小学生とゲンボー先生のページ20 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
千尋さん メールをありがとう.
頼朝は
1.ご先祖様が源義家(よしいえ)だったことがまず第一にあげられます.義家は後三年の役(ごさんねんのえき=東北地方で起きた戦争)のとき,関東の武士をまとめて大活躍(だいかつやく)した人です.勝ったのに朝廷は武士に恩賞(おんしょう)を与(あた)えませんでした,そのかわりに義家自身が自分の領地を分けたり,敵の土地を分けて恩賞を与えました.源義家はこのことによって関東の武士達から大きなな信頼(しんらい)を得ました.その言い伝えが頼朝の時代にまで語りつがれていたのです.
2.頼朝の父源義朝(よしとも)は,鎌倉に館(やかた)をかまえ保元の乱(ほうげんのらん)では関東武士を従えて活躍(かつやく)しました,平治の乱では平氏に破れましたが,のちに頼朝を支える三浦氏.千葉氏.上総氏(かずさし)も義朝軍に参加していました.(この時の三つの豪族は負けると分かった時点で逃げています.)
とにかく,頼朝の血筋(ちすじ)は関東の武士にはとても高貴(こうき)なものとして受け取られていました.
※それでも,頼朝が旗揚げした時には「様子を見ている」武士が多かったのです.たいしたことがなかったら,平氏側につき,勢いがあったら味方しようと考えていました.当たり前のことですが,自分や一族が大切だからです.
3.関東の豪族とはいっても,もともとは開拓農場主で,自分の領地が他の豪族に奪(うば)われたり,国府の役人に必要以上に税をとられたり働かされたりと,以外に「弱い立場」だったのです.※(ここのところは「鎌倉幕府ができるまで」をよく読んでください.)ですから「自分達の利益」になる人の登場を待っていたわけです.
4.頼朝は千葉氏や三浦氏,それに北条氏などの言うことをよく聞いて,武士のためになる政治を行おうと努力しました.公平に裁判(さいばん)を行う「問注所」(もんちゅうじょ)を作ったり,働きの良い武士に新しい領地(農地)を与えました.また,昔から武士が持っていた領地をハッキリとさせてそれを認めました.こうしたことで関東の武士の信頼(しんらい)を得ることが出来たのです.
君の質問では「どんな力を持っていたのか」ということでしたが.まとめてみると
1.血筋が良かった(ちすじ=位の高い人の家系ということ.源氏の大もとは天皇の子供です.)
2.部下の言うことをよく聞いて,自分で考え,自分で判断した,という頭の良さがあったのです.
もう一つ加えるのなら
3.運がよかった.ということもあります,石橋山の合戦で死にそうになったり,千葉で殺されなかったのは運がよかったとしか言いようがありません.
きっと歴史の中には優れた人がいても途中で死んでしまって,歴史に名を残せなかった人が沢山いたのでしょうね.
先生のホームページ「貴族から武士へ」も読んでみてください.ちょっとむずかしいかも知れないけど,そうしたことの大もとが分かると思います.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
一言に鎌倉文化と言ってもいろいろあって説明しきれません.ここでは代表的なことを書きます.
鎌倉時代は武士が力をつけてきた時代です.ですから武士に好まれるような力強い描写(びょうしゃ=描き方,表現お仕方)が好まれるようになりました.
その代表選手が彫刻家(ちょうこくか)の運慶(うんけい)です.運慶は東大寺の金剛力士像(こんごうりきしぞう)を見ても分かる通りとても力強さにあふれています.彼の弟子に快慶(かいけい)がいますが,快慶はどちらかと言うと女性的な優しい彫刻が多いようです.それでもそれ以前の彫刻とは違いとても写実的に作られています.
絵では一遍聖絵(いっぺんひじりえ)や竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)など写実的に描(えが)かれているのが特徴(とくちょう)です.
建築でも建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんがくじ)などを見ても分かるように,質素ですが力強い形をしています.
