小学生とゲンボー先生のページ12 玉川学園・玉川大学
こんにちは。私達の学校では、「頼朝」について調べています。そこでこのページを開きました。私達のグループの課題は〜頼朝はどうゆう人物か〜というのを出されました。教えてください。
ゲンボー先生
メールをありがとう.早速「くわしく」答えましょう.
頼朝は源義朝(みなもとのよしとも)の三男として1147年に生まれましたが,二人の兄の母親は正室(せいしつ=正式な奥さん)ではないので,嫡流(ちゃくりゅう=家をつぐ血筋)ではありません.頼朝のお母さんは正室なので正式な長男ということになるのです.弟の範頼(のりより)も母が違います.今若(阿野全成=あのぜんじょう)・乙若(阿野円成=あのえんじょう),義経(よしつね)のお母さんは常盤御前(ときわごぜん)といい,この人も正室ではありませんでした.
父,源義朝は若い頃から関東の武士を従える武士の棟梁(とうりょう=武士団をまとめる大将)として活躍(かつやく)しました.館(やかた)は鎌倉にありました.後に頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由の一つがこれです.
その義朝は20才くらいまで鎌倉を本拠(ほんきょ)として活躍しましたが,保元の乱(1156)のときには京都にいて,後白河天皇(ごしらかわてんのう)方の大将として平清盛と共に戦いました.そして,崇徳上皇(すとくじょうこう)側の軍を打ち破りました.しかしこのときの恩賞が平氏に比べ見劣りしたことと,上皇側についた父,源為義(みなもとのためよし)を処刑させられた恨みもあって,1159年に清盛と戦うことになりました.これを平治の乱といいます.
このとき,源頼朝は初めてよろいかぶとを身にまとい合戦に参加します.君たちと同じ年齢の12才でした.戦いは清盛(きよもり)側の勝利となり父源義朝(みなもとのよしとも)は東国に逃げる途中によった尾張国内海荘(おわりのくにうつみのしょう)で,元の家来である長田忠致(おさだただむね)に殺されてしまいました.このとき義朝は38才です.父と離れ離れになった頼朝は,雪の関が原でさまよっているところをとらえられました.
戦いの後の平氏の源氏に対する処罰(しょばつ)はたいへんに厳(きび)しく,ほとんどのものが捉(とら)えられ処刑(しょけい)されました.12才とはいえ,源氏の嫡流(ちゃくりゅう=正式なあとつぎ)である頼朝はとうぜん処刑さてもおかしくない立場でしたが,清盛の義母(ぎぼ=育ての親)である池禅尼(いけのぜんに)が頼朝を必死にかばったために,命だけは助けられて伊豆に流されたのでした.もし,このときに池禅尼が頼朝を救わなかったら,鎌倉幕府は無かったかもしれないのです.歴史って面白いでしょ?
常盤御前の3人の子供も仏門(お坊さんになること)に入ることで,命を助けられました.当時「牛若」(うしわか)とよばれた義経はわずか2歳でした.
伊豆に流されてからの頼朝の生活については様々な説がありますが,流人(るにん=罰として都から地方に流された罪人のこと)と呼ばれているわりには,自由な生活をしていたようです.
後に石橋山の合戦で負けて山の中を逃げているときに数珠(じゅず)を落としてあわてた話しが残っています.なぜかというと,その数珠を多くの武士が見て知っているからだと頼朝は言っています.つまり,そのときには頼朝は伊豆(いず=静岡県の一部)や相模(さがみ=神奈川県の一部)の武士にけっこう知られていたということになります.
伊豆の蛭が小島(ひるがこじま)に流されたはずの頼朝ですが,実際には伊豆の地方武士として安定した生活を送っていたようです.頼朝の乳母(めのと)比企尼(ひきのあま)が食糧(しょくりょう)を送り,平治の乱で領地を失った佐々木定綱(さきさだつな)4兄弟が従者(じゅうしゃ=けらい)として使えていました.さらに頼朝の生母の家系である熱田神宮(あつたじんぐう=名古屋にある大きな神社です)の大宮司(だいぐうじ=一番くらいの高い神主さん)からも,お金を送ってもらっていました.
