小学生とゲンボー先生のページ18 玉川学園・玉川大学
鎌倉時代の市場についてくわしくおしえてください。
ゲンボー先生
鎌倉の市場についてのくわしい記録(きろく)は残っていません.現在までに行われた発掘(はっくつ)や当時かかれた絵,あるいは吾妻鏡(あずまかがみ=鎌倉幕府の記録)からわかっていることを,鎌倉の町を中心に教えてあげましょう.
幕府は建長3年(1251年)商業地域(しょうぎょうちいき=商業してもいい場所)を大町・小町・米町・亀ヶ谷辻(かめがやつじ)・和賀江(わかえ)・大倉辻(おおくらつじ)・気和飛(けわひ)坂と定めました.
かんたんに言うと,こうなります.
鎌倉の町は周りを囲まれて狭い(せまい)ところにあります.鶴岡八幡宮から前浜(今の由比ガ浜)まで若宮大路が真っ直ぐにのび,その道の両側は役所や有力な御家人の屋敷(やしき)がならんでいました.その奥には小町大路や今大路があり,庶民はここに住んでいました.商業地域もそこに定められたというわけですね.
それと,鎌倉は回りが山ですから,他の地域との行き来には切り通しという崖をくりぬいた関所(せきしょ)を必ず通りました.つまりここには人が集まるわけですね.こうしたところにも露天(ろてん=たてものの無いお店,つまり「ござ」をしいたていどのお店)の商人がたくさん集まりました.
最後に海岸部(かいがんぶ)ですが,ここは特に鎌倉の人口が増加(ぞうか)してから 開けた場所です.
さて,そこではどんなお店でどんなものが売られていたのでしょう?
一遍聖絵(いっぺんひじりえ)や福富草子(ふくとみぞうし)を見ると,街中のお店は軒下にお団子のようなものや,日用品を並べて売っています.それ以外には露天(ろてん)にむしろをひいて野菜や魚,それに服や日用雑貨を並べています.
4のつく日や5のつく日に開かれた定期市は主に街道の交わる交差点,辻などに簡単な掘っ立て小屋を立てて,近隣(きんりん=近く)の農家が野菜を,漁師が魚を,また狩人が山鳥やキジ,それに着物など様々なものが売り買いされていました.有名なのは岡山県にあった福岡の市の絵ですね.君は見たことがありますか?
3月に先生は由比ガ浜の遺跡発掘現場を見てきました.そこは職人の住む工房(こうぼう)がたくさんあったところです.先生のページにも速報(そくほう)でのせてありますから見てください.
狭い路地にたくさんの工房がひしきめきあっています.所々に井戸が掘られこれが生活用水でした.鹿の角や骨を加工してさいころや櫛(くし)などを作っています.また化粧品(けしょうひん)も作られていたようですよ.それに,近くに船着場もあったためか,中国製のすばらしい焼き物がたくさん出てきました.多分そうしたものをあつかう商人がいたのでしょう.この人達は商人に商品を売る問屋(といや=後に”とんや”という)と思われています.
鎌倉時代には商業も発達して「市」以外に座(ざ)ができました.鎌倉の材木座海岸(ざいもくざかいがん)は材木を扱う問屋がいくつもあったところです.
このように,鎌倉時代も後期になると商業が発達して鎌倉はにぎやかな町になりました.
参考「中世の都市を歩く」草戸千軒遺跡からわかること.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
わたる君 メールをありがとう.
鎌倉の大仏様は1243年に浄光(じょうこう)と言う人が人々にすすめられて木造の大仏と大仏殿を作った言われています.その10年後の1252年に同じく浄光が金銅の大仏を作りはじめました.現在の大仏はこれですね.当時は金箔(きんぱく)がおされ光り輝(かがや)いていました.
吾妻鏡(あずまかがみ=鎌倉幕府の記録)1243年のところに書かれている文章です.
