中学生とゲンボー先生14 玉川学園・玉川大学
ゲンボ−先生
絵実さん.メールをありがとう.
頼朝は武家の政権を作った人です.政子はそれを支えた人です.しかし,頼朝一家は決して幸福な生活を送ることは出来ませんでした.息子の頼家と実朝はともに暗殺されますし,二人の娘もまた悲しい最期をとげてしまいます.
大姫と義高が婚約したのはともに子供の時です.義高は人質でしたが二人は仲良しだったようです.しかし,木曽義仲と頼朝が戦ったのち,義高は殺されてしまいます.確か大姫が7歳,義高が12歳だったと思います.
それから,大姫は沈んだ暗い表情になったといわれています.幼い心を大きく傷つけた事件でした.その後大きく成長してから入内の話がありましたが,いやだったのでしょうね・・どんどん暗くなってやがて病の床についてしまいます.そして彼女はそのまま亡くなってしまいました.今日彼女の病名を特定することは出来ませんが,先生は病弱だったのは精神的なことが原因だと思っています.大姫は優しい心の持ち主だったのではないでしょうか.
乙姫の方は何が原因だったか分かりませんが,大姫と同じく病弱だったようです.この時代は男女の権利がほぼ同じだったのに、政治的には男性中心のため女性のことは詳しく分からないのです・・・・ただ、乙姫は大姫を見て育っていますから、自分もいつかはそうなるのではないかという不安はあったと思います。権力はあっても家庭的には恵まれなかった家族ですね。
大姫も乙姫も自分の意志とは関係ないところで、いいなずけが決まりました。当時としてはごく当たり前のことなのでしょうが、やはり一人の人間としてみれば「親の都合」で決まるものより、自分の好きな人と一緒になりたかったでしょう。その上、大姫は仲良しの義高が首をはねられるという。大きなショックを受けてしましまいました。時代が時代と言えばそれまでですか、先生はとても哀れに思います。
ゲンボー先生
ゲンボ−先生
社会科って年号や人の名前を覚えなければならないから大変なんだよね.でもね心配しなくてもいいよ・・
先生も子供の頃は覚えるのが大嫌いでした.それより大切なことは歴史が好きになると言うことなんだと思います.君の学校にも「漫画日本史」があるでしょ?それをまず読んでごらん.
そのうち「あれをしたのは誰だっけ?」とか「どっちが先なのかなあ?」などということが気になりだします.
そこからあとは簡単です.本の後ろに年号や人物のことが書いてあるから,それを読んで君がなっとくすればいいんです.そうやって覚えたことはなかなか忘れることはできないものです.前の晩やテストの直前に覚えたものなんかすぐに忘れてしまいます.それはとても無意味なことです.
テストのために勉強があるんじゃないよ・・勉強して「どれだけ身になったか」を自分で分かるためにテストがあるんだよ.もっとも先生の方でもそれを元に成績を付けるから,みんな目が三角になっちゃって必死になるわけだ(笑)点数は高い方がいいから,ある程度がまんして覚えなきゃならないけど,一番大切なのは「好きになること」です.このことを忘れないでね・・
ゲンボ−先生
ゲンボ−先生
メールをありがとう.質問をするときはちゃんと自分の名前を書いてね.
日蓮は法華経の題目「南無妙法蓮華経」だけを唱えればよいといいました.親鸞や法然は 「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏をひたすら唱えれば極楽にいけると唱えました.このように鎌倉時代に生まれた新しい仏教は庶民にわかりやすい形で日本中に広まりました.
なかでも時宗は別名「踊り念仏」といい,「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)の念仏を唱えながら踊りを踊る宗派です.開祖である一遍上人が時宗を広めるために弟子とともに全国を回った(遊行=ゆぎょう,という)ので遊行宗ともいいます.本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺で別名「遊行寺」といいます.
一遍上人は人はいつでも臨終間際(りんじゅうまぎわ=死ぬ直前)と心えて, ひたすら念仏を唱えながら踊り,苦しみを取りさり,極楽浄土にいけるよう祈りなさいと教えました.中にはトランス状態といって気を失ったり,仏がのりうつったりという現象が起きることもあって庶民に広まりました.室町時代には信者を増やしますが,江戸時代になって通行の自由がなくなると,急速にすたれて,ほとんどが浄土宗に吸収されてしまいました.現在の信者数は全国で25万人ほどです.
