小学生とゲンボー先生のページ23 玉川学園・玉川大学
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ゲンボー先生
日菜さん.メールをありがとう.
平清盛は頭も良く,行動力もあり,とても優れた人でした.若い頃から勇かんでまわりの武士からも大変に信頼されていた人です.それに比べて頼朝のお父さんだった義朝(よしとも)は若いころに他人の領地を荒らしたりしたため,うらみをかうこともありました.清盛との戦い(平治の乱)のときに,家来だったはずの武士が途中で逃げてしまったのは,義朝に人望がなかったからです.(人望=じんぼう=人から信頼されること)
清盛は自分の娘を天皇の奥さんにして生まれた子供がまだ小さいのに天皇にしました.また,一族が高い位に上って思いのままの政治をおこなったために,滅(ほろ)びたあと人々が「おごる平氏は久しからず」と悪いイメージで今日まできてしまった人です.
平治の乱の後,本らいならば頼朝をはじめとする義朝の子供たちを全員処刑(しょけい=ころすこと)にするべきなのですが,乳母(めのと=育ての親)だった人の命乞い(いのちごい)で助かります.これは清盛が後から一番後かいしたことでしたが,清盛の人間性がよくあらわれていると先生は思います.君が清盛だったら小さい子供たちを殺せますか?
清盛の政治の仕方はそれまでの貴族のやり方をまねたものです.つまり武士というより貴族として政治をしたといったほうが良いのです.娘を天皇のきさきにして生まれた子供を天皇にしておじいちゃんとして実際の政治を行うところなど,平安時代中期の藤原道長(ふじわらのみちなが)のやりかたにそっくりです.
しかし,武士としての一面もあって平家の支配地(しはいち)に地頭(じとう)という武士の役人をおいたのはその一つです.また中国との貿易に力を入れ,中国の珍しいものや新しい技術を日本にいれました.特に宋銭(そうせん)といって,お金を大量に輸入したことは大きな功績(こうせき)の一つです.平安時代の終わり頃から鎌倉時代は交通の発達とともに経済も大きく発達しました.ものの売り買いにお金はなくてはならないものです.鎌倉時代にもこのときに輸入されたお金が使われたのです.もしこのときに清盛がお金を輸入していなかったら鎌倉時代になってもそれほど経済は発達しなかったと言われています.(なぜお金を輸入したかというと,その当時の日本では質の良いお金を作ることができなかったからです)
清盛は経済の発達にお金はなくてはならないもの,と分かっていたのです.・・どうですか.清盛は中途はんぱな人ですか?
頼朝も優れた人でした.彼は関東の武士の望みを知っていてそれを実現しました.そこから武士らしい政治がはじまりました.一方清盛の生まれた時代はまだ貴族の時代で,彼は武士でありながら貴族の政治を行いました.それは中途はんぱと言うことではなくて,そういう移り変わりの時代だったからなのです.
清盛は富士川(ふじがわ)の合戦の後に病気でなくなります.清盛も清盛の子供で一番優秀だった重盛(しげもり)もいない平氏はあわれでした.木曽義仲(きそのよしなか)の軍隊に破れ海に逃げました.後はみなさんが知っているとおり頼朝の軍隊(義経がひきいた)が最後に壇ノ浦(だんのうら)というところで,平家を滅ぼしてしまいました.
もし清盛が生きていたらそう簡単には滅ぼされなかったと思います.しかし,歴史に「もしも」はないのです・・・その後,頼朝がりっぱに武士の政治を行いました.
どんな勉強もそうですが,一つの見方だけではかたよってしまいます.いろいろな本で調べたり,人に聞くことが大切ですね・・・どうですか清盛のイメージがかわりましたか?
ゲンボー先生
ゲンボー先生
繁田さん.メールをありがとう.
鎌倉に武士の政権ができたため,ず〜っと後の世の人が「鎌倉時代」と呼びました.
今の人が「平成時代」と言わないのと同じように,当時の人はその時代に名を付けて呼んではいないのです.
明治時代や大正時代とはいいますが,まだ昭和時代とも言いませんね.それは今生きている人の大部分が昭和に生まれているからです.あと50年もしたら昭和時代とか平成時代って言われるようになります.
そして100年も1000年もたてば, 昭和20年後がもっと違った時代の名前で呼ばれるようにるでしょうね.それは日本が昭和20年に第2次世界大戦で敗れ,そこから社会が大きく変わったからです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
鎌倉に幕府を作った頼朝は町を整備(せいび)して政治を行う御所(ごしょ)を作ったり,力のある武士の屋敷(やしき)を作らせませした.その後商人も住むようになり,鎌倉はしだいに大きな町になっていきました.
