このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.
玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
メールをありがとうございます.
島津の庄は平季基(すえもと)によって開墾された土地を関白藤原頼通に寄進したのが始まりで,薩摩.日向・大隅の一部を含む広大な荘園に成長しました.
平家滅亡のあと頼朝によって惟宗忠久(これむねただひさ)を地頭として配しましたが,この惟宗氏が後に島津姓を名乗ります. 幕府が安定する建久8年に作製された建久図田帳のうちで完全なかたちで現存するのが質問のあった三カ国ですので,それを調べてみますと,三カ国の約半分以上が島津庄であったことが分かります.その広さは約八千町歩と言われています.残りは寺社領であったり権門勢家です.
その後,幕府の内紛(比企の乱)にまきこまれ,一時地頭職を失いますが,その後再び地頭に任命されました.このときに日向.大隅の地頭職は北条一族に奪われました.しかし,もとがほぼ一つの荘園ですから,広い領地の状態が続いたというわけです.
島津氏は薩摩国守護として,その後も薩摩一国を支配し続けていきました.
ゲンボー先生
・北条朝時が官女にラブレター(?)を送り密会したことに対して実朝や義時がなんであんなに怒ったのかがよく判りません.親子の縁を切ることもない気がするのですが……今で言うとどんな感じの事件なのでしょうか
ゲンボー先生
確か朝時は実朝の室に使える官女に手を出そうとしたのではなかったかな・・・ラブレターおくったり、外へ連れ出したりなんかしたから、オヤジの義時にこっぴどく怒られた・・大叔母の政子は頼朝の愛妾「亀の前」の家をぶっ壊してしまうほどの潔癖性・・?・・やきもちやき?・・です.そんなふしだらは許さないわよ・・と言うところなのでしょうか・・
と,これは現象面のことで,歴史を学ぶ者としてはこの裏を読まないといけません・・・義時の時期というのは社会的に見て,関東では「嫁入り婚」になりつつある時代です.それまでの婚姻形態は男性が女性の家を訪れる「婿入り婚」でした.これだと男性の生活は女性の家丸抱え・・しかも複数の女性との婚姻も大ぴらに認められていたわけです. ですから、その程度のことで怒られることがちょっとおかしいとは思いませんか?
その点、頼朝などは基本的に京都の人間ですから,そのあたりは大変に大らかでした・・(笑)・・京都では皇族も貴族も性的にはかなり乱れていて・・と,これは現代人の感覚ですが・・人の奥さんだろうが,血のつながりがあろうが,子供だろうが・・(15〜6歳)気に入ったら自分の側室にしちゃうのですから・・小さいころそうしたオヤジの義朝を見て育った頼朝としてみれば,「何人女性がいようが俺の勝手だろうが・・」と言いたいところでしょうね・・
政子はそういうのが嫌だったのです・・違った意味で義時も・・・義時は武士政権を作り上げていく上で倫理的なことも関東風に武士らしくしていきたいという気持ちがありました.精神的にも他の御家人とはちょっと違うぞ・・と言うところを見せたかったのではないでしょうか。
そういう風紀を確立してイニシアチブをとりたいと思っているところへ、息子の朝時がやらかしたわけですから,これは許せなかった・・というよりみんなの手前きびしくせざるを得なかった・・のでしょう.だいいち,おやじの義時だって若かりし頃,官女にラブレターを送っているのです.しかもその相手である姫の前が朝時の母親なんですから・・・・・・(苦笑)
みんなの手前と言ったのは・・実はこのころの北条氏の立場は非常に微妙だったのです。北条氏は実朝を担ぎ上げて実権を握ろうとする・・一方暗殺された2代将軍頼家の息子「公暁」の乳母は三浦氏で、三浦氏は一族をあげて実朝の次の将軍を公暁にしようとしていました。つまり次の将軍をどちらが囲い込むかのレースですね。だから必要以上に厳しい仕置きになったのだと思います・・・
その証拠に和田合戦の後に朝時は早々に復帰しています.そればかりか承久の乱では北陸道大将軍として朝廷軍と戦いました。かれは5カ国の守護になり、名越流の始祖になるわけです・・
オヤジ義時がホントに怒っていたなら、絶対にこのようにはなりませんね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールを有り難うございます。
落書起請とは鎌倉時代の初頭におこった寺社によって、人の罪を告げる匿名の投書が発展したものです。起請落書・または無名入札などともいいます。
落書起請は匿名の投書と神に誓いを立てる起請文とが合体発展したものです。起請文という形をとりながら犯人の名をあげ摘発を促したり、悪党の罪業をあげて社会的な排除を促したりしました。
これを書く主体は村内で発言権を持つ15〜6歳以上の男性ですが、内容に偏りがないかを複数の僧侶や神官がチェックしました。
平たく言えば「告発」の部分を一般人が書き、この部分が「落書」・・・それが正しいか贔屓がないかを吟味し神仏に誓いを立てる部分が「起請」というわけです。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
真悠子さん.メールをありがとう.
頼朝も義仲もともに源氏なのにね〜・・・でもライバルなのです.先生のホームページをみてもわかるように,頼朝の軍勢も大多数は平氏の流れをくむ武士です.平氏とか源氏は建前なのであって,それぞれの豪族の利害関係によって味方になったり敵なったりするのです.
頼朝も義仲も都の平氏を打ち破って朝廷内で有利な立場になろうと思っていました.もちろん味方についた豪族はそんなこと考えていません.じぶんたちの領地が増えればそれでいいのですから・・・
とまあ,そういうわけですから彼らは味方のようで実は敵なのです.それで互が戦わないように人質をとったのです.義仲側から人質を渡したのは,血筋からいって頼朝のほうが上だったからです.ちなみに木曽義高は頼朝の娘「大姫」と婚約しますが,木曽義仲と頼朝が戦うときに,12歳の若さで殺されてしまいました.7歳だった大姫はそのことがショックで終生結婚はしませんでした.可哀想ですね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
村上様.お久しぶりです.
日本の葬制は幾ばくかの変遷をたどって今日に至っていますが,一般的に我が国では死者に対する愛着の念がある一方で、死者に対する恐怖や穢れを忌み嫌うという矛盾が共存していると言われます。したがって葬制もその影響を強く受けています。
葬儀には地域や時代によっていくつかのバリエーションがありますが、忌と喪の考え方はほぼ共通しています。また、穢れを祓う、または清めるという考え方も強く、一定期間を過ぎた後に清めをうけて普段の社会生活に戻るのは現代も同じです。
現代ではそれが初七日や四十九日と短縮されていますが、王朝の時代においては数年に及ぶ例もみられます。
いわゆる薄葬令以後は仏教の影響を受けて皇族や貴族に火葬が取り入れられますが、一般的には土葬が多く江戸時代においても火葬はなお二割程度の普及率でした。もちろん仏教の普及は後世になってからのことです.
一般庶民が仏教の影響を受けて死者を埋葬し,成仏を祈るようになったのは鎌倉時代の後期頃からで、鎌倉の由比が浜の例ではやや古い時期に丁寧な埋葬例が確認されています。しかし、執権時頼が「市中に死体を置き去りにするな」という法令を出しているように、一般的には河原や野原に放置したり穴蔵に放り込んだり、川に流したりしたようです。
少し前の話になりますが、奈良も京都も市中に墓地は作らせませんでした。墓地は身分によって場所が決められ、庶民は今述べたとおりです。まるでゴミ捨て場という感じです・・京都の貴族が身内のように大切にしていた姥が死んだ際,家人に命じ遺体を捨てに行かせるという記事を見たことがあります.子供のときからかわいがってもらった当の貴族の嘆き悲しみは相当に深く,周りで見ている者達ももらい泣きするというほどなのに,遺体の処理はまるで犬か猫のような扱いです.このことからもわかるように当時と今とでは死者に対する扱いや感覚がかなり違うということが分かりますね・・・
鎌倉時代になると寺の領域内に墓地が作られるようになりましたが、これは高貴な身分のものに限られたようです。私のページにもあるように庶民は前浜(由比ヶ浜)一帯に穴を掘って埋葬されていますが、墓石はありません。穴を掘って埋めてあるという程度です。疫病か災害か多数の遺体は穴の中に放り投げてある状態でした・・・(丁寧な埋葬例も少ないが確認されています。上記のようにやや古い時期ですが、成年男子が棺に、乳幼児がおそらく袋のようなものに入れられていたと思われています)
先祖を供養するという感覚が庶民にどれだけあったかは不明です。位牌は禅宗とともに日本に伝来しました。つまりそれまでは庶民が手頃に身近における故人や先祖の霊の分身的なものはなかったのです.