このように,それぞれの時代の主人公によって作られる文化ですが,鎌倉時代は質実剛健(しつじつごうけん=見た目よりも力強い,中身を大切にすること)の鎌倉武士達がその主人公だったことが良く分かると言うわけです.
江戸時代は町人の時代ですから「浮世絵」(うきよえ=版画で風俗や景色や役者の絵を印刷したもの)や「歌舞伎」(かぶき=舞台で演じる独特の劇)「浄瑠璃」(じょうるり=三味線に合わせて物語をかたる)などが生み出されたというわけですね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
農民が自分達を守るために武器をもったのが武士のはじまりです.ご家人になる有力な武士は,その中でも村をまとめる大きな農家です.特に関東地方には新しく開拓(かいたく=新しく農地にしていくこと)された農地が多く,その開拓農民の指導者・有力者が専門の武士になりました.
それでも武士は農民ですから,田植えをしたり稲刈りをしたりする人もいました.偉(えら)くなるとあまり農作業はしませんが,自分の領地からとれるお米や農産物がその家の生活費になったのです.大地主というわけですね.ですから武士にとって「土地」は命なのです.土地と言ってもそれは農地のことなのです.
頼朝はまず味方につけた武士の支配する土地を認めました.当時としてはこれだけでも大変なことでした.さらに戦で手がらをたてた武士に敵からうばった土地を分け与えました.
自分の領地が広がることは生活が豊かになり,一族が栄えることですから,ご家人達は将軍のためだけに戦ったのではなく,自分や家族・一族にとってとくだったから戦ったのです.
武士になっても領地は大切で,農家の親分になったのだと思ってください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
歴史を学ぶ上で、「なぜだろう」「どうしてだろう」という「こだわり」や「興味」、あるいは「もっと知りたい」という気持ちは大切です。しかしこれは歴史だけのことではありません。
これまで、君と同じように「どんなものを履いていたのか」とか「どのような家に住んでいたのか」とか、「庶民は何を食べていたのか」などの質問が、ゲンボ-先生の元へ沢山よせられました。どれも教科書や普通の本には書いてないことばかりです。ところで、これらの質問は一見簡単なようですが実はとても難しい質問でした。なぜなら、そこまで研究が及んでいないことも多かったからです。先生は絵を調べたり、発掘の報告書を読んで調べました。あるときはその場所へ行ったことこともあります。先生といえども分からないことは沢山あるのです。ゲンボ-先生にとっても勉強でした。
歴史の勉強で大事なことは出来事や年号を覚えたり、政治のこと戦争のことを学ぶ以上に「その時代の生活」について知ることです。これが分かれば「政治」のこともっと深く理解することができるからです。日本の歴史学習は「政治」にかたより過ぎていると先生は感じています。今、テレビドラマで元冦のことをやっていますが、元軍はどうやって食事を作っていたんだろうね?どんなメニューだったのかなあ?これを調べたら面白いなどと思いながら先生はテレビを見ています。多分それを調べるのには何年もかかるでしょう。
君は日蓮のことを質問してきたけれど、日蓮の行ったことは本にもたくさん書いてあるし、映画やテレビにもなりました。そういうことはすぐに調べることが出来ます。もちろんインターネットでも・・・でも、日蓮さんが普段「何を食べていたのか?」、「料理は誰が作ったのか?」「生活費はどうしていたのか?」「信者はどのくらいいたのか」「日蓮さんはどこに寝泊まりしていたのか?」「なぜ京都ではなく鎌倉で辻説法したのか?」「佐渡島ではどんな生活をしていたのか?」などということはなかなか分かりません。しかし、こうしたことが分かってはじめて日蓮さんが、なぜ法華宗を興(おこ)したかが分かるのです。
表面上のことを学んだだけではホントのことは分からないのです。君も何か一つにこだわって勉強してごらん、「新しい世界」が見えてくるはずです。
勉強を頑張ってくださいね.またメールをください.