先生も一度見たことがありますが,鉦(かね)や太鼓をたたきながら,南無阿弥陀仏を唱えながら踊ります.リズムは単調ですが踊りの所作に理由があるのだそうです,また南無阿弥陀仏の念仏も良く聞くと,ところどころで変化しています.先生が見たのはお寺の中ですが,遊行していた頃の踊り念仏の場面を見ると屋外であったり,特別に作られた仮の小屋であったっり,豪族の屋敷の一室だったりします.
今の宗教で言うと,う〜〜〜〜ん,難しい・・・・先生は勉強不足でよく分かりませんが,天理教も楽器で演奏しながら踊りますね.君は天理教をしっていますか?
外国にも歌を歌ったり,踊ったりする宗教はありますが詳しいことは分かりません.
ゲンボー先生
ゲンボ−先生
メールを有り難う.
「悪党」という文字から連想すると山賊・盗賊・海賊・・というイメージですが.実際には違います.悪党というのは幕府側から見た呼び名で,実際には御家人ではない武士団のことを指します.
特に鎌倉時代後期に,近畿地方を中心とする西日本には新しい農園開拓主や,古い領主に変わって実権を握った新しい豪族が現れました.楠木正成もそうした豪族の一人です.
つまり,幕府の指揮下に入らない自由な立場の豪族ですね.これらをひとくくりにして「悪党」と読んだのです.だから朝廷側から見れば「良党」と言うことになるのです.立場が違えば評価が違うことの一つの例ですね・・
※実際には「良党」という言葉はありませんよ・・
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
その全部です.お米を年貢の中心として取るようになったのは江戸時代からです.鎌倉時代にはお米以外に,海産物,絹,鉄,漆塗りなどなど..諸国の特産物が領主に送られていました.
たとえば神奈川県の藤沢市にいた大庭氏は,領主である伊勢神宮に「干しあわび」をたくさん送っています.岡山県の新見にあった荘園からはお米や鉄を売ったお金を送っています.
私たちが考えている以上にお金が使われていたのですよ.
ゲンボー先生
さっそくですが質問です。安土・桃山時代ら辺から(秀吉から)身分をはっきりさせていました。だったら、結婚するのも同じ身分同士ではないと結婚はできません。では、身分制度がはっきりしていない鎌倉時代は、結婚の時は武士と農民で結婚できたんですか?それと、私のイメージではお見合いとか、縁談とかが舞い込んできて、それで結婚するというのがあるんですけど、この時代(鎌倉)恋愛結婚はあったんでしょうか?
そして、結婚式のやりかたはどうやっていたんでしょうか・・・?教えてください!
ゲンボー先生
葵さん.メールをありがとう.君の質問はすごくいい・・・学校や学習に差なんかないよ(笑).
まず恋愛結婚はありました.これは人間の基本です.いつの時代だって好きな人と結婚したいのは当たり前・・君だってそうでしょ?
一つちがうのは身分の高い人の結婚は親の意志で決められることが多かった.それは家同士の結びつきを強くして権力を持ったり豊かな生活をしようとするからです.・・平安時代の話ですが,貴族である藤原氏は自分の娘を何とかして天皇と結婚させようとしたでしょ・・頼朝も娘を貴族に嫁がせようとしましたが,娘が嫌がってうまくいきませんでした.しかし,このようなことは今でもありますね.昔はそれが多かったということでしょう.ちなみに,頼朝自身は政子との恋愛結婚です・・
武士であれ貴族であれ農民であれ,どの階級も「今よりいい生活をしたい」と思うのはかわらないから,どの身分にもそれぞれ恋愛結婚もあれば親の決めた結婚がありました.
鎌倉時代は貴族をのぞいて階級の差はなかったので,農民と武士が結婚することはありました.というより武士はもともと農家なんだよ・・・このことは先生のホームページで勉強してください.
結婚式の形は身分によって異なります.庶民の結婚は親戚や友人が集まって神様に誓う形でみんなに認めてもらいました.しかし,二人だけとか数人なんて言うのもごくふつうにあったことです.結婚式をしないことだってありました・・この時代は今と違って一夫一婦制ではないから,一人の男性が数人の奥さんを持っていたり,その逆に一人の女性の所に数人の男性が通う・・(面白いねえ)という形態もありました.
今みたいに形にはまっていなかったと言うことです.葵さんはどう思いますか?