江戸時代になり,鎖国政策を支える旦那寺の制度が,いみじくも葬式は寺社で行うもの,墓は寺社領内に作るべきものという今日の葬制の基盤ができあがりました.(もちろん,農村にみられるように,自家の田畑の脇や裏山に墓地を作ることもあります.)
というわけで,鎌倉時代の後期から徐々に・・徐々に葬儀や祖先供養のための行事が行われるようになったということです.
余談ですが,当時の人は遺体そのものに今日ほどの執着は無いように思われます.政子や頼朝の墓も実際の場所にはありません.遺体を埋葬したところと供養するところは全く別の所にあります.今日政子の墓とか頼朝の墓と呼ばれているのは供養塔のある場所にすぎません.頼朝の墓と称されるものに至っては幕末に作られたものです.
江戸時代,第8代目の薩摩藩主,島津重豪(しまづしげひで)によって作られた頼朝の供養塔.(左) 鎌倉時代に頼朝の霊が祀られた法華堂のあと(現在の白旗神社)(右)
最初の埋葬の地と言われる「勝長寿院」は今は滑川のほとりに,義朝と家臣の供養塔として現代に建立されたものが建っているだけです・・・
由比ヶ浜の墓地遺跡を調査したときに分かったことですが,鎌倉の人口増加を支えるために墓地を掘り返しそのあとに家を建てるという,今日では考えられないことを行っていました.おそらく,家の側や道端に,掘り返された骨が散乱しているという状況です.しかし,頭蓋骨だけは一カ所に集められているところから,死霊や悪霊・・あるいは霊魂が宿る場所として別に扱われたのでしょう.
多かれ少なかれこういう状況の中で日蓮宗や禅宗などの新仏教が庶民に広まっていったのです.いつも死と隣り合わせに生きていた彼らに仏教はどのように受け入れられていったのでしょう・・・
ゲンボー先生
現代も鎌倉時代も、ちかしい人を亡くす悲しみは同じでもその葬り方は今とはずいぶん違うのですね。ちょっと驚きました。今、私たちが当たり前と思っていることも何百年も先の人が見るとあっと驚くこともあるのでしょうね・・。むらかみ
また、現在では土肥実平、あるいは土肥次郎実平と呼びますが、当時はどのように呼ばれていたのでしょうか。名前を呼ぶときには、次郎と実平はどのように使い分けられていたのでしょうか。(たしか吾妻鏡には土肥次郎と書かれていたと思いますし、公文書などでは平と書かれていたような気がします……)お答え下さいますよう、お願いいたします。
ゲンボー先生
朋美さん.メールをありがとうございます.
土肥実平についた名前をすべて書くと・・・
「平朝臣土肥次郎実平」(たいらのあそんとい(ひ)じろうさねひら)となります。実平は相模の中村庄の庄司(しょうじ=鎌倉時代では実質的な庄園支配者)の次男であり、現在の湯河原あたりを領地としていた小豪族です.中村党の祖先は平高望です。
およそ東国の豪族は一族の権利を守るために、源氏や平氏といった皇族の血を引く一族との姻戚関係をもっていました。なかでも高望王の子孫は武門平氏として大いに繁栄し、三浦氏や千葉氏をはじめ多くの豪族がこの系統となって関東に根付いています.
したがって彼らは土着の豪族でありながら,血筋的には平氏の流れをくんでいる者達です.(ちなみに頼朝に従った関東豪族の八割が平氏です.)
平は氏を表します.朝臣は天皇からもらった姓(かばね)です。もともとは位を表したものですが、この時代以降になると、藤原や平や源という氏におまけのようにくっついているものです.土肥は自前の領地である名田とか苗(みょう)に由来する,いわゆる苗字です.次郎は字(あざな=通称).実平は名もしくは諱(いみな)と言うことになります.(諱とは目上の者が呼ぶときの名前で,目下の者が目上の人に使うことはできません)
ちなみに吾妻鑑のなかで,北条時政は通常「平時政」と書かれていますが,北条の苗字がつくと「北条四郎時政」と書かれています.
日常では「北条殿」「四朗殿」と呼ばれ,正式な場所や文書では「平時政」あるいは「平朝臣時政」または「遠江守平朝臣時政」と呼ばれていたのです.今日のように苗字と諱を直結して北条時政などとは決して呼ばれてはいませんでした。
(タイムマシーンにのって鎌倉時代に行き「北条時政さんにお会いしたい」などと言おうものなら,その場でぶった切られてしまうということですね・・・笑)
土肥さんの場合も同じで,日常は「土肥次郎」さんです。他人からは土肥殿,次郎殿と呼ばれていたことでしょう。しかしフォーマルなところでは「平実平」「平朝臣実平」と呼ばれたり書かれたりしました.
しかし吾妻鑑では土肥次郎実平の表記は散見できますが,平の氏がついた表記はありません.
おまけの話ですが、このころの日本語には(H)の発音がありません。(F)がそのかわりだったわけです。つまりハヒフヘホではなくファフィフフェフォなんですなあ・・・つまり「トフィ ジラウ サネフィラ」・フランス語みたいですね、現代フランス語にもHがないですから・・・トイ ジロー サネイラ・・・・・
ゲンボー先生
こんにちわ。宮城学院女子大学に通っています香澄と申します。ただ今教育実習中でなのですが、鎌倉幕府のところを教えています。それで質問なんですけど、朝廷と幕府の二重支配について詳しく知りたいです。よろしくお願いします。
ゲンボー先生
香澄さん
教壇実習がんばってください。私のホームページを見ていただければ分かるように、幕府というのは「関東の武士」の利権を守る組織なのです。
一方朝廷は「律令」をもとに全国を支配する組織です。ですから幕府はあくまでも朝廷の中の一組織という位置づけになります。頼朝や頼朝に従う豪族達はそうした仕組みの中で実質的に武士の利益を守る組織を作っていったのです。
やがて承久の乱で武士の力が決定的に朝廷を上回っても、西国はなお朝廷の支配力が強かったのです。幕府は無理に朝廷をつぶすことより、朝廷の権威をうまく利用する方向で政治を行いました。
それは日本の長い歴史にも由来するものです。以上が基本です。あとはもう一度私のホームページを見てください。特に「幕府を作った相模の武士団」「貴族から武士へ」「変化する東国の武士政権」です。
教科書は最大公約数で書いてありますから実態とは少し異なる表現になっています。
授業で大切なのは生徒に「なぜ?」と感じさせることです。先生のペースで授業を進めるのではなく、生徒の疑問をうまく生かして授業を作っていってください。そのためには、あなたの発問が大切になってきます。何を生徒に投げかけるのか?どういうタイミングがいいのか?