頼朝は流人といっても,関東の武士団を束ねて棟梁となった源義家(みなもとのよしいえ)の家柄であり,父,義朝も鎌倉に住んだことがある武士の棟梁(とうりょう=武士団をまとめるトップの人)でした.しかも源氏という家柄のおおもとは天皇の子供です.
武装(ぶそう)した農民がはじまりという関東の武士団にとって,頼朝は武士の棟梁になる資格を十分に持った位の高い人,というイメージで受けとめられていたようです.ですから,頼朝のまわりには,流人時代から千葉氏や三浦氏の若者をはじめ,近くの有力豪族の息子達が出入りしていました.
やがて,頼朝は見張り役だった国役人の北条時政の娘である政子と結婚しました.時政は,はじめ結婚には反対でしたが,政子の願いと「もしかしたら頼朝は再び関東の武士を束ねる人間になるかもしれない」という計算が働いて,頼朝を北条の館に迎え入れます.
頼朝と政子の間に最初に生まれたのは「大姫」です.この頃が頼朝にとって一番平和な時代です.
ですが世の中の動きは,頼朝家族をそのままではおきませんでした.京都では以仁王(もちひとおう=天皇の子供)と,平治の乱のときただ一人,平家側についた源氏の源頼政(みなもとのよりまさ)が手を組み,平氏打倒をかかげての戦がおきました.
この戦いは,わずか10日で頼政親子と以仁王の死によって終わりましたが,その影響(えいきょう)には大きなものがありました.なぜなら以仁王は死ぬ前に「平家追討の令旨」(へいけついとうのりょうじ=平家を倒すことを命じた命令書)を諸国(しょこく)にいる源氏に送っていたからです.
当然,その令旨(りょうじ)は頼朝のところにも届きました.頼朝は悩(なや)みました.このまま政子と平和に暮(く)らすか・・・・それとも,武士の棟梁としての道を選ぶか・・・・・
しかし,関東の武士団が頼朝によせる期待は大きく,ついに,頼朝は立ちあがる決意をしたのです.まずはじめに,北条時政に命じて伊豆の目代(もくだい=伊豆で一番位の高い役人)を襲撃(しゅうげき)しました.
これでふんぎりをつけた頼朝は大豪族の三浦氏と合流するために相模に向かいましたが,静岡県と神奈川県の境目あたりにある「石橋山」で,平氏側の大豪族,大庭景親(おおばかげちか)の軍勢3000騎と伊豆の伊東祐親(いとうすけちか)の軍勢300騎のはさみうちにあってしまいました.対する頼朝軍はわずか300騎です.
援軍の三浦一族の軍勢は酒匂川(さかわがわ)まで来ていましたが,大雨のために増水し,なかなか川がわたれないでいました.頼朝の運命もこれまでです・・・・のはずでした・・・
石橋山の合戦は雨の夜中に行われました.大雨の中を敵味方入り混じっての血みどろの戦いです.
結果は・・・わかりますね.頼朝軍の敗北でした.
頼朝は数名の家来を連れて山の中に逃げますが,追跡(ついせき)はきびしくついにほら穴に隠(かく)れているところを見つかってしまいました.本当にこれでおしまい・・・頼朝は刀に手をかけ,勇敢(ゆうかん)に戦った後自刃(じじん=自殺のこと)の覚悟をしました,そのとき,頼朝を発見した敵の武士,梶原景時(かじわらかげとき)は,頼朝を見逃したのです.「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき)には,景時が洞穴の中に弓を入れ,くもの巣をかけて「ここには誰もいないぞ〜」といったとこのときの様子が書いてあります.
これが本当にそのとおりだったかどうかは分かりませんが,景時一人ではなく,平氏の軍勢の中にも頼朝に心をよせる武士がいたことの証(あかし)ですね.
こうして奇跡的(きせきてき)に助かった頼朝はしばらくして海から,船で千葉にわたりました.そこに頼朝に心をよせる大豪族,千葉氏がいたからです.
