小学生とゲンボー先生のページ2 玉川学園・玉川大学
こんにちは、こちらは福井県の兵庫小学校6年生の向井・岡崎・橋崎といいます
なぜ源氏の将軍はどうして三代で絶えてしまったのですか?
ゲンボー先生
この質問に答える前にちょっと復習してみましょう.
頼朝はなぜ将軍になれたのか?
武士が出現した理由はいくつかありますが,大きな理由の一つに「自分の領地を守る」ということがあげられます.今の時代だと人の土地を勝手(かって)に奪(うば)ったりすると「法律」によって裁かれ(さばかれ)罰せられますが,この時代には法律はあっても都合のよい解釈(かいしゃく=その人の考えによって理解すること)によって判断がかわったり,無視されたりしました.
特に地方ヘ行けば行くほどこうしたことが行われていました.
特に当時の関東地方は新しく畑や田んぼが作られた開拓地(かいたくち)で,隣(となり)の荘園(しょうえん)や村との境界線問題(きょうかいせんもんだい)で争いが多かったのです.ですから,自分達を守るために刀や薙刀(なぎなた)弓で武装(ぶそう)しました.これが武士ですね.
ところで,だれだって,戦争なんかしたくありません.「となり」ともうまくやりたいと思っています.また,できればもっと広い土地を手に入れて豊かな生活をしたいとも願っています.ですから,当時の武士は偉い人のもとに集まって武士団(ぶしだん)を作り互いに守りあう約束をしていました.
そこで,この偉い人の条件ですが,ただ人格(じんかく)が優れているとか,強いというまえに,まず「血筋」(ちすじ)のよい,ということがあげられるのです.この時代「血筋」が良いというのは天皇や貴族の血統(「けっとう」子供,孫といった血のつながり)ということになります.平家も源氏も元は天皇の子供から別れた氏ですから,頼朝が関東の武士団に受け入れられた大きな理由の一つがここにあります.
ここで関東の武士達がどうして頼朝を受け入れたのか.武士の立場をまとめてみましょう.
(1)自分の土地を守りたい.もっと豊かになりたいと思う武士の気持ちがあったから.
(2)頼朝が源氏の正統(ただしい)な血筋であること.
(3)源義家(「みなもとのよしいえ」平安時代に関東地方で活躍し武士達に信頼されていた人)から続いている源氏の子孫だから.
ですから,頼朝が石橋山(いしばしやまのかっせん)の合戦で破(やぶ)れたにもかかわらず,関東の武士の多くが頼朝に味方したのです.ところで,その武士達は源氏より平氏の関係者のほうが多かったのです.つまり,自分が平氏とか源氏とかいうこだわりなしに「武士が安心して生活できる」社会を作ることを頼朝に期待(きたい)したのです.
さあここで,授業のことを思い出してみてください.
将軍と将軍の家来になった人(御家人といいます)とのあいだにはどんな「約束ごと」がありましたか?
「御恩」(ごおん)と「奉公」(ほうこう)のことはもう習いましたか?
「奉公」は将軍のために命を捧げて戦うこと.幕府のために働くことがあげられます.そのかわり将軍は御家人に「御恩」として
(1)領地を認め守ること.
(2)戦で良いはたらきをしたものに(つまり幕府のために戦った武士)に敵から奪った土地を分け与えること.
をしました.こうした将軍から認められた,あるいは貰った土地のことを「一所懸命の地」(いっしょけんめいのち)とよびました.今君たちが「一生懸命」(いっしょうけんめい)といっている言葉のもとはここにあります.
さて,本題に入ります.
頼朝はこの約束ごとをとても大切にしていました.なぜならこの信頼関係(しんらいかんけい)が幕府を支えていたからです.したがって御家人どうしの土地争いのときなどは,頼朝が自ら双方(そうほう=両方)の意見をよく聞いてから境界線(きょうかいせん)を引いて納得させたといわれています.
しかし,息子の頼家(よりいえ)は生まれながらの将軍として,幕府を作るときに世話になった人々を呼び捨てにしたり「おれは将軍だ」などと,我がままな性格を丸出しにしていたようです.
また,御家人どうしの土地争いを見て,その地図のまん中に黒く太い線を引いて「これで文句あるか!」とやったこともありました.さあ,どうでしょう?こんな将軍を御家人達は信頼(しんらい)できますか?
結局,頼家は母の家方である北条氏によって暗殺されてしまいました.
では弟の実朝はどうだったでしょう・・・
実朝は兄の頼家とはちがって大人しく優しい性格の人だったようですが,馬や弓の稽古(けいこ)より短歌(たんか)を作ることのほうが好きだったらしく,武士より貴族の生活に憧(あこがれ)れていました.そのようなこともあって「自分は中国へ行く!」といいだして大きな船を作らせました.この船は重すぎてけっきょく海には浮かびませんでした.
さて,御家人はこうした人に命をかけて戦えるでしょうか?恩賞はもらえるでしょうか?自分の土地をまもってくれるでしょうか?・・・・どうも,期待できませんね.
結局,実朝は頼家の息子である「公暁」(くぎょう)によって暗殺(あんさつ)されてしまいました.この公暁を後ろであやつって,幕府の実権を握ろうとした御家人がいるのですが,北条氏にうまく利用されてしまいます,このあたりの複雑な関係をもっと知りたい人は,学校の先生に教えていただくか,本で調べてみて下さい.参考「実朝さんのお墓は二つあった」
さあ,これで皆さんもわかったでしょう.鎌倉幕府は頼朝ひとりが作ったんじゃない,御家人と呼ばれた武士達が自分達の生活を守り,よくするためにみんなが協力して作ったということを・・・
そこがよく理解できていなかった頼家と実朝だったのです.この後,幕府の実権は北条氏が執権(しっけん)というかたちでにぎります.その北条氏も最後には同じようなことでほろびていきます.
歴史って面白いですね.
ホームにもどる 注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.