高校生以上の方からの質問