授業研究を十分に行って、不要なものをそいで、「なにを?」考えさせたいのか・・・このことを大切に・・肩の力を抜いて・・笑・・がんばってください。
ゲンボー先生
授業の中で文永・弘安の役の元軍と日本軍の数を比較したいと思っています。弘安の役の日本軍の数は6万5千とあるのですが文永の役での日本軍の数はどれぐらいなのでしょう。お返事いただけたらうれしいです。
ゲンボー先生
吉山先生
メールをありがとうございました。私はもともとが中学校の社会科教師でしたので、当初は中学生向けに作った学習ページでした。小学生向けのページでも言葉が少し難しいのはそのためです・・・笑
やがて、小学生や大人からの質問も増えてきて今日に至っています。アクセス数だけでいくと、月間約5万件のアクセスがあります。それだけに責任を感じながら学習実験をすすめています。
さて、ご質問の件ですが、文永の役については正確な記録がないために日本側の戦力を推定するのが難しいのですが、九州・中国地方にいた、ご家人・非ご家人の数から推定して約1万人ぐらいだったであろう、という説がもっとも妥当ではないかと言われています。
さて、その文永の役ですが、元は日本を侵略するというのではなく、
1.国交を結ぶ気のない日本を脅かすこと。
2,その結果、交渉を有利に進めよう、というつもりだったのではないか
・・というのが今日の有力な説として台頭してきました。
私のホームページでは「嵐はあった」というニュアンスにしてありますが、今後研究が進めば説がかわる可能性が高まっています。おそらくそうなるでしょう・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
さおりさん。メールをありがとう。
初期荘園から見た律令国家ですか・・・漠然としたテーマですね・・・困っちゃう・・(笑)
まず、私のホームページを見ましたか?「貴族から武士へ」です。ここに初期荘園から本格荘園までの変遷が書いてあります。
ポイントは税制でしょう。ご存じのとおり律令によって租庸調をはじめとする様々な税によって、地方あるいは朝廷の財政基盤がなりたっていました。しかし、公地公民制を支える班田収授法が行き詰まり、苦肉の策として「墾田永年私財の法」を出した結果、大寺社をはじめとして有力な貴族たちが次々に荘園を作っていきました。これが初期荘園ですね。初期荘園の年貢はこれまでのとおり朝廷にも納められましたから、国家の財政は一時潤います。
しかしこれも、税を逃れるてだて(今と同じだね・・)不輸租の権や不入の権などを取得する領主が増えることによって、財政が再びひっ迫してしまいます。こうなると、我も我もというので貴族や皇族はこぞって自分(名義)の領地を増やしていきました。これが寄進地系荘園です。
公の土地ももちろんありましたが、それは実際の持ち主である地方豪族が、自分たちの立場を有利にするための方策として残しておいた領地です。これを持っていることによって介とか丞とか佐などの官職名が与えられるからです。これも一つの権利ですから、自分の土地を守る上で必要なものと言えます。こうして武士が生まれたというわけですね。
ざっと、荘園にまつわる関係事項を説明しました。さおりさんの頭を痛めているテーマは前段の部分ですね。このことを理解してから、私のホームページを見てください。それでも分からなかったらまたメールをください。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/syouen/index.html
です。
ゲンボー先生
一)鎌倉時代の位の高い武士の奥さんは、一日をどのように過ごしていたのですか?
二)鎌倉時代の家に、二階はあったのですか?
三)武士の家に、召使いなどは居たのですか?
どうか教えてください。
ゲンボー先生
河西さん、メールをありがとう。
1)奥さんにもよりけりですね。鎌倉時代も中頃以後は生活も安定してきたため、武士の生活も何かと華美になりました。身分の高い武士の正室には官女がいたりして、かなり貴族化しています。子育ては乳母(めのと)夫妻が行い、調理や掃除洗濯は下女が行いました。一般には家事の切り盛り(指図)をしていますが、和歌の練習をしたりちょっと出かけたりと、優雅なマダムと言うところでしょうか。
でも、中には巴(ともえ)御前や板額(ばんがく)御前などのように戦に出たりする豪傑もいました。どちらも相当な美女だったというので伝説化していますが・・・(二人に興味があったら,ホームページで調べてみてください)
2)この時代には一般の家屋に2階はありません。天井もないのが普通です。天井ができるようになるのは鎌倉時代の後期、つまり書院造りになってからです。そのころから2階とか3階などの多層の建物が一般化してきました。
3)もちろんいました、彼らは主に小作人で「下人」と呼ばれ、家事一般を行っていました。戦の時には主人とともに行動し身の回りの世話を行いました。
セイリョウ高校ってどこのセイリョウかな?
ゲンボー先生
1)武士は、どのくらいの領土を持っていたら、権力がある者と言えたのですか?
2)正室と、側室の違いは何なのですか?結婚した順番なのですか?それとも有力な武家の娘が、正室にされたのですか?
3)正室と側室は、同じ屋根の下で暮らしていたのですか?
4)正室だった人が側室にされてしまう事って、あったのですか?
…正室側室ばかりの質問ですが、どうしても気になったので…。教えてください、お願いします。一日に二度も質問をしてしまい、本当にすみません。
ゲンボー先生
河西さん.さすがに高校生だけあって面白い質問だね.
1)身分の上では領地の広さに関係なく平等に御家人でした.しかし,兵力.財力に差があるわけですから当然のこととして役職に差が出てきます.三浦氏や上総の介のような大豪族の領地は今でいう「郡部」くらいの広さがありました.しかし,権力は頭脳も関係していますので,中には小豪族でも力を持っている者もいました・・・このように一概には言えないところに難しさがあります.北條氏なんて言うのははじめは小豪族ですからね・・・
2)正室は正式な奥さんのことです.一般には身分の高い順番になります.頼朝のお父さんの義朝には三浦氏の娘とか,どこかの遊女とか言われる側室がまずはじめにいました.次に熱田神宮の娘さんをもらいこの女性が正室になります.頼朝はこの人の息子で、三男でもあるにもかかわらず,惣領(そうりょう)として跡継ぎになります.
長男義平は悪源太義平とも言われ戦の強い武士でしたが,お母さんが側室のために跡継ぎにはなれませんでした.ちなみに頼朝の弟の義経や範頼も側室だった常盤御前の子です.
ですから,頼朝はのちにこの弟たちを殺すことにさほどためらいを見せなかったのです.・・・今の人の感覚では理解できませんね.
3)そういうところもありました.朝廷や貴族なんかは局(つぼね)といって,少し離れた部屋ごとに住まわせていました.頼朝は奥さんの政子が東国風で結構強い女性だったので,遠慮して別の処に住まわせていました.ちなみに亀の前という側室のことを知った政子は,家来に命じてその家をぶっ壊させています・・笑・・・やきもちですね・・・
4)側室が正室になることは身分上あり得ないことですが,そこは男女の仲・・好きどうしなら側室ばっかりといるなんてこともありました.義経なんかそうでしょう,静御前ね・・・
また質問があったらどうぞ・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう。
元は南宋を攻略するために、南宋と交易のあった日本をとりこんで分断をはかろうとしたのです。ですから当初は、征服とか支配をしようと言うより、国交を結ばせようとしたのだと思います。もちろん対等ではありませんよ、日本を下に見ているのは文面からも読みとれますよね・・・元はおそらく日本が元の威光におどろいて二つ返事で国交を結んでくるだろうと思っていたのです。大量の兵員を送ってまで支配する価値を感じなかったともいえます。
ですから何度も使者を送り我慢強く待っていたのです。ところが完全に無視されたので、文永の役では「おどし」もしくは「警告」を目的として派兵してきました。日本を完全に叩こうというのなら弘安の役程度の軍を送ってくるはずです。
ところが日本は驚きはしたけれど、元と戦う道を選びましたよね。しかも使者まで斬っちゃった・・・これで元は完全に頭に来たわけです。恐らく相当怒ったと思いますよ・・・・でも日本はラッキーだった・・(笑)
さて南宋と手を切らせようとした理由の第一は、日本との貿易額が非常に大きかったからなのです。ここいらあたりは教科書や本にもあまり出ていない・・南宋は日本の木材がなければ家が建たなかった・・・反対に日本は南宋の貨幣がなければ経済が成り立たない。人の往来も頻繁で、博多をはじめ主な港町にはかなりな数の南宋人がいたと思われています。元の支配を嫌った文化人や僧も日本に亡命する人がかなりいたようです。執権の時頼や時宗の相談相手も南宋からきた亡命僧でしたよね・・・
元は南宋にとっての生命線の一つだった日本を味方にしたかったというわけです。
ゲンボー先生
そこで、私も質問させていただきたいと思い、ご連絡をさせていただきました。
ゲンボー先生は梶原景時ってご存知ですか?実は私は今、梶原景時について調べているのですが、なかなか多くの資料が見つからず困っています。特に、岐阜にゆかりのある人なのだそうで、それに関連する資料を探しているのですが、ちっとも見つからないのです。もし、ゲンボー先生が梶原景時のことをいろいろとご存知でしたら、どうか私にも教えていただけませんか?
また、歴史の資料というものはどうやって探すのが一番効率がよいのでしょうか?先生はいつもどんな風に調べていらっしゃるのですか?
お忙しいところお手数をおかけしてしまい、すみません!どうかご指導をお願い致します!
