中学生とゲンボー先生12 玉川学園・玉川大学
ゲンボー先生
友美さんメールをありがとう.先生のホームページを読んでくれましたか?あそこに書いてあるとおりです.義経の首は酒につけられて鎌倉に運ばれました.完全に死んでいるわけです.それにチンギスハーンには,生まれてからの生い立ちがはっきりしています.絵で見るかぎり顔だちもかなり違います.
あの話は,英雄の義経が簡単に死んで欲しくないという多くの人の素朴な気持ちと.日本人は優れているんだ,ということを強調するために第2次世界大戦前によみがえった話なのです.(義経は蝦夷地に渡ったのではないかという話は江戸時代からありました)※蝦夷地=北海道残念ですがそれが今のところの事実なのです.歴史は事実を正しく理解することから始まります.本当の楽しさや面白さはそうしたことの中から出てくるのです.
ゲンボー先生
承久の乱の前後の鎌倉幕府(御家人を含む)が所領とする土地の変化が知りたいですが,そのような資料はありますでしょうか?
ゲンボー先生
読んで字のとおり普通は領地の半分を領家とわけました.教科書などでは地図のまん中に線が引いてありますね.しかし荘園によっては,ここの部分は地頭,この部分は領家とバラバラにわけているところもあります.良く見ると良い港は地頭に分けていたりで,「はは〜ん,この地頭は強かったんだな」と推測できるものもあります.実際の面積は検地が行われていないので分かりません.
しかし,近畿地方を始め西国にはなお幕府の御家人にならない武士も多く,したがって地頭の入れないところも多くありました.
承久の乱後,確かに御家人の土地は増えました,しかしそれでも鎌倉幕府は全国を支配していた政権ではないのです.このことは先生も再三に渡ってホームページに書いていることです,良く読んで下さいね.
残念ですが御家人の領地の面積,荘園の面積に関する資料はいくつかが個々にありますが,全体のものはありません.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.鎌倉時代は平安時代に比べて経済活動が活発になりました.それに伴い庶民の生活にも変化があらわれます.服装もその一つですね.女性は平安時代に比べて動きやすい服装に変わりました.
絵から見ると,基本的には「小袖」(こそで)という現在の着物に近い形の服が主流になります.小袖のうえにエプロンのような「湯まき」をまいているというのがごく一般的な服装だったようです.
それでも,位の高い人は袿(うちき)という十二単(じゅうにひとえ)に似た服を着ていたんですよ.NHKの大河ドラマに出てくる高級武士の奥さん達の服ですね.
写真は,それぞれインターネットで検索してみて下さい.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう。
残念ながら具体的な会話の内容までは分かりません。しかし、次のようなことであっただろうと思われます。
季長は自分が一番乗りの「先がけ」だったこと。惜しくも敵にやられて負傷したこと。司令官がちゃんと幕府に報告しなかったこと。なんとかお金を工面して鎌倉まではるばるやってきたこと。安達泰盛に会えて良かったこと。
一方,泰盛は次のようなことをきいたはずです。
戦の様子はどうであったか?一番乗りを証明できるか?親戚の者はなぜお金を貸さなかったのか?ここまで来るのは大変だったろう?
季長は鎌倉武士らしく堂々と答えました。働きそのものはそれほどではありませんでしたが、泰盛は有力な御家人として、また同じく勇敢な武士として季長のことを好意的に見ていました。ですから、将軍から与えられた領地の他に自分も馬と鞍を季長にあげたのだと思います。
季長はこのことをとても嬉しく思い、子供達にいつも語って聞かせていました。そしてその出来事を絵に描かせたのです。これが鎌倉時代の第1級の資料である「竹崎季長絵詞」(別名、蒙古襲来絵図)なのです。
ゲンボー先生
関連するページ竹崎季長ってどんな人?何をした人なの?
ゲンボー先生
麻衣さん メールをありがとう.
