小学生とゲンボー先生のページ16 玉川学園・玉川大学
なぜ、幕府を開くのに鎌倉を選んだのですか?結構答えが出そうな質問ですが、全然見てません。嗚呼、不思議だ・・・・。では、お答えをお待ちしています!!
ゲンボー先生
鎌倉をえらんだ理由の一番は,祖先(そせん)の地だったからです.三方が山と言うのは,頼朝以前に源氏がその地を選んだときの条件です.もっとも,軍事政権(ぐんじせいけん=軍人が政治を行うこと)である幕府は当然,守るということも考えますから祖父の選んだこの地は大変によろしいということになります.また,幕府が関東武士団の利益を守ることから始まったことを考えると,とうぜん関東地方ということになるのです.関東地方で祖先の地,鎌倉をおいて他に幕府を開く場所はなかったのです.
ちなみに,頼朝に鎌倉に行きなさいといったのは大豪族,千葉介常胤(ちばのすけつねたね)といわれています.三浦氏もすぐにこれに賛同していますから,武士の間では鎌倉=源氏ということが常識的になっていたのでしょう.
この下に,先生が棲む玉川学園の小学校6年生に出したプリントをコピーします.
鎌倉幕府はなぜ出来たのか・・・
石橋山の合戦でメチャクチャに負けた頼朝は奇跡的(きせきてき)に助かり,わずか数人の家来をつれて船で千葉まで逃げました.命からがら逃げてきた頼朝を千葉介常胤(ちばのすけつねたね)がただちに迎えました.やや遅れて上総介広常(かずさのすけひろつね)が二万の大軍を率いてやって来ました.このとき頼朝は遅れてきた上総介を叱り飛ばしています.自らの軍隊を持たない頼朝と二万の軍勢をひきいる上総介では,軍事力ではくらべものにならないのですが,武士の棟梁(とうりょう)としての自覚を持ちはじめた頼朝の方が上だったということになりますね.それまで,頼朝の力量(りきりょう)をうたがっていた上総介は,このことで心の底から頼朝に従う気持ちになった,と記録に残っています.大豪族である上総介が頼朝の味方になったというニュースはまたたく間に関東の武士に伝わり,それまで態度を決めかねていた豪族達が次々と味方につきました.
こうして,石橋山の合戦で大敗北した頼朝でしたが,わずか40日後には実に三万以上の軍隊を従えて鎌倉に入ったのでした. ここに最大のポイントがあります.
1.関東の武士たちが頼朝に味方したのはなぜか?
その理由
武士は平安時代の中ごろに「自分の土地を守る」ために地方の豪族(ごうぞく=有力な農民)が武器を持って武装したのがはじまりです.
当時,律令という法律による朝廷の政治はほとんど行われておらず,有力な貴族が多くの荘園(しょうえん)をもってそのお金で政治をしていました.
今の知事にあたる国司は都から来た貴族や皇族が,市長や村長にあたる郡司,里長などはその地方の豪族がなりましたが,国司や代理人は自分の利益のことばかりを考えていましたから,弱い立場の豪族(ごうぞく)はよけいに税を取られたり,タダで領内の農民を働かされたり,土地を奪(うば)われたり,それはつらく不安な生活を送っていました.
関東地方はもともと原野でしたが,奈良時代から平安時代にかけて多くの農民が移り住んで開拓(かいたく)をした地域(ちいき)です.ここにも武士がうまれました.弱い立場の武士はやがて互いに結束(けっそく)して武士団を作ります.自分一人より沢山いたほうが安全だからです.
やがてその中から特に有力な豪族が各地でそれらの武士をまとめました.それを武士団と言います.有名な三浦氏や千葉氏,和田氏に稲毛氏,先生のいる東京都町田市ですと小山田氏などがそれにあたります.
それらの有力な武士たちは,さらに個々の武士団をまとめる人を「血筋の良い人」にもとめて大武士団を作ろうとしました.当時の日本人は今の人とはくらべものにならないほど「家柄」とか「血筋」を重んじました.だから天皇の子孫である「平氏」や「源氏」が尊ばれたのです.
こうして,武士団を束ねて行った人のことを「棟梁(とうりょう)」といいます.頼朝は棟梁なのです.関東地方のほとんどの武士団を束ねました.
頼朝が幕府を開き将軍となってからは,武士たちは「ご恩と奉公」の関係で結ばれる御家人と呼ばれるようになりました.では,ご恩と奉公とは何でしょう?
ご恩の第1は「本領安堵」(ほんりょうあんど)です.武士が持っている土地を保障することです.つまり「ここからここまでの土地は誰々さんのものである」と決めることなのです. これは当時,領地の境界(きょうかい)をめぐっての争いが多かったことと,力のあるものが自分より弱いものの領地を力で奪うということが多くあったからなのです.これが戦争の第1の原因ですから,「自分の土地が保障(ほしょう=まもられること)される」ということは,武士にとっては一番の願いだったのです.
