中学生とゲンボー先生11 玉川学園・玉川大学
社会の授業で農民の食事につにて調べたいのですが、食べていたものなど詳しく教えてください。おねがいします。
ゲンボー先生
さて,質問の件ですが,ずいぶん面白いところに目をつけましたね.一つ教えてほしいのですが「農民の食事」を調べて,そこから何を知りたいのでしょうか?それによって,答えのポイントが変わってきます.あとでご返事をください.
農民の食事といっても,とても一言では説明しきれません.なぜかというと「地方によって」「季節によって」「日によって」「生活レベルによって」様々に変化しているからです.
君の家だって,となりの家と同じメニューじゃないですよね.日によっても,季節によっても違いますね.鎌倉時代も同じです.貧しい家の人は貧しい食事でしたし,豊かな家の人は豊かな食事でした.
「農民の食事」というと,どうしてもテレビでやっている,江戸時代の「お代官様お許し下せ〜」・・・・のイメージで「お米は死ぬまで食べられなくて」「ものすごく貧しい・・・」が定着しているようです.
しかし,実際にはそうではありません.確かに小作人は貧しいから「その」イメージに近いのですが,本百姓(土地を持っている)は,お米も食べていたし,季節の美味しいものも食べていました.庄屋クラスになると武士より良い生活をしていたのです.(この部分は江戸時代ですよ)
鎌倉時代の農民は江戸時代のように身分的に「農民」と決められていたわけではありません.力のある農民は武装し武士となって,将軍の御家人になっています.一般の農民も戦になれば武器を持って,領主のために戦いました.そんな訳で「This is a 農民の食事」は「こうだ!」はないのです.記録にも残っていません.
ただ,推測することは可能です.この時代に何があったかは分かっているからです.今から食材を並べ上げていきますから.君がメニューを考えてください.
そうそう,食事は1日2回が原則です.田植えや稲刈りなどのときは3回以上です.
「穀類・豆類」 アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・小麦・大豆・えごま・緑豆
「野菜類」 大根・ごぼう・ねぎ・アブラナ類・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・ウリ・ごま・にんにく・みょうが・しょうが・みずな・うど・たら・ふき
「果実類」くり・かき・ぶどう・いちご・あけび・さるなし・またたび・なし・みかん
「魚介類」
(漁村の部)
たい・ひらめ・あなご・めばる・まぐろ・かつお・いしもち・ふぐ・さば・いわし・あじ・さわら・いか・たこ・海老・かに・はまぐり・あさり・かき・赤貝・まてがい・みる貝・(あ〜,これではお寿司のメニューと同じではないか・・・たべたくなっちゃうね・・・)※つまり,現在のような輸入魚介類以外はすべてあったということです.書ききれないから後は図鑑か魚屋さんかお寿司屋さんで調べてください.へへへ・・・お寿司屋さんがいいねえ.そうそう,わかめ・ひじき・こんぶ・などの海草を忘れてはいけない.
(平野・山村の部)
鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな等々
それに海でとれた魚介類の乾物や塩付け,乾燥した海草もあるなあ.
「肉類」 いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・ニワトリ・鶏卵・すずめ・つぐみ・鶴・鷺(さぎ)
「調味料・他」 醤(ひしお)・味噌・塩・砂糖(これは少ない)・甘草(かんぞう)・梅干・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび
ざっと,こんなです.
うどん・そーめん・きしめん・まんじゅう・そばなどの記録もありますから,穀類の加工もしていました.
また,「フナや鮎のなれずし」などと結構バラエティーに富んでいました.
一般的には,お米と雑穀が主食.汁物と魚それにお漬物というセットメニューがポピュラーに紹介されています.博物館の模型や本に紹介されているのもその程度です.しかし,それらは現在の学者が「こうじゃないかなあ」と想像したものにすぎません.
先生は,もっと「うまいもん」食べていたと思っています.「食」は人間の大切な営みであり楽しみでもあるからです.限られた食材を限られた味付けで精一杯美味しくしていたと思いますよ.もっとも飢饉のときや貧しい家は例外ですが・・・
例えば 醤(ひしお)は現在の「たまり」に相当するものです.変な添加物や味付けの無い自然の旨さがあったと思います.魚醤(ぎょしょう)は「しょつる」や「いしる」,東南アジアでは「ナンプラー」「ニュクマム」と呼ばれている美味しい調味料です.按配(あんばい)という言葉は塩梅(あんばい)が語源だそうです.これは味付けの基本を表しています.最後に塩.酢で味を決めるからでしょうね.