ゲンボー先生
碓井さん。メールをありがとうございます。
梶原景時は義経の讒言などで評判の良くない御家人ですが、それは判官贔屓から来る偏見で、実際には頭の良い官吏的な側面を持った武士です。頼朝はインテリが好きでしたから石橋山のこととあいまって、景時のことをとても信頼していました。そうしたことのやっかみもあって頼朝亡き後に討たれてしまいます。
さて、その景時ですが美濃の守護でしたから岐阜との結びつきは大きかったのです。山口と言うところに景時の館がありました。時間があったら調べてみてください。
歴史の勉強は「本」を読むことですが、博物館や資料館にいったり、実際にその地を訪れて実感として歴史を感じることも大切です。私は自分の調べている歴史の舞台になったところは必ず訪れるようにしています。
また、近年では考古学の分野が歴史時代にも及び、新発見により定説が裏付けられたり、反対に覆されたりしていますので、これらの動向にも注意を向けていることが大切です。私はもともとが考古学畑なので、実証されたものに興味があります。ホームページが政治家に偏っていないのはそのためです。何を着て、何を食べて、何を話していたのか・・・なんて考えると楽しいですね・・・ところであなたは学生ですか?社会人ですか?いずれにしても子供じゃない・・(笑)
ゲンボー先生
そこで質問です。
一、どうして、鎌倉の御家人として生きることになったのか?あれだけ肉親を次々に排除してきた頼朝がそうした理由とは?
二、どのくらいまで生きたのか?
三、どこかで頼朝の側近になった、という話を聞いたのですが、本当でしょうか? そして、側近とはどんなことをするのでしょう? 何人か他にもいたのでしょうか?
四、彼を調べるために全訳 吾妻鏡 という本を読んだのですが、流鏑馬大会?みたいなもので一番・二番・・・とあるのですが、上下で二人ずつ並んでるのはどうしてですか? 同点・・のような意味なのでしょうか?
五、これは少しずれているかもしれませんが、曽我兄弟の仇討ちの時に怪我をしたといいます。怪我する状況とはどんなものだったのでしょうか? 曽我兄弟と斬り合ったのでしょうか? みんなが混乱していたからでしょうか?
六、先生は個人的に彼がどういう気持ちで生き続けていたと思われますか?
七、彼にまつわるエピソードなど、小さなことでもいいので何かありましたらお教えください。
細かくて、量もとても多いのですが、よろしかったらご回答、お願いします。 それでは、失礼します。
ゲンボー先生
紫さんメールをありがとうございました。返事が遅くなってごめんね・・・
またこの度のシンポジウム参加申し込み、心よりお待ちしています。高校生の参加とは嬉しい限りです。
海野小太郎は甲斐甲斐しく義高の面倒を見ました。その忠勤ぶりが頼朝の好感を得ています。また弓の名手でもありましたからご家人として取り立てられました。多分、頭もよく人に好かれる性格だったのでしょう。でなければ義仲も息子の従者にしなかったはずです。流鏑馬も一流だったのですね.(ところで流鏑馬のくわしいことは別のページで調べて下さい)
彼は従者とは言っても同年代の遊び友達でもあります。おそらく二人の間柄は兄弟のようなものだったのでしょう。ところが現実の社会では義高は人質・・いざとなったら自分が身代わりにならなければなりません。
頼朝はおそらく自分の幼かったときの姿をオーバーラップさせたのだと思います。小太郎は義高と同じ12歳ですから、木曽の家系を次ぐものでない限り子供の小太郎は助けられたのです。当時の武士の感覚は江戸時代や現代とは大きく異なり、たとえ敵であっても、実害がないとか、後々役立つとか、忠誠を誓えば許されたケースがたびたび見られます。それに頼朝は人の性格や能力を鋭く見極める力を持っていました。
源平争乱の時に「Aはがんばり手柄を立てた、Bはたいした働きをしなかった」という戦時報告を聞いていた頼朝が、「それは違うだろう・・ Bが頑張ってAはたいしたことはなかろう・・」といったので、よくよく調べてみたら全くそのとおりだったというエピソードが残っています。ですから頼朝は小太郎の力を見抜いて助けたのでしょうね。(また,義高に小太郎をつけた木曽義仲や巴御前の人を見る目もたいしたものですね)
曽我の仇討ちは実際にはクーデターに近いものではなかったか、と言われています。頼朝とその側近を倒して幕府の実権を握ろうという動きがあり、曾我兄弟はうまく使われた・・と・・その証拠に単なる仇討ちというにしては、辻褄が合わないような数の死傷者が出ているからです。
三浦氏や北條氏の名前があがっていますが・・首謀者は闇の中です。多分時政あたりではというのが有力な説ではあるのですが・・・
とにかく、その騒動に小太郎も巻き込まれたと言うことです。もしかしたら頼朝の近くにいたのかも知れませんね。頼朝からの信頼はあつかったのではないですか?後に小太郎は上野の国三原の庄の地頭になりました。
鎌倉時代に武士たちには、身分や領地毎に、だいたいどれくらいの家来(郎党?)がいたのでしょうか?よろしくおねがいします。
ゲンボー先生
メールをありがとう。
さて、御家人たちの領地ですが時期によって、また様々な条件によって異なっています。安達や三浦や比企などのいわゆる大豪族は先祖代々の広い領地を持っていました。関東の場合に限って言うなら平安時代の中期から後期にかけて開拓者として入り、成功した人たちの子孫ですね・・こうした人たちには多くの郎党がいました。次に、恩賞として新たに領地を与えられたものですが、当初はその多くは地頭という権利をもらうことでした。地頭は直接領地を持つと言うより、荘園に入り込んで徴税権を使って利益を分配してもらうというのが本来の形です。
近畿以西にあらたに任命された地頭の多くがこれに当てはまります。やがて、地頭の力が強くなるに従っていわゆる「下地中分」が行われ領地を獲得していったのです。もっとも源平争乱の時に平氏が直接持っていた土地や、承久の乱のときに幕府に敵対した武士が直接持っていた領地はそのまま取り上げられて、御家人に分配されました。したがってその時の状況によって郎党の数も違っていました。
つまり、時期によって地域によって、また祖先の働きによってそれぞれがことなると言うことです。更に後期になると、新たな領地獲得のチャンスはなく、増えた子供たちのために領地を分割することが日本の各地でおこなわれました。そうなると広い領地を持っていた武士もそれぞれが分けてしまうことによって、領地は狭くなっていきました。
郎党というのはそれぞれの豪族に使える武士階級の家来のことで、彼らもそれぞれ土地を持っています。ですから、強い豪族ほど多くの郎党を従えていると言うことになります。足利などはその良い例です。ですから、郎党のいない御家人だっていたわけです。ところでよく間違えられるのですが、郎党と下人は違いますよ・・
郎党は自分の土地を持ち戦の時には鎧甲に身を包み、馬に乗って出陣する人たちです。下人はその家の働き手です・・自らの土地を持ちません。戦の時には裸足やわらじで参加し、手っ甲や胴程度に武装し、なぎなたや弓をもって戦いますが、実際には主人の身の回りの世話をすることが多かったようです。主人同士が戦っているときは周りで見ている立場です。
ですから「郎党の数は」という問いに対する答えはないのです。それぞれの家の事情によって百の単位からゼロまでと異なっていたからです。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
松本様 メールをありがとうございました.鎌倉街道についての返事ですが「街道の専門家」に聞いてみました.
関東平野を南北に通る鎌倉街道には3つの幹線ルートが知られています。東から「下ノ道」「中ノ道」「上ノ道」です。ご質問の板橋区を通る鎌倉街道は「中ノ道」にあたるものです。この中ノ道は都内を東回りと西回りの2ルートがあったようです。
板橋区の蓮沼町と小豆沢1丁目の町境の道は板橋街道と呼ばれているようですが、この板橋街道の前身の道が鎌倉街道中ノ道の西回りルートになるようです。
多摩川の二子の渡しで都内に入った中ノ道西回りは、玉川、用賀、世田谷、笹塚、中野、新井薬師、長崎、千早、中板橋、赤羽台、岩淵(旧入間川の渡し)と続いていました。
中ノ道は別名「奥の大道」などとも呼ばれ鎌倉から陸奥へ向かう幹線路でした。義経が奥州から頼朝のもとに駆けつけたルートであった可能性は大いに考えられます。岩淵から北は、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、幸手、栗橋、古河、小山、と続き、小山の先で足利方面からくる古代東山道と合流して白河の関を通り平泉まで繋いでいたようです。
中ノ道は平安時代後期以後に造られた奥州へのルートとされています。それ以前の南関東から東北へ向かうルートは下ノ道か上ノ道に沿ったルートが推定されています。この二つのルートには頼朝や義経以前の頼義や義家にまつわる伝承が多いようです。中ノ道に関した文献資料としては、『吾妻鏡』に頼朝の奥州藤原氏の討伐や奥の大道に夜討、強盗のなどが度々出て警護を強化した話などが出ているようです。
室町時代に作成された『義経記』には奥州から義経が頼朝の基へ向かう途中で「小川口」というところを通った記事があり、この「小川口」は現在の埼玉県川口市ではないかと想定されています。また、西行の『山家集』に中ノ道のルートに当たる地名が登場していることから西行は中ノ道を通って奥州へ向かったと考えられています。
鎌倉時代後期の『とはずがたり』には、やはり「小川口」や「岩淵」の地名が登場しています。岩淵は現在の赤羽の新荒川大橋付近で都内側にあった中世の宿です。これだけ資料があることから板橋には立派な鎌倉街道が実際に通っていたと考えて良いと思います。よってご質問の義経の行軍ルートは中ノ道が一番その可能性として考えられるのではないでしょうか。
板橋区内の鎌倉街道中ノ道
蓮沼町ー大原町ー前野町ー富士見町ー双葉町ー石神井川の山中橋ー中板橋ー仲町ー大山町ー大山西町ー大谷口
石神井川の山中橋は板橋の地名になった板の橋があったといいます。板橋の地名は中世まで遡るそうで、中山道の橋より古いそうです。中板橋の南北のメインストリートが鎌倉街道です。
なお、中ノ道の東回りの北区十条台で平成6年から11年に発掘調査された「十条久保遺跡」があり、中世まで遡ると考えられる道路跡が見つかっています。古代道や中世道の発掘地からよく検出される波板状凹凸も出ていて、今まで推測でしか辿れなかった都内の鎌倉街道が考古学によりかなりの実証性が帯びてきています。
街道ゲンボー先生
ゲンボー先生
真仁田様、メールをありがとうございました.
