小学生とゲンボー先生のページ27 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
鎌倉の大通りを「若宮通」といいます.その真ん中にある一段高い道が有名な「段葛」(だんかずら)です.段葛は政子の安産を願って頼朝が作ったと言われていますが,実際には海側から来た人に,鶴岡八幡宮がとても遠くにあるように錯覚をおこす作りになっていました.
君は歩いてみましたか?段葛は海側に比べて八幡宮側がとても狭くなっていることを知っていましたか?普通の道は同じ幅で作られますが段葛はそうではありませんでした.それは今言ったように鎌倉に来る人には,鎌倉の町が奥行きがあるように,鎌倉から出て行く人には道がずーっと平行に見えるようになっていたからなのです.
また戦になったときに敵には遠く見え,こちらからは見えやすいとか,攻めてきたらだんだん狭くなって動きにくくなるという作りになっているということでもあるのです.
鎌倉時代には若宮通の両側には大きな壁がありました.つまり海側から攻めてくる敵は必ず段葛を通らなくてはならないというわけです.しかも壁は幕府の建物がある側が高く,一方が低くなっていました.つまり幕府側から弓を射る場合有利になっていたということです.有名な和田合戦の時に和田側が低い方の不利な側にいたためにやられたと,記録にあります.
こうして考えると幕府はいざ戦争の時のことを考えて鎌倉の町を作ったということが分かりますね.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.鎌倉街道は鎌倉時代に「鎌倉」と「地方」をつなぐために作られた道路です.大きいのは3つですが,枝分かれしていて細いものもあります.ここから先は鎌倉街道にくわしい方からのメールです。
早々質問にお答えしますと、実は利根町の鎌倉街道は私のホームページでまとめてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/tonemachi_folder/tone-001.html
利根町の文間地区の奥山泉光寺付近から押戸の根本寺にかけての里山の丘陵上にわずかですが残っています。途中に八幡神社や庚申塔(こうしんとう)などもあり、かってそこが街道であったことがうかがえます。また鎌倉街道がある森は自然が豊富で、巨木や珍しい野鳥も沢山います。
昨年、文間小学校の6年生達が総合学習で地区内の鎌倉街道をテーマに取り上げて、いろいろなことを調べています。
その時の担任の先生は文間小の中村先生で、利根町の鎌倉街道の資料を沢山持っていらっしゃいます。中村先生に問い合わせれば利根町の鎌倉街道を案内してくれるかも知れませんよ。
街道ゲンボーより
ゲンボー先生
佑太郎君,メールをありがとう.ふたつあります・・
1.普通の手紙です。この時代にはすでにお金をもらって手紙をだす商売がありました。人が歩いて運んだものです。
2.早馬と言って幕府や朝廷などのおおきな「そしき」では馬を用意して、急な連絡にはそれを使いました。主な街道には馬を用意してある場所があり、走ってきて疲れた馬を交換しながら目的の場所まで突っ走っていくのです。その馬を用意してある場所を「駅」といったのです。現在の駅は電車が止まるところですが昔は馬を用意するところだったんだね・・・
京都から鎌倉まで3日できたというのが最短でした。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.着物のもとは中国や朝鮮からわたってきました。やがて風土にあわせて日本風の着物ができあがってきましたが、平安時代の貴族のように男女ともに動きにくい服装も流行としてあらわれました。貴族の服はその後も余り変化はなく、今日も皇室では結婚式やお葬式のような大事な式典のときに着られています。
さて十二単(じゅうにひとえ)ですが、12枚重ね着した理由はいくつかあります。その一は防寒のため・・平安時代の家には天井が無く、板床がふつうです。しかも障子(しょうじ)や御簾(みす=すだれのでかいやつ)で部屋を仕切ってあるだけですから、冬なんかとても寒かったのです。暖房器具は手をあたためる程度のものしかありません。つまり服を着込む以外に暖かくする方法はなかったのです・・・・12枚も重ねちゃえば間に空気が入ってあたたか〜〜〜〜い。
それが、一枚一枚色違いや模様違いだと、えりやすそが美しく見えるので、流行っちゃったんだね・・・