ゲンボー先生へ
僕の学校は、5年生のときまで歴史の授業はなく、僕は歴史が大嫌いでした。でも、毎日毎日、歴史人物の勉強をしていたら、何故だか分からないけれど、どんどん好きになっていて、毎日、歴史の教科書を見るようになりました。 自分でも不思議です。
今思いました。こんなに歴史が好きになったのに、自分で調べないなんて、もったいないな、という気持ちがしました。ゲンボー先生のおかげで、なんだか、本当の自分ができたような気がします。
ゲンボー先生。本当にありがとうございました。これからは、自分で探す、自分の努力をたっぷり使って、社会の勉強を頑張って見せます。そして、ゲンボー先生のように、歴史博士になってみたいです。
富山県に住む小学六年の達也です。さて、質問ですが、文永・弘安の役戦後の恩賞の事ですが、文献や書物など調べても肥後の御家人、竹崎季長しか記載されてなく、その他の御家人達は徳政令で何とかその場を凌いだそうですが、少なからず、敵の落し物、戦利品が有ったと思いますが、それら活用することが、出来なかったのですか。(武器開発、元軍の火薬、弓等、国産化)
最後ですが、鎌倉幕府では、三回目の元寇来襲を想定してたのですか。博多の警備は何時までやったのですか、教えて下さい、お願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう。
元冦(げんこう)の恩賞(おんしょう)問題は幕府にとっても頭のいたい問題でしたが、1275年11月1日に太宰府(だざいふ=九州にある役所)にあてて九州の御家人120人に対する恩賞が通知されています。ただしその内容は極めて狭い土地や屋敷、それに捕虜にした南宋人を奴隷(どれい)として与えた程度です。竹崎季長は破格(はかく=特別にすごく)の恩賞を得たと言ってもよいでしょう。
もちろん3回目の襲来(しゅうらい)を想定(そうてい=予想して計画すること)していました。博多や防塁(ぼうるい)の警護は「異国警護番役」(いこくけいごばんやく)と「石築地役」(いしついじやく)は幕府が滅亡(めつぼう)するまで継続(けいぞく=続ける)されています。これは九州の御家人とって大きな負担となりました。
ゲンボー先生
幕府ってどういう、ものなんですか?教えて下さい!
裕子さん,メールをありがとう.幕府とは朝廷の一組織(そしき=しくみ)です.本来は将軍の本営でした.(ほんえい=戦地や占領した地いきの政治を行う時に臨時に作るしくみ).かりに作るので白い幕でかこっていたため「幕府」という名前になりました.時代によっては将軍の館のことをさしました.頼朝の時は頼朝の館(やかた)のことをさしました.
※征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=関東・東北地方の朝廷に逆らう人々を征服するための臨時(りんじ)の軍隊の最高位の人,天皇直属の総司令官)
幕府で有名なのは江戸幕府ですが,これは幕ではなくて立派(りっぱ)なお城でしたね.臨時ではなくてちゃんとした武士の政権で,全国を支配していました.それでも名目上(めいもくじょう)は朝廷が日本を統治(とうち=しはいすること)するしくみだったのですよ.
鎌倉幕府は頼朝が開きましたが,江戸時代の幕府とは大きくちがいます.頼朝の作った仕組みは主に「関東地方の武士」を守るための仕組みでした.征夷大将軍になったから幕府を開いたのだと思われがちですが,武士を守るための仕組みはもっと前に作られていました.しかも頼朝たちが幕府を開いたとは一言も言っていないのです.ですから記録にも書かれていないのです.幕府という呼び名をつけたのは江戸時代の学者でした.
頼朝を始め執権(しっけん)の北条氏も自分達の政権が「全国支配」しているものだとは思っていませんでした.彼等は「武士の利益」を考える仕組みを作り,その中で少しづつ力をつけ朝廷にたいしても同じくらいの発言力を持つようになったのです.
承久の乱という朝廷側と鎌倉側との大きな戦いがあり,鎌倉側が勝ちました.この戦いの後に鎌倉側の力が強まりましたが,それでも近畿地方をはじめとする西日本の武士のなかには,鎌倉側につかない者も多くいたのです.
教科書やドラマを見ただけではほんとのことは分からないものですね.