頼朝は義経をはじめ兄弟をも殺した非情な人と言われていますが、今の人間の感覚では判断できない面があります。
まず、頼朝の生い立ちですが、実の母に育てられたのはわずか数年ですが、これは当時の風習ではごく当たり前のことでした。当時一定の身分を持っている家では、生まれた子供は乳母(めのと)夫妻に元服まであずけられて育てられるのが普通でした。ですから今日で言うところの「親の愛」ということ自体がそもそも異なっています。
範頼や義経は異母兄弟ですから、子供の頃に会ったこともないわけで、いわゆる今日で言う兄弟愛とはちょっと異なります。
頼朝にしてみれば腹違いの弟ですが、「俺の血縁なのに、俺の目的が分からないやつ」といらだつことも多かったでしょう。義経は親の仇、源氏の再興という感覚で戦っていましたが、頼朝の方は関東の武士の権利を確立する戦いと思っていましたから、とうぜん戦や政治に対する思いも異なっていたわけです。
そのことを理解できなかった義経は幕府(後世につけた名称ですが)成立を目指す頼朝にとっては、肉親だけに退けなければならない存在だったというわけです。
また、木曽義仲から人質としてとった、わずか12歳の義高を殺させた事件も頼朝の冷血ぶりを示す例として取り上げられますが、そもそも人質の逃亡はルール違反ですし,これを生かしておいたらあとで自分がやられる可能性もあったわけです。なによりも頼朝自身がそうだったからです。しかし、このとき義高と共に鎌倉にきていた海野小太郎という同じ12歳の少年は殺されずに御家人に加えられ、頼朝にはずいぶんとかわいがられています。義高を殺したことへの償いもあったでしょうが,人質と従者とでは扱いが違うのです.
義高自身は幼少の頃に頼朝の長女「大姫」と婚約していたのですが、義高が殺されたと知った大姫はノイローゼになり、今日でいう「拒食症」なってしまいました。これにはさすがの頼朝も困りはて、だいぶ悩んでいます。
また,頼朝は人間をよく見ていました.戦時報告で良く戦った武士とそうでない者が入れかわっていたとき,「それは違うだろ・・・良く戦ったのはあいつで,そうでないのはこいつだ・・」と指摘し,よくよく調べてみるとそうだったということがあったと言われています.頼朝は一人一人の御家人の性格をよく知っていたのです.そういう頼朝でしたから御家人からは大いに信頼されていたわけです.
人間頼朝はきわめて人間らしかったと思うのですが、政治家頼朝は大変に冷徹な人でした.歴史を学ぶ上では両者を混同しない方がいいと思うのですが,世間一般には冷酷な人,非情の人と思われてしまっていますね・・・私は決してそういう人ではなかったと思っているのですが・・・
※殺人は当然罪です。律令においても御成敗式目についても、傷害や殺人について厳しく取り決めがありました。いつの時代にも大罪という意識はあったと思います。ただし、家人の犯罪について、家長の権限で処罰することは認められていました。「お手討ち」というわけですね・・しかし、これとて当然取り調べがあります。確たる理由もなしにお手討ちにすればそれは罪になるのです.
戦の最中に相手の首を切り落とすのは、これはルールですから問題はありません。同じく義高の逃亡も人質としてのルール違反にあたります.つまり,市中で喧嘩をしたり強盗などでの殺人と,義経や義高の殺害では全く意味が異るというわけですね.戦争には戦争のルールがあり,人質の扱いにもルールがあります.ルールに則れば殺害も殺人ではなくなります.江戸時代に仇討ちが殺人ではなかったのと同じです.
戦争以外の殺人はいつの時代でも「特別」でしたが、状況によっては、捉えられ方が大きく現代と異なるということですね・・・。
飢饉や疫病があれば河原に死体がごろごろころがっている時代です。というより一般人には墓もありません。河原に捨てられるか穴を掘って埋めちゃう・・もちろん墓標もない・・・
執権時頼の時代に「道路に死体を放置してはいけない」というお触れが出ますが、これはそういうことが頻繁にあったことを示しています。ちょっと山奥に入れば追いはぎや強盗だっていた時代です。旅をするのも命がけ・・・「死」はいつも隣にあったという時代です。人間の命も今よりずーっと軽かった・・
それでも、強盗や殺人は死刑です。大罪でした・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
桑山さん。メールをありがとう。
もちろんいつの時代にも借金をしてかえす人、返せなかった人がいます。
鎌倉時代の後期には収入が減ったために、土地を担保に借金をする武士が増えました。この多くは返済できずに土地を取り上げられてしまいました。中には親戚からお金を借りて返すものもいましたが、そういう人はラッキーな部類と言えます。
困った幕府は借金棒引きの「徳政令」を出しましたが。構造的に増収が見込めない武士は、今度は借金すらできずに困窮しました。これが幕府崩壊の一番の原因なのです。
ゲンボー先生
全く不勉強で質問にさえならないようなことなのですが「吾妻鏡」は、何故「東鏡」とも言われるのでしょうか?史料が残っているのなら、統一されていそうなのに写本などがあるのでしょうか?キーワードを検索してもなかなか答えが見つからずもやもやしております。もし宜しければ教えていただきたく、お忙しい中大変申し訳ございませんが宜しくお願いいたします。
ゲンボー先生
藤井様メールをありがとうございました.
