中学生とゲンボー先生6 玉川学園・玉川大学
こんにちは.私は神奈川県に住む中学生の橘いぶきといいます.鎌倉めぐりの前で鎌倉の「切り通し」について調べることになったのですがいっこうに資料が見つかりません.どうか詳しく教えてください.お願いします.
ゲンボー先生
橘いぶきさん
切り通しについての質問ですが,具体的な質問内容が分かりませんでしたので大まかにお答えします.
頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由は「源氏ゆかりの地」ということになっていますが,律令の時代(奈良時代)から郡の役所や郡の倉庫があったことが最近の発掘で分かってきました.つまり昔から鎌倉はこの地方の中心地だったわけですね.源頼義(みなもとよりよし)以後に源氏がこの地を選んできた理由の一つがここにあります.
さて,教科書にも書いてあるとおり三方を山に囲まれた「要がいの地」としての鎌倉は政治的な中心地のみではなく,軍事的にも大変に都合の良い土地でもあったわけです.更に一方が海ということもあって海上交通(物資の運搬)にも都合がよかったのです.
幕府は鎌倉を取り巻く山々に「切り通し」を作り,鎌倉につながる街道と鎌倉をつなげました.七切り通しといっていますが,これは江戸時代に固定されたもので,鎌倉時代にはもっとあったようです.
極楽寺坂/大仏坂/化粧坂(けわいざか)/亀ケ谷坂(かめがやつざか)/巨福呂坂(こぶくろざか)/朝比奈切り通し/名越坂(なごえざか)がそれです.
切り通しの特徴は
1.両側が切りたった崖であること.
2.狭い(場所によっては人一人分の幅しかない)※名越坂が,あげられます.
これはもちろん,敵の侵入を防ぐ上からこうした形になっているわけですね.幕府が軍事政権であったことの現われということです.しかし,実際にこの切り通しで大きな戦があったのは鎌倉幕府が崩壊する時,つまり新田義貞の軍勢が攻めに来たときだけっだたのです. 材木座付近からは処刑された幕府側の武士の頭蓋骨が沢山出てきました.
ところで,鎌倉の町にはいるためは必ず切り通しを通るわけですから,ここに多くの人が集中するわけですね.今の時代もそうですが,人が多く集まるところにお店ができたり見世物がでるのは昔も変わりありません.
切り通し付近には市(いち)がたったり,座ができたところもあったようです.化粧坂のいわれはいくつかありますが,ここが栄えて遊女(今でいうところのホステスさんかな〜)が沢山いたからという説もあります.
また,日蓮上人や一遍上人が辻説法したのもこうした切り通しや繁華街だったと考えられています.
切り通しというとどうしても山の中という感じがしますが,材木座や和賀江島(わかえじま)付近の海岸部分にもあったようです.材木座というのは鎌倉の町を作るために必要だった建築材を扱う商人の集まる場所ですが,これが海岸にあったのは沢山の材木が船で運ばれてきたことの証であるわけです.(大きな材木を切り通しを超えて運ぶのは事実上不可能だったからです)
和賀江島は貿易港として有名ですが、現在でも高価だった青磁や白磁の破片を見つけることができます。
港は海岸東端の岬付近に造られました。近くには広い浜辺や滑川の河口もあります。港を作るためには海の深さや潮流などが重要な条件となりますが、取り引きするのに都合の良い場所ということも大切だったのです。
記録には滑川の河口から筏(いかだ)を組んで幕府や鶴岡八幡宮の建物を造ったとあります。和賀江島が岬付近に作られたのはこうした理由もありました。このように、鎌倉は政治都市であり、軍事都市であり、同時に商業都市として発展してきました。
橘さん,この説明をもとに自分に興味のあることを調べてみてくださいね.
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