天皇を守る軍隊)では「大将」「中将」「少将」「将監」(しょうげん)「将曹」(しょうそう)・・・と順番があります.

一般の武士の場合,国司(今の県知事)が「守」(かみ)で助役が「介」(すけ)で,部長クラスが「掾」(じょう),課長が「目」(さかん)といったところですね.

後に力を付けた北条氏は「相模の守」や「武蔵の守」ですから,東京や神奈川の知事をかねていたと言うことになります.

しかし,江戸時代になるとそうした官職は形だけの「めいよ職」で,忠臣蔵(ちゅうしんぐら)で有名な赤穂浪士(あこうろうし)に討(う)たれた吉良上野介(きらこうずけのすけ)などは実際には静岡県に住んでいながら,上野(こうずけ=群馬県)の県知事のという肩書きをもらっていました.

これでいいですか?難しいでしょ・・

ゲンボー先生


香川県坂出市立東部小学校6年 和磨  ゲンボー先生.前メールで鋳型というものが出てきました。説明と写真をお願いします.

ゲンボー先生

鋳型(いがた)とは高い温度で溶かした金属を流し込む「型」(かた」のことで,その多くは粘土や砂でできています.金属が冷えて固まれば鋳型の多くはこわれてしまいます.

君がたずねている鋳型は大仏様のことですか?それともお金や装飾品でしょうか?鉄や銅などの金属を加工するにはいくつかの方法があります.

刀のような刃物の場合は鋳型で作るのではなく,熱い鉄をたたいてのばし,又かためてたたいて延(の)ばしと何回もくりかえして,折れないで良く切れるものにします.これを鍛造(たんぞう)といいます.

立体的なもので,刀のような強さはいらないものはさっきも言ったように「鋳型」に流し込んで作ります.大仏様は大きいので下から順番に少しずつ鋳型で作り,積み上げていきます.

小さな仏像は一つの鋳型でできますね.こういう方法を「鋳造」(ちゅうぞう)といいます.

お寺の天井からぶら下がっているような,花びらなどの装飾品は金属の板を切って加工します.それに金箔やメッキをしてできあがりです.これを「彫金」(ちょうきん)といいます.

金属はその用途によって溶かしたり,たたいたり,切ったりして加工するのです.

残念ながら当時の鋳型の写真はありません.

ゲンボー先生


福島第三小学校6年1組 源義経は義仲軍平氏軍をたおして大きな力をえたのか教えてください. 

ゲンボー先生

メールをありがとう.

もちろんそうです.「源平の戦い」という言葉は後の世の人がかってにつけたのであって,当時の人たちは源氏対平家の戦争とは思っていません.なぜなら頼朝の軍隊のほとんどは平氏の一族だったからです.平氏といっても,都にいる清盛たちとは大違いで,関東に住んでいた豪族たちでした.彼らは一族の結束を固めるために,都からきた源氏や平氏と親戚になった人たちの子孫です.

しいたげられてきた関東の武士たちは,頼朝を自分たちの棟梁(とうりょう=親分)として,自分たちの生活をよくしようと考えました.だから頼朝の味方をしたのです.ですから,先に京都へ入った木曽義仲(きそのよしなか)も都の平家も,同じように敵なのです.

その義仲をうったのは義経がひきいる軍隊でした.義経は貴族に好かれ,上皇にもかわいがられました.しかし,これは朝廷の策略(さくりゃく=だますこと)です.義経を味方につけてもしもの場合には兄の頼朝と戦わせようと考えていたのです.そののち,義経の軍勢は平氏との戦争に勝ちまくって,義経はヒーローになりました.しかしここまでです.

義経は兄の頼朝が「武士のための政権」を作ろうとしていることを理解しませんでした.というか,できなかったのです少人数で旗揚げして,命をかけて戦った頼朝は味方に付いてくれた関東の武士たちの望みを知っていました.それは,公平な政治,はたらきに見合った恩賞(おんしょう=この場合領地のこと)だったのです.

一方義経は,奥州藤原氏の元で暮らしていましたが,藤原氏の支配地は安定していたのでそうした武士の望みは関東ほど強くなかったのです.結果として,義経は頼朝と戦おうとしましたが,部下だった武士たちはほとんど頼朝側につきました.それは,頼朝の方がはるかに関東の武士にとって頼りがいがあったからなのです.以後,頼朝は「鎌倉殿」(かまくらどの)とよばれて関東の武士の信頼(しんらい)と尊敬(そんけい)をえることができました.上皇に利用されたあわれな義経は,衣川(ころもがわ)というところで藤原氏に殺されてしまいました.

ゲンボー先生


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