命からがら逃げてきた頼朝を千葉介常胤(ちばのすけつねたね)がただちに迎えました.やや遅れて上総介広常(かずさのすけひろつね)が二万の大群を率いてやって来ました.このとき頼朝は遅れてきた上総介を叱り飛ばしています.自らの軍隊を持たない頼朝と二万の軍勢を率いる上総介では,軍事力ではくらべものにならないのですが,武士の棟梁としての自覚を持ち始めた頼朝の方が上だったということになりますね.このことから上総介は心の底から頼朝に従う気持ちになったと記録に残っています.
こうして,石橋山の合戦で大敗北した頼朝でしたが,わずか40日後には実に三万以上の軍隊を従えて鎌倉に入ったのでした.
ここに,大きなポイントがあります.
戦に負けて死ぬ寸前までいった頼朝なのに,どうしてたくさんの味方がついたのでしょうか?
それは,関東の武士にとって「頼朝につけば・・」という思いがあったからなのです.武士とはいっても元々は開拓農民(かいたくのうみん=荒地を切り開いて農地にしていった農民)です.自分達の土地を守りたいのですが,強い豪族(ごうぞく=軍事力と経済力を持つ一族のこと)に領地を奪われたり,役人に重い税を取られたり,ただ働きをさせられたり.その上となりとの境界争いなど,農民にとって心の休まるときはありませんでした.
平氏の政治はこうした武士(農民)の生活を守らないばかりか,今言ったように,役人がその地位を利用して好き放題やっていたのです.
頼朝が鎌倉に入って,一番最初にやったことは
1.京都からやってきた平氏側の役人の全員逮捕.
2.頼朝軍に敵対した武士の領地の没収(ぼっしゅう).
3.頼朝軍に参加した者の領地をみとめることと,敵から没収した領地を分け与えること.
4.役所に残されていた年貢米の没収.
でした.いずれも関東の武士が日ごろから不満を持っていた,平氏から任命(にんめい=しごとを命じられること)されて,いばっていた豪族をやっつけることと,その土地をうばうことです.こうしたことで,ますます関東の武士たちは頼朝に心を寄せたのです.頼朝は武士が望むものは何かをよく知っていました.
幕府を開いた後も御家人(ごけにん=将軍の家来となった武士のこと)どうしの領地争いには,自らが両方の言い分を聞いて,「こうしなさい」と公平なさばきをしたと記録に残っています.
将軍となった頼朝と武士との間は「ご恩」と「奉公」の関係で成り立っていました.奉公とは,将軍のために戦ったり,働くことです.ご恩とはそうした武士(御家人といいます)にたいして,「あなたの領地を認めますよ」ということと,「新しい領地をあげましょう」ということでした.
領地を認めることを「本領安堵」(ほんりょうあんど)といい,敵の領地を分け与えることを「新恩給与」(しんおんきゅうよ)といいました.
これが,鎌倉幕府の最も基本的な背骨にあたる制度です.
頼朝はこうしたことを,有力な北条氏や千葉氏.三浦氏などの意見を聞きながらやっていました.こうした,武士の棟梁としての自覚と,頭のよさで頼朝が中心の鎌倉幕府は,朝廷に対する武士の政権としての力をつけていきました.
一方,弟のほうは兄頼朝ほどの力はありませんでした,有名な義経は戦争は得意でしたが,政治は不得手で京都の貴族や上皇にちやほやされて,その気になってしまいました.頼朝はこうした義経をこころよく思っていませんでした.また,義経のいくさ上手にも気を許してはいませんでした.この時代はたとえ親子兄弟であっても敵味方に分かれて戦うことがあたりまえだったからなのです.
こうしたことから,義経を追放しますが,頼朝がスゴイのは義経を捕まえるためといって,各国に守護をおき,荘園に地頭をおいたことです.※荘園は先生のページをよく見てください「貴族から武士へ」がそれです.
そして,目の上のたんこぶだった奥州藤原氏のもとに逃げ込めるようにして,藤原氏ごと滅ぼしてしまったのです.