ゲンボー先生
蒙古軍は、なぜ日本を襲ったのですか?なぜ他の国を襲わなかったのですか?教えて下さい
大阪狭山市立 南第一小学校 6年 昭寛
ゲンボー先生
昭寛君,メールをありがとう.
蒙古(もうこ)軍は日本をおそっただけではありません.遠くはヨーロッパのハンガリー,ロシア,アフガニスタン,インド,中国,ベトナム.高麗(こうらい=朝鮮)など数え上げたらきりがありません.日本をおそったのは,あとのほうなんです.
当時の中国人は,日本から大量(たいりょう)の金が出ることを知っていました.日本と一番関係の深かった中国の福健省(ふっけんしょう)あたりでは日本と言う文字を「ジップン」と読みます.
それで,ジップンは黄金の国と蒙古人も聞いていたのだと思います.(それをイタリア人のマルコ・ポーロが聞いて,国にかえってから「黄金の国ジパング」と東方見聞録(とうほうけんぶんろく)という本に書きました.以後,日本はジパング,ジャポン,ハポン,ジャパンなどと呼ばれるようになりました.)
日本は中国と貿易(ぼうえき)をしていました.その中国は蒙古の支配下にありました.当然のことながら蒙古は「日本も家来の国にしてしまえ」と思ったのです.ですから,フビライの最初の手紙には「国交を結ぼうじゃないか」と書いてありました.しかい「言うことを聞かないと軍隊を使うかもしれないよ」みたいなことが書いてあったので,幕府はつっぱねたのです.というより,それを口実におつきあいしたくない意志を表したのです.
蒙古に逆らう国なんかあまりなかったので,それで怒ったフビライが軍隊をよこしたのです.
その間,日本は相手の使者も殺してしまいました.これはルール違反(いはん)ですね.
ゲンボー先生
平安時代のお金と、今のお金のちがいは?
ゲンボー先生
メールをありがとう.
昔のお金は必要な金額(きんがく)が集まれば「金」や「銀」,あるいは金貨や銀貨にかえることができました.平安時代では金.銀そのものです.つまりやすい銅銭でもたくさん集めれば「金」「銀」にかえられるという約束があったために,お金としての価値が認められ,使うことができたのです.
今のお金は金にかえることはできませんが,日本銀行が保証(ほしょう)しているために「その金額」の価値が認められています.つまり日本の国が保証しているわけですね.しかし,その国の経済が弱くなったり,戦争で負けたりするととたんに価値が下がってしまいます.
むかし,ドイツが戦争に負けた時には(第1次世界大戦),カバン一杯のお札でパンが一つしか買えなかったということがおきました.これは戦争に負けて工業も農業もだめになって,経済がめちゃくちゃになってしまい,国の信用が無くなってしまったからです.
日本でも第2次世界大戦に負けた時に,同じようにお金の価値が下がりました.一般(いっぱん)に使われる通貨(つうか)の単位も「銭」がなくなり「円」だけになりました.はじめて円と言う単位が作られたころの1円は金貨で,今の1万円以上の価値があったのですよ.(明治時代)
また,世界の経済が悪くなって,日本の経済もおかしくなった時,政府はお札に「このお金は金貨とかえますよ」ということを書いて,お金に信用を与えたこともあります.「金や銀ににかえてあげるよ」という貨幣のことを「兌換貨幣」(だかんかへい)といいます.
平安時代のお金は兌換貨幣ということになりますね.もちろん江戸時代も明治時代もそうです.大正時代になって国の経済が安定して世界からも認められた時にはじめて兌換貨幣の必要がなくなったのです.それでも,さっき書いたように経済状態が悪くなって一時的に兌換貨幣になった時期もあったのですよ.これが一番大きな違いです.
あとは,一般には銅でできている貨幣であること,四角い穴があいていること,それに中国からの輸入銭だということでしょうか.このことは先生のホームページに書いてありますから,それを読んで下さい.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
彩 さんメールをありがとう
貴族の政治は,大和朝廷(やまとちょうてい)ができて奈良時代,平安時代を通じて続いてきました.国のもとの法律である「律令」(りつりょう)の決まりによって政治をしていました.
