小学生とゲンボー先生のページ15 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
麻子さん メールをありがとう.
同じです.武士は基本的には農民なのです.農民にも大きい小さいがありますから,大きな領地を持つ農民である豪族(ごうぞく)が小さな農民をしたがえていきました.そうして,各地に武士団ができましたが,その武士団をさらにまとめた大武士団の棟梁(とうりょう=ホームページを見てください)が源氏や平氏などの皇族や貴族の血筋(ちすじ)を持つ人達なのです.この質問は下につづきます.
この前は、武士のおこりについて教えていただきまして、ありがとうございました。今日も、質問があるのですが、貴族と豪族(ごうぞく)と武士の違いは何ですか。みんな力のあった人のようで、時代が違うので呼び方が違うのかと思っていたのですが、調べてみると同じ時代にも登場してくるのです。なんとなく違うふうなんですが、よくわかりません。教えて下さい。
ゲンボー先生
そうですね.みんなそのことで混乱しています.
まず,貴族ですが大和朝廷が出来た時に,朝廷に味方した近畿地方の有力者が始まりです.その中には有名な中臣氏(なかとみし)や菅原氏(すがわらし)などもいました.中臣氏は後に藤原と名前を変えました.これが有名な藤原氏(ふじわらし)の始まりです.奈良時代や平安時代には律令(りつりょう)という法律があり,貴族はその中で最も位の高いグループに属していました.貴族は都に屋敷(やしき=大きな家)をかまえて,そこに住みました.もちろん地方にも広い領地を持っています.こうして貴族は代々受けついで優雅(ゆうが)な生活をしてきました.
貴族以外には皇族がいますが,この人達は天皇の子供です.子供といっても沢山いて皇太子には一人しかなれません.普通は皇太子が天皇になりますから,この人は大切にされますね.それ以外は〜王とよばれます.王の生活は生まれた順番や母親の家柄によってピンからキリまで様々です.源氏や平氏のご先祖はこれに属します.
豪族(ごうぞく)というのは地方の有力者です.代々広い土地を持ち村を支配してきました.中には三浦氏のように三浦半島一体を支配していた豪族(ごうぞく)もいます.もともと荘園のなかから発生した豪族(ごうぞく)の職業は,主に農業です.しかし中には「牧」まきという牧場主からなった実力者もいます.また漁師や水夫をまとめた豪族(ごうぞく)もいます.こういう豪族(ごうぞく)を「水軍」(すいぐん)といいます.水軍が朝廷や貴族の支配地または船を襲(おそ)うと「海賊」(かいぞく)とよばれます.
豪族(ごうぞく)というのは「地方の有力者」だと思ってください.
そして豪族は武力を持って自分達を守ったり,敵と戦いましたからこれは武士でもあるのです.
では,まとめ.
豪族(ごうぞく)は農民だったり漁師だったり,牧場主であったり様々です.力のある地方の支配者のことです.この人達は武士でもありました.
貴族や皇族は都に住む有力者で農民ではありません.律令によって守られ広い領地を持って豊かな生活をしていました.しかし時代と共に子孫が増えて地方役人となって出て行く人もありました.
力はあるが貴族よりは身分の低い豪族(ごうぞく)達は,こうした人達を利用して豪族(ごうぞく)同士が結びついて武士団を作るときの,ボスになってもらいました.この人を棟梁(とうりょう)といいます.これが源氏や平氏です.ですから皇族や貴族から武士になったものもいたのです.この人達は豪族(ごうぞく)とは呼ばれません.
下の図を見てください.各地の農民をまとめた有力農民が小武士団を作りました.やがて小武士団どうしが結びついて大武士団ができました.この時の棟梁(とうりょう)が貴族や皇族の子孫が多かったのです.棟梁の子供や親せきが「家の子」です.
その下の家来が「郎党」(ろうとう)でこれが地方豪族(ちほうごうぞく)です.郎党の中には家の子より広い領地を持っているものもざらでした.豪族(ごうぞく)たちは名を捨てて実をとっています.教科書では棟梁になる実力者が豪族を従えて(したがえて)いったかのように書かれていますが,実際には豪族たちが皇族や貴族の子孫を利用していると言ったほうが正しいのです.
頼朝は関東の武士団(つまり豪族達)の支持(しじ)を受けていたから将軍となって幕府を開くことが出来たのです.つまり幕府は,初めての地方豪族(ごうぞく)達による政治組織といえます.
「貴族から武士へ」のページを見てください.むずかしいのから簡単なのまで,色々説明の方法を変えてそのことを説明しています.自分で分かるところを見つけて呼んでください.
これがこの時代を知る基本ですから,よく理解して欲しいと思います.
では,がんばって勉強してください.
ゲンボー先生
小学校の始まりはいつなんでしょうか。どうして小学校はできたんでしょうか。教えてください。
よろしくお願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.鎌倉時代のページから質問したのですか?時代が違いますがお答えしましょう.
明治政府は1872年(明治五年)に学制(がくせい)を発布しました.
大政奉還(たいせいほうかん=政治を天皇にかえすこと)や版籍奉還(はんせきほうかん=大名の領地を明治政府に渡すこと)といった江戸幕府をつぶすための政策の次に,日本を近代化するための一番はじめの政策です.
鎖国(さこく)によって近代化が遅れた日本では,外国の技術を取り入れ工場を造り強い軍隊を持ちたいと願っていました.そこでなにより大切なのが,そうしたことが出来る人間ということで,真っ先に教育に手をつけました.1827年に世界で初めておこなわれた義務教育です.はじめの頃は学校に行く子供は多くありませんでしたが,しばらくするとほとんどの子供が学校へ行くようになりました.おかげで日本が世界で一番字が読める人や,計算が出来る人が多い国になりました.
日本人は昔から子供の教育には熱心な国民といわれています.特に江戸時代には寺子屋という塾ができて多くの子供が習字とソロバンをならっていました.
やがて,明治になると郷学(ごうがく)といって,学校の元になる地域(ちいき)の塾(じゅく)が作られました.これは町や村の人々がお金を出しあって作ったものです.郷学では文字や計算のほかに,外国の新しい知識を教えるところもありました.寺子屋や郷学という下地があったので,政府も学制が出しやすかったのです.
ところで,教育は「国家百年の計」と言われています.人々に優れた教育を受けさせることが,国の将来に結びつくからです.
戦前は(1945年前のある時期)は,「日本は神の国」とか「お国のために死ぬ人間が偉い」などと,教育が大きくゆがめられた時代もありました.今はそうではありませんが,個性に乏しい教育になっていると言われています.
「何でも出来る人」ではなく「これが出来る人」になって欲しいと先生は思います.自分の好きなことを一生懸命やるのが一番です.
「良い学校を出て良い会社に行く」というのが,世の中の常識みたいに言われていますが.良い学校とは「自分の行きたい学校」で,良い会社とは「自分の行きたい会社」のことです.名前や大きさじゃありません.
自分のやりたいことが出来る学校,会社がいいのです.そのために今の君達はいっぱい遊んで友達を沢山作ることが大切です.理奈さんも楽しい学校生活を送ってくださいね.
ゲンボー先生 より
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