源頼朝が作った政治のそしきを「幕府」(ばくふ)とよぶようになったのは江戸時代からで,鎌倉時代の人は自分達の政治そしきのことを「幕府」とはよんでいませんでした.「そんなこと,たいした問題じゃないよ」と思う人もいるかもしれませんが実はとても大切なことなのです.幕府というと,どうしても「しっかりとした武士の政治そしき」とか「日本中をしはいしていた」という感じがしますが,鎌倉幕府と江戸幕府とでは大きさも力もちがっていました.「鎌倉幕府の本当のすがた」は私たちがもっている幕府という言葉のイメージとはちょっとちがうのです.
しかし,頼朝さんが作った武士のそしきは,武士の生活にしっかりと結びつき,その後の日本の歴史に大きなえいきょうをあたえました.日本の政治は,頼朝さん以後,明治時代になるまで武士中心に行われるようになったのです.頼朝さんは「はじめの一歩」を歩んだ人なのです.
平治の乱であやうく殺されそうになったところを,平清盛の育てのお母さんに助けられた頼朝は,ぜったいにさからえないように伊豆(いず)の北条氏(ほうじょうし)にあずけられました.「流人」としての生活がここから始まります. ※「るにん」つみのあった人を京都から遠くはなれたところに行かせて,見張りつきの生活を送らせること.頼朝の場合は平氏にさからったという罪でした.)に送られました)
しかし,流人とはいっても源氏のただしい血筋(ちすじ=いえがら)を引く頼朝は,回りの人からはちょっとちがった目で見られていました.当時の人は今の人では考えられないほど「血筋」というものを大切にしていました.頼朝のところへは伊豆や西相模(神奈川県西部)の豪族(ごうぞく)やその子どもたちが出入りしていました.記録によるとみんなで狩りに行ったりしていますから,かなり自由な生活をおくっていたものと考えられています.
そのうちに北条時政(ときまさ)の娘である政子(まさこ)さんと結婚して大姫(おおひめ)という女の子が産まれました.はなやかな生活はおくれませんでしたが,それなりに平和なくらしをしていました.1180年4月に京都で大きな事件が起きました.後白河上皇(ごしらかわ,じょうこう=天皇の父親)の皇子(おうじ)である以仁王(もちひとおう)が,平家の政権(せいけん)の中でただ一人源氏だった源頼政(みなもとのよりまさ)と手を組み反乱(はんらん)をおこしたのです.このくわだてはあっさりと平家にばれて以仁王も頼政も殺されてしまいます.以仁王は天皇と平家の娘との間に産まれた子供が天皇になってしまうと,自分が天皇になることができなくなるのであせったのです.
しかし,以仁王が死ぬ前に書いた「平氏をうて」という命令書は日本の各地にいた源氏にとどけられたのでした.流人だった頼朝のところにもこの手紙は届けられました.
しかし,頼朝は平家にさからって戦争するなどという「大それたこと」は考えていませんでした.ところが6月になると,頼朝もあぶないと言う知らせが届きました.源氏の直系である頼朝を殺せという命令がでたというのです.そこで頼朝は「いざとなったら私に味方してくれ」と日ごろから仲良くしていた豪族に話をしました.しかし,このことが頼政軍の生き残りをつかまえようと,京都から戻ってきた相模の豪族「大庭景親(」おおばかげちか)の耳に入ってしまったのです.景親はさっそく頼朝を謀反人(むほんにん=うらぎり逆らう人)として殺そうとじゅんびをします.目次
頼朝は,どこかに逃げてビクビクくらすか,それともイチかバチかで戦うか?ずいぶんまよいましたが,「もう,こうなったらやるっきゃない!」と決だんしました.北条氏をはじめ,力のある三浦氏,千葉氏が頼朝に従うことをちかっていたからです.
そこで,伊豆で豪族達にきらわれていた平家の役人「山木兼隆」(やまきかねたか)をおそいました.夜うちが成功したのです.山木の首をとった頼朝はさっそく伊豆中の豪族(ごうぞく=武士)にこのとを知らせ,以後は頼朝が伊豆の政治を行うと伝えました.山木に苦しめられていた豪族達の中にはよろこび頼朝軍に参加する人もいました.しかし,まだ少人数だった頼朝軍だったので,関東の大部分の武士は態度を決めませんでした.もし,やられちゃったら首が無くなるのですから・・・※山木兼隆は目代(もくだい,という国司の代理人でした.下の図を見て下さい)目次
立場の弱かった関東の武士達は「頼朝が兵をあげた」ことをきょうみ深く見ていました.北条氏や,三浦氏,千葉氏のように始めから頼朝に味方することを決めていた豪族はわずかしかいませんでした.目次
今の石橋山みかん畑と温室.海は相模湾.