貴族は広い領地を持って豊かな生活をしていました.一方,武士はそうした貴族の領地を守るガードマン的な役割から生まれました.
やがて平安時代の中ごろになると,地方豪族(ちほうごうぞく=地方の豪族=豪族とは広い領地を持った有力な農民のこと)が自ら新しい領地を開墾して農地を増やしていきました.しかし,彼等の身分は低く,中央から来た役人に重い税をかけられたり土地を奪われたりと不安定な生活をおくっていました.こうした豪族達が自分達を守るために結束(けっそく=手を結ぶこと)して武士団を作っていったのです.
多くの豪族は自分達の領地を力のある貴族やお寺,それに神社などに寄進(きしん=あげること)しました.寄進と言ってもそれは名目上のことで実際にはその豪族のものです.つまり,地方では大きな力を持っていても朝廷の力には逆らえない弱い存在が武士です.
頼朝はこうした武士達の利益を守るために鎌倉に幕府を開いたのです・・・というより,関東の武士達が自分達のために頼朝をかつぎ上げたといってもいいでしょう.
ですから武士の政治と言ってもそれは,朝廷の力から武士を守り武士の利益(りえき)のためある地方の政治組織といった方が分かりやすいと思います.教科書や授業では,鎌倉幕府が全国を支配していたような印象(いんしょう)を与えますが,本当はちょっと違うのです.
やがて執権政治(しっけんせいじ)と言って北条氏(ほうじょうし)が政治を行うようになりましたが,それでも国の大わくは朝廷がにぎっていました.ただ鎌倉時代も後期になると幕府の影響(えいきょう)も少しづつ強まり,武士以外の一般庶民(いっぱんしょみん)にまで関係する法律が作られるようになりました.しかし,これも武士の勢力の強いところだけにかぎられていたのです.
律令(りつりょう)と武士の法律の一番の違いは,武士の法律は実際に行われていたことを,文字にして決めたと言うことです.武士の法律は武士には分かりやすいものでした.律令のおおもとは中国の法律でしたから,日本の実情にあわない点や難しい文章で出来ていたため,役人しか分からないものでした.このように実際の状態にあわせて行ったのが武士の政治の特徴(とくちょう)です.
しかし,武士の力が強まったからといって世の中がそんなに大きく変わったわけではありません.ただ,鎌倉時代になると,道の整備(せいび)や港の整備が進み交通が盛んになりました.特に鎌倉という都市ができたために京都と結ぶ東海道は発展しました.
交通が盛んになると言うことは,ものや人の行き来が盛んになると言うことで,地方や都の品物があちこちで売られるようになり,経済が活発になりました.家の形や服の形も少しづつ変化していきました.でもこれは貴族の政治だからとか武士の政治だからということとは,あまり関係ないのです.
もっと知りたいことがあったら,またメールをください.
ゲンボー先生
質問!!
なぜ源氏が執権をやらなかったのかを教えてください。(やれなかったのも)
ゲンボー先生
下野君,メールをありがとう.
ちょっと難しいけど,先生のページ「鎌倉幕府ができるまで」をよんで下さい.そうすると次のようなことが分かります.
1.関東地方の豪族(武士)は困っていた.(なにが困るのかこれは君が考える)
2.その困ったことをみんなの力で解決できるかもしれない.
3.その時,血筋の良い頼朝さんが平家打倒を叫んで兵をあげた.
4.武士の多くはじめの頃は様子を見ていた.しかし,有力な武士が味方についた,それを見てその他の武士も頼朝さんの味方になった.
5.幕府の仕事は「関東地方の武士」の利益を守るものだった.
6.源氏だろうと平家だろうと,武士のためになる政治をしてくれるなら誰でも良かった.
7.頼朝は優れた人だったが,息子の頼家や実朝は坊ちゃんで頼りがいがなかった.
8.だったら,将軍はかざりもので,実際の政治は武士がやればいい.
9.と,いうことで将軍の親類だった北条氏が執権となった.
です.
7.8.9.は別のところをよんで下さい.たくさん出ています.
