小学生とゲンボー先生のページ7 玉川学園・玉川大学
僕達は,青森県階上町赤保内小学校の、袖平、西村、井澤です。
鎌倉時代についてゲンボ−先生に質問します!鎌倉時代に、お金は存在したのですか、教えて下さい!お願いします。
ゲンボー先生
お金はありました.しかし,日本製ではありません中国製です.なぜなら当時の日本では大量に質の良いお金を作る技術が無かったからです.
しかし,お金が使えるところは今のように どこでもというわけではなく,経済の発達した大きな町に限られていました.それ以外は物々交換だったそうです.
日本で本格的にお金が使われるようになるのは江戸時代からです.
鎌倉時代にあった、庶民の行事や祭りにはどんなものがありますか。
ゲンボー先生
先生にご説明します.
鎌倉時代の絵巻物(えまきもの)を見ますと一戸一戸にしめ縄をはり,門守(かどもり)の札をはっている農家が描かれています.こうした家が村の核となり神社やお堂の管理(かんり)をしていました.神主(かんぬし)は交代制(こうたいせい)でこうした村の役付きがなり,組織的(そしきてき)に農事や祭りをしていたと考えられています.ではどのような祭りがあったかと言いますと.
1.神事/仏事にまつわる祭り
節句(せっく)ごとの神事(しんじ)がありました.正月は元旦(がんたん)ですが,今のようにお雑煮(ぞうに)を食べてゆったりしようなどいうのは,後世になってからのことで,鎌倉時代は灯明をあげて初もうでをする程度(ていど)です.東大寺のお水取りは仏事ですが,東大寺領の農民が供物やたいまつ用の松を献上しつつ,参加したと記録にあります.
端午の節句は,結構(けっこう)派手(はで)で子供達は石を投げあって戦争ごっこなどをしています.家々には柊(ひいらぎ)の葉と魚の頭がかざられ,邪鬼(じゃき)をはらい.子供が健(すこ)やかに育つよう祈(いの)りました.
大寺院や京都,奈良あたりの大神社は,各々の祭りを行っていましたから,町衆(まちしゅう=町すむ職人や商人のこと)や近くの農民はこれを見に行ったり参加したことでしょう.人が集まれば店も集まるわけで賑(にぎ)やかな祭りを楽しんだことと思います.ただしこれは大都市だけの話です.
お盆の施餓鬼(せがき=死者の霊をなぐさめること))は鎌倉時代の後期に一般化(いっぱんか=ふつうに広まること)されつつありました.しかしこれらは,現在のお祭りの原形(げんけい=もとのかたち)ではありますが,今のような「飲めや歌えや」となるのは,江戸時代になって比較的生活にゆとりができるようになってからのことです.
※貴族は節句ごとに派手にやっていましたが,一般庶民は質素でした.
2.農事に関する祭り
一方,共同体としての農村組織で一番大切なことは農事でした.初夏の田植えと秋の収穫(しゅうかく)にはご存知のように「田楽」(でんがく=太鼓やかねをならしながら田植えや稲刈りを行う)で,重労働ながら拍子(ひょうし)をとりながらの楽しい作業でした.全ての仕事が無事終了したところで,「お祭り」が行われました.これらを「田植え正月」「刈り上げ正月」(かりあげしょうがつ)といいます.ただしお神輿(みこし)を担(かつ)いでわっしょいわっしょいやるのは,京都など大都市のごくごく一部です.一般化するのはこれまた江戸時代です.
先程も述べたようにお盆の頃にお祭りをするのも,奈良・平安時代からあった施餓鬼がもとですが,これも一般化して派手になるのは後世になってからのことです.
現在のお祭りは,神事と農事がくっついて派手にやりますが,鎌倉時代は神事は神事.農事は農事と明確に別れていました.農村や町に住む庶民が自分達のための祭りを楽しむようになるのは,室町時代くらいからのことで,更に今の祭りの原形は江戸時代に出来上がったと理解してください.しかし鎌倉時代にも庶民は節句という節目・節目に子供の健やかな成長を祈ったり,豊かな実りを感謝していたわけで,そうした心情から特別の日(ハレの日といいます)にはちょっと美味しいものを食べたり,仲間とお酒を飲みながら賑(にぎ)やかにやっていたわけですね.先生への説明なので文章がむずかしくなっています.
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