ですからその2はきれいだからと言う理由で流行したということになります。
そしてその3は、当時の貴族の女性は今みたいにスポーツをするわけではなし、ばっさばっさ歩くこともありませんでした。物腰は柔らかく何をやるにしてもゆっくりでした。そんな貴族の女性にふさわしいのが動きにくい十二単です。つまり、高貴な人は動かないんだもんね〜というしるしでもあったのです。
その代わり夏服はスケスケなんて言うのがあって。。これはこれでスゴイ!・・素肌が透けて見えちゃうんだから・・・・もっともそれで外に出ることはありませんでしたが・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
松岡君メールをありがとう。
あれはね、絹の道と言われるくらいですから、絹を運んだんですね・・でもそれは江戸時代から明治時代の始めにかけてのことで、江戸幕府が鎖国をやめて外国と貿易するようになってから、日本の一番大切な輸出品が絹だったからなのです。絹糸は長野県の諏訪地方で作られましたから、諏訪から山梨の甲府盆地を超えて横浜に行く一番の近道が絹の道だったというわけ・・・ 町田はそれで栄えたのですよ・・そのご横浜線ができて絹は鉄道で運ばれるようになりました。道そのものはおそらく縄文時代からあったもので、太平洋側と内陸を結ぶ大切な道でした。その証拠に町田や相模原では千葉県の土器や長野県の土器が出てきます。
ゲンボー先生
この間、遠足で鎌倉に行きました。そこで、鎌倉幕府のことや頼朝のお墓を見て来て、今その時のことを学校で新聞にしようとしています。いろいろと調べているうちに、頼朝の死んだ原因が「馬から落ちたことが原因」ということと、そのことが死んでから13年もたってから、「吾妻鏡」という書物にはじめて書かれたと知って、とても変な気がしました。
将軍のようなえらい人なのに、なんで詳しく記録に残っていないのでしょうか?本当に、馬から落ちて死んだのでしょうか?馬から落ちて、けがか病気になったのか、何かの病気で馬から落ちたのか、それもわかりませんが、本当に馬から落ちたことが原因で死んだのでしょうか?
それから、「吾妻鏡」という書物が信用できるものなのでしょうか?だれかが、書いてあったことを消したり、ウソが書かれたりしたことはないのでしょうか?
「吾妻鏡」のことも、詳しいこと教えてください。
ゲンボー先生
カイト君、メールをありがとう。ずいぶん面白いことに興味を持ちましたね・・・大人みたいな質問なので先生は少し驚いています・・・(笑)
吾妻鑑は鎌倉時代を通じて幕府によって書かれた公式の記録ですから、かなり信頼できます・・・が、政治の実権をにぎっていた北条氏に不利なことは書かれていません。しかし、だからといって吾妻鑑がダメと言うこともありません。700年も前の記録なのにかなり詳しく書かれているからです。また、吾妻鑑以外にも「玉葉」(ぎょくよう)や明月記(めいげつき)という貴族の書いた日記がありますが、これは京都にいる立場で書かれたもので、吾妻鑑に書かれていることを別の立場で見た記録になっています。学者はこれらの記録をてらしあわせながら鎌倉時代の出来事を研究しています。
ところで、カイト君が書いているように頼朝の亡くなった前後約3年間が抜けているのはとても不自然なことですね・・「最初から書かれなかった」という説と、「あとから抜いた」という説がありますが、今となっては「なぞ?」です・・北条氏に不利な内容だったから・・という想像もできます。
当然、頼朝の死因についても謎が残るわけで、多分これは永久になぞのままだと思います。
頼朝の死については次のように伝えられています。
建久7年12月27日(現在の暦だと1198年1月25日)相模川(神奈川県)にかけられた新しい大橋の落成式終了後に落馬して、意識不明となり、翌年の正治元年1月13日(1199年2月9日)に53歳で亡くなった。
死因については
1.当時の53歳は現在の70歳ぐらいにあたり、力の弱くなった頼朝は、馬から落ちて当たり所が悪くて死んでしまった。
2.寒い季節で身体の冷えた頼朝は脳内出血をおこして落馬し、そのまま意識不明のまま死んでしまった。
3.北条氏が頼家を将軍にして、実権(じっけん)をにぎるために頼朝を暗殺した。
大きく分けて、この3つが代表的なものです。このなかでもっとも説得力があるのは2番ですが、医学の発達していなかった時代に、意識不明の人が二週間も生きたのは不自然という人もいます。しかし政子は看病の時に頼朝に口移しで水を飲ませていたとありますので、水分の補給さえしていれば二週間くらいはもつのでは、とも思います。