鎌倉時代の北海道のことは良く分かっていません.しかし青森県の十三湊(とさみなと)遺跡の調査からは北方地域でも盛んに外国との交易がされていたことが分かっています.( 十三湊には安藤氏という豪族がいたことも分かっています),また函館の近くや松前地方から中世の港や大きな館が発見され,北方貿易が盛んであったことを示しています.
国内でいえば,北海道産の昆布の流通は鎌倉時代に大きくのびます.「とろろ昆布」を知っていますか?あれは鎌倉時代に京都で作られはじめたのですが原料は北海道なのです.
それらは主にアイヌの人々がとったものです.アイヌの人々は狩猟(しゅりょう)や漁労(ぎょろう)で生活をしていましたから,お米や麦は生産していませんでした.考えられるのは熊や鹿の肉,それに鮭を代表に川でとれる魚,海では魚はもちろん貝や海草,それにラッコやイルカやトド,アザラシなどの海獣をとって食糧にしていました.もちろん野草や山菜も食べていたはずです.ラッコの毛皮や鮭の塩漬け,海草などは交易品として日本や外国にも運ばれたことでしょう,アイヌの人々はその利益もしくは物々交換で服や陶磁器,それに北海道にはない食料を得ていたのだと思われます.留萌というかなり北の地域の遺跡からもアイヌの人々が,対岸のアムール川流域の人々と交易していたことが分かっています.遺物の中から中国製の服の一部や道具それに陶器類が見つかっています.
当時の北海道は日本の一部ではありませんでしたが,そういうことにはこだわらないで,人々が行き来していたのです.
ゲンボー先
ゲンボー先生
メールをありがとう.
鎌倉時代は「ひょうそく」というお皿に油を注いだものに灯芯をつけたものが照明機具でした.時々テレビに出てきますね.「ひょうそく」は今ですと4ワットの電燈に相当しますから,非常に暗くて.いくつかつけないと文字も読めませんでした.一般庶民は囲炉裏の明かり程度です.鎌倉時代の夜は暗かったのです.
ですから,この時代の人は朝が来て明るくなれば起きて,夜になって暗くなれば寝たのです.健康的だなあ・・
空気もきれいで満点の星空だったことでしょう,月の明かりも今よりもず〜っと明るかったと思います.君はどっちがいい?
特別に明るくする時には屋外に松明(たいまつ)をたきました,読んで字のごとく松を薪にして燃やしたものです.松の木は油分が多く,火持ちも良く明るく燃え上がるからです.
ゲンボー先生
彩夏さんメールをありがとう.
鎌倉時代は今まで考えられていた以上に多彩な料理があったようです.調理の仕方も「焼く」「煮る」「蒸す」「揚げる」の基本的な調理法は全てそろっていました.それらは料理の名前からわかるんですよ.
「うどん」「汁」「そうめん」「きしめん」などからは煮物が,「焼きもち」「焼き魚」「焼き鹿肉」からは焼き物が,「まんじゅう」からは蒸し物が,「ぶと」「まがり」(ともに小麦粉を練って油で揚げたもの)から揚げ物があったことが分かっています.
調理器具は「包丁」「まないた」「まなばし」「ざる」「なべ」「しゃくし」「甑」(こしき=米を蒸す土器)「鉄ビン」「五徳」(ごとく=鍋を火にかける時の足)などがあります.
大きな屋敷には「厨」(くりや)という調理専門の建物があって,そこで煮炊きをしていました. ただしおかず類などは台所で座って調理をしたようです.
庶民はかまどで煮炊きして,狭い板敷きの部屋でつくるか,場合によっては外で作りました.
味付けには「ひしお」(今の醤油に近いもの)「魚醤」(ぎょしょう=魚から作った醤油),「じんた味噌」(大豆や麹に米ぬかを入れて作った味噌)「塩」「甘葛」(あまづら=甘味料)「山椒」「ゆず」などが使われていました.