しかし,北条政子さんはちょっとちがっていて,頼朝さんに愛人ができたことをしって,その愛人の住む家を家来にこわさせてしまいます.すごいねえ!!(笑)ま,いろいろな人がいたと言うことでそれは今も同じです.時代が違うと生活の内容や感覚が現代とは異なりますが,人間の基本的な喜怒哀楽(きどあいらく)に変わりはないんです・・これ世界中皆同じ.
そうそう,安土桃山時代はまだ身分が固定化されていないので結婚はけっこう自由でした.身分制度をばっちり決めて人間を支配しようとした江戸時代から,身分を越えての結婚が難しくなりました.と,同時に女性の権利も制限されてしまったのです.
それまでは男女は財産という点から同権でした.妻が夫に金を貸すとか,遺産の相続も男女はほぼ平等です.・・というようなことが日本に来た宣教師が報告書に書いています.いろいろ調べると鎌倉時代もそうだったようです.女性の地頭だっていたんだから・・
とにかく江戸時代の悪口を言うつもりはないけど,300年間も鎖国して狭苦しい社会になっちまったことだけは確かで,それは日本の歴史の中ではかなり異常な出来事だったのです.その影響は今も続いていると先生は思っています.・・けど,これ以上書くのはやめましょう・・
分からないことがあったらまた質問してくださいね.今度は学校名も書いてくださいね.
ゲンボー先生
鎌倉時代といえばやっぱり源頼朝。その頼朝が、浮気をしそうになったとか、離婚しそうになったとかありませんか?向洋中学校 紅葉
ゲンボー先生
メールをありがとう.
頼朝は若いときから女性にもてました・・一つには京都育ちで品があったこと.それから血筋がいいこと.面長でいい男だったことなどがその理由に挙げられます.ですから,伊豆に流されているときも伊藤祐親(いとうすけちか)という人の娘さんと仲良しになって,子どもまでつくりました.
このことを知った伊藤祐親は大いに怒り,二人を離しました.そのころちょうど京都では平家打倒の事件も起きて,時期も悪かったのです.
頼朝の奥さんの北条政子も父である時政の猛反対をはねのけて,頼朝と結婚します.時政は「しょうがない」と二人を許します.この対応が伊藤家と北条家の未来に大きく影響します.
北条氏は知ってのとおり源氏を支え,そのご長い間にわたって執権として鎌倉幕府を支えます.一方の伊藤家は最後まで頼朝と敵対して祐親は自害,息子は戦で死んでしまいます.女性関係といってしまえばそれまでですが,歴史の裏に女ありですね・・・(笑)
さて結婚後の頼朝ですが,当時は一夫一婦制ではありません.奥さんが複数いることや反対に旦那さんが複数いることは特に珍しいことではありませんでした.同じ家に一緒に住まないこともごく普通のことです.
頼朝のように特に身分の高い人は「血筋を絶やさないように」正室(せいしつ=本妻)以外に側室(そくしつ=本妻以外の奥さん)をもつことは常識でした.しかし,政子はそれを許しませんでした.そこで頼朝は政子に内緒で「亀の前」という若い女性を別の家に住まわせて側室にしていました.さあ,それを知った政子はどうなったでしょ???政子は怒り狂って家来に「亀の前」の家を壊させてしまいました・・こわいなあ!!!関東の武士を従え将軍となった頼朝でさえ政子にはかないませんでした・・面白いでしょ(笑)
君が政子だったらどうしますか?
ゲンボー先生
府中市立府中第6中学校の佐藤と申します。3代目将軍 源実朝 足利義満
徳川家光それぞれが作った、幕府やそれぞれの人物の比較をしたいのですが、よいアドバイスをお願い致します。
ゲンボー先生
メールをありがとう.
どれもみんな3代目ということですね.面白い着眼点です.
どこでも1代目は戦も強く政治力も抜群という人ばかりです.この人たちがそれぞれの幕府を立ち上げました.2代目は父の生き様を見ているのと,政権が安定していないので1代目のやり方を補強したり,まねたりすることが多いのです. 足利義詮や徳川秀忠はそのタイプです.
ただし,源の頼家は父の頼朝が戦をしているときには小さかったために.父から学ぶことが少なかった人物のように思います.
さて問題の3代目ですが,源実朝は頼家の弟で父頼朝の戦ぶりや政治のやりかたなど,頼家より更に学んでいません.このとき実際の政治は北条氏や他の有力御家人が行っていて実朝はかざりものの将軍にすぎなかったのです.ですから和歌を作るなど貴族的な趣味に没頭していったのです.
