教科書には「そのころ,平氏が後白河上皇を退けて,一族中心の政治を行ったことから,諸国の源氏の武士が立ち上がった.なかでも木曽(長野県)で兵を起こした源義仲と,伊豆(静岡県)で兵をあげた源頼朝が,東国に大きな勢力を築いた」と書いてあります.これだと「平氏の政治に不満を持つ武士達が”まってました”と,源頼朝を大将にして平家と戦った」という感じがしますね・・
また,一般に言われている「源平の戦い」という言葉からは「源氏対平家」の戦いという印象を受けます.
さらに「幕府」という言葉からは「朝廷の政治」にかわって「武士の政治」が行われたと受け止められます.しかし,実際に鎌倉幕府が作られていく「さま」はちょっと違うのです・・・このページでは,今までのイメージとは違った鎌倉幕府を知ることができます.
800年というずいぶん昔の鎌倉時代には江戸時代のように「記録」があまり残っていません.それで,ほとんどの人が頼りにしているのが「吾妻鏡」(あずまかがみ「東鑑」とも書きます.)と「玉葉」(ぎょくよう)という日記です.吾妻鏡を書いた人は鎌倉の武士なのですが,名前が分っていません.玉葉は朝廷の貴族「右大臣九条兼実」(うだいじん,くじょうかねざね)が書きました.
つまり武士の立場と貴族の立場から書かれた二つの日記というわけですね.ゲンボー先生はこの二つの書物に書かれていることを元に,実際に現地に行ってみて,できるだけ真実に近い鎌倉幕府誕生のようすを皆さんにつたえていきたいと思います.
内容に関する注意 一般に鎌倉幕府とよばれるようになったのは江戸時代からのことです.鎌倉時代の人々は将軍の住む館のことは幕府と呼んでいましたが,政治組織のことを「幕府」とは呼んでいませんでした.しかし,学習する上では鎌倉の武士政権を「鎌倉幕府」と呼ぶため,この学習でもゲンボー先生は幕府という言葉を使います.