「中世の町を歩く」も参考になります.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう
この時代の農民の住居は地域によって異なりますが,一遍聖絵などを見ますと「掘建て小屋」ふうのものが多いようです.農民にも豪族のような豊かな農民もいれば,中流の農民もいれば,土地を持たない農民(土地を借りて耕したり,大きな農家の手伝いをする農民)もいます.豊かな農民は広い敷地に大きな屋敷を作ります.貧しい農民は掘建て小屋です.また,方形竪穴住居と言う半地下式の住居も鎌倉時代の住居の特色の一つです.
先生のページの「由比が浜遺跡の速報」に住居のあとの写真が載せてあります.
関連ページ鎌倉時代の家のことを教えて下さい.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
恵利香さん,メールをありがとう.城端は一昨年に杵名蛭荘の管理所跡「高瀬遺跡」を訪れる時に行きました.美しいところですね,秋晴れでとてもさわやかな印象があります.
さて,質問の件ですが鎌倉時代は江戸時代と異なってそういう記録があまり残っていません.乏しい記録の中から 調べてみると,1230(寛喜2年)の記録に米1石が銭1貫文とあります.1石は180リットルですが重さに換算すると約150キログラムです.現代の米の価格(米の店頭価格が10キロが3000円として)に換算してみると,1石の米は45000円ということになります.45000円=銭1貫文.銭1貫文が1000文ですから.1文は45円です.
鎌倉時代は交通が盛んになり,平安時代に比べて経済が非常に活発になった時代です.京都や鎌倉,あるいは博多などの大都市では貨幣は日常のものとして流通していました,しかし,地方の農村では物々交換も多く残っていたのではないかと言われています.
ゲンボー先生
今、鎌倉時代のことについて、それぞれ、一つのテーマを考えそのテーマについて個人学習として、皆まとめているのですが、私は鎌倉時代の衣服について調べています。ですが、衣服の事についての資料がなかなかみつからないので、少しでもゲンボー先生に教えてもらいたいのです。
★鎌倉時代に、農民、武士、貴族 等は普段、どのような衣服を身に付けていたのですか?農民と武士の普段の衣服の違いはどこでしょうか・・・。難しい質問だと思うのですが、もし詳しい事がわかりましたら、教えてください。お願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.説明だけでは分かりにくいと思いますから,教科書や資料集の絵を見ながら先生の説明を読んで下さい.
貴族の男性
貴族の衣服は平安時代とあまり変わりありません.男性の正装は「束帯」で朝廷での儀式の時に着用します.冠(かんむり=頭の上からひらひらが出ているやつ)をかぶり袍(ほう)という上着を着ます.もちろん下には袴(はかま)や下着を着ています.大河ドラマ「北条時宗」の朝廷でのシーンがありますがあの時に貴族が着ているのが束帯です.手には笏(しゃく)という木べらみたいのをもっているでしょ・・あれです.
男子の普段着は「直衣」(のうし)といます.袴をはき上着を着て烏帽子(えぼし=ひらひらの無い帽子.折っているものもある.鎌倉武士がかぶっているのと同じ)をかぶります,夏と冬では素材がや形が異なります.源氏物語絵巻に女性と一緒に入る場面では直衣姿が多いようです.
それ以外に「衣冠」(いかん)があります.これは役所や朝廷に行く時の略装です.冠をかぶり笏をもつところは束帯と同じですが,上着がゆったりとして動きやすくなっています.平安時代の末期から鎌倉時代にかけてはこの姿のほうが多くなってきました.
あと,「狩衣」(かりぎぬ)というのもありました.本来は狩の時に着たものですが動きやすいので貴族や武士の日常着になりました.
貴族の女性
女性はなんといっても「十二単」(じゅうにひとえ)でしょう.正式には「女房装束」(にょうぼうしょうぞく)といいます.源氏物語絵巻にいやというほど出てきますから説明は省きます.