足利義満は父がしっかりしていたのと,幕府が安定してきたためにやりたいことが思い切りできた人です.室町幕府と鎌倉幕府の一番の違いは将軍の下に複数のナンバー2をおいたことです.将軍の下に執権しかいない鎌倉幕府では,将軍にかわって執権が全てをにぎることができます.足利尊氏はその失敗を繰り返さないように3人の管領(かんれい)をおきました.こうしておけば誰かが実権をにぎろうとしても他が許さないからです.うまいこと考えましたね・・・義満が思うままの政治ができたひとつの要因がここにあります.
徳川家光も同じく父や祖父家康の影響の残っている人でしたが,安定期に入ったことと老中や年寄りといった会議システムの組織がしっかりしていたので,次々と新しい政策を打ち出すことができました.鎖国はその中で最大のものです.参勤交代もそうですね・・・
家光は生まれながらにしての将軍ですから思った通りのことを次々に実行していきました.義満と違うのは周辺にしっかりした補佐がいたので,政治にしっかりと力を入れられたことです.この点,文化的なこと遊び的なことに力を入れた義満とはちょっと異なります.それは京都と江戸という場所的な条件もあったのでしょうね・・・
こんなところで良いですか,もっと知りたいことがあったらまたメールをください.今度は早く返事ができると思います.
ゲンボー先生
土一揆があって、何が変わったのですか? 茨城大学教育学部付属中学校 晴香
ゲンボー先生
メールをありがとう.
土一揆は鎌倉時代の終わり頃から室町時代に主に近畿地方・中国地方などの西国におこりました.原因は農民や馬借(ばしゃく=運送業者)の借金のぼうびきです.幕府をおびやかして徳政令を出させるためです.
ということから何が分かるかというと,当時庶民の間に広く深く貨幣経済がいきわたっていたということです.西国に多いのは東国より経済が発達していたからです.しかも弱い立場のはずの庶民がおこすのでしょう・・・
つまり庶民に力が付いてきたことをあらわしているのです.庶民といっても刀や槍を持っているわけですから幕府や大名にとってはコワイ存在なのです.
後に秀吉が「刀狩り」を行い,家康が「身分を固定」した理由が分かるでしょ.土一揆は日本の庶民が力を付けてきたこと,力で押せば武士もかなわない..という時代がきたことの証です・・・したがって武士側も庶民をあまり刺激しないように気をつかうようになりました.
それをうち破ったのが織田信長です.彼は鉄砲を中心とした圧倒的な軍事力で庶民の力を押さえつけたのです.
秀吉や家康はその政策を行け次いだ人で・・この間は庶民にとっては厳しい時代です.しかし,江戸時代も中期になって平和が続くと商人や豪農の力がつき再び庶民の時代がやってくるのです.
ゲンボー先生
群馬県伊勢崎市の中学1年 町田です。源 頼朝は、どのように武士を統一したのかどのように調べたらよいのか教えて下さい。宜しくお願い致します。
ゲンボー先生
町田さん.メールをありがとう.返事が遅くなってごめんなさい.
頼朝は意識的に武士を統一したのでありません.まずはじめは相模の武士をまとめて平氏や朝廷に負けないようにしたのです.
やがて,関東の武士がまとまり,ついには平氏を破って中部地方や東北地方の武士をまとめます.
頼朝の頭の中には多分全国的に武士をまとめようというものは無かったと思います.まず東国の武士(御家人)の利益を考え,それにそった組織を作りました.そして朝廷に対抗したのですが,朝廷の力を甘く見てはいません.朝廷をうまく利用しながら御家人の利益を守ろうとしたのです.
そうしたことは先生のページにある「鎌倉幕府ができるまで」と「幕府を創った相模の武士団」にくわしく出ています.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
「判官」(はんがん=ほうがん,ともいう)とは九郎判官義経と呼ばれた源義経のことです.英雄なのに悲しい最期をとげた人,権力者になれなかった人のことを応援する気持ちのことです.
阪神タイガースが何十年ぶりにリーグ優勝をして全国的に大騒ぎをしていますが,巨人が嫌いな人が「判官贔屓」で応援した人が多かったからです・・・というような使い方をします(笑)
初めまして。根郷中学校のトモミっていいます。今、歴史の調べ学習をやっていて、鎌倉時代の武士の、規則や、武器を調べています。でも、あまりいい本がなく、友達から、これいいよっ。って紹介してくれたのが、ゲンボー先生でした。もし、少しでもご存じな事があれば、少しでもいいので教えて下さい。お願いします。
ゲンボー先生
ともみさん.メールをありがとう.