山木の襲撃(しゅうげき=おそうこと)に成功した頼朝達は,はやく三浦の軍といっしょになろうとと急ぎました.しかし,今の小田原の近くにある石橋山(いしばしやま)で大庭景親の軍3000人と戦うことになってしまいました.頼朝軍はわずか300人です.しかも後ろからは伊東祐親(いとうすけちか)の軍300人が頼朝を追ってきました.絶体絶命(ぜったいぜつめい=絶対死んでしまうと予想されること)です.
石橋山は今ではのどかな「みかん畑」です.しかし800年前にこの山の急斜面で血みどろの戦いがくりひろげられました.その日はあらしでした.頼朝軍と大庭軍は相手の顔も見えないような真っ暗やみのなか,深夜から明け方にかけて戦いをつづけたのです.頼朝は何度かあぶない目にあいましたが,何とか箱根の山に逃げこむことに成功します.このときに大庭軍に加わっていた梶原景時(かじわらかげとき)は頼朝達を発見しながらも見のがします.また夜中に「仲間にいれてくれ」とたのみにきた武士もいました.つまり平家軍の中にも頼朝に期待する人達がいたということです.「頼朝は運がいい」「助かったのはきせきだ」といわれますが,国司や目代にひどい目にあわされてきた武士達の「安定したくらしをおくりたい」という願いが頼朝への大きなきたいとなったわけなのです.目次
それからしばらくして,頼朝一行は真鶴(まなづる)から船で千葉県の安房(あわ)地方に逃げました.安房は三浦氏のえいきょうが強くて安全だからです.しかも千葉には「千葉の介常胤」(ちばのすけつねたね)と「上総の介広常」(かずさのすけひろつね)という,頼朝のお父さんだった義朝の家来だった豪族がいたからです.目次
安房に渡った頼朝さんのところに近くの豪族達が集まってきました.また,さからう目代達を打ち破って,てがらのあった武士に恩賞(おんしょう)を与えました.このうわさを聞いた各地の豪族達が頼朝さんの味方になろうかと心がかたむいたところへ,上総の介広常が17000人の軍勢をつれて頼朝のところへやってきたのです.
上総の介広常を頼朝は「おそい!」とどなりつけました.そのことがあって広常は「さすがは源氏の棟梁」(とうりょう=親分のこと)と正式に頼朝の家来になりました.「広常をしかれ」と言ったのはたぶん千葉の介常胤です.同じ平氏の流れを組む親戚(しんせき)どうしですから広常の性格を知っていたのです.※千葉氏ははじめから頼朝軍に参加すると言っていましたが,最大の豪族である上総氏は態度をはっきり決めませんでした.頼朝が弱かったり状況が不利になっていたら,頼朝を殺して恩賞(おんしょう=てがらに対するほうび,この場合領地)をもらおうと思っていたのです.目次関東で最大級の豪族である上総の介広常が頼朝にしたがったというニュースはまたたく間に広がり,「われも,われも」と多くの豪族たちが頼朝のところへやってきました.その中には石橋山の合戦で敵だった豪族もいました.頼朝はそれらの豪族を許してなかまに加えていきました.こうして頼朝はわずか40日で4万人近くの武士をしたがえて父祖(ふそ)の地「鎌倉」にやってきたのです.
頼朝は大小に関らず豪族の働きを良く見て,公平に恩賞を与えました.また豪族の顔や性格をたいへんよく知っていたそうです.
ある時,戦争の報告書に「Aが良く働き,Bはあまり働かなかった」と書いてあるのを見て,「これは逆だろう,Bが働き,Aはあまり働かなかったんじゃないか?」と言いました.よく調べてみるとそのとおりだったそうです.将軍の家来になった武士を「御家人」(ごけにん)といいます.将軍と御家人は「御恩」(ごおん)と「奉公」(ほうこう)の関係で結ばれているのは皆さんも授業で習ったとおりですが,この関係は頼朝さんが兵をあげた時から始まっていました.国司や目代に苦められることがなくなり,領地争いも公平に裁判で行われるようになりました.頼朝は武士から「鎌倉殿」(かまくらどの)とうやまわれましたが,御家人の様子を良く知り,公平な政治を行ったからこそ,武士達に信頼(しんらい)されてそのように呼ばれたのです.
それまで,身分が低く見られていた武士にとって,頼朝たちが作ろうとした政権(幕府)は,貴族や平氏のしはいをうけない,武士にとって平和で安定した生活をするためのそしきでした.頼朝さんは早くからこのことを行い武士の心をつかんでいったのです.目次