幕府をまとめるためには弟を利用し,そして殺させてしまったのです.※この事はホームページにくわしく書いてあります.
ずいぶん長くなってしまいましたが,これが幕府を作る頃までの頼朝さんです.
どんな性格の人だったかは,この説明を読んで,みんなで話し合ってみてください.
頼朝さんは1199年に馬入川(ばにゅうがわ)にかかる新しい橋の落成式で馬から落ちて意識不明のまま死んでしまいました.52才でした.ゲンボー先生 より
ゲンボー先生
中島さん,ゲンボー先生です.メールをありがとう.
さっそく答えます.が・・・むずかしい質問です.なぜなら,時代や地域によってようすが異なるからです.ここでは,教科書に書いてあるような荘園の例を元に説明します.
領主というのは荘園の持ち主のことで,2種類あります「荘園の本当の持ち主」(荘官=しょうかんといいます)と「荘園の名目上の持ち主」(領家=りょうけといいます)がいます.
平安時代の中ごろは地方が大変に乱れていた時代でした.今の県知事にあたる国司は貴族や皇族がなりましたが「やる気」のある人はあまりいませんでした.中には 遥任国司(ようにんこくし)といって自分がおさめる国に代理人を送って,自分は京都にいて利益だけをとっていたものもいました.
受領(ずりょう)といって,おさめる国に行く国司もいましたが,その多くは役人を使って荘園から必要以上の税をとったり,だまして土地を奪ったり,ただで農民をはたらかせてお金をもうけたりしていました.
ところで,有力な寺社や貴族には「不輸の権」(ふゆのけん=税を払わなくてもいい)と「不入の権」(ふにゅうのけん=役人が入れない)という権利が認められていました.
ですから,平安時代の終わり頃にはほとんどの荘園が有力な寺社や貴族の「名目上の持ち物」になっていました.本当の持ち主は「荘官」(しょうかん)といいます.こうすれば,高い税を払わなくてもすむし,役人にこき使われることもなくなるからです.もちろんお礼は払っていましたよ.
武士の一部は荘官のような土地の持ち主や有力な農民から,自分たちを守るために生まれました.
そして,都へ帰ってもろくな収入がない国司の中には,自分の身分を利用して,こうした武士たちの親分になってしまうものもいました.この親分のことを「棟梁」(とうりょう)といいます.源氏や平氏がそれです.
さて,こうして最後に勝ち残った源氏が幕府を開いたわけですが,なかには 敵にも味方にもならなかった,幕府とは無関係の荘園もありました.特に関西より西にそうしたところが多かったのです.
幕府は承久の乱以以後,立場が強まるとそうした荘園にも地頭を送りこみました.
そこには本当の持ち主(荘官)や農民がすんでいるのですが,そんなことおかまいなしです.地頭になったのは,鎌倉幕府の御家人で戦いの恩賞としてそこにはけんされましたから,自分の土地のようにふるまいました.
和歌山県に「あてがわの庄」というところがあって,そこの農民が,地頭があんまりひどいから助けてくれという領家に出した手紙が残っています.それによると,農民が領家への年貢として木を切り出しに行こうとしたら,地頭がやってきて「田んぼに麦をまけ!」.「言うことを聞かないと女や子供の耳や鼻をそぎ落とし,縄でしばって痛めつけるぞ!」といっています.という内容です.
すごいですね・・・少しやり過ぎのようですが,これに近いことはけっこうあったのです.こんなわけで,たまりかねた領主は地頭に領地の半分を分けました.こうしておいて自分の領地を守ろうとしました.このことを「下地中分」(したじちゅうぶん)といいます.
さて,感じがつかめましたか.
それまで朝廷が支配していた公領(朝廷が直接しはいしている土地)と荘園に,幕府の力を背に入り込んでいったのが地頭なのです.鎌倉時代はひとつの場所が2重にしはいされていて,武士が強くなるにしたがって幕府側のしはい地が増えていったのだとおぼえておいてください.
何か質問があったらまたメールをください. このことが詳しくでているページ「武士と荘園」
ゲンボー先生
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