6月16日 辛酉 未の刻に小雨雷電す
深澤村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀の像を安じ、今日供養を展ぶ。導師は
卿の僧正良信、讃衆十人。勧進聖人浄光房、この六年の間勧進す。都鄙の卑尊奉加せ
ざると云うこと莫し。
今の言葉ですとこうなります.
6月16日,小雨で雷があった.深沢村(現在の長谷のあたり)に阿弥陀堂(あみだどう=阿弥陀仏をまつるたてもの)を作り,24メートルの阿弥陀仏を安置(あんち)して 皆で開眼供養(かいげんくよう=仏様の目に墨を入れて魂をふきこむこと)をした.そのお坊さんは良信(りょうしん),作った人は浄光,集まった人は10名.これを作るのに6年間がかかった.身分の高い低いに関係無く皆の信仰(しんこう)のためである.
と書かれていて,残念ながらどのくらいの人が大仏と大仏殿の建設に関わったかは分かりません.しかもこの時の大仏は木造でした.
浄光さんはその後,台風でこわれた大仏を作りなおすために,人々から1文銭を集めそれを財源にして大仏を作りました.幕府も寄付(きふ)しているくらいですから,とても多くの人が大仏作りに協力している事が分かります.お金もずいぶんかかったでしょうね.
この大仏が他の大仏と違うところは,身分の高い人が国のお金で作ったのでもなければ,命令で作らせたものでもないというところです.一般の庶民(しょみん=普通の人)である浄光に一般の庶民が協力して作ったということです.それだけに尊いと先生は思っています.
ゲンボー先生
質問したいのですが、よろしいですか。
東大寺の金剛力士像の作り方と、かかった費用と、人数と、誰を、中心にして、作ったのかを教えて下さい。
ゲンボー先生
寛美さん
メールをありがとう.東大寺の金剛力士像(こんごうりきしぞう)は俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)という偉いお坊さんが,鎌倉時代を代表する彫刻家(仏師)の運慶(うんけい),快慶(かいけい),(びっちゅうほっきょう),(えちごほっきょう)の4人に頼んで作ったものです.
一説としては東側を運慶と備中法橋,西側が快慶と越後法橋が分担したといわれています.
それらの大仏師の下にそれぞれ小工16人が従っていたといわれています.それに絵師(えし),塗師(ぬりし)がいましたから,150人くらいがこれら金剛力士像の製作(せいさく)に関わっていたと考えられています.
それをたった2ヶ月で作ってしまったのは,金剛力士像をいくつものパーツに分けて,分担と流れ作業でおこなったからなのです.今見る力士像は大きくて力強くて 鎌倉時代を代表する芸術的な彫刻(ちょうこく)ですが,実はとても合理的に作られていました.
それもこれも,運慶・快慶という非常に優れた仏師(ぶっし)がいたからに他ありません.運慶と快慶は子弟の関係といわれています.力強い運慶,こまやかで優雅(ゆうが)な快慶の二人が中心となって二つの力士像が完成(かんせい)しました.
この二人の作品は他にもたくさんありますから,美術の本や歴史の本でみてごらんなさい.二人の性格の差がとてもよく分かるはずです.二人は(他の二人も含めて)互いに尊重しあっていました.ですからこうした仕事がうまくいったのですね.
さて,かかった費用(ひよう)ですが,先生の手元にある資料(しりょう)では分かりませんが,東大寺全体の再建(さいけん=作り直すこと)には朝廷や院,それに貴族,さらに源頼朝も費用を出しています.頼朝は米一万石(ごく),砂金千両(さきんせんりょう),上絹千疋(じょうけんせんびき)を献上(けんじょう)しています.
(東大寺は1180年12月28日(旧暦)平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちに合って灰になっていたのです.)