「慕帰絵」(ぼきえ)に描かれた当時の台所を見ると,電化される前の日本の台所の原型がすでに描かれています.慕帰絵は鎌倉時代の終わりから室町時代の始まり頃に書かれたものですから,すでにこの時代には日本の「食文化の基本」が完成していたと考えていいようです.さて,中村さん・・・君のメニューを考えてください.できたら先生に教えてください.もちろん相談にものります・・・
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
大塚君 おはよう!
鎌倉時代の始まりが1192年でないことは先生のホームページを読めばわかります.(大人向けですが,君なら理解できるでしょう)※鎌倉時代の成立時期はいつですか?
鎌倉幕府が崩壊した年だけは明らかです.1333年です.ところが室町幕府は「建武の親政」や「南北朝の争乱」があって,しっちゃかめっちゃかな状態での出発ですから,どこが始まりかは色々な意見があります.
1336年には尊氏が光明天皇をたてて幕府を開きますが,このとき尊氏は征夷大将軍ではありません.尊氏が将軍になるのは1338年です.
このあと3代将軍義満が1368年に将軍となり,実質的に幕府が全国的に大名を従えました.つまり,室町幕府も鎌倉幕府と同じように,「このときから始まった」という「このとき」はないのです.
第2次世界大戦で日本が敗れ,日本の国はそれまでとは大きく異なった国のありようになりましたが,これも急になったわけではありません.古い体制や法律が残っていましたから徐々に変えていったのです.
これと同じようにどの時代の政権も「今日から変わったぞ」という日はありません.しかし,これでは勉強をする上でこまるので,目安として「大きな節目」の年をそれにあてています.
ところが,その政権がつぶれるときというのは結構はっきりしています.大きな戦争があって前の政権が倒れてしまうからです.
で,倒れた日から次の政権が確立するまで,あるいは一つの時代から次の時代に移り変わっていく期間を「過渡期」(かとき)とよびます.
どの時代にも過渡期があるというわけですね.
ちなみに室町幕府は1573年に足利義昭を追放した年が滅びた年になっていますが,応仁の乱あたりから,幕府の力は低下し,戦国時代には「あってなきがごとし」の状態でした.ですから実際に崩壊した年が決められません.
歴史は人間の営みですから,形にはまらないんですね.こいうことを知っているのと知らないのとではエライ違いです.型にはまった歴史学習を学んではいけません.大塚君はきっと良い勉強をすることでしょう.頑張ってください.
ゲンボー先生
学校の宿題でどうしてもわからないことがあるので、質問します。
江戸時代に統一されたお米の量り方「升」の前はどのようにして量っていたのですか?また、その単位は何だったのでしょうか?どこを調べても載っていないので、ぜひ教えて下さい。
ゲンボー先生
ものの計りかたを統一するということは,文化的な生活を営む上でなくてはならない約束ごとです.
誰が計っても同じ基準が無ければ,家も建たないし,道路も作れないし,ものの取引も出来ません.いまでは,長さ,面積,容積それぞれに世界基準があります.それがメートル法です.
ところが,それぞれの国にはそれぞれの単位があって,それが全て異なっています.英国のヤード.ポンド法,日本の尺貫法もそのうちの一つです.ですが,今はメートル法が世界の基準ですから換算すればいいわけですよね.
さて,質問の件ですが,日本では中国にならって「大宝元年」に大宝律令によって度量衡制(どりょうこうせい=ものを計る基準を定めた制度)が制定されました.これで長さや,量や広さの基準を決めたわけです.ところがこの時代は朝廷や国府の管轄下にあったところはこの基準でものを計っていましたが,ちょっと地方へ行くとすべてまちまちだったのです.
度=さし(ものさし)量=ます(枡)衡=はかり(秤=はかり)
枡の場合は主に穀物を計るために作られたものです.これで,決められた量の米が税として納められたかを計っていましたが,公地公民の制度が崩れるとともに,統一が一層難しくなってきました. 単位は升(しょう)や合(ごう)にかわりはないのですが,実際の量がまちまちなのです.
特に室町時代は度量衡が目茶目茶になった時代です.奈良の東大寺では明かり用の油の量を測るのに30種類の枡があったと記録にあります.室町時代といえば商業が発達した時代です.商人はその地方ごとあるいは町ごとの枡で換算しながら商売をしていたというわけです.
