小学生とゲンボー先生のページ6 玉川学園・玉川大学
こんにちは、私達は、青森県階上町赤保内小学校6年の朋子、麻美、あゆ葉でーす。今、社会で、鎌倉時代の、勉強をしています。分からない点ガ、いくつかあったので、げんぽー先生教えて下さい。
q1元軍は、何を求めて、戦いをしに、日本に、おとずれたのですか?
q2鎌倉時代の人口は、なんにんでしたか
ゲンボー先生
ゲンボー先生です。メールをありがとう。
早速答えます。
1.元は最初「元と貿易をしよう」と言ってきたのです。ただその時の手紙の内容が「他の国は皆OKといったぞ!お前らもよ〜く考えて答えろよ,できれば軍隊を使いたくないからね〜」というような半分おどしの手紙だったのです。幕府は元のことを中国からきたお坊さんから聞きました。それによると強力な騎馬軍団(きばぐんだん)で多くの国を支配したとのことです。日本と貿易をしていた中国(南宗=なんそう))も侵略(しんりゃく)されていました。それで幕府はあわてて元とのおつき合いを拒否したのです。さらに、1度目の元寇(文永の役)のあとには使者を切ってしまいました。いくら昔でも使者を切り殺すなど国際ルールを無視しています。それで、頭に来た元の一番偉(えら)い人(フビライといいます)が、さらに大軍で日本攻撃(こうげき)を命じたのです。海を隔(へだ)てた日本を支配してもあまり利益になりませんが,元は他国へのメンツもあって日本を攻撃(こうげき)してきたのです。
2.今のように戸籍(こせき)があったわけでは無いので,詳しい数字はありません.また,学者によって数字も少しかわりますが,だいたい1000万人位だったといわれています.そのあとの室町時代(むろまちじだい)になると1500万人,江戸時代は3500万人,明治時代に4000万人〜4500万人,そして昭和になると1億人になります.これは食糧(しょくりょう)の生産量に比例している数字なのです.もっとも最近は食糧を大量に輸入していますから,日本の生産量というだけではありませんね.
ところで,平安時代の終わり頃から鎌倉時代のはじまりころは,旱魃(かんばつ=日照りで雨がふらず,農作物が出来ないこと)が続き食糧生産が落ち込み社会が不安定になりました.平氏がほろびた一つの原因がここにもあるという学者もいます.
最初に京都を攻撃した木曽の義仲の軍勢が,京都で人々の食糧や略奪(りゃくだつ)したのは食糧が足りなかったからだともいわれています.そういえば木曽は山間部ですね・・・
歴史は人のつくり出したものですが,こうした気候や自然の力も大切な要素なのです.
僕達は、青森県、三戸群階上町赤保内小学校(桑原、赤坂、高屋敷)ですが、質問があるので、メ−ルをおくります。
Q1 鎌倉時代のころの食べ物は、なにがあったのですか?
Q2 鎌倉時代のお店は、どうゆう、お店があったのですか?
Q3 鎌倉時代は、お金があったのですか?
お返事まってます。
ゲンボー先生
1.それはそれは沢山あります.米,野菜,お魚,お肉(主にとり肉.他に鹿,イノシシ),ただし,この時代には肉や魚を避(さ)けた「精進料理」(しょうじんりょうり)も広まりはじめます.また,階級別(かいきゅうべつ)の食事の差も出てきたと言われています.
「鎌倉時代の勉強をしよう」のページに中学生が作った「鎌倉時代の食事」があります.また,「みんなの広場」中学生の質問にも農業のやり取りがあります.これを参考にして下さい.
2.鎌倉時代には大きな町以外は特定の商店街(しょうてんがい)はありませんでした.殆どが「市」とよばれる商品を持ちよる場所か,特定の業者が集まる「座」(ざ)でした.市は4のつく日に行われれば「四日市」5のつく日だと「五日市」と呼ばれるように,開かれる日にちが決められていました.それまで,自給自足(自分の家でまかなってしまうこと)だった経済が,鎌倉時代になると分業化(ぶんぎょうか)が進み,かじ屋や食器作り,服やお酒など専門の人が,人の集まる場所にもちよって売りはじめたわけです.
3.この頃の日本ではお金を作ることができても質や量が「いまいち」でした.そこで,中国のお金を輸入して使っていたのです.しかし,お金が使えるのは町ぐらいで,農村は「物々交換」が主だったようです.日本で本格的にお金が使われるようになったのは江戸時代からです.この時には100%日本製のお金になりました.
ゲンボー先生
質問が良く分からないのですが?武士がいつ頃から出てきたかという質問ですか?それとも,武士の子供がいつ頃から大人の武士として認められるか?という質問ですか?
最初の質問ですと,平安時代ということになります.地方の力を持った農民(豪族)が,時分達の土地や財産を守るために武装したのがはじまりです.やがて,仲間をふやし位の高い人を棟梁(とうりょう=一番上の人)に迎え,一大武士団に成長したのが平氏や源氏です.
次の質問ですとこうなります.一般的(いっぱんてき=ふつう)に男子は15歳くらいが元服といって,成人になる年でした.『わかいなあ〜』と思うでしょ?しかし平均寿命(へいきんじゅみょう)が40歳そこそこの時代ですから,おかしくはありません.しかし,年令にはあまりこだわっていません『あいつもそろそろかなあ』てな感じでした.頼朝は確か12歳ではじめての闘いに参加しています.
「かさがけ」の人数は決まっていません.大勢(おおぜい)でやる時や少数人でやる時などまちまちです.君たちだって「遊ぶ時」の人数は決まっていないでしょ?
ゲンボー先生より.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
納豆がいつから作られていたかはいろいろな説がありますが,古いものほど「たぶん〜そうだろう」という説でどれもはっきりと「そうだ!」というものはありません.納豆の元である大豆は弥生時代に中国から入っていたので,多分このときから〜ということです・しかし.実際には??????ですね.