ご存じのように「吾妻」は日本武尊の妻「弟橘姫命」の死を悼んで「吾が妻は〜」と詠ったのが語源になっています。場所的には群馬県吾妻郡ですが、関東の総称として「吾妻」が使われてきました。したがって東国を指す吾妻と東はどちらも同じ意味になります。「鑑」とはすなわち手本のことですが、原本では「鏡」の文字を使用しています。
吾妻鑑にはいくつかありまして、有名なのは後北條氏が所蔵していた「北條本」、島津氏に伝わった「島津本」それに「吉川本」です。「北條本」は「金沢文庫本」を手本に写されたもので。後に徳川秀忠に伝わりました。そしてそれをもとにいくつかの写本が出版されました。いわゆる「慶長活字本」と婦女子用に作られた「仮名吾妻鏡」がそれにあたります。
「金沢文庫本」とは異なる「関西伝来本」の一つである島津本は、後に「吾妻鑑脱漏」と「東鑑脱纂」とに再編集された経緯があり、ここでは同一の本を元にしながらも「吾妻」と「東」と変えてあります。これが編者の意図的なものなのか、それとも二つの本を分かりやすくするために文字を変えたのかは不明です。
いずれにせよここで明らかなのは「金沢文庫」に所蔵されていた本をルーツにしたものは「吾妻鏡」の文字を継承し。「関西伝来本」のうち「島津家本」は東や鑑の文字が見られると言うことです。これで東や吾妻が入り乱れる結果となったのではないでしょうか・・・・
これまで研究者は文字の差については、あまり気に懸けていなかったというのが本当のところで、私も「なるほど・・」と考えこんでしまいました。私が思うには、一番最初の「吾妻鏡」には「表題」がなかったのではないかとさえ感じられます。最近の研究では「吾妻鏡」は複数の人間が、複数の資料を集めて鎌倉時代後期に編纂したものではないかとされています。
頼朝旗揚げからその死の直前までの部分は、文体も力強く東国の武士政権ができあがっていく時代の空気すら感じられます。おそらく最初の記録は頼朝死後に「武士政権成立」の記録として書かれたものであったはずです。頼朝が鎌倉に移って平家が滅亡する頃にはいわゆる「外記」と呼ばれる記録官が京都から呼ばれていますから、彼らがつけていた記録と、大江広元や三好康信あたりの古老の日記や記憶を取り入れながら、文才のある人が書いたものと思います。
後には玉葉や明月記をはじめ、多くの資料を集めて「幕府」に関係する部分の引用と、外記のつけていた記録を照らし合わせながら、編纂所のようなところで作られました。その時に先に書いた一番最初の記録は手直しされている可能性があります。それは吾妻鏡の謎である「頼朝の死」部分前後の欠落からも推測されます。おそらく最初に書かれたものにはその記述があったと考えるのが妥当で、のちに吾妻鏡が編纂される時代が、北条氏の地位が確固たるものになった頃ということから、編者の何らかの意図に基づき削除されたのだということです。つまり後に編纂されたときに「吾妻鏡」は北条氏の正当性を表す性格を与えられたのではないかということです。また、このころの記述は文体も事務的で力強さに欠けます。
私はこのころに「吾妻鏡」の名が付けられたのではないかと思いますが、これはあくまでも私がそう感じていると言うだけのことです。 編集作業は何度か行われた形跡があって、吉川本には占いや陰陽師のご託宣がかなり書かれていますが、北條本ではそうした退屈な記事はばっさりと削除してあります。また北条氏に不利な記述を削除したり、曲げて書いている部分も見られます。
一般には吾妻鏡二段階成立説というのがあって、前期と後期とされていますが、私はその後にもう一回あったのではないかと思っています。それは終盤に入り再び文体が変わり力強くなっているからです。これは明らかに編者(筆者)が変わっていることを意味します。つまり三段階というわけですね・・もしかしたらこのときに「吾妻鏡」の名が付けられたのかも知れません・・・
しかし、意図的に何度か編集されたからといって吾妻鏡の持つ価値が下がったわけではありません。法制や組織、守護や地頭の任命や、戦の時の戦略などから日常の些細な出来事も含めて、鎌倉時代を研究するための第一等の資料であることは揺るぎないものです。
今回のご質問であらためて「吾妻鏡」について考えさせられました。なんの疑問も感ぜずに吾妻鏡・東鑑と言っていましたが、吾妻鏡編纂・編集の過程も含めてもう少しつっこんで検証した方が良さそうですね・・・勉強になりました.
ゲンボー先生
そこでいくつか質問があるのです。
1.馬具について。
武士の馬具はどのような種類があり、また、どのような細工がされていたのですか?
2.厩について。
なぜ厩に猿がいたのですか?どのような人が育てていたのですか?
3.調達について。
どこからいったい調達してきたのですか?もし買っていたならば、どれくらいの値段で取引されていたのですか?その時代の価値で教えて下さい。
4.有名な武士について。
なにか有名な武士と馬に関するヒストリーはありませんか?
既にどこかに書いてるかもしれないし、くだらない質問ですが、教えて下さい。宜しくお願いいたします。
ゲンボー先生
仲田さん
1.馬具は大きく「轡」(くつわ)「鐙」(あぶみ)「鞍」(くら)の三つのパーツに分かれています。それ以外に飾りとして「面懸」(おもがい)「胸懸」(むねがい)「厚総」(あつふさ)「腹帯」(はらおび)「辻」(つじ)「しりがい」などの布製品がつけられます。それぞれの絵は他のホームページでみてください。いずれも華麗なもので武者の鎧同様に大変に目立つように作られていました。それは「自分の戦いぶり」をみて貰いたいからです。なぜでしょう?それは考えてください。(先生のホームページにも書いてあります)
2.猿は馬の魔よけとして飼われているのです。育てているのはその家の下人です。
3.「〜牧」という地名が今でも残っていますが、牧場が各地にありました。特に中部地方や関東は牧がたくさんあったと言われています。これらの管理人も実際には土地を持っている豪族で、その多くは武士でした。値段は分かりませんがピンキリでしょう。今の車と同じですから、よく走り、丈夫で、頭の良い馬は高く売れました。だって戦場に出て言うこと聞かない馬や、遅い馬では乗り手の命がなくなってしまうからです。
4.馬に関わるエピソードはたくさんあります。竹崎季長(たけざきすえなが)は蒙古襲来絵図の主人公ですが、恩賞がもらえないことに不満を抱き熊本から鎌倉まで訴えに来ましたが、その資金のもとが彼のもっていた「鞍」です。これを売ったお金と烏帽子親(元服の時に烏帽子をつける親・・実際の父親のように面倒をみた)から貰ったお金でかれは家来一人を連れて一月旅をしてきました。
幕府の要人「安達泰盛」(あだちやすもり)は季長の心意気にうたれて、お祝いに「鞍」を贈っています。現代ならさしずめ「車一台」をもらったのと同じでしょうね・・・
しかし、当時の馬はテレビや映画に出てくるアラブやサラブレッドとは違って「胴長短足」でした。ですが、そのほうがアップダウンの多い日本の地形に合っていたのですね・・・
ゲンボー先生
Q1 荘園と地頭の関係? 地頭は領主ではなく得分を持つ管理人であると学生の頃、習いました。もちろん領主であった地頭もいたのでしょうが。平氏の持っていた荘園や、承久の乱の後上皇方の貴族や武士の持っていた荘園に、地頭を置き領主の土地所有権を残したというのが、とても不思議です。また、将軍の荘園には地頭が置かれたのでしょうか?
Q2 源平の合戦で、相当な数の兵力が戦いますが、留守中の領地はどのように守ったのでしょうか?守る手だてやルールがなくては、領地や家族を置いて遠征できないと思うのですが。一円知行が確立した後の時代ならともかく、それより前にはどのようであったか不思議でなりません。
よろしくお願いします。
ゲンボー先生
山下先生。メールをありがとうございます。
質問1.そうですね生徒に教えていながら教師も混乱しているのが「地頭」のことです。私も中学の教師時代に困りました。日本全国で多くの先生が悩んでいる・・・笑
つまりそれだけわかりにくい・・というより、一言で言い表せないのが地頭でもあるわけです。時代と地域によって同じ地頭でもずいぶん性格が異なるため、教科書や指導書程度の説明ではとうてい理解できないものでもあるわけです。
まず、東国と西国に分けましょう。
東国はその多くが開拓地ですから、本来の持主の多くは武装して武士になった農民(豪族)です。これは関東が都から離れていて治安が悪いこと、開拓地であるがための領地争いが絶えなかったためで、いわば自衛のための武力です。彼らは更に安全保障策として、同族での結束をすすめていきました。それが秩父党や横山党、あるいは板東平氏であり源氏というわけです。
そして更に彼らは自分の領地を、情勢を見ながら「庄園」として都の権門勢家や有力寺社に寄進したり、あるいは国衙領としました。それは庄園にすることによって土地を庇護してもらうことと、国衙領にしておいて、官位や職を得るためです。官位や職は何かあったときの有力なお守りにもなりますが、一定の土地に対する税が免除もされるという実益もあります。彼ら豪族(武士)達もそれなりに知恵を出して、自分の利益保護のために涙ぐましい努力をしていたというわけです・・・笑
さて、庄園として寄進したところでは、領家に対して「下司」とか「荘官」という地位を与えられましたが、武力によって侵害された場合にはさほどの力にはならないのが実際のところです。
しかし、御家人となれば「地頭」という幕府内での職名がつくわけで、こっちは幕府の権威によって地位(つまり土地)が補償されたということになるわけで、しかも、かなり信頼度の高い安全保障でもあるわけです。御家人同士の争いであっても問注所で吟味されるわけですから、今までとは比べものにならないほどの安心感がありました。