人がそこに住むとお寺や神社もできます.力のある人は大きなお寺を,庶民(しょみん)は小さなお堂を・・という具合に・・それは,当時の人々が仏様や神様を信じていたからなのです.病気を治すのも神仏の力.幸福を願うのも神仏・・・
そしてもう一つ「人間の生き方」を教えてもらうためにもお寺は必要だったのです.それは,お寺が当時の学校の役割をはたしていたからです.鎌倉時代にもっとも力を持っていた北条氏(ほうじょうし)は特に禅宗(ぜんしゅう=座禅を組んで人の生き方をみつめる宗教で仏教の一つ.臨済宗と曹洞宗がある)を保護(ほご)して,大きなお寺を造りました.そしてそこに中国や日本の有名なお坊さんを招きました.(臨済宗=りんざいしゅう)(曹洞宗=そうとうしゅう)
これが元になって,次々と力のある武士がお寺を造ったのが今日鎌倉にお寺が多い理由なのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
さて寿福寺ですが北条政子(ほうじょうまさこ=頼朝さんの奥さん)さんと源実朝(みなもとのさねとも=頼朝さんの子で3代将軍)の供養塔(くようとう=死んだ人をなぐさめるための石でできた塔)があることで有名です.
もともと寿福寺のあったところは頼朝お父さんだった義朝(よしとも)の館があったところで,頼朝が死んだあとに政子さんが「義朝や頼朝のゆかりの地」として作ったお寺です.
宗派は臨済宗(りんざいしゅう)という仏教の一派で,座禅(ざぜん)を組んで「人の生きる道」を考えるものです. お寺を作るときには栄西(えいさい.ようさい,ともいう)という,日本に臨済宗を伝えた一番えらい人を迎えています.ですから鎌倉に沢山あるお寺の中でも位が高いお寺ということになっています.
いっぱんに鎌倉五山(かまくらござん)といって,建長寺(けんちょうじ).円覚寺(えんがくじ).寿福寺(じゅふくじ).浄智寺(じょうちじ).浄妙寺(じょうみょうじ)が格式の高いお寺といわれていて,この順番ですから寿福寺は3番目ということになります.
さて,最初に政子と実朝の供養塔があると書きましたが,政子の本当のお墓は見つかっていません.安養院(あんよういん)というお寺にも政子の供養塔がありますが,これもお墓ではありません.ガイドブックやインターネットには「お墓」と書いてあるものもありますが,それはどちらも間違いなのです.本当のお墓は「勝長寿院」(しょうちょうじゅいん)と言うお寺にあったらしいのですが,今はお寺そのものがなくなってしまいました.
実朝の死に方はかわいそうでしたが,首は神奈川県の秦野市にあります.胴体が寿福寺にあるかどうかは?です.一説によると高野山にあるとのことです.
いずれにせよ当時の人は遺体そのものにはあまりこだわっていません.我が子実朝の供養塔があるから政子は遺言で実朝の供養塔の近くに自分の供養塔を作らせたのでしょう.母親の愛情ですね・・・君は,このことについてどう思いますか?
実朝のお墓については先生のページにもありますから見てください.
ゲンボー先生
鎌倉幕府が開かれた1192年、どんなできごとがあったか、人物名と一緒に、具体的に教えてください。お願いします。
ゲンボー先生
詩織さん.メールをありがとう.
1192年には頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった年です.源平の戦いの時に平氏の若い武将「平敦盛」(たいらのあつもり.16歳)を討った熊谷直実(くまがいなおざね)という人がお坊さんになった年です.
普通1192年といえば頼朝が征夷大将軍になって鎌倉幕府を開いた年だと言うことになっていますが,それはず〜っとあとの江戸時代の学者が決めたことで,頼朝自身は征夷大将軍の位はほしいけど,だから今から幕府ひらくぞなんて言うことはまったく考えていませんでした.
頼朝が征夷大将軍の位をほしがったのは,武士の最高のくらいだからではありません.それだったら「近衛の大将」のほうが上です.近衛の大将は天皇直属(ちょくぞく)の将軍です・・つまり天皇の命令で動きます.
ところが征夷大将軍は戦地で臨時(りんじ)に政府を作ってもよい立場で,独立性(どくりつせい)が強いのです.朝廷の影響(えいきょう)を受けたくなかった頼朝には好都合(こうつごう)な位でした.
そのことに気づいていた後白河法皇は,死ぬまで頼朝に征夷大将軍の位をあげなかったのです.