つまり,幕府ができる時には頼朝さんの高貴(こうき)な血筋(ちすじ)や人柄(ひとがら)で将軍にたてまつりましたが,以後は武士のための政治をしてくれる人が中心になって政治を行う体制(たいせい)になったのです.御家人にしてみれば,源氏は名前だけあればいいのです. (今だって日本の元首は天皇ですが,実際に政治を行う一番上の人は総理大臣ですね.)
ということで北条氏が執権(しっけん)になりました.はじめの頃は北条氏や他の有力な豪族達との話し合いで政治を行っていましたが,やがて北条氏が力をつけて,北条氏中心の政治になっていきました.
次の時代の室町幕府になると,足利氏は鎌倉幕府の反省から将軍のすぐ下の役は一人だけではなく(執権),三人にしました(管領=かんれい).こうすれば一人だけが強くならないと考えたからです.
しかし,能力のない人が将軍になった時に管領どうしの争いが起こり,以後は戦争が続き将軍はただのかざり物になってしまいました.源氏は将軍の血筋ですから執権にはなりませんが,たとえ執権になっても本人に力がなければ,それさえかざり物になってしまうのです.
いつの時代も「力のあるもの」が実際の権力をもつのです.いまだってそうですよ・・・
君もしっかり遊んで,しっかり勉強をして「実力」をつけて下さい.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
「しくみ」って忍者屋敷(にんじゃやしき)みたいなやつかな?鎌倉時代の武士の館には天井が落ちてきたり,壁(かべ)がひっくり返ったり,地下道が掘ってるような面白いしかけはありません・・・残念でした.
敵(てき)の攻撃(こうげき)から守るために「堀」(ほり)を作った程度です.大きな家では貴族の寝殿造り(しんでんづくり)を真似(まね)たものもありましたが,大部分の家の形は農家と同じで部屋の区切りは戸で行い,天井はありませんでした.鎌倉時代も終わりごろになると書院作り(しょいんづくり)のえいきょうをうけたものもでてきたようです.書院作りでは,部屋を壁と天井で区切り,畳(たたみ)をしいた部屋があるのがとく長です.畳と言っても一部分にしいてあるだけで,今のように部屋全体にしいてあるものはありません.それは畳が高級品だからです.
武士は基本的に農民ですから,大部分の人は農家風の家に住んでいるのがふつうです.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
仏像のモデルは今から約2500年ほど前にインドで生まれたブッダという人です.漢字では仏陀と書くために仏様というわけですね.
仏様は人間が生きるために大切なことを教えてくれました.その大切な教えが書いてある書物を「経典」(きょうてん=お経のこと)といいます.仏様の教えは本国のインドよりも東南アジアや中国,朝鮮,日本で花開きました.
さて仏様の教えを信じる人々は,仏様の姿を想像していろいろな仏像を作りました.やがて仏像をおがむことによって幸せになるようにいのるようになりました.その中には大きい方がよりご利益(ごりやく)がある,ということで大きな仏像,つまり大仏を作る人もあらわれました.
日本で有名なのは奈良の大仏様でこれは聖武天皇(しょうむてんのう)が752年に作ったものです.もう一つの鎌倉の大仏様は浄光(じょうこう)という一般の人が,庶民のお金を集めて作ったものなのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
「女性の武士」.いました.主人が死んでしまった・・息子も小さい・・などと言う時には,奥さんが「ヨロイかぶと」に身を固めて戦場におもむきました.
なぜなら,土地を守り恩賞を得なくては一族の繁栄(はんえい)がないからです.たとえ死んでしまっても将軍のために戦ったという事実は残りますから領地は守られたのです.すごいでしょ!
とはいっても男性と違い,訓練(くんれん)をちゃんと積(つ)んでいませんから,実際の戦いの時は周りを家来や親戚(しんせき)が固めていたようです.
幕府ができる以前に木曽義仲(きそのよしなか)と義経の軍隊が戦った時,義仲の奥さんだった「巴御前」(ともえごぜん)は甲冑(かっちゅう=よろいかぶと)を着て戦ったとありますが,これなどは女性も戦うことがあったという例の一つですね.