ですから関東で地頭といえば実質的な庄園の持主として完全に補償されたと言うことになります。
一方西国ですが、頼朝時代に大っぴらに地頭が置けたのは平家の没官領で、100%平家の持ち物だったところは頼朝が領家ですから、論功行賞で御家人に分配されました。こうした領地を「 関東御領」といい、頼朝が地頭の任免権を持つ国・庄園・国衙領を「関東御成敗地」と呼びました。
しかし、領家が藤原氏とか寺社領の場合は、役人的存在の地頭しか置けず、はじめの頃、彼らは隅っこの方にいたというわけです。こうした領地のことを、将軍が介入できるレベルに併せて「 関東進止所領」とか「 関東御口入地」といいます。これが質問の「領主の土地所有権を残した」というケースに当てはまるものです。これらの土地では、当初「 徴収した年貢」の中から兵糧米をとる程度の収入しかありませんでした。後に承久の乱以後には関東方の力が強くなり、いわゆる地頭の横暴がはじまり、結果として下地中分が行われていくわけです。
一見「強いものが勝ち」という時代のようでいて、決まりによって(書類)地位や財産が認められると言うところに面白さというか、「権威によって補償される」あるいは「されたい」というこの国独特の律儀さというか、形式を重んじるこの国の国民性が既にあったということが分かるわけです。例えば頼朝の父親の義朝などは、若いときに三浦義明とか中村庄司を引っ張り込んで、大庭の領地に度々進入して乱暴をはたらいていますが、大庭の庄が伊勢神宮に正式に寄進されたとたんにパタリと止まりました。それまで、大庭の庄は国司が認めるレベルでの庄園だったのですが、朝廷が認める庄園になったとたんに「俺の領地」だという主張を取り下げたというわけです。
さて、将軍の場合は先にも書いたように、知行国主として国ごとの収入と荘園領主としての収入がありました。平家没官領500カ所の領家となった頼朝は論功行賞によって御家人に地頭職を命じて領地を分けました。こうした将軍の領地が「関東御領」で、承久の乱後の沙汰もおなじように行われました。
質問の2ですが、いわゆる源平の合戦の際にも留守部隊がいるわけで、そのころには関東の武士は殆ど御家人になっていますから、関東領内での土地争いはあり得ないわけです。常陸の佐竹は滅ぼしてあるし、東北の雄、藤原氏は動かないと判断しましたから、残る敵は木曽義仲と平家だけです。義仲は息子義高を人質に出していますからこれも当面は大丈夫・・・頼朝は希代の政治家、戦略家ですから虎口の憂いなく平家、そして純真な義仲と戦い滅ぼしていったというわけです。
頼朝は石橋山以後の安房や上総・常陸での戦の際に必ず「本領を安堵」し「新恩を給与」してきました。おそらく鎌倉に入る頃には一定のルールが出来上がっていたと思われ、これまでいがみ合っていた武士同士の争いも急速に減っていきました。幕府三本柱の一つである問注所ができる以前から、領地に関するある程度のルールは出来上がっていたと考えるのが妥当で、しかも頼朝は常に公平を重んじていましたから、その分、御家人側にも安心感を与えていました。
いかがでしょうか?複雑ですよね。歴史を教えていて常に思うことは、数学のように「割り切れない」ということです・・・時代区分一つとってみても、その日から時代が急に変わるわけもなく・・・しかも地域による時間差もある・・・それは歴史の主人公が人間であるからで、時と場所と場合によって異なるのが当たり前・・・・これがややこしいが、しかし面白いところでもあるわけです。
ですが、生徒に教えるときはそれを「単純化」して教えなくてはなりませんね・・教科書もそうなっています。実際にはそれでいいのだと思います。
しかし、子供たちの理解が深まれば深まるほど、「なぜそうなるのか?」「もっと知りたい」という要求が出てくるわけで、教える側、つまり教師にはそれに答える義務あるし、それだけの力量も求められます。しかしながら、教科指導以外に学級指導、生活指導、進路指導、それに部活指導と多忙を極める現場教師に、「教材研究」の時間がとれないというのも今の学校の実情でもあるわけです。ですから今回のように、「山下先生」自らが「疑問」を「究明」されたいと思い、行動されたことに敬意を表します。多分先生は私の説明を読んでもっと知りたいことが生じたはずです・・笑
私にも分からないことがたくさんあります。子供たちからの質問に窮してしまうことも度々です。でもそのたびにありがたく思うのです。「もっと勉強しなさい」という天の声だからです・・・・お互いに頑張りましょう。
なお、庄園関係の参考書としては 吉川弘文館「日本庄園史大辞典」瀬野精一郎 編 がよいかと思います。
ゲンボー先生
切通しの名前の由来について調べているのですが、なかなか解りません。化粧坂については先生の鎌倉時代を勉強しようにもありましたが他のものについては良くわかりません。地名、寺の名前がそのまま切通しの名前になったのか、切通しに名前が付けられたので地名、寺の名前になったのか・・・・調べる手段あるいは由来等教えていただければとおもいます。よろしくお願いいたします。 和実
ゲンボー先生
お母さん。メールをありがとうございます。 3年生の勉強にしちゃ大変ですね・・・(笑)
有名な七切り通しが固定したのは観光が盛んになった江戸時代で、実際にはもっと多くの切り通しや道があったと思われます。これらのすべてが鎌倉時代にあったかは不明です。「大仏坂切り通し」の名は吾妻鑑には出ていません。後世のものかもしれません。これなどは「大仏」の脇を通るから付けられた名前ですね。
「亀ヶ谷切り通し」は亀ヶ谷坂の記述のみとなっています。亀が上るのも大変な急勾配だったという言い伝えがありますが、定かではありません。
「化粧坂切り通し」は「気和飛坂切り通し」と吾妻鑑にあります。「敵将の首に化粧した」「遊女がいた」とも言われていますが、これも定かではありません。
「極楽寺坂切り通し」は新田義貞の鎌倉攻めで一躍有名になりました。もちろん極楽寺の脇を通ることからつけられた名前ですね。
「朝比奈切り通し」和田義盛の息子である「朝夷名三郎」が作ったと言われていますが、本格的な開削は北条泰時が行ったようです。
「巨福呂坂切り通し」も北条泰時の頃に開削された切り通しです。「小袋坂」とも言われていますが、名前の由来は分かりません。
「名越切り通し」も古くからの記述が見られますが、名前の由来は分かりません。その地域一帯が名越と言う地名であると吾妻鑑にあります。
地名の由来は「神奈川県の地名」(平凡社)というレアな本がありますので、これで調べられると、このメール以上のことが分かると思います。大きな図書館にあるかもしれません。インターネットの図書検索で調べればどこにあるか分かります。「国会図書館」には必ずあります。
頑張ってください。
ゲンボー先生
この「鎌倉時代を勉強しようと」サイトは、大変分かりやすく鎌倉時代のことがよく分かり勉強になり、面白く読んでいます。さて、最近、平家物語や保元物語を読みながら、平曲、いわゆる平家琵琶について興味が出たので調べています。下記の文を調べた事をまとめた文です。この文を載せた方が質問がしやすいので載せています。
「平曲について」
徒然草によれば、生仏という盲僧が藤原信濃前司行長という公卿が作った物語を天台宗の仏教歌謡の曲調によって語ったのが始まりと言われています。しかし、これは琵琶法師たちが語った作者伝承の1つに過ぎない。
平曲は、如一、城弦がそれぞれ一方流、八坂(城方)流という流派を名乗り二派に分かれ、南北朝時代に一方流に覚一という盲僧が現れます。覚一は、明石覚一といい、もともとは播磨の書写山(円教寺)の僧だったが、中年の頃に失明して琵琶法師となったらしい。如一の弟子とも足利家一門とも言われているが、よく分かっていません。
覚一は、平曲の名手として高く評価され、「平家物語」の語り本の詞章を整理、吟味を重ねて「覚一本」と呼ばれる本を完成させ、その本に即した曲節を大成させた。足利尊氏の庇護を受けて、検校という位を授かっています。
また、この頃に、平曲を語る琵琶法師仲間が組織化され「当道座」が創設され、幕府から保護を受けるよになった。この当道座を組織したのが、明石覚一だといわれています。
当道座には、検校・別当・勾当・座頭の四つの官が設けられ、のちに目の不自由な人たちも、当道座に属するようになりました。覚一の活躍により、平曲は全盛を迎えため、彼を平曲中興の祖と仰がれるよになった。この時代に、八坂(城方)流は絶えてします。
寛政3年(1462)3月、当道座六派の1つ源照流の開祖である総一が死去。総一は、平等寺(通称:因幡堂)で平曲を語り、感動させたので、その死に人々は技を惜しんだといわれています。
江戸時代になると、四つの官(検校・別当・勾当・座頭)がさらに細かく分けられ、全部で73段階になるというが、詳細は諸説あってよく分かっていません。この時代に一方流は、前田流と波多野流に分かれます。現在、名古屋には今井検校勉、仙台に数名が残っているだけです。
以下、疑問に思った事を書き出しました。
1.そもそも、何故、盲僧が琵琶を奏でるようになったのでしょうか盲目だと異界の者と交信(もしくは鎮魂)が出来るとの考えからか、それとも、仏教音楽をもともと琵琶で盲僧が演奏していたので、 その流れで始まったのでしょうか
2.一方流開祖・如一、八坂流開祖・城弦とは、どのような人物でしょうか。
3.明石覚一は、足利家一門なのでしょうか。また、当道座を組織したのは覚一でいいのでしょうか。
3.当道座六派とは?