暗殺説も、その後、頼家を殺害し、実朝の暗殺を黙認(もくにん=知っていて知らない顔をして許すこと)し、三浦氏をはじめ多くの有力御家人を滅ぼした北条氏ならやりそうな気もしますが、頼朝を殺していいことなど一つもありません。なぜなら頼朝がいたから北条氏も力をつけられたのですから、頼朝の死は北条氏にとっても痛手のはずなのです・・・
もっとも、北条時政ならやりかねないところもあります・・時政は政子の父親ですが、頼朝よりも孫の頼家を将軍にしたかった人ですから・・・・いずれにしても親子や兄弟で殺し合う時代というのは私たち現代人にはちょっと理解できないところがありますね・・・
どうですかカイト君、君ならどれが頼朝の死因だと思いますか?
※先生は頼朝が落成式に行ったと言われる橋桁(はしげた)を見に行ったことがありますが、それは立派なものでした。そのページがhttp://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/sagami/inage.html
にありますから見てください。この橋なら将軍が落成式に来るのは当然という気がします。
※難しい言葉は保護者の方や先生に聞いてください。またメールをくださいね・・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
康子さん。メールをありがとう。面白いことにきょうみを持ちましたね・・・
瓦(かわら)は1500年ほど前に仏教伝来とともに日本に伝えられましたが、そのほとんどがお寺の屋根に使われていました。先生の学校の近くにも瓦を焼いたかまあとが発見されましたが、10キロぐらい離れたところから発見されたお寺の瓦と一致しました。
これは鎌倉時代にも続いていて、京都や奈良、あるいは地方の大寺院だけが瓦屋根だったようです。
一般の家に瓦屋根が使われるようになったのは江戸時代になってからのことで、それも江戸市中に大火事が多かったために幕府の命令で瓦屋根にしたものでした。(江戸や大坂などの大都市に限られていた)
鎌倉時代ですと、屋根には「茅葺き」(かやぶき)・板葺き(いたぶき)・檜皮葺(ひわだぶき)・こけら葺き、が使われていて、武士の家もこうした屋根であったと考えられています。
茅葺きとは「枯れたすすき」の茎や葉の部分を使って作る屋根のことで、今でも田舎(いなか)には残っているところがあります。茅はくさりにくい植物です。しかも家の中で火をたくと煙に含まれているヤニ(タール分)がさらに防腐効果(ぼうふこうか=くさりにくくする効果)がたかまり、虫も少なくなります。冬は暖かく夏は涼しい・・それが茅葺き屋根の特長です。
板葺きとは、板をはった屋根のことです。雨漏り(あまもり)がしないように下から上に重ねるように板をしいていきます。多くの家は強風で屋根がこわれないように横木でおさえたり、石を置いたりしていました。
檜皮葺は板葺き屋根の上に、檜(ひのき)の皮を丹念(たんねん=ていねいに根気よく)しいて貼り付けたものです。これも風に飛ばされないように横木などておさえられていました。しかし、檜の皮はくさりにくいので屋根が長持ちします。檜の皮以外に杉の皮も使われています。
こけら葺きはこまかく割いた(さいた)板を重ね合わすように葺いた屋根です。板葺きよりも手間はかかりますが雨漏りはしにくくなります。当時の絵を見ると神社や寝殿造りに多く使われていたようです。
色々な絵を見てみると貴族や将軍クラスの家は檜皮葺かこけら葺き、武士の家は茅葺きか板葺き、庶民の家も板葺きか茅葺きです。貧しい人の家は掘っ立て小屋で板葺きです。
しかし、地方や地域によって気候が違うために全部がそうとは言い切れません。それに御家人といっても豊かな御家人もいればそうでない御家人もいますので、条件によって屋根は違っていたはずです。
「法然上人(ほうねんしょうにん)絵伝」という絵のなかに漆間時国の館(うるまときくにのやかた)の絵が描いてあるのですが、それを見ると母屋(おもや)は茅葺きでひさしは板葺き、厩(うまや=馬小屋)は板葺き、厨(くりや=料理をする小屋)は茅葺きになっています。。
次の質問ですが、御家人の家と貴族の家(寝殿造)とでは、やはり寝殿造りのほうが大きかったと思います。しかし、なかには豊かな御家人もいて貴族に負けないほどの大きな館に住んでいた者もいました。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
おはよう!