ゲンボー先生
わたしたちは山梨県の船津小学校というところの6年生です。
2つ質問があります。北条政子の一生にかかわることを調べたいのですが、どこでしらべたらよいですか。もし、ご存知のhpなどがありましたら、教えてください。
北条政子のお墓は、昔から今の場所にあったのでしょうか?そして、もし、むかしから、今の場所にあったとしたら、その場所は、今と同じように静かなところだったのですか,おいそがしいとは思いますが、よろしくお願いいたします。
河口湖町船津小学校 6年生 唯 怜子 瑠璃子
ゲンボー先生
メールをありがとう.
同じような内容の質問でしたので一度にメールを送ります.コピーして皆さんで見てくださいね.
まず北条政子さん関係のHPはたくさんありますので,gooやYhoo,gogleなどの検索ページで調べてください.
次に政子さんのお墓ですが実は3ヶ所あります.一つは安養院(あんよういん),もう一つは寿福寺(じゅふくじ),最後の一つは勝長寿院(しょうちょうじゅいん)です.実際に埋葬されたのは勝長寿院と言われていますが,今はありません.(勝長寿院のあった場所は,鶴岡八幡宮の東に流れる滑川にかかる大御堂橋を渡り,南へ進んだ谷戸の奥で,勝長寿院旧蹟の碑がたっています)
五輪塔(ごりんとう)とは死んだ人の霊をとむらうためのものですが,お墓の場合とそうでない場合とがあります.政子の場合,実際のお墓は勝長寿院にあって,寿福寺や安養院には供養塔を建てたお寺ではないかと言われています.
寿福寺の五輪塔は先生のホームページでも紹介しています.実朝の五輪塔のすぐそばにあります.形式から言うと安養院のもより古いものです.安養院は政子が大切にしていたお寺という事もあって関係は深いのです.
寿福寺にある政子の五輪塔は「やぐら」という独特(どくとく)の穴を掘って,その中に五輪塔を建てています.これは鎌倉時代の武士階級にはふつうに見られるお墓や供養の形です.
やぐらがあるところは山のふところですから,一般的に静かなところでした.
ところで,この時代の庶民には墓碑(ぼひ)や墓石(ぼせき)はありません.死んだら焼かれるか,そのまま墓地に埋められていました.ホームページのニュース「由比ガ浜の墓地群」を見てください.
武士は質素で墓も質素だったといわれていますが,庶民に比べればずいぶん良かったと思います.政子さんのお五輪塔も他のものに比べてやはり立派です.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
子供の死亡率(しぼうりつ)が高かったので平均寿命(へいきんじゅみょう)は45〜50歳くらいです.長生きする人は80〜90歳の人もいましたが今よりもず〜っと少なかったのです.
当時は今のように医学も発達していませんでした.当時最も進んでいた漢方医学(かんぽういがく=中国から来た医学)は貴族や高位の武士だけが受けられるもので,一般庶民は昔から言い伝えられている薬草や,得体(えたい=しょうたい9)の知れない薬,それに祈祷(きとう=おいのり)で病気と戦わなくてはなりませんでした.風邪(ふうじゃ=かぜのこと)くらいはほっとけば治りますが,チフス,天然痘(てんねんとう)といった伝染病(でんせんびょう)にはまったく無力で,抵抗力(ていこうりょく)のある人,体力のある人だけが生き延(の)びたのです.
私達はそうした厳(きび)しい生存競争(せいぞんきょうそう)にさらされて,生き残った人たちの子孫なのです.チョットぐらい熱が出たくらいでヒーヒー言うのはみっともないですね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
君たちが見たように滑川は小さな川です,川底もそれほど深くありません・・ということは大きな船は入れなかったということになります.だいたい日本の川は川底が浅いために,船底も外国の船のように底がUやVの形ではなく平らでした.滑川を行き来していたのもそうした船です.
これは滑川よりはるかに大きい京都の宇治川(うじがわ)の様子を描いたものです.小さいですね.
では,海を渡ってものを運ぶ船はどんなだったのでしょう.
古い絵なので見にくいのですが,上の船よりはるかに大きいですね.これは瀬戸内海を行くお米を運ぶ船です.