「これじゃあいけない」といって,枡を全国的に統一したのが豊臣秀吉です.秀吉には商売を円滑にすることと同時に,正確に米の量を計ろうと言う目的がありました.検地を行い,米の石高を知ることは大名を支配して行く上で,もっとも基本的なデータになるからです.
枡で言えば「京枡」に統一したという事になります.これで,升とか合が同じ量になったわけです.ただし,まだ完全というわけではありませんでした.
さらに,それを徹底したのが江戸幕府です. 寛文年間に枡座(ますの製造と取締り)を江戸と京都に設け,一升枡は方四寸九分、深さ二寸七分と定めました.
同様に 秤座(はかりの製造と取締り)、金座(分銅の製造と取締り)を設けて計量を徹底しました.これによってほぼ全国が同じ単位でものを計るようになったのです.
鎌倉時代には統一された枡はありません,地域によっていくつかの種類がありました.経済的な交流も江戸時代ほど大きくなかったので,それでまにあっていたのでしょう.
新聞に関連する記事が出ていましたから.それを添付しましょう.
伊方石丸遺跡:鎌倉時代末期の枡出土 (毎日新聞 平成12年2月15日記事より)
福岡県方城町教委は15日、同町伊方の伊方石丸遺跡で、鎌倉時代末期(14世紀前半)ごろの枡(ます)を出土した、と発表した。九州では最古とみられ、当時の枡がほぼ完全な形で見つかるのは極めて珍しい。調査を担当した福岡県教委筑豊教育事務所生涯学習課の小川泰樹・主任技師は「当時の度量衡(どりょうこう)を知るための貴重な史料」と話している。
枡は木製で、容積約2200ミリリットル。厚さ約1センチの板5枚の組み合わせで、縦約17・5センチ、横約18・5センチの底板に、高さ約9・2センチの板4枚が組み合わさっている。穀物の計量に使われていたらしい。文字や縁取りなどの加工はない。石臼や鋤(すき)先などの農具と一緒に深さ約3メートルの井戸状遺跡の底で見つかった。
伊方石丸遺跡は町道建設工事に伴い昨年7月から発掘が行われ、弥生時代の墓50基や貯蔵穴2基など集落の跡があった。これに接して井戸状遺跡が見つかり、枡とともに出土した陶磁器類から鎌倉時代末期のものと分かった。
計量器の歴史に詳しい岩田重雄・日本計量史学会会長(75)は「枡の出土例は京都や奈良など本州が中心だが、九州では最古の枡ではないか」と話している。
ゲンボー先生
鎌倉幕府公用記録,「吾妻鏡」についてです.本の検索で,「吾妻鏡」を検索すると,色々出てきましたし,吾妻鏡に関する本を2冊持っています.しかし、「吾妻鏡」には、本当の真実を記してあるか謎です.たとえば,12年分の欠落個所です.
あと、マズイようなこと(頼朝の死因など)は記していないそうです.なぜ、このような欠落があるのですか.また、軍勢の数かすごく大げさなどもありました。屋島の戦いで,屋島につくスピードが,現在の高速船!?いったい吾妻鏡を書いたのは誰ですか.
なぜ欠落個所があるのですか.(一説にはよく読んでいた徳川家康が,変更したとも言われているそうです)
ゲンボー先生
めぐみさん メールをありがとう.先生の知っていることを答えます.
吾妻鏡の作者は不詳,つまり誰だか人物は特定されません.一説には鎌倉幕府の役人と言われています.
北條本と呼ばれる吾妻鏡は小田原の後北条氏から黒田如水の手に渡り,その後,徳川家康の手に渡りました.家康はこの本を大変に良く読んで勉強したようです.そののち写本を作らせましたが51巻のうち第45巻が欠落していました.
別に吉川家に伝わる吉川本がありますが,これも同様に51巻のうち第45巻が抜けています.
また頼朝の死因に関すること,その後の出来事について欠落しています.これはもしかしたら最初から書かれていなかった可能性もあります.
吾妻鏡は鎌倉時代のことを知るための第1級の資料と言われていますが,いくつか大事な部分が抜けている箇所があります.玉葉という同時代の公家によって書かれた資料も吾妻鏡と同じく第1級資料ですが,幕府内部の出来事に関してはやはり吾妻鏡が主となります.吾妻鏡と玉葉は互いに足りない部分を補っています.