源頼朝はなんで、鎌倉幕府を立てたのですか?
鎌倉しか行くところがなかった・・というのが真実です。教科書には「三方が山で一方が海」「守りやすい」「京都から離れていて武士が貴族のようにならない」と書いてありますが、これらは全て後の人が勝手にそう考えただけなので、結果的にはそうなったけど頼朝さん本人はそんなことを考えていませんでした。すくなくともはじめの頃はね・・・・
鎌倉は元々源氏が治めていたところです。その時には周りが囲まれていて攻められにくいということを意識していたと思います。しかし、やっぱり狭いので頼朝のお父さんの義朝はしばしば、おとなりの大庭御厨(おおばのみくりや=大庭氏がもっている領地)をおそって土地をうばおうとしました。鎌倉は狭いと思っていたんだよ・・・
伊豆で旗揚げして奇跡的に命拾いをしたあと(石橋山の合戦)、千葉に渡った頼朝は大豪族(だいごうぞく=大きな力を持つ武士)上総介広常(かずさのすけひろつね)やその親戚千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の援軍を得ることができました。そのことを聞いた関東の武士の多くが頼朝の味方についたのです。彼らは自分たちの領地を守るために有力なものについたので、それがたまたま頼朝だったということにすぎません。本や教科書には頼朝が中心に武士をまとめたと書いてありますが、はじめはそうじゃなくて、境界争いや都の平氏にこき使われていたのがいやで、何とかしたいと思っていたときに「血筋のよい」「千葉・上総という大豪族に守られた」頼朝が都合よく現れたから味方になったのです・・・千葉氏は頼朝に「鎌倉」に行きましょうとすすめました。だってそこしか行くところはなかったのですから・・他の土地はすべて持ち主がいます・・頼朝はこうして数万の軍隊をひきいて鎌倉に入り、とりあえずそこに館を作りました。
ですが、はじめの頃は多分「京都」に行きたかったのだと思いますよ・・頼朝は・・・平氏を追っ払って入れ替えに京都に住む・・・
ところが、関東武士の望むものが分かりはじめた頃から頼朝に「武士のリーダー」としての行動がとられるようになりました。平氏との戦の前から頼朝は味方になった武士達の領地を安堵(あんど)しました、安堵とは安心という意味ですが「領地を認め、ほしょうする」ということです。その上働きのよかった武士には敵からうばった土地を分け与えました。これが頼朝人気がフィーバーするはじまりです・・・(笑)
富士川で平家と戦った頼朝は逃げる平氏を追って京都まで行こうとしますが、そのとき千葉氏や上総氏、三浦氏などの大豪族は頼朝に「まず関東をかためることだ」と言いました。頼朝はこのときはっきりと「関東に武士を守る組織」を作るのだと思ったはずです。このころから鎌倉の町は武士の都を意識して作られはじめました。そして、朝廷に対抗して武士の生活をまもる組織を作ったのです。このことは先生のページにくわしく書いてありますのでそれを読んでください。
義経に人気があるのは江戸時代の歌舞伎(かぶき)が元になっています。実は鎌倉時代には人気はなかったのです。義経はたしかに軍人としては優れた才能を持っていました。向かうところ敵無しの大活躍ですからね・・しかし、それは戦が強かった関東の武士軍団があったからなので、義経一人の力ではありません。兄の頼朝は上にも書いたように「武士の政治」を目指していましたが、弟の義経は源氏と平氏の戦い、父親の仇討ちのように考えていたようです。ですから兄頼朝が武士たちに固く禁止していた「朝廷から位をもらうこと」を平気でやってしまったのです。朝廷から位をもらうと言うことは天皇や法皇(ほうおう=天皇をやめてお坊さんになった人、このころは天皇より力があった)に認められると言うことで、普通の武士なら大喜びするのが当たり前です。義経も頼朝に「私が位をもらえたことは源氏が認められたと言うことですから、なにが悪いのですか?」と手紙に書いてありました。ところが頼朝は位をもらうと言うことは朝廷の家来になるということ・・と考えていて、武士の位は全て頼朝を通してもらうようにと考えていました。こうすれば頼朝からもらうという形になるからです・・