何年か前,鎌倉時代の滑川の河口と思われるところから,発掘(はっくつ)で太い柱が発見されました.これは海からやってきた大型船をつないでおく柱だったと考えられています.当時鎌倉にはたくさんの人が住んでいて,食べるものや着るもの,それに陶器(とうき)をはじめとする日用品が大量に運ばれていました.特に遠方から大量にものを輸送(ゆそう)するのには船が多く使われていたのです.
滑川の河口(かこう)まで運ばれたものの大部分は,そこで荷揚げ(にあげ)されますが,あるものは小さな船にのせ変えて上流に運ばれたと思われます.また上流(といっても,川底が浅いので中流)からも「何か」が川を利用して運ばれたはずです.さあ,その「何か」ですがなんでしょう?記録がないのでこれ以上は分かりませんが,それは人が運ぶより船で運んだ方が便利なもののはずですね.皆で考えてみてください.
玉川学園 彩理です.鎌倉時代に宋と貿易をしていたので、船が使われたと思います。主に宋から輸入されていた物は、茶わんなどの焼き物(日本よりはるかに良い焼き物があったので)、本、書き物、宋銭という貨幣(日本ではこのころ貨幣は作られていなかった)などです。
日本から輸出していた者は、絹、麻、綿などの布や生糸、水晶、めのう、漆、銀、銅、などでしょうか?宋だけでなく日本各地で(九州とか?)に商品を運んでいたという事もありますよね!?
玉川学園 諒 です特に蝦夷地(現在の北海道)にも送っていたかと思います。その頃、北海道はアイヌ人が住んでましたから・・・・・
彩理さん 諒君 ご返事をありがとう.昔の人の旅行やものを運ぶ運送というと,つい,陸上交通のことだけを考えてしまいがちですが,古代より日本は水上交通の発達した国でした.特に鎌倉時代になって関東に大きな町ができ,東北地方の人口が増えると,水上交通はますます発達しました.
以下に水上交通に関係する昔の資料を2〜3紹介します.
文治元年(1185年)3月.頼朝は兵船32そうを平氏と戦うために伊豆の国「鯉名」(こいな)と妻良(めら)から「はけん」した.船にはお米もたくさんつまれていた.
同年二月 駿河(するが=静岡)・上総(かずさ=千葉)のお米を海路で京都に送った.
文治3年8月20日
土佐の国(高知県)から弓100張りと魚や鳥の干物をのせた船が鎌倉についた.
下の地図を見てください.良く見ると分かるように,主に瀬戸内海と日本海側がおおいですね,これは当時西日本が東日本より人口も多く発達していたことをあらわしています.
これらの港には各地の荘園から集めた年貢(ねんぐ)としてのお米や,特産物がつまれたり,おろされたりしました.近江(滋賀県)は内陸なのになんで港があるかというと,大きな琵琶湖(びわこ)と淀川(よどがわ)があったからです.また彩理さんや諒君が書いているように,博多(はかた)や十三湊(とさみなと),隠岐(おき)は外国との貿易にも使われた国際港(こくさいこう)でした.
特に十三湊は最近になって発掘が進み,日本海がわでも最大級の港だったことが分かりました.中国の製品もたくさん出土しています.またアイヌとの交易も盛んに行われていました.アイヌの遺跡からも中国製品が発見されています.
北海道からは昆布(こんぶ)やシャケなどの干物が全国に運ばれたようです.「おぼろ昆布」は鎌倉時代に京都で作られたそうですが,もともとは北海道産の昆布で作られました.
また,12世紀になるとものを運ぶ専用の廻船(かいせん)が活動しはじめました.中には船に乗って諸国を回る「鍛冶屋」(かじや=鉄製品を作る技術者)の集団もあらわれました.
このように鎌倉時代は,平安時代よりもさらに水上交通が発達したのです.鎌倉は大都市でしたから,それこそ日本中のものや,中国の珍しい品物がたくさんはいってきたと思います.
ゲンボー先生
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