ゲンボー先生
大姫と木曽義高のことなんですが、私が聞いたのは義高は義仲が殺された約数ヵ月後で義高が鎌倉へ送られてから約1年だって聞いたんですが・・・・そして義高は義仲の側室 巴の子供だって・・・そしてその後大姫は食事を一切取らないで頼朝に反抗したとか・・・大姫と後鳥羽上皇と結婚させようとして天皇側と血筋を・・・とか聞きました。あと大姫は昔から病弱で20歳でなくなったとか・・・
ゲンボー先生
メールをありがとう.
大姫が病弱だったというのは,清水義高(しみずよしたか)が殺されたことが原因ではないかと言われています.わずか7歳の少女にとって夫(とはいっても婚約当時,大姫5〜6才, 義高11才ですから,遊び友達のようなもの)の死は相当にショックで,以後「鬱病」(うつびょう=心が暗くなってしずんでしまうこと)となってしまいました.後鳥羽上皇との結婚の話は,大姫が16〜7才のときにありましたが,義高のことが原因なのか断っています.大姫は20歳でこの世を去りますが,関東の豪族達の信頼を得,武士の政権を作った頼朝でしたが,家庭的には自身の生い立ちと同様に幸福とは言えないものでした.
歴史上の大人物には多かれ少なかれこのようことがありました.鞠子さんはどう感じましたか?
ゲンボー先生
宜しくお願いします。
ゲンボー先生
みなさんメールをありがとう.お答えします.
1.小野路城はいつ何のためにつくられたんですか?
1.小野路城(おのじじょう)は平安時代の末期に現在の町田市から川崎市麻生区(あさおく)の一部を支配していた小山田氏によって作られました.小野路城は鎌倉街道(かまくらかいどう)の近くにあり,街道を攻めて鎌倉に攻めてくる敵をおさえたり,小山田氏の館(やかた)を守るために作られました.
先生のホームページでも紹介しましたが,小野路にいくと凹道といって深く掘りくぼめた道が山の中にあります.これは馬に乗って移動しても敵に見つからないためと言われています.
2.小野路城は誰が作ったんですか?
2.小山田有重(おやまだありしげ)という人が作ったそうです.小山田氏は頼朝が幕府を作ったときに協力した豪族で息子の稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり=現在の川崎市を支配していた豪族)は小山田氏の出で,奥さんは頼朝夫人の政子の妹という有力豪族でした.
3.小野路城はいつ壊されたんですか?(何で壊されたんですか?)
3.ところが頼朝さんが死んだあと1205年に小山田氏一族は勢力が衰えました.1333年には新田義貞の軍勢に小山田氏の子孫が加わったとありますが,この間小野路城がどうなっていたかは詳しい資料がないために良く分からないのです.その後室町時代になって交通の要所にあるということで,再びお城(といっても砦「とりで」程度)として使われたようです.ですから「いつ壊されたのか分からない」というのが答えになります.
4.小町井戸って何なんですか?
4.小町井戸は小野小町の伝説が残っているところからつけれた名前ですが,実際に小野小町が来たわけではありません.この井戸はあきらかに小野路城の井戸です.井戸は一年を通してかれることが無く,水不足の年も小野路の農民はずい分助かったといわれています.
(小町の伝説)小野小町は平安時代の人で,和歌がうまくてその上美人で有名でした.その小町が目の病気になって,中々治らないので,この小町井戸まで来て目を洗ったら治ったということです.ちかくに小野神社があるところから作られた話・・と言われています.
小野路城は平山城といわれる古いタイプのお城です.戦国時代や江戸時代のお城のような天守閣(てんしゅかく)があって二の丸があって・・という立派なお城ではありませんでした.どちらかといえば掘っ立て小屋のような簡単(かんたん)な建築物(けんちくぶつ)だったのです.君達の学校の近くですから一度皆さんで歩いてみたらいかがですか.自然がたくさん残っていて気持ちがいいですよ.
ゲンボー先生
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