そういうふうに、兄頼朝が考えていた大きな構想(こうそう=おもいえがいて計画を立てること)は、ついに弟義経には理解ができませんでした。そうしたことがあって頼朝は義経を追放したのです。義経の最後はあわれでしたね・・むかし世話になった奥州の藤原氏にかくまってもらっていましたが、代がかわって衣川(ころもがわ)というところで殺されてしまいました。家来だった弁慶もここで死んだと言われています。
一ノ谷の奇襲作戦(きしゅうさくせん)や、屋島の奇襲作戦、そして壇ノ浦(だんのうら)の劇的な勝利をみちびいた義経の話しは悲劇の武将として後々まで伝えられました。江戸時代になると歌舞伎が盛んになりそこで義経のことが演じられるようになると、多くの人々が英雄義経のファンになったのです。そのことを判官贔屓(ほうがんびいき)といいます。判官とは義経が朝廷から任じられた役職「検非違使」(けびいし=警察の仕事)の別名です。このころから弟の人気をねたむインケンな兄頼朝、戦が強くて男前の義経というイメージが作られていきました。NHKの大河ドラマでも義経はそのように描かれていますね・・・(笑)
しかし実際の義経は小男で出っ歯で、絵を見る限りでは神経質そうな顔をしています・・・と、こんなことを書くと義経ファンから怒られてしまいますね・・義経は日本人の心の中で英雄として生き続けています。それはそれでいいのだと先生は思いますが、勉強となると違います。本当はどうだったのか?このことを意識しているのといないのとでは大きなちがいがあるのですよ・・・
政子は男まさりの人として言い伝えられていますが、半分あたりで半分は間違えです。政子は親の反対を押し切って頼朝の奥さんになりました。強い意志を持った女性ですね。しかし、官女(かんじょ=頼朝や自分たちの世話をする女性)には優しかったと記録に書いてあります。めんどうみのよい人だったようですね。頼朝の死後は弟の北条義時(ほうじょうよしとき)と協力しながら幕府の政治を行っていきました。
そのためには後妻の親戚を将軍にしようとした父親の北条時政を伊豆に返して封じ込めてしまう、意志の強さをはっきしました。
何よりも有名なのは、3代の将軍が死んでがたがたしている鎌倉幕府を朝廷がつぶしてしまおうとした「承久の乱」(じょうきゅうのらん)のとき、心がゆれている御家人(ごけにん=将軍の家来となった豪族=武士のこと)達の前で、頼朝の恩を忘れてはならないと、おこなった演説です。
このことも先生のページ「承久の乱」にくわしく書いてあります。ぜひ読んでみてください。
つぶれそうになった幕府を守ったのは政子と義時の姉弟でした・・・政子は69歳で亡くなりました。彼女の供養塔(くようとう=霊をなぐさめるための石をつんだもの)は鎌倉の寿福寺(じゅふくじ)と安養院にあります。
むずかしい言葉や漢字は保護者のかたや先生に聞いてね。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
リコちゃん、、メールをありがとう。江戸時代は物価がいまよりず〜っと安かったので、何とも言えません。また小判もときどき金のわりあいを変えたりしたので、お金のかちもそれによって上下しました。
大体の目安として1両は今の10万円ぐらいの感覚だったといわれています。
明治になって1円金貨が作られましたがこれも今と物価が違うので難しいなあ。明治8年の平均的な月収が1円70銭だって・・・そうすると1円は20万円ぐらいになっちゃうね・・実際には1両と同じくらいの感覚だったと思います。
ゲンボー先生