余談「お風呂のこと」
余談ですが,この時代の人はあまりお風呂に入りませんでした.たまに入るお風呂は今のお風呂とは違って「蒸しぶろ」です.ちなみに浴衣(ゆかた)はこの蒸しぶろに入る時に着て入ったものです.蒸気で汗をだし垢や汚れを流したのです.したがって,重ね着をしている女性には皮膚病が多く,絵巻物の優雅さとはうらはらにけっこう「カイカイ」だったのですね.
そうした時には今のお風呂のように,大きな桶(おけ)にお湯を入れ,そのなかに「黒もじ」という木の葉っぱを入れたものにはいりました.黒もじは木の皮がついている楊子(ようじ)に使われている,あの木です.黒もじには殺菌効果があり,そのうえ良い香りがします.これを薬湯(やくとう)といいました.
貴族は何週間に一回はこうした薬湯に入っていたようです.庶民はもちろん入れませんでしたが,ごくたまにお寺が貧しい人のために薬湯をする時があり,その時には庶民も入ることが出来ました.
さて貴族の女性の装束を続けます.
夜着から発達したもので「袿」(うちき)がります.短かめの上着ですね.これを上からはおりました.十二単よりずいぶん楽な姿です.
夏は単衣(ひとえ)で袿をはおります.暑い時には単衣だけの時もあります.袴の上にゆったりとした着物を着た姿です.
武士の男性
男性の日常の正装は「直垂」(しただれ)といって,合わせの上着に袴です.頭には烏帽子をかぶります.動きやすく実用的な姿をしています.
「直垂」以外には「水干」(すいかん)があります.これは一般に下級役人が来ていたものですが,ゆったりとして動きやすいので武士にも好まれました.
武士の女性
武士の女性は貴族にならい,位の高いものは袿に袴を着ていました.略装としては白小袖(しろこそで)に袴という姿もありました.
また普段着としては小袖に湯まきというエプロンのようなものをまいたものを着ていました.
庶民の女性
庶民の女性は小袖に湯まきが一般的で,袴をはきませんでした.これが今日の女性の着物のはじまりです.
庶民の男性
男性は直垂・水干と,武士と同じですが袖をまくったり,当時の絵を見ると袴をつけなかったりとラフに着ています,
最も最下級の姿としては「手無」(てなし)といって袖が無く,下もはしょっているものがあります.しかし,これに袖がつくと現在の着物になるのです.
こうしてみると,貴族は男女共に動きにくいものを着ていたことが分かりますね.なぜでしょう?
ところが武士になると実用性が重んじられ,庶民にいたっては着かたは全く自由という感じがします.面白いのは今の着物の原形はそうした庶民の服装から発達したという点です.彩乃さんも服装を調べる時に「どうして,こうなったのか」を考えると学習が深まることと思います.個別学習がんばって下さい.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
和美さん,メールを有り難う.
質問その1
鎌倉時代の鎌倉の街づくりってどういうものですか。
鎌倉の町では大きな通りは若宮大路を中心に海に向かって平行に作られました.当時の日本ではこのように計画的に作られる町は珍しく,ほとんどの町は道に沿って無計画に作られました.(鎌倉でも小さな路地は無計画だったようです)
町の出来るところは人の集まりやすいところです.それは交通の便がよく,しかも大きな農業地帯や港の近くにありました.
広島県福山市で発見された草戸千軒遺跡もそうしたところにありました.草戸千件は海に近い川の岸にありました,当時の山陽道もここを通っていましたから,海と陸の交通のとても便利なところです.その後,川の氾濫で町そのものが封印されてしまったために生活用具がそのまま出てきました.町並みそのものは無計画に広がっていたようです.
鎌倉も域外から一歩出ると無秩序そのものです.家の向きも大きさもまちまちで,そのあいているところが道になってるという感じですで.
質問その2
鎌倉の町の真ん中に「わかみやおうじ」という道があったのですがその道の周りにはどのような建物が建っていたのですか
若宮大路はメインストリートですから,幕府の建物や有力な御家人の館が並んでしました.その裏側の小町大路や今大路には商人の家もありました.