納豆は大きく分けて2種類あります.
煮大豆をこうじ菌ではっこうさせて作る塩納豆.浜納豆はこれです.(糸をひかない,ころころしたしょっぱい納豆)塩納豆の技術は中国からきました.
煮大豆を枯草菌(こそうきん.別名納豆菌)ではっこうさせた,糸引納豆です.これは日本どくとくのものです.
いまでは納豆といえば糸引納豆のことをさします.これは偶然に出来たもので,煮た大豆をわらで包んでいたら「わら」についていた枯草菌がはっこうして納豆になったのです.これが多分平安時代の終わり頃から鎌倉時代のことです.
それはおそらく関東地方や東北地方のことだったと思われます.
ですから納豆は長い間東北地方や関東地方の人だけが食べたのですよ・・京都や大阪などの関西地方でも食べられるようになったのはごく最近のことです.
※むずかしいことばや字はほごしゃのひとに説明してもらってね・・・
ゲンボー先生
千葉県野田市立二ツ塚小学校加奈子
ゲンボー先生
加奈子さん
どちらでもいいんですよ.フビライ・ハーン.クビライ・カーン.それは日本語での発音であらわせない音だからなのです.フランスの首都パリは,聞いているとパギに近いリです.ロンドンはランダン,ベルリンはベアーリンと聞こえます.
日本語のハヒフヘホはフランス人は発音できません.ホンダはオンダ,ヒタチはイタチです.これと同じでフビライのフはのどの奥で出すクにちかい音です.ハーンのハものどの奥でカにちかい音です.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
時代はもちろん後世の人が決めるのです.今の時代をなんと言いますか?平成時代とはいいませんね,明治時代・大正時代は近いから元号を時代の名前にしていますが,昭和時代とはいいませんね.それは昭和にうまれた人がたくさんいるから,まだ前の時代ではないのです.あと百年もしたら明治・大正・昭和20年までを一つの時代にして,昭和20年から今までをまた別の時代の名前にすると思います.なぜ昭和20年なのかと言えば,そこで第2時世界大戦に負けて,日本の国が大きく変わったからなのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
香織さん.
この時代の農民はきほんてきに自給自足(じきゅうじそく)といって食べるものは自分で作たりとったりしていました.しかし,自分の畑で作っていないものや,漁民や狩人のとる魚や動物などは「市」(いち)というところで物々交換をしたりお金で買いました.一遍聖絵という有名な絵の中にそうした市場の様子を描いたものがあります.先生のページにもその絵を元に描いたイラストがのっていますから見てください.今のお店は町の中にいつもありますが,昔はそうではなく人通りの多いところや,交通の便利な場所に定期的にひらかれました.四日市とか五日市などの名前はそうした時代のなごりなのです.
豊かな農民はお金もあるし良い生活ができました.しかし大部分の農民は支配者に年貢を払ったので苦しい生活を送っていました.
ゲンボー先生
メールをありがとう.
古墳時代は先生のページとは関係ありませんが,先生の分かることを教えてあげましょう.
古墳は弥生時代の終わり頃から作られますが,古いものは高さも低く,かたちも四角がおおいのです.お墓には違いないのですが,研究していく上では,そのお墓は古墳とは呼びません.「方形周溝墓」(ほうけいしゅうこうぼ)といいます.
やがて地方に国が出来て強い人(ごうぞく)が出てくるとお墓も大きくなりました.これが古墳です.古墳の形は様々で前方後円墳のようなホタテ貝みたいのや,円墳というおまんじゅうみたいなの・・方墳という四角のや前方後方墳という四角が二つくっついたのもあります.
なかでも大和地方を中心に前方後円墳が発達すると地方にも広がり,全国的に前方後円墳が作られるようになりますが,時代が進むと小さくなっていきました.最後は円墳のところが多いみたいですよ.
古墳は豪族のお墓ですから,ほうむられた人の持ち物(副葬品=ふくそうひん)が一緒にあったり,壁画(へきが=絵)が書かれていることがあります.
首飾りや剣や弓矢,それに馬具や農具などが多いようですが,古い古墳からは武器が,あたらしい古墳からは農具が多く出てきます.これはまず「力」で国を統一し,その後,国を豊かにするために農地を広げていった豪族のようすが分かります.
面白いですね・・また質問してください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
めぐみさん.メールをありがとう.ご返事が遅くなってごめんね.
むずかしい質問ですね.何のために作ったという記録がないからです.ただ言えることはこの時代には仏のためになることや,人のためになることをすれば,死んでから「極楽」に行けると信じられていました.浄光は民間のお坊さんですから人々の心をいやすために大仏を作ったのでしょうね.
はじめのものは木で作られていたそうですが,あまりにも信じる人が増えて,嵐でこわれた後に今の青銅製のものに作り替えられます.これの財源は人々が寄付した銅銭でした.一部は溶かされて大仏様に使われたのかもしれません。すごい量ですね・・それだけ多くの人に支持されたのでしょう.
幕府の偉い人もお金を出しているようです.
最初は屋根がついていたそうですが,これも嵐でこわれてしまいました.その後鎌倉の大仏様は屋外に座ったままということになります.しかしこれは結果的には良かったのです.
奈良の大仏様は建物の火災でなんども溶けてこわれていることから考えると,鎌倉の大仏様が火災にあわなかったのは,そもそも周りに燃えるものがないからです.もしかしたらそういうことも考えて建物を造らなかったのかもしれません.
そのかわり,さびにくいように背中に窓があって,晴れた日や乾燥した日にはこれを開けて中を乾燥しています.昔の人の知恵ってすごいですね.
ゲンボー先生
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