小学生とゲンボー先生のページ9 玉川学園・玉川大学
はじめまして
滋賀県に住む小学6年生の中西です.社会の勉強で鎌倉時代の竹崎季長について調べていますが,詳しく書かれた本が見当たりませんでした.
竹崎季長という人はどのような人物で,元との戦いではどのような仕事をしたのか教えてください.
ゲンボー先生
中西さん
メールをありがとう.連休中に山へ行っていたものですから答えが遅くなりました.ごめんね・・・早速答えます.
竹崎季長(たけざきすえなが)は肥後(ひご=いまの熊本)の国の御家人で,竹崎五郎季長といいます.第1回目の元寇(げんこう)である文永の役(ぶんえいのえき)に参加しています.季長は勇敢(ゆうかん)な武士で出撃命令(しゅつげきめいれい=戦えという命令)が出ると,とにかく一番のりをしようと,わずか五人の家来をつれて元軍のなかに突っ込んで行きました.なぜなら一番のりは「先懸」(さきがけ)といって,戦闘(せんとう)のときの大きな戦功(せんこう=戦争で頑張った人にあげるほうびのこと)になるからです.
とにかく彼は,大ぜいの敵がいるところにわずか6騎でつっこんでいきました.しかし,多勢に無勢(たぜいにぶぜい=敵が多く.味方が少ないこと)あっというまに元軍に取り囲まれ季長本人と二人の家来が負傷してしまいます.馬も矢をうたれ暴れまわっています.この場面は蒙古襲来絵図(もうこしゅうらいえず=竹崎季長絵詞=たけざきすえながえことば,ともいいます)のなかでも中心的な部分で,教科書や本にたくさん出ていますね.
負傷(ふしょう)した季長はその後,前線(前線=敵と直接戦っているところ)に出ることはなかったのですが,この先懸をたいした手柄(てがら)だと思っていました.(季長はその日の先懸でした).ですから幕府への報告者である少弐経資(しょうにつねすけ)が,このことを幕府に報告しなかったことに大きな不満を持っていました.
そこで,自ら鎌倉に行って自分の手柄に対して恩賞をもらおうとしたのです.このとき季長は29才でした.
しかし,親戚(しんせき)や友人は誰もそれに賛成してくれませんでした.先懸といってもただ最初に敵陣(てきじん)に突っ込んでいっただけで,すぐに負傷し味方に助け出されていたからです.つまり,「たいしたことないじゃないか」というわけですね.司令官の少弐経資にしてみれば,無謀(むぼう=後先のことを何も考えずに行うこと)で迷惑な行動だと思っていたのでしょうね.
しかし,彼は行動の人でした自分の馬の鞍(くら)を売りそれを旅費にしました.そして家来を二人つれて鎌倉に向かいます.途中,烏帽子親(えぼしおや=元服するときになってもらう,本当の親以外の親)の三井季成(みいすえなり)から馬とお金をもらいました.このことに季長はとても感謝しています.
さて,季長らは2ヶ月ほどで伊豆につきますが,そこから鎌倉まで三島大明神,箱根権現,鶴岡八幡宮と神社を参拝し,一心に武運(ぶうん)を神にちかいました.
つまり季長にしてみれば,元との戦いも幕府への申し出も,同じ「戦い」であったということです.これはなにも季長だけが特別「ずうずうしい」のではなく,この時代の武士が持つ共通の感覚です.
「なんのために戦うのか」それは,てがらを立てて領地をもらうこと以外にはないのです.「将軍のため」というのはたてまえで,一族の繁栄(はんえい)が第一だったのです.これはこの時代には当たり前のことでした.
ですから,鎌倉時代の武士は江戸時代の武士のようにややこしいことは考えていません.もっとドライで自分を良く見せることに気を使っています.よろいが派手なのはそのあらわれです.
ただ,季長の特別なところは,自分をアピールするのが他の武士より優れていたこと.そして何より行動的なところです.ですから後に彼は元軍と戦っているところから,幕府に申し出てて恩賞をもらうまでを「竹崎季長絵詞(えことば)」という絵巻物を書かせています.この第1級の歴史資料である絵巻物が残っていたために,季長の名前も今日に知られているわけですね.
と,いうことで,季長は幕府にやってきますが,みすぼらしい若者の相手をしてくれる人はいませんでした.そこで彼はねばりにねばり,ようやく安達泰盛(あだちやすもり)という幕府の重臣(じゅうしん=政治にたずさわる位の高い人)に会うことが出来ました.
季長は自分が戦いで頑張ったこと,先懸をしたことを作法どおりきちんと安達泰盛に話しています.それから約1ヶ月後に,安達泰盛の館に招かれて,将軍から領地を与えるという事がかかれた下文(げぶみ)を直接,恩沢奉行(おんたくぶぎょう=恩賞などの仕事をする責任者)である安達泰盛から受け取ることが出来ました.更に安達泰盛は季長に馬と鞍を与えました.感激した季長は急いで肥後の国の自分の領地へ戻り,後に絵巻物を書かせたというわけです.