頼朝はたったの3年で征夷大将軍をやめてしまいます.一度なっちゃえばあとはよかったからです.
それに武士の政権は1192年より前の1185年にはできていました.
ホームページにも書いてあるとおり「幕府」という言葉も江戸時代になってあとから付けたものですから,幕府を開く・・なんて言うことば自体が本当は無意味なのです.でも昔から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」なんてみんなが覚えさせられちゃってるから,引っ込みがつかない・・(笑)
ゲンボー先生
ゲンボー先生
片野さん.メールをありがとう.
1.貴族には「荘園」(しょうえん)という広い領地があり,そこで生産される農産物の一部を税としてとっていました.貴族には元々,「国に税を納めなくてもよい」とか「役人が領地を調べることができない」という特別な権利(けんり)を持っていました.
そこで,多くの地主は自分の領地を形の上だけで貴族のものにしてもらいました.国に税金を払わないかわりに貴族にお礼を払うのです.こちらの方が安くすむし,役人が入ってきて多く税を取ったり,「この土地をよこせ」みたいなことを言われなくてもすむからです.それはこの当時の役人のなかには自分の権力で農民をいじめる人がたくさんいたからなのです.
こうして貴族はなにもしなくてもどんどん領地が増えていったのです.こうした領地のことを「荘園」といいます.たくさんの荘園からお金やものが貴族に届けられました.だから豊かな生活ができるようになったのです.
2.遣唐使は国が派遣したものですが,目的がありました.
1.中国の優れた文化やものをとりいれる.
2.中国の優れた学者やお坊さんを呼んで,日本を進んだ国にする.
3.日本の優れた人を中国に勉強に行かせる.
でした.
遣唐使(けんとうし)は一応の成果を上げたために廃止(はいし)されました.一つには唐という国が滅(ほろ)びたのと,日本側の熱意が冷めたからです.しかし,その後も商人達が貿易をしていましたからつながりはあったのです.そうした船に乗って中国からお坊さんが招かれたり,日本から留学生がいったりしました.
でもね・・実は鎌倉時代と言うのは意外と中国との結びつきが大きかったのです.第1に商人が中国と貿易をしていた.日本からはうるしぬりの食器や刀などが,中国からは青磁(せいじ)や白磁(はくじ)といった焼き物や,織物(おりもの)など珍しいものが売り買いされていました.第2に日本からお坊さんが勉強に行ったり,中国から偉いお坊さんが日本に学問や仏教の教えを伝えに来ました.そして第3にモンゴル・・つまり元に支配された南宋(なんそう=中国の南部)から,元の政治を嫌ってたくさんの人が日本に逃げてきたらしいのです.一説によると鎌倉にもたくさんの中国人がいて中国語があちらこちらで聞かれた,なんて言う話もあります.こういうことを聞いて君はどう思いますか?
北条時宗が元の申し出を断ったのも,中国の偉いお坊さんから「元に支配されると大変ですよ」と聞かされていたからなのです.鎌倉時代は以外にも国際的だったのです.
ゲンボー先生
についてお尋ねします。
1、貴族の副食の保存食とはどういう食べ物なのか?2、貴族の食事はなぜ1日2回なのか?
3、貴族が食事を食べる時の作法はどういう作法なのか?4、貴族の食事は、こってりかあっさりか?5、武士の食事の主食は玄米だけど白米も食べていたのか?宜しくお願い致します。
ゲンボー先生
小島さん.メールをありがとう.
1.当時の食材は遠くから運ばれてくるものもあり,ほとんどが保存食みたいなものばかりです.もちろん野菜や川魚・鳥などは季節のものを食べていました.京都は海がないので魚は塩漬けか乾燥したものか,酢でしめたものです.有名なのは「鯖」(さば)と「すわはり」ですね.鯖は日本海から塩漬けされて京都に運ばれました.塩を抜いて鯖寿司にしたり,煮たり焼いたりして食べました.「すわはり」とはシャケのくんせいみたいなものです.これをお酒に浸して戻して食べます.貴族ではありませんが源頼朝の大好物です.
それ以外にも干しアワビや干しなまこ,魚の干物など数え上げたらきりがありません.
2.貴族だけでなく武士も農民も商人も,みな一日2回です.ただし,農民は田植えや稲刈りなどの重労働の日は3回も4回も食べました.また武士の場合は戦争中に5回なんて言うのもあります.「腹がへっては戦はできぬ」というわけです.
