小学生とゲンボー先生のページ13 玉川学園・玉川大学
侍所や政所ってなに?
ゲンボー先生
野田君
侍所(さむらいどころ)とは御家人(ごけにん=将軍のけらい)の働きや戦争のときに,御家人を統率(とうそつ=まとめる)する役所で,はじめのころは和田義盛(わだよしもり)と梶原景時(かじわらかげとき)という武士が責任者でした.
政所(まんどころ)は,幕府を動かしていくために必要なお金を扱ったり,事務的な文書を書くところでした.
つまり「どこどこの土地に誰々(だれだれ)を地頭としてはけんする」とか,京都で行われる祭りにいくらお金を出すとか,御家人が死んだので,そのあとつぎを息子のだれそれにするといった書類を書くことです.
もう一つ問注所(もんちゅうじょ)という裁判(さいばん)をするところがありました.裁判の中身は主に御家人どうしのいざこざです.領地をめぐっての争いが多かったようです.
頼朝が幕府を開いていたはじめの頃は,これらの役所は将軍である頼朝を補佐する(ほさ=助ける=てつだう)役割を持っていました.侍所を除いて事務の仕事が出来る能力を持った人や,朝廷のしきたりをよく知っている人,あるいは役所の仕組みや法律の扱いを知っている人が京都から呼ばれて仕事をしていました.当時の関東地方の武士はそういうことを知らないので,複雑な仕事はできなかったのです.
つまり,全ての命令や決まり,裁判の判決は頼朝と京都から来た人々が行っていたということになります.頼朝が死に,源氏が3代で絶えると北条氏による執権政治(しっけんせいじ)が行われるようになりました.幕府の組織もおおきくなり,政所や侍所も御家人で編成(へんせい=そしきを作ること)される本格的な役所になっていきました.この頃になると武士の中にも知識や教養(きょうよう)を高めて,政治や事務の仕事ができる人が増えてきたということです.
はじめの頃の幕府の仕組みは単純でした.やがて社会の仕組みが整ってきたり,法律が整備されるようになると,どんどん政治の仕組みも複雑で大きなものへと変わっていきます.鎌倉幕府も承久の乱以後は六波羅探題(ろくはらたんだい)をはじめとして,そのときその場所に必要な役所が作られていきました.これは自分で調べてみてください.
参考「変化する幕府の組織」※幕府の仕組みの移り変わりが分かります.
こんなところでいいですか?分からないことがあったらまてメールをください.
ゲンボー先生
執権政治とはなにかというのが、質問なんですけど、お答えしいただけないでしょうか?
ゲンボー先生
悠里さん
幕府の最高司令官は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です.幕府というのは朝廷の中の一つの組織で,戦争や戦後の支配地を治めるための軍人による,臨時(りんじ)の総司令部(そうしれいぶ)です.執権(しっけん)はその将軍の下にあって将軍の相談役となり,代理となって実際に政治を行う人です.形は臨時の政府で朝廷の下にあっても,幕府は武士によるもう一つの政府だったわけです.このことを覚えていてください.
さて,頼朝のような優秀な人物が将軍になっているときには問題はないのですが,やんちゃ坊主の頼家やお坊ちゃまの実朝では,武士のための政治を行うことには無理がありました.そこで,この二人の兄弟は暗殺されてしまいました.誰が暗殺を計画したかははっきり分かりませんが,どうも北条氏らしいというのが有力な説になっています.たとえ肉親であっても政治の安定が優先した結果だと思います・・が,それにしてもコワイ話ですね・・・
御家人にとって「ご恩」と「奉公」は,幕府を支えるもっとも基本的な関係です.他の子供達にも答えているように,「本領安堵」(ほんりょうあんど)と「新恩給与」(しんおんきゅうよ)がなければ武士とっての幕府の魅力(みりょく)はありません.この事を将軍が出来るか出来ないかは御家人にとっての大問題です.しかし,将軍には代々源氏のような高貴な血筋を持つ人がなるというのが当たり前でしたから,武士たちはこまっちゃたのです.
だって,武士の思いを知る高貴な人(貴族や皇族)など他にいるはずが無いからです.そこで北条氏は将軍はかざりもので,実際には将軍の相談役であり代理である執権(しっけん)が政治の実験を握る仕組みを作りました.こうすれば,武士による武士の政治が出来るわけですね.ですから,執権政治が行われてからが本当の武士による政治と言っても良いのです.執権政治は頼朝に変わる仕事を北条氏が行った政治なのです.このページの「源頼朝はどんな人だったのでしょう」という質問がありますから,そこをよく読んでください.そこに将軍と御家人のことが書いてあります.