4.一方流は、江戸時代に前田流、波多野流に分かれたのですが、その開祖は、どんな人物なのでしょうか。
5.最後に、この私が書いた文は、正確でしょうか。何か、間違いだられけのような気がしますので。
ゲンポー先生、質問の内容は、鎌倉時代と全然関係ないのですが、分かる範囲で良いですので教えて下さい。また、この種の文を載せる場合、添付ファイルにするのが常識だと思うのですが、私の知識不足のため、Macで作成したものが、Winで読めるか分からないので、全てメールに書き込みました。その点はお許し下さい。それでは、長々と駄文を書いてすみません。質問の件、よろしくお願いします。では、また。岩田(ガンちゃん)
ゲンボー先生
岩田様,メールをありがとうございます.
お調べになったことは,ほぼ間違いはないと思います.覚一は平曲中興の祖ともいわれ足利家から「検校」職を賜ります.元々検校とは「とりしらべる」役であり,伽藍の造営を検校する,とか律と経を検校するなどの動詞的な使われ方をしてきた官職でしたが,鎌倉時代の終わり頃に盲人の特権的職能集団であった当道社会の最高官になりました. 明石覚一がこれを体系づけたと言われていますから,南北朝期に当道座が盲人の特権的集団ということに確立されたのだと思います.江戸時代に検校になるためには平曲・箏曲・三味線・鍼・按摩などの試験に合格しなければなりません.これらも起源は中世にあるわけで,おそらく盲人の救済手段として社会的に養護されてきたものと思われます.これは日本独特の障害者救済の形だと思います.したがって琵琶法師に盲人が多のは当時からそういう傾向があったからではないでしょうか.また,盲人といえども優れた方はたくさんいるわけで,こうした人の登用の場でもあったと思われます.
明石覚一本人の出自については不明な点が多いのですが,「中年まで播州の僧だった」と記録にあります.
当道とはご存じのように平安時代の貴族社会で行われた宴曲の場で当事者が楽器や宴曲のことを当道と言ったことに始まります.やがて当道が盲人の特権的集団になった頃から,倣って当道と呼ぶようになったと言われています.六派とは一方流に源を発する「妙観派」「師道派」「源照派」「戸嶋派」,八坂流から「妙聞派」「大山派」のことです.
それぞれの人物につては私も詳しいことを知りません.申し訳ありませんが図書館などでお調べになって下さい.
つきなみな説明しかできなくてスミマセン・・
おまけですが,今のような障害者や社会的弱者を保護する制度が整っていなかった中世にも,実は窮民救済の組織があったわけです.例えば律宗の寺院は盛んに窮民救済を行っています.幕府はその見返りに「貿易」とか「港湾の権利」などを与えてこれを援助しています. 当道もおそらくこれと同じで,一般庶民はのたれ死んで墓すらない時代はさぞ殺伐としていただろうと思いがちですが,そうでもないことの一つの証のような気がします.
ゲンポー先生、こんにちわ。私は、先日、平曲について質問しました岩田と言います。私の質問にたいして、詳しく答えて頂いて、ありがとうございました大変参考になりました。あとは、図書館で調べようと思います。
鎌倉時代の白米一俵の値段は、現在にするといくら位だったのでしょうか?
教えていただければ幸いです。Weaver
ゲンボー先生
Weaver様
メールをありがとうございます。
百練抄の記述に「寛喜3年(1230年)に米一石を銭一貫文に定む」とあります。元享2年(1322年)には酒一升、銭二十三文でした。年代差があるので正確には分からないのですが、現在の価格に換算してみましょう。
酒一升を現在の平均的な価格1500円で二十三文とすると一文65円になります。一貫文は1,000文ですので、65,000円ということになります。一石は180Lですから一斗は18キロで6,500円 1キロ361円
現代の袋詰めは10キロおよそ3千円ですからチョット高いですか・・もともと収穫量が少ないですからこんなものかもしれません。
ご質問の一俵は60キロですから21,600円程度と言うことになります。
しかし、この答えはあくまでも概算です。酒の値段も地域によって銘柄によって価格の幅が大きいからです・・・
目安と思ってください・・これでよろしいですか?
ゲンボー先生
学生の頃には苦手意識のあった日本史に、最近にわかに興味が出てきました。どのページもとても興味深く拝見しております。質問ページも拝読したのですが、どちらにもなかったようですので、質問いたします。もしかしたら大変おかしな問いかもしれませんが、御教授いただけたら幸いです。
お聞きしたいのは、鎌倉時代の神道・神社についてです。鎌倉時代は仏教が台頭してきたようですが、民間(貴族や武士ではない人々)内で神道はどのような位置づけにあったのでしょうか。現在全国に神社はたくさんあり、奉られている神様もたくさんありますよね。また荘厳な社殿を持つ大きなところもあれば、小さな神社もありますが、鎌倉時代の神社はどうだったのでしょう?やはり神社はそこかしこにあり、その神社ごとに奉る神様もまちまちだったのでしょうか。
それから、当時神職に就いていた人たちがどんな1日を過ごしていたのか、特別優遇されていたのかも、とても興味があります。神様への奉仕のみで、たとえばほかの仕事も副職のような形で行うことはなかったのでしょうか?(生活はどこからかの庇護が必要では?)
仏教については、貴サイトで勉強をさせていただきましたが、当時の神道や神職に関しての読み物を、なかなか見つけられないでいます。
いくつも質問をしてすみませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
埼玉県在住 美和
ゲンボー先生
美和様、メールをありがとうございました。
鎌倉時代といえば新仏教がクローズアップされて、教科書もドラマ?も寺が中心ですね・・確かに・・・
鎌倉時代にも神社は存在し大は伊勢神宮、出雲大社など、小は村々の祠まで様々です。というより今と同じかそれ以上に神社はあったのです。
大きな神社はそれ自体が荘園を持っていて、そこからの年貢が神社の収入です。全国の大社レベルは多かれ少なかれ領地を持っていました。
私は神奈川県に在住していますが、寒川神社の周りには「用田」とか、「免田」など、おそらく寒川神社領だったと思われる地名が残っています。寒川神社は相模一宮ですから朝廷はもちろん幕府や有力豪族の庇護や寄付があったということです。
また、藤沢市にある大庭にはかつて大庭の庄を治めていた大庭一族の社や祠が林の中や畑の脇に見ることが出来ます。こうしたレベルの神社はその地の豪族が庇護していました。祢宜や神主がいた場合もあるし、当主自らが神職を兼ねていた例も数多くあります。
当時の人々にとって・・いや、今でもそうかもしれませんが神社と寺は同等のものという感覚であったのです。その一番良い例が鶴岡八幡宮です・・今でこそ鶴岡八幡宮は神社の形になっていますが、あれは明治時代の廃仏毀釈以後のかたちで、実はそれ以前は「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれ、神社と寺が一緒になっていたのです。つまり「神仏混淆」ですね。そうした例は全国にあります。
神主の一日ですか(笑)、祈りやお祓いはもちろんのこと、御幣を作ったりしめ縄をなったり、占いもしたでしょう・・・占いといえばこの時代には陰陽道が尊ばれ、幕府でも行事の吉兆や天変地異の占いなど、ことあるごとに陰陽師に伺いを立てています・・・神主の中にそうしたことに長けた人もいたことでしょう・・大きな神社では先ほども書きましたように自社領やパトロンがいましたから暮らし向きもよかったと思いますが、小さな神社ですと神主自らが田畑を耕したり、商いをするものもいたことでしょう・・・
七五三は神社、結婚式は教会、死んじゃったらお寺という現代の状況を昔の人が見たらなんと言うでしょうね(笑)
ゲンボー先生
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