吾妻鏡は複雑な事情に関するところは作者の立場もあったのか,意図的に避けているようなニュアンスがあります.
古事記を知っていますね,稗田阿礼の言葉を太安万侶が筆記しまとめた,国造りの話です.古事記には歴史的に重要な部分もかなり含まれていますが,特に朝廷ができる過程が書かれている「上巻」は,神話で構成されており,天皇家が神の系譜を持つことなど,天皇家の正統性について反復して書かれています.なぜなら古事記も日本書紀も,「天皇家」が正統であることを証明するための,というか,正統であることを印象づけることを目的の一つとした本であるからです.
もちろん全体を通してみれば,歴史的に重要な記述も数多く書かれていますが,その部分は天皇家を中心とする朝廷による支配が確立してから後のことになります.
つまり歴史書は書いた人の立場や書いた理由により偏った部分があることを理解していなくてはなりません.歴史学者はその中から真実を読み取るために努力をしています.最近では考古学の発達により歴史書の記述を裏付ける発見が相次いでいます.しかし,頼朝の死因のような人間の心の中にしまってあるような出来事までは分からないでしょうね.
頼朝の死は落馬が原因と言われていますが,真実は闇の中です.はっきりしているのは子供達の死ですが,頼家も実朝もともに関東武士の棟梁というにはにそぐわない上に,豪族間の主導権争いに巻き込まれたということが原因となっています.
吾妻鏡が古事記と同じく時の権力者(つまり北条氏)の正統性を裏付けることを目的の一つとして書いたとすれば,欠落箇所があるという謎は結構簡単に解けるような気がします.
関東の武士にとって「源氏」とはなんだったのでしょう?おそらくそれは「自分達にとって都合のよい存在」だったに過ぎないのではないでしょうか.自分達の利権を守るために,頼朝をシンボルにして平家や朝廷と戦ったのです.結局,鎌倉幕府を作り一つの時代を作ったのは,それまで「さぶろふ者」と下げすまされていた武士だったというわけなのです.その代表格が北条氏や三浦氏,千葉氏ですね.
・吾妻鏡を家康が改ざんした可能性は少ないと思います.家康が頼朝の死や都合の悪いと思われる箇所を改ざんする必然性がないからです.もし家臣や一族が互いに暗殺しあうのがまずいと思うなら,そんなことは吾妻鏡はもちろん,古事記にだってなんだって当たり前のように書かれていることですから,全て消し去らなくてはならなくなります.
特に家康の生きた戦国時代などは親子,兄弟で殺しあっている時代です.信じられるのは「自分だけ」という時代です.かえって「親子や兄弟でも安心するな」と言いたいところでしょう.
それに家康ほどの大人物なら「歴史」を曲げることは決してしないと先生は思っています.
頼朝死後の記述は初めから書かれていないのか,書かれた当時何らかの都合によって削除されたものです.
また45巻も処分されたとは考えにくい.もし,誰かにとって都合の悪いことが書かれていたとするならば,それを削除することを命じることができるのは最高権力者である北条氏か作者自身しかありません.
それにしても全部まるまる一冊を削除することなど到底考えられません.44巻までの,誰かにとってまずい部分を何カ所も削除してつめた結果とも思えません.それだったらひとつづつ詰めて50巻にするでしょう.
・大げさに書いてあるのは作者が実際に見聞きしておらず,伝説となった部分を「かっこよく」書いてあるからです.古事記も同じです.
屋島までのスピードはなんとも言えませんが,たいした距離ではなく,潮流や風にのれば数時間でいけると思います.義経は過去の実績がなく頼朝と兄弟とは言っても母親が違いますから「功をあせっていた」ところもあります.もしかしたら本当に早いスピードでついたかもしれません.
なぜならこの時に義経と一緒にいた梶原景時が「義経のやることは危なっかしい」と頼朝に報告しているからです.景時など関東の武士にとって大切なのは「武士自身の命」なのに,義経は彼等を自分の家臣と思って将棋のコマのように扱っていたフシがあります.屋島攻撃の時は嵐の中を船で突き進んでいきました,戦いとは言え常軌を逸しているとおもわれたのでしょう.義経は戦上手で悲劇的な死を遂げたため,世に言う「判官贔屓」(ほうがんびいき)で英雄に仕立てられました.源平の戦いに参加した武士にとってみれば,この戦いは「自分達のための政権作り」なのであって「源氏のための政権作り」ではありません.義経は最後までそのことが分かっていなかったような気がします.