ゲンボー先生より
ゲンボー先生
成本さんメールをありがとう.
越廼小学校のお友達からいくつかメールをもらっています.
では,早速答えましょう.
5代執権の時頼が行ったのは法律を作ったことではなく,3代執権の北条泰時(ほうじょうやすとき)が作った御成敗式目(ごせいばいしきもく,または貞永式目「じょうえいしきもく」ともいう)という,武士の実態にあった法律をうまく裁判するための組織をつくったことです.
せっかくの良い法律も裁判制度(さいばんせいど)がしっかりしていなくてはなにもなりません.時頼は1249年に「引付」(ひきつけ)という御家人同士の争いを取り扱う専門の裁判所を作りました.引付は幕府の最高機関である評定会議(ひょうじょうかいぎ)の直属(ちょくぞく=直接属している組織)の裁判所ですから,幕府にとっても大切なところであったわけですね.
引付は1番から3番までの3つに分かれていて,それぞれの長官を頭人(とうにん)とよびました.頭人には評定衆(ひょうじょうしゅう)という,幕府の政策(せいさく)を話し合う最高の機関から選ばれた人がなります.その下に引付衆(ひきつけしゅう)がいて,さらにその下に奉行人(ぶぎょうにん)がいました.引付会議で話し合われた結論は評定会議で話し合われ,そして裁定(さいてい=裁判の結果)がされます.引付会議と評定会議には同じ人がいますから裁判も効率(こうりつ)よくスピードアップされるというわけですね.
※引付衆には将来に評定衆になる家柄の人がなりました.
しかし,引付頭人であり評定衆である人達(3人)はいずれも北条氏ですから,表向きは裁判をスピードアップするということでも,実際には裁判の実権を北条氏が握(にぎ)るというかなり強引な内容でした.
ゲンボー先生
質問ですが、鎌倉時代の武士の暮らしはどういうものだったのですか?くわしく教えてください。
ゲンボー先生
武士にも小さな領地しか持っていない者から,広い領地をいくつも持っているような大豪族まで幅広くいました.ですから一言では言えない部分もあります.今日は平均的な武士の生活をお話しします.
4:00〜5:00 起床 行水 洗面
5:00 農繁期は農業の準備と着替え ※農繁期=(のうはんき)田植えや植え込み,耕作など農業の忙しい時期.
役所で働くときは自由時間
10:00 田畑で働く(農繁期)
役所で働く
11:00 食事
12:00〜16:00 田畑で働く(農繁期)
乗馬・弓の訓練などの武芸に励む
16:00〜17:00 食事
17:00〜 本を読んだり遊んだり自由に過ごす
20:00 就寝
ざっとこれが一日のすごし方です.
基本的にはお日様が出るころに起きて,暗くなると寝ちゃうという感じですね.ただ夜は大切な自由時間ですから,必要な部屋には明かりがともされていました.とはいっても,今の単位で表すと数ワットですから,ようやく字が読めるという程度でした.
もともと畳はベッドですから寝室にありました.それ以外は板の間です.ただし大豪族の家の絵を見ると部屋の周りにもしいてあります.
今日の人と大きく違うのは食事が一日2回ということです.ただし戦のときはこれが増えます.食べられるときに食べておかないと体が持たないからです.「腹がへっては戦はできぬ」ですね.大体3回から5回くらいは食べていたようです.
食事は貴族に比べて質素でした.ご飯は基本的に「玄米」(げんまい)です.野菜が中心で時々鳥や鹿.イノシシなどの肉が出ました.魚は干物(ひもの)が中心で海から遠いところではめったにでませんでした.もっとも,川魚は食べていました.それでも魚を生で食べるということはなく,塩焼きや「なれ寿司」といってご飯と一緒に醗酵(はっこう)させてすっぱくなったのを食べていました.これが,今のおすしのルーツです.今でも滋賀県の「鮒鮨」(ふなずし)は有名ですね.
武士は作法に厳(きび)しく,目下のものが目上の者に無礼をはたらくと重い罰(ばつ)が待っていました.ただし御家人同士は対等の身分でした.例えば道を歩いているときに会ったときは馬から下りて挨拶(あいさつ)を交わしました.
武士の家では,家をつぐ「惣領」(そうりょう=「嫡子」ちゃくし,ともいう)次に,その他の子供である,庶子」(しょし)の序列がありました.そして下人(げにん)とよばれる人々が,掃除(そうじ)や食事などの家事を行っていました.
分からないことがあったら,またメールをください.
ゲンボー先生
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