ゲンボー先生
一斗君、メールをありがとう。天下統一って多分織田信長と豊臣秀吉、徳川家康のことだよね・・・
日本の歴史の中で武士が現れたのは平安時代の中ごろで、その後、武士だった「平清盛」が平家の政治を行いました。でもこの政治は武士というより貴族の政治に近かったものです。君も知っているとおり武士がまとまり、自分たちの利益をまもる政治が始まったのは「源頼朝」が鎌倉に幕府を開いてからです。しかし、この政治も関東を中心にした武士の社会のまとまりで、日本全体が一つの政府によってまとまっていたわけではありません。西日本では朝廷を中心にした政治がつづいていたのです。
その朝廷を完全に無力化して一本にまとめた人が最初にかいた3人の人たちなのです。
頼朝の政治から信長までのあいだには室町幕府の時代がありましたが、幕府にはあまり力がなく、各地の大名が力を競い合っていました。その時代を戦国時代といいます。信長はその戦国時代に大きな力を持って他の大名を支配下においた人です。
信長はそれまで経済の中心だった「お米」以外に商品を売り買いする経済を発展させようと「楽市楽座」を開きました。外国とも積極的に貿易をしてもうけようともしました。
秀吉は、信長の経済発展の政治をまねしながらも「お米」の取れ高を正確にはかって、それによって大名の力をコントロールしました。つまり、どの地域はどのくらいお米がとれて、その領地を持つとどのくらいの力がつくかがわかるからです。このことをするために「剣地」や「升」(ます)の統一を行いました。
さらに、農民から武器を取り上げて、農民と武士を分けようとしました。これが「刀狩り」ですね・・・こうすれば武士が農民を支配することが出来るからです。
そして家康は、秀吉の政治をさらに進めて「士農工商」という身分制度を決めました。さらに将軍を頂点とした武士の社会を作りました、この仕組みは将軍の下に大名がいて、大名の下には家来がいて、その家来も順番が決まっているという「たてわり」の社会です。
その「たてわり」の社会は農民・職人・商人の世界も同じで、さらにそれぞれの人の家の中も「家長」(かちょう=お父さん)「嫡男」(あとつぎの息子)・その他・・とまりました。こういう仕組みのことを「封建制度」(ほうけんせいど)といいます。
江戸時代は世界の歴史の中でももっとも完璧な封建制度の時代といわれています。そしてついに「封建制度」をまもるために、外国とのつながりも中国とオランダだけにしてしまいました。キリスト教の教えが「神様の前でみな平等」というのが、封建制度になじまないからです。
中国はキリスト教の国ではありませんからだいじょうぶ。オランダはキリスト教国ではありませんでしたが「キリスト教は広めません」と約束したので貿易をすることが許されたのです。
そのために、日本は西欧の近代化を取り入れることが出来なくなってしました・・・が、日本独特の庶民文化が発展しました。
天下統一はいっぺんに出来たのではなくて、信長・秀吉・家康の三人のリレーでなされたものということが分かりましたか?
あとは、もっとくわしいことを本で調べてみてください・・・これは夏休みの宿題ですか?だとすると、自分で調べることが大切ですよ・・・
ゲンボー先生
教科書にのっている武士の館に布を織っていたり、作っていたりする絵をみました。何でか、教えて下さい。
ゲンボー先生
はるかちゃん、メールをありがとう。
それは、自分たちが着る服の布を織っているところです。
鎌倉時代ぐらいになると、着物を売る商売もさかんになって豊かな武士の家族はきれいな服は買うようになりました。それでも、普段着などは自分の家で作ることもあったのです。布を織るのはこの時代の女性の仕事でもあったのです。
ゲンボー先生
平安時代の人はどうして、ひらがなを作ったんですか?ひらがなの起源など、ひらがなのことなら何でも、教えて下さい!