鎌倉時代の武器はいたって簡単.
太刀(たち)・鎧通(よろいどおし)・長刀(なぎなた)・弓などです.
太刀は馬に乗って戦う身分の高い武士が持つ刀.鎧通は相手を組み伏せてから,鎧の弱い部分や鎧でおおわれていない部分をさして相手を殺す小刀.長刀は長い棒の先に付けた幅広の刀で,おもに一般の兵が使っていました.弓はこの時代最も威力を発揮した武器で,「弓馬の道」と言われるほど弓と馬の訓練は武士にとって最も大切なものでした.
武士の規則は1232年に3代執権北条泰時が作った「関東御成敗式目」(かんとうごせいばいしきもく)またの名を「貞永式目」(じょうえいしきもく)が基本の法律です.
1.土地の相続
2.土地の争い
3.喧嘩や殺人などの罰
4.税のこと
5.守護や地頭の仕事について
6.その他,役所の仕事について
などです.※詳しく知りたい人はこちら「現代語訳 御成敗式目 全訳」のページ
御成敗式目は基本となる法律ですが,それ以外に社会の変化に応じて細かい取り決めが作られました.5代執権だった時頼の時代には「ばくちをするな」「酒を飲み過ぎるな」などの庶民の生活にまでふみこむ法律も作られました・・・でもこれはすぐに破られるようになりました(笑)
あと,武士の規則としては「戦い」のルールがありましたね.
まず「名乗る」
次に互いに弓矢を打ち合う.
そして,敵陣につっこむ・・戦いはあくまでも「一対一」
主人が戦っているとき,家来は周りで見ている.(応援する)
勝ったら相手の首を切り落として,大将にそれを見せて恩賞をもらう(主に領地)(敵の身分が高ければ高いほど良い恩賞がもらえた)
こんなところです.
勉強を頑張ってください.
ゲンボー先生
愛知教育大学附属中学校の麻央と言います。院政、平氏の政治、源氏の政治、北条氏の政治、建武の新政、南北朝の時代、室町幕府、戦国時代。この中でどの時代が、農民にとって暮らしやすい世だったのか?
ゲンボー先生
麻央さんメールをありがとう.
農民と一言に言っても豊かな農民もいれば貧しい農民もいます.また平安時代の中頃になると,力のある農民が武装化して武士になりますので,ますますひとくくりでは言えなくなってしまいます.
先生のページに「貴族から武士へ」というコーナーがありますが,そこでは荘園の移り変わりを通して農民の成長を説明しています.ちょっと難しいのですが一度読んでみてください.
江戸時代もそうでしたが豊かな農民は権力者と結びついて村を治めていました.名主とか庄屋と呼ばれる人々ですね.山形県の本間氏はお殿様より広い農地を持って,お金を近隣の大名に貸すほどの力を持っていました.本間氏ほどの豪農は珍しいにしても,大体どの時期にも,どの地域にも豊かな農民がいたのです.この人たちはいつだって暮らしやすいですね・・・
反対に土地を持たない小作人や下人は,いつの時代にも貧しかった・・・・
ゲンボー先生
国際中学校 1年 あや 女性武士の服装は男性と全く替わらないのですか?2・30キロもある鎧を女性が着て戦ったんですか?教えて下さい!
ゲンボー先生
あやさん.メールをありがとう.女性武士もいたことはいました.しかしその服装については詳しいことが分からないのです.常識的に考えて普段は女性の服を着ていましたが,戦の時には男装して鎧兜(よろい・かぶと)を身につけたと思います.木曽義仲の愛人「巴御前」(ともえごぜん)は甲冑を身にまとい,男顔負けの戦いぶりだったと記録にあります.巴御前は別格として,軽い甲冑(かっちゅう=よろい,かぶと)もありましたから,ご主人が亡くなり,あととり息子もまだ小さいので,その子が成人するまでのつなぎとして地頭になった女性などは,一応の格好はしましたが軽装で,しかも実際に戦闘をしたとは思えません
もっとも,中にはそうでもない女性武士もいたようです・・板額(ばんがく)という越後(えちご=新潟)の女性武士は弓がうまく,男のように戦ったと記録にありますが..これなどは巴と同じく珍しいから記録に残ったのだと思います.