頼朝は逆にそうした関東武士達の願望をうまく利用していました.そしてその頼朝を利用して実権を握ったのが北条氏です.その北条氏が執権として武士の頂点にたっていた時代に書かれたのが「吾妻鏡」なのです.そのことをわかった上で吾妻鏡を読むことが大切なのです.
それしても,めぐみさんは中学校の何年生ですか?吾妻鏡を読んでいるなんて「なかなかやる」ではありませんか?
先生の言葉は中学生にはちょっと難しいところもありますが,君には分かるかなと思って書きました.もし,分からないところがあったらまたメールをください.
源頼朝は、友達から聞くには、酒の飲みすぎで死んだと言うのですが、本当はどうなんですか?教えてください。
ゲンボー先生
恭介君 メールを有難う
頼朝の死因は落馬が原因で脳出血をおこし死んだというのが通説です.12月27日に相模川にかかる橋の供養に出かけた帰りの出来事です.頼朝は意識不明のまま1月13日に無くなりました.学者の中には当時の医療技術では長く生きすぎるという人もいます.しかし,今となってはわかりません.
不思議な事に吾妻鏡には頼朝の死前後3年間の記述が欠けています.後世,吾妻鏡を政治を行う上でのテキストにしていたと伝えられる徳川家康が,英雄頼朝の真実の死因を隠したとも言われていますが,はじめから書かれていなかったというのが現在の定説です.
とにかく頼朝の死には謎があります.酒の飲みすぎはあまり説得力はありませんが毒殺はあったかもしれません.
また,大姫や乙姫と言う二人の娘の結婚の事で悩んでいたり,二人の息子の出来が良くなかったりで心労がかさんで脳梗塞になって落馬した・・・とも言われています.あ〜それで気を紛らわすために酒を飲みすぎたかなあ・・・
考えればきりがありません.君もいろいろ調べて考えてみてください.面白い説を考えたら先生にも教えてください.
ゲンボー先生より
こんにちは。わたしはこの春高校生になるタネです。わたしはとても歴史に興味があって、今回鎌倉時代のことを知りたく、メールしました。鎌倉時代の当時の町人の暮らし、状況、町並みはどのようなかんじだったのですか?また、防衛の工夫を教えてください。
ゲンボー先生
メールを有難う.返事が遅れてごめんね.新学期が始まってから君の質問を読みました.質問の件ですが,ずいぶん難しい内容です.なぜなら商人の暮らしや町並みは詳しく分かっていないからです.一遍聖絵や春日権現絵巻など,当時の生活が描かれている巻物などから類推するしかありません.鎌倉は三方を山に囲まれ一方が海に開かれたせまい町でした.
鶴岡八幡宮から由比ガ浜までまっすぐにのびているのが若宮大路で両側には幕府の役所や有力御家人の屋敷がありました.その若宮大路と平行するように東側の小町大路と西側の今大路がありました.これらの地域には武士の住居があったと思われています.
では一般庶民はどこにいたかといいますと,恐らく一の鳥居から前浜(現在の由比ガ浜)あたりに密集していたと思われます.
ニュースとして「由比ガ浜の集団墓地遺跡」を載せていますから,そこを参考にしてください.
武士の生活エリアとは大きく異なり庶民の生活エリアは無計画で無秩序です.家と家の間が道路と言う感じです.由比ガ浜遺跡では住居エリアの中に比較的広い(幅約2メートル)ほどの道路と思われる場所も発見されました.そこには荷車の轍(わだち)の跡が残っていました.商店の大きさは一辺が約2〜3メートルの半地下式の掘っ立て小屋でした.そこで生活に必要な雑貨や衣類が売られていたのでしょう.
野菜は鎌倉の山の向こう側から売りに来たと思います.魚は浜で売られていたと思われます.一般的な食料品店は乾物や米や麦などの穀類に限られていたと思います.これから,発掘が進むにつれて新しい事が次々と分かってくるでしょうね.
防衛については,鎌倉そのものが要害の地でしたが,切りとおしに関所あとが残っています.また山の稜線上には物見跡と思われる遺跡もあります.鎌倉を取り巻く,関東地方の豪族のほとんどが御家人でしたから,それ自体が防衛と言えば防衛ですね.
ゲンボー先生より
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