ゲンボー先生
佐藤さん,メールをありがとう。
日本にはじめて文字が伝わったのは今から約2千年前の弥生時代です。中国の皇帝から日本の支配者にプレゼントとして送られた「銅鏡」(どうきょう)に文字は書き込まれていました・・しかし,当時の人には文字というより「もよう」としか理解できませんでした。
日本人が文字を意味のある記号と認識(にんしき=気がついて認めること)して学ぶようになったのは,奈良県の飛鳥(あすか)地方に大和の国が作られるようになってからで,各地には古墳が作られていた時代です。さらに時代が新しくなって各地に国府という役所が作られるようになると,税を集めるために戸籍(こせき)が作られたり,集めた品物を記録するために多くの人が字を学ぶようになりました。当時の土器には文字が書き込まれたものが多く見つかっています。
しかし,多くとは言っても漢字を覚えるのはむずかしく,一定の身分以上でないと読み書きの出来る人はいませんでした。また,役人の大部分は男だったので,女性は身分が高くても字を覚える必要はあまりなかったのです。しかし,女性といえども記録を残したいと思う人はいて,簡単な文字がどうしても必要でした。
そこで考えられたのが「仮名」(かな)だったのです。
漢字は文字そのものに意味がありますね・例えば「月」とかいたらそれはお月様のこと,「山」と書いたら山です。こうした文字のことを「表意文字」(ひょういもじ)といいます。一方英語のアルファベットのようにBと一字だけ書いてもそれには意味がありません。ところがBOOK(ぶっく)と書くと本という意味になります。つまりモノの発音を表す文字ですね・・こうした文字を「表音文字」(ひょうおんもじ)といいます。
仮名は表音文字と言うことになります。
「い」という字は「似」という字をくずした形で「あ」は「阿」のかたちで,ひらがなはこうして作られました。一方カタカナは漢字を作っている「へん」や「つくり」などを利用して作られました。たとえば「ィ」は「伊」の左側,「ゥ」は「宇」のかんむりです・・面白いでしょ・・
日本人は難しい漢字をうまく利用して,漢字と仮名をうまく組み合わせて文章を書くようになりました。
仮名は簡単(かんたん)だったために貴族の女性に急速に広まりました。知識も豊富(ほうふ)で教養(きょうよう)も豊かだった貴族の女性は日記を書いたり小説を書いたりするようになりました。有名な清少納言(せいしょうなごん)や紫式部(むらさきしきぶ)も仮名がなければあの素晴らしい文章を書くことが出来なかったというわけです。(紫式部や清少納言は歴史上最も古い女性作家といわれています・・世界でですよ・・)
平安時代に生まれた仮名文字はその後多くの人々に広まり,江戸時代には一般の庶民(しょみん)までもが文字の読み書きが出来るようになりました。
このことはその後の日本の教育に大きく影響(えいきょう)して,明治時代になって世界ではじめて「義務教育」を行う国になりました。資源の少ない日本では「優れた人づくり」が最も大切なことで,そのおおもとは「教育」です。教育をするには文字が読み書きできなくてはなりませんね・・君にこうして先生の説明を分かってもらうためにも文字を書いています。
ものすごく多い漢字を覚えることはむずかしいことですが,仮名を組み合わせれば簡単になります・・仮名は私たち日本人の祖先が残してくれた「偉大な宝物」といえます。
返事が遅くなってゴメンね・・・
ゲンボー先生
鎌倉時代では、武士の子供は、一生武士と、教科書に、書いていましたが、本当ですか?もし、本当ならば、ちょっと、ふくだつだと、おもいます!自分の人生は、自分で決めたいです!
ゲンボー先生
田代さん、メールをありがとう。
そんなことはありません。鎌倉時代の武士は農民になることはもちろん、お坊さんや商人など自由に職業を選ぶことができました。身分が決められて職業の自由がなくなったのは江戸時代になってからです。武士の子がそのまま武士でいることが多かったからそう書いてあるのでしょうが、書き方が悪いなあ・・・・
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