質問その3
源頼朝が鎌倉の街を作ったのはいつですか
頼朝は鎌倉にはいると早速,自分の館を作ります.当時の政治組織は貴族が個人的に行っている形態をそのまま受け継いでいましたから,はじめの頃はその館の中に後に幕府になる役所が作られたのです.
次に鶴岡八幡宮寺というお寺と神社の合体した建物を今の場所に作り,そこから海岸に向かって一直線に若宮大路を伸ばしました.
質問その4
「和賀江の港」というのはどういうものですか
和賀江の港は漬物石くらいの大きさの石を無数に海に投げ込んで作った人口の港です.今は引き潮のときだけ島となって顔を出す程度のものになってしまいましたが,大型の船はこの和賀江島に着いたのです.
和賀江島のすぐ近くに滑川の河口がありここも船着場になっていました.鎌倉は大都市ですから,諸国の物産は船に乗せられて和賀江島や滑川の河口についたのです.
質問その5
侍所とは何ですか。侍はどのような場所に立っていたのですか。
侍所は御家人を統率する軍指令部です.戦争のときに作戦を立てたり,軍隊を派遣したり(といっても御家人を派遣するわけですが)ととても大切な役所でした.
場所は色々な説がありますが,初めのころは頼朝の館内にりました.後に組織が大きくなると場所をかえたようですがはっきりしません.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールを有り難う。面白いところに目をつけたね。
いわゆる「ひよどり越えの逆落とし」というやつで、平家のいる陣の裏山から一気に駆け下りて、平家軍に壊滅的(かいめつてき=立ち直れないほどの打撃をあたえること)な打撃をあたえました。
断崖に立った3000騎の武士が怖気づいているときに、鹿が崖を降りていくのをみた義経が「鹿も四足なら馬も四足、馬がこの崖を下りれぬわけはない」「義経を手本とせよ」と一声あげ、先頭を切って降りていった。残る武将達も「遅れてはならじ」とばかりに、天から騎馬が降るように敵陣に突っ込んでいった。・・・というエピソードは有名ですね。
ただし,「先がけ」は前夜に熊谷直実(くまがいなおざね)直家(なおいえ)の親子と,平山季重(ひらやますえしげ)成田五郎たちがはたしています.この4人が先を争って,敵陣に切り込みました.
この時代の武士にとって「先がけ」(まっ先に敵陣につっこむこと)は最も名誉なこととされ,恩賞も手厚かったのです.ですから,武士は誇りと実益をあげるために命をかけて戦いました.名乗りあげるのも,ヨロイかぶとが派手なのも,すべて自分の働きが味方に分かるためです.
不幸にして戦死した場合も部下の侍が「主人の誰々が先がけで見事討ち死にをした」ということを,大声で叫びながら戦場を駆け巡りました.そうしないと恩賞がもらえないからです.恩賞と言うのは新しい領地ですから,一族の繁栄がかかっているわけですね.武士が旗をつけたり,旗持ちを従えて戦っているのも「ここに俺がいるぞ」という目印なのです.
一の谷の先陣争いも熊谷親子が一番警戒したのは味方の 平山季重でした. 平山季重も先陣をきるつもりでいましたから,4人は暗闇の中をほぼ同時に敵陣に向かっていました.その時に成田五郎が平山に「今一人で突っ込んでも,味方に知られずに死ぬだけだ,無駄死にはしないほうがいい」とだまされて一時思いとどまったそうです.
だまされたと知った平山は,気がついて追っかけますが,一番乗りではなかったので後々まで「悔しい」と言っていたそうです.
一の谷の先陣争いをとおして当時の武士の有り様がわかりますね.将軍と御家人の関係が,「御恩」と「奉公」の関係で成り立っていることが形として分かる話です.
ゲンボー先生
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