さてさて,普通は2回の食事でしたが,実は間食をしています.それが今日の「おやつ」のもとなのです・・やっぱり2回じゃお腹が減るんだよ・・・
3.食事に作法はつきものです.はしの上げ下げから食べる順番までこと細かく決められていたはずです.それは当時の人々が(特に貴族)「げんをかつぐ」といって,一つ一つの動作にこだわっていたからなのです.ある貴族などは御所までまっすぐに行けばすぐなのに,わざと遠回りをして行ったなどということもありました.それはいつもの道を行かないと悪いことがおきる..と思われたからです.
同じように一日の生活にもリズムがあって,貴族は決められたことを決められたように行っていました.方角にこだわったり,日にこだわりもしました.
さて食事の作法ですが,後の世になって「〜流」と本にも書かれましたが,平安時代や鎌倉時代の貴族がどのような作法で食べていたか,詳しいことは先生はわかりません.
4.こってりもあっさりも両方ありました(笑)日本の食事があっさりするのは室町時代頃からでしょうか.
鳥やイノシシや鹿,それにあぶらののったお魚など,パクパク食べていますよ.ただし中華料理のようにあぶらを大量に使うものはもともと少なかったですね.
5.玄米が主ですが,椀飯(おうばん)というもてなしの儀式や,正月や節句などの大切なときには白米を食べていました.
どうですか,昔の人の食事?君の考えを聞かせてよ・・
ゲンボー先生
福岡県大野城市立月の浦小学校6年生 千尋
ゲンボー先生
千尋さんメールをありがとう.
頼朝が目指したと言うより,関東の武士が望んだ・・と言った方が分かりやすいと思います.
関東地方は開拓地(かいたくち)でした.それまで原野(げんや)だったところに人が移り住み畑や田んぼを作っていったのです.人が住みものを作ればそこに役人がやってきて税をかけます.
平安時代の終わりごろというのは「律令」(りつりょう=朝廷を中心に考えられた法律)は無視され,地方政治は乱れていました.役人のなかには余計に税を取ったり,せっかく耕した田畑をうばったり,収穫物(しゅうかくぶつ)をとったりする者もいました.特に関東地方は「新しい土地」ということもあってひどかったようです.それに領地の境目もはっきりしないことが多く,となりとのいざこざもありました.
そうした農民の中から,広い土地を持ち力のある者がまわりの農家を家来にして武装(ぶそう)しました.これが武士の始まりです.そしてこうした有力者を「豪族」(ごうぞく)とよびます.(※武士は日本のあちこちで誕生しました・)
豪族達は親せき同士や仲のよい者同士で武士団を作りました.平安時代の終わりごろはこうした時代で,関東地方のあちこちに武士団ができていました.更にその武士団同士は血筋のよい「源氏」や「平氏」と親せきになりました.
その時代は「血統」とか「血筋」といった家柄が今の人とは比べものにならないほど重要に思われていたからです.
こうして関東地方は大まかに源氏の血を引く武士団と,平氏の血を引く武士団とに分かれました.どちらが多いかというと平氏系の武士団で,後に頼朝を助ける大豪族の三浦氏・千葉氏・上総氏などはすべて平氏系の豪族です.
このように,関東の豪族達は,それぞれが手を結んで他の武士団との戦や,役人の横暴(おうぼう=立場を利用して悪いことをすること)から領地を守るためにいつも緊張している状態でした.
ですから,自分たちの領地であるにもかかわらず都の有力な貴族のものにして,領地を守る豪族もたくさん出てきました.そうした領地のことを「荘園」(しょうえん)といいます.荘園は日本中にありました.本当の持ち主は豪族なのですが表向きは有力な貴族や寺社ということにしたのです.
ところが,そうなると今度は京都に行き,持ち主となった貴族の屋敷の警備(けいび=守ること)をしなくてはなりません.そうした仕事を「大番役」(おおばんやく)といいました.その時代の絵を見ると貴族の館の門番をしていたり,共について貴族の乗る牛車(ぎっしゃ)の警護(けいご=守ること)をしています.
地方では有力者の豪族達も都では身分の低い者としてあつかわれていました.
一方,貴族に変わって実権をにぎった平氏の生活はどうでしたか?平氏は武士でしたがその生活ぶりは貴族と全く同じでした.彼らも地方の武士を犬のようにあつかったのです.同じ武士といっても月とスッポンですね.
後に,承久の乱(じょうきゅうのらん=頼朝の死後,朝廷と幕府が戦った戦争)がおこるとき,頼朝の奥さんだった北条政子さんが関東の武士達の前で演説したのは有名な話です.その内容は「大番役の時にはだしで京まで行き,犬のようにあつかわれていたあなた達が,今のようなよい生活をおくれるのは誰のおかげか?それは亡き頼朝公が関東に武士の政府を作ったおかげでではないか.その恩にそむき朝廷側につくという武士がいるのならまずこの私を殺し,鎌倉に火を放って敵につくがよい!」
分かりますか?関東の武士達は頼朝を主人にして結束していたのです.頼朝はまず味方になった豪族の土地を認めました.そうして彼らの土地を守ったのです.更に戦でよい働きをしたものには新しい領地を分け与えました.
今まで武士のためにそうしてくれた人はいませんでしたから,みな大喜びで頼朝の家来になったのです.
頼朝が目指す政府は「武士の領地を守り」「互いに助け合う」ものでした.ですから石橋山(いしばしやま)で負けたはずの頼朝に多くの武士が味方になったのです.源氏も平氏もないのです.源平の戦いなどというもは後の人がかってにそういっただけのことで,戦った本人達はそういう意識は全くありませんでした.だって,頼朝の軍はほとんど関東地方の平氏だったのですから・・・それは都の武士(平氏)と関東の武士との戦いだったのです.
私たちは頼朝の作った政府を「幕府」とよんでいますが,それは江戸時代も終わりごろの学者がそう名付けたので,本当はちょっと違うのです.頼朝の政府は「関東地方の武士の政府」なのです.後にその政府は北条氏が受けつぎ力も強くなり,日本全土に力がおよびましたが,それは主に地方に散らばった関東地方の武士達にであって,朝廷の支配する土地に力はおよびませんでした.
リンカーンというアメリカの大統領が「人民の」「人民による」「人民のための政治」.という演説をしたのは有名ですが,それを頼朝に当てはめると「武士の」「武士による」「武士のための政治」ということになります.
はじめの頃は京都にいって平氏に変わって政治を行うつもりでいた頼朝さんですが,三浦氏・千葉氏・上総氏(かずさし)などの有力な豪族の意見を聞いて,そのように変わっていきました.
頼朝さんは平家との戦に勝った時すでに,京都ではなくて鎌倉で政治を行う決意を固めていたのです.
これでいいですか?6年生にはむずかしいところもありますね.そうしたところは先生や保護者の方に説明してもらってください.お勉強頑張ってくださいね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
知佳さん.メールをありがとう.
1190年に権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこのえのたいしょう)という武人としては最高の官職に任じられましたが,頼朝は天皇を守る大将ではなく,独立性の高い前線基地(ぜんせんきち)の最高司令官である「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん)の位が望みであったため.すぐに辞任してしまいます.
1192年に望みだった「征夷大将軍」になりました.これは関東地方に武士独自の政権を作るためです.しかし3年間でその職を辞任します.それ以後は「前右大将」(さきのうだいしょう)という肩書きでとおします.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
矢世さん.メールをありがとう.
本ですと1192年から1333年と書いてありますね.しかし,1333年はよいとしても1192年は違うと先生は思います.
じつは学者の間にもいくつか説があってまだ決まっていません.それは「この日から武士が政治を行う」とか「この日に幕府ができた」という日がないからです.鎌倉幕府はいっぺんにできたのではなくて少しずつできたからなのです.しかも,幕府という言葉はず〜っとあとの江戸時代の学者が「頼朝が征夷大将軍になった時に幕府ができた」などと決めてしまったために,以後「頼朝が幕府を作った」と言うことになったのです.ところが鎌倉時代に生きていた人たちは武士の政治を行うところを「鎌倉幕府」とは呼んでいません.第一そうした言葉が無いのです.
当時の人々は将軍を「鎌倉殿」(かまくらどの)とよび,それぞれの役所は「侍所」(さむらいどころ)とか「政所」(まんどころ)と,そのままで呼んでいました.
江戸時代の学者は徳川幕府を学問的に認めるために,頼朝の行ったことを利用しました.おかげで以後ず〜っと1192年が幕府のできた年ということになってしまったのです.
先生はむりやりに「この年が幕府のできた年」と決めなくてもよいと思っています.平家との戦争に勝った年,守護や地頭をおいた年・・むずかしいですか?とそれぞれの大切な出来事があった年だけをはっきりさせて,あとは「この間に少しずつ関東の武士が強くなっていった」と覚えればいいのです.
大切なことは.「いつできたか」なのではなく「なぜできたか」ですし,「いつ滅びたか」ではなく「なぜ滅びたのか」なのです.
ゲンボー先生
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