ちなみに巴御前も板額もとても美人だったと書いてあります・・・巴は行方不明・・板額は捕虜となったあと,鎌倉御家人の奥さんになったそうです・・・う〜む・・・実物を見たかった・・・(笑)
ゲンボー先生
はじめまして。ゲンボー先生、加治木中学校の桃木○といいます。・・さっそく質問ですが・・・。わたしの家には日本昔話の「牛若丸」という本があるんです。それを読んで思いついた疑問なんですが・・・。牛若丸は源 義経の小さい頃の名前だそうで・・・・。なぜそんな風に名前を改めているんでしょうか。もちろん「牛若丸」だけではありません。
他の歴史上の人物でも名前を改めている人が多いようです・・・。それからその「牛若丸」に書いてあった事なんですが、それでは源九朗義経(みなもとのくろうよしつね)と書いてあるんですね。私は源 義経と習ったのですが、どうしてちがうんですか?それはまた名前を改めたのと関係があるんですか?よろしくお願いします。
ゲンボー先生
桃木○さん,メールをありがとう.
昔の人は子供の頃の名前,元服といって一人前になったとき,出世したときとそれぞれ人生の節目(ふしめ)で名前が変わりました.親からもらったり,烏帽子親(えぼしおや)といって,元服のときに父親がわりになる人(げんぷく=成人式=14〜5歳)からつけてもらったり,主人につけられたりしました.
義経は幼名が「牛若丸」ですが9番目の男の子供なので九郎とも言われました・・元服してからは「源義経」ですが正確には「源の九郎義経」といいます.さらに木曽義仲を討ち平家を滅ぼしたあとは,後白河上皇(ごしらからじょうこう)という人から,検非違使の尉(けびいしのじょう)=今で言う警察庁役人)に任命されました. 尉は判官(ほうがん)とも言ったので,「九郎判官義経」とも呼びました.
これ以外に,出家するとお坊さんの名前やお寺の名前で呼ばれることもありました.執権(しっけん=幕府の実力者)北条時頼(ほうじょうときより)は出家後に最明寺殿(さいみょうじどの)とよばれています.
昔には今とちがった風習があったのですね・・
ゲンボー先生
中学校 2年 杏奈
2.関税自主権とはなんですか
ゲンボー先生
杏奈さん.メールをありがとう.先生のページは鎌倉時代なので,そちらの質問にさきに答えていました.返事が遅くなってごめんね・・・
1.高野長英は岩手県水沢に武士の子供として生まれましたが,幼い頃から勉強家で若くして長崎の出島にきていたオランダ人シーボルトに学び,医者になりました.それまでの日本の医者は漢方医ですが,彼はオランダの西洋医学を学んだので蘭方医といいます.
江戸にきた長英は幕府の政策を批判したため,やがて捕らえられました.このことを蛮社の獄(ばんしゃのごく)といいます.いったんは脱獄して名前を変えて活動していましたが最後に捕まる寸前に自殺しました.高野長英についてはホームページにたくさんでていますから,それらを参考にして勉強するといいでしょう.
2.幕府が鎖国をといたときに外国と条約を結びました.しかし,国際法を知らなかった日本はとても不利な条件を押しつけられたのです.その一つが「日本側で関税をかけられない」というものでした.
関税とは外国からの輸入品に税金をかけて国内の産業を守るものです.いまでは自国の関税額を自分たちで決めるのは当たり前のことですが,これができなかったのです.
明治時代になって新しい産業を興し,外国に日本の製品を売るためには,やすくて良い品物を作らなくてはなりません.それなのに外国から関税のかからないやすい製品が大量に入ってきたら,日本の産業は育ちませんね・・・
そこで,明治政府は関税を自分対でかけられる権利を回復しようと努力したのです.そのことを関税自主権の回復といいます.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
吉田さん。メールをありがとう。
問丸は現代で言う運送業者です。諸国から集められた物産は大きな港や大きな街道が交わる所などに集中しますね。問丸はそうした物産を保管したり、そこから、つぎの問丸に運んだり、そのまま町の商人に届けたりする仕事をしていました。平安時代には問とか問所と呼ばれ、鎌倉時代から室町時代にかけては問丸と呼ばれました。江戸時代になると問屋(といや)といいます。
ゲンボー先生
この項目のトップページにもどる
ホームにもどる 注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.