さて,君は季長の事を調べて何がわかると思いますか?季長個人にも興味がありますが,この時代の武士の感覚と,将軍,御家人の関係についてよく考えてほしいと思います.
ゲンボー先生
鎌倉時代の、農具・武器には、どんなものがあったのですか?H12.6
ゲンボー先生
鎌倉時代は特に西日本で農業が進歩しました.君の住む加古川(かこがわ)もそうですね・・・山林や原野を利用したり,畑や田んぼに水を引く「用水路」の管理(かんり)などを共同で行う村が発達してきたのも鎌倉時代のことです.また,牛や馬を使って田畑をたがやすようになったのもこの時代からです.
東日本では原野の開墾(かいこん=原っぱや森林を田畑にしていくこと)も大々的に広がっていきました.このような農業の進歩や開拓(かいたく)は農具なしには行えません.では鎌倉時代にどんな農具があったのかというと.
鎌(かま=草や稲,麦を刈り取るときに使う柄(え)についた刃物.)
鋤(すき=田んぼや湿地を掘り起こすのに使った道具.長方形の鉄の部分がまっすぐ柄についている.
鍬(くわ=田んぼや畑を耕すときに使う.長方形の鉄の部分が柄の先に横向きについている)
上の三つは人間が直接手に持って使う道具ですが,この時代の鋤や鍬は刃の部分だけが鉄で,今のように全部が鉄で出来るようになったのは江戸時代以後からで,オール鉄製の農具が日本中に広まるの昭和20年代後半より後といわれています.)馬や牛につける馬鋤や馬鍬もありましたが田んぼを耕すのは主に牛でした.一緒に送った絵はそのうちのひとつです.
次に武器ですがなんといっても「刀」ですね.
鎌倉時代の刀は後の時代の刀に比べて「そり」が強いのが特長です.これは馬に乗って相手を切りつけるために,片手で振り回しても良く切れるためです.
刀には腰からぶら下げる「太刀」(たち)と,相手を組み伏せたときに刺し殺すための短い「よろいどおし」とがありました.
次に弓矢です.鎌倉時代の武将は馬に乗りながら矢を撃(う)ちましたから,馬と弓の訓練はとても大切でした.いまでも「やぶさめ」といって,馬に乗りながら的を撃つ競技(きょうぎ)がお祭りのときに行われます.矢には普通のやじり(矢の先のとがった部分)と二股になったものがあります.二股のものがささると傷口も広くなりますから,これは完全に殺人用ですね.
また鏑矢(かぶらや)といって,丸い笛がついている矢もありました.これは撃つとブ〜ンと音を立てて飛んでいきます.戦う前にお互いに撃ち合って景気をつけるのと,矢の届く範囲にまで互いによるためです.
鎌倉時代の戦い方は,まず互いに名乗りをあげます「やあやあわれこそは,加古川の住人,勇貴なり.ご先祖様はだれそれで,今回戦うことになったのはこれこれしかじかだあ!お前も武士なら武士らしく戦え!!!」てなことを長々とやりあいます.
おもしろいでしょ.それから「矢合わせ」といって,互いに矢を撃ち合います.これがすんだ後,敵と戦うのですが基本的に武士は一騎打ちといって一対一で戦います.その間家来は回りで見ています.もちろん混戦になるとめちゃめちゃになりますが・・・
何でこんなことするのかというと,偉(えら)い人の首を取ると新しい土地がもらえたからです.ですから戦いの最中でも必ず自分が誰かを名乗り,相手は誰かということを確認しあいます.偉い人を倒せばそれだけ広くて良い領地がもらえるからです.このことを「ご恩」といいました.鎌倉時代の武士は戦場で出来るだけ目立つことを考えていました.ですから後の時代に比べて「よろい」もきらびやかで派手な色をしていました.
ほかには一般の兵が持つものとしては「なぎなた」があります.長い棒の先に幅の広い刀がつけてあるものです.これを振り回して馬の足や人の足を切りました.痛そうですね・・・・
こんなところでしょうか.農具も武器も必要に応じた形に作られています.どうしてそんな形をしているのかということを調べると,使い方や,なぜ必要なのかがわかります.
何があったかを調べるのではなく,どうしてそれがあったのかを考えると勉強の中身がず〜っとこくなります.
お勉強頑張ってくださいね.
ゲンボー先生より
こんばんは。鎌倉の事を今学校で勉強しています。明日まとめ学習があるので資料が必要でした。このHPを見つけてビックリしました。こんなに詳しく書いてあるなんてビックリです。お陰で良いまとめができそうです。ありがとうございます。
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