ご恩の第2は「新恩給与」(しんおんきゅうよ)です.御家人は将軍のため戦うことをちかっていました.言い方を変えれば幕府という組織のために戦うことです.このようなときに戦いで奪った敵の領地を,戦の働きに応じて分け与えました.つまり新しい領地ですね.こうした土地には自分の子供や一族のものが移り住みました.
ですから,鎌倉時代の武士たちは勇敢に戦いました,戦いのときに名乗りをあげるのも,よろいやかぶとが派手なのも,自分の働きが目立つためなのです.奉公は今書いたように「将軍のために戦うこと」でこれを「いざ鎌倉」といいました.
次に幕府の役人として働くことです.場合によっては京都まで単身赴任(たんしんふにん)することもありました.
幕府は将軍を中心として,武士が助け合う組織だと考えてください.この組織に入っていると敵が攻めてきてもみんなで守ってくれるし,となりとのいざこざも話し合いで解決(かいけつ)できます.
関東の武士たちがこぞって頼朝の家来になったのはそういうことがあったからなのです.
2.なぜ鎌倉なのか?
鎌倉を選んだ理由の一番は,祖先の地だったからです.三方が山とか一方が海と言うのは,頼朝以前に源氏がその地を選んだときの条件です.
もっとも,軍事政権である幕府は当然,守るということも考えますから祖父の選んだこの地は大変によろしいということになります.
また,幕府が関東武士団の利益(りえき)を守ることから始まったことを考えると,とうぜん関東地方ということになるのです.頼朝には関東地方で祖先の地,鎌倉をおいて他に幕府を開く場所は無かったのです.
ちなみに,頼朝に鎌倉に行きなさいといったのは大豪族,千葉介常胤(ちばのすけつねたね)といわれています.三浦氏もすぐにこれに賛成していますから,武士の間では
鎌倉=源氏 ということが常識的になっていたのでしょう.
あとは君たちが調べたことをたして考えてください.そうすると頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたかがわかります.君たちが頼朝の立場に立った時「自分ならどこに幕府を開くか」の考える良い材料になると思います.
武士がいたのは関東地方だけではありませんから,条件を良く考えて自分ならではの答えを出してください.
社会の宿題で教えてほしいことがあります。「どのようにして武士の文化が生まれたのか?」教えてください
ゲンボー先生
鎌倉時代に武士の身分が高まり,武家社会特有(とくゆう=どくとくという意味)の文化が産まれました.しかし,それはその時代を代表する文化のほんの一部分であったことを覚えておいてください.教科書には運慶(うんけい)や快慶(かいけい)の彫刻,あるいは一遍聖絵(いっぺんひじりえ)や竹崎季長絵詞(たけざきすえながえことば)など,写実的(しゃじつてき=見たとおりを正確にあらわすこと)で力強い芸術作品が紹介(しょうかい)されていますから,日本中がそうなっているような錯覚(さっかく=かんちがい)をおこしがちですね.
貴族には貴族の文化があり庶民(しょみん=普通の人)には庶民の文化があります.また,鎌倉時代に最も大きなえいきょうを与えたのは,浄土宗(じょうどしゅう).浄土真宗(じょうどしんしゅう),臨済宗(りんざいしゅう),曹洞宗(そうとうしゅう),日蓮宗(にちれんしゅう)などの新しい仏教といわれています.
仏教が日本に伝えられてから鎌倉時代まで約700年間ありましたが,その仏教は皇族(こうぞく=天皇の親せき)や貴族などの身分の高い人を中心に広まったもので,庶民には中々浸透(しんとう=広まっていくこと)していませんでした.
一般の庶民にとっての宗教は,長く日本に続いていた神道(しんとう)です.これは石や川や山,あるいは蛇(へび)や狐(きつね)といった自然を神格化(しんかくか=神様の化身「けしん」)したものを拝(おが)むものです.神社がそれを拝んだり(おがんだり)願いごとをする場所です.
一方,仏教は「人の生きる道」を説いたものですが,庶民には難しく中々広まらなかったところ,「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」といった念仏(ねんぶつ)やお題目(だいもく)を唱えれば,極楽(ごくらく=天国)に行けると説(と)いた新しい仏教は,誰にでも分かりやすいものでした.そのために武士を含む一般庶民に仏教が急速に広まったのです.
特に,北条氏は臨済宗(りいざいしゅう)を保護したために武士の間には「禅宗」(ぜんしゅう)が広まりました.禅宗には臨済宗と曹洞宗(そうとうしゅう)があります.どちらも座禅(ざぜん)を組んだり,厳しい修行を行うために,戦で命を奪(うば)ったり奪われたりするきわどい生活をしている武士には受け入れやすいものでした.
武士は庶民文化をベースにして貴族の文化や,新しい仏教のえいきょうを受けていました.こうした環境(かんきょう)の中で「武士独特の文化」が生まれたのです.
では武士の文化とはなにか?
それは武士の生き方に根ざしています.特に御家人と呼ばれる鎌倉幕府方の武士は,将軍と主従関係(しゅじゅうかんけい=主人とけらいの関係)を結び将軍のために働き(戦争も含めて),その見かえりに恩賞(おんしょう)をもらいました.恩賞とは自分の領地をみとめてもらったり,新しい領地をもらうことです.
そのためには命をかけて戦いました.自分が死んでも一族が生き残ることも考えなければなりません.ですから戦のときはできるだけ目立つことを考えていました.ですから鎌倉武士のよろいはとても派手(はで)です.戦いの前に互いに名乗り合うのもそのためです.
また先ほどからも書いているように「いつ死ぬか」分からないので,一族の繁栄(はんえい=さかえること)をいのったり,いさぎよく死ぬために心の準備(じゅんび)もしていました.ですから仏教の中でも「自らの力」で良い生き方を目指そうとする禅宗を信じて,質素な生き方の中にも力強さを求めました.
そうした関係で芸術も質素だが写実的で力強いものが広まっていったのです.その後,室町時代になると武士の地位は更に高くなり,一部の武士は貴族化していきますが「能」(のう=おどりの一種)や「茶の湯」(ちゃのゆ)など,質素(しっそ)で精神的(せいしんてき=こころの)な高まりを持つものが武士の間に広まりました.これは鎌倉時代につちかわれた武士の基本的(きほんてき)な精神を表しています.
ですから武士の文化とは鎌倉時代に芽生え(めばえ),室町時代,戦国時代に花開いたといっていいでしょう.江戸時代になると経済の中心は商人に移りますから,江戸は庶民文化が花開いた時代といわれています.
同じ武士でも鎌倉時代と江戸時代とではずいぶん違うところがあります.江戸時代の武士はサラリーマン的でした.ですから武士独自の文化を産み出すことは出来ませんでした.
時代劇では武士はずいぶんいばっていますが,あれは少しちがうのです.武士がいばれたのは江戸時代も初めの頃だけなんです.
小学生にはチョットむずかしい話しでした.分からないことがあったら保護者の方や先生にこのメールを見せて説明してもらってください.先生にもまた質問を送ってください.
ゲンボー先生
はじめまして。私たち6年生は歴史学習を進める中で、図工でも古代から現代までの食事の移り変わりを調べ、実際のものとよく似たものを作ってみようとしています。でも、どんなものを食べていたのかよくわかりません。そこで、調べているうちに、ゲンボー先生のホームページを見つけました。明治時代大正時代、江戸時代、室町時代、鎌倉時代、奈良時代、古代の食事について教えてください。よろしくお願いします。(平成12年10月19日)
ゲンボー先生
わー大変だア.こんなに沢山の時代を一つ一つ説明していたら1ヶ月くらいかかっちゃう.鎌倉時代は先生のホームページを見れば分かるよね・・・同じ文章になりますが,食材は以下のとおりです.(鎌倉時代の食材リスト)
(陸地)
鹿.イノシシ.野鳥.猿 などなど
(川)
鎌倉時代と同じ
(海)
鎌倉時代と同じ+クジラ,イルカなどなど
調味料とスパイスは
塩.酢.魚醤(ぎょしょう).サンショ.しょうが,わさび,みょうが,などなどです.
料理の方法や,食べ方は「鎌倉時代」に関してはホームページを良く見て下さい.所々にのっています.
縄文時代の調理は,「生」「煮る」「焼く」「蒸す」です.
とれたての魚は生で食べていたと思います.動物でもイノシシのように寄生虫がいるものは火を通しましたが,それ以外の動物の場合,とれたてはレバーなど生で食べていたはずです.
魚や動物の保存は「塩漬け」「燻製」です.
通常は.焼いたり煮たりして食べていました.また肉は焼いた石の上で蒸し焼きにしたりしました.
雑穀や豆はおそらく,粉にしてお団子みたいにして食べたと思われますが,くわしいことは良く分かっていません.
君達自身で考えてメニューを考案してください.
最後に
先生も君達のメニューを見たいなあ・・・・
がんばってくださいね.他の時代も自然から取れる材料は大差(たいさ=おおきな差)ありません.
しかし,調理法は変わってきます.
また,安土桃山時代(あづちももやまじだい=織田信長や豊臣秀吉の時代)以降は輸入された野菜が栽培されるようになります.ナス,サツマイモ,とうもろこし,トマト(少ない)などなどです.江戸時代の食生活は良く分かっていますから,本で調べてごらんなさい.
今の和食の原型は江戸時代ですから分かりやすいと思います.
ゲンボー先生 より
参考「栗原小学校児童の作品」 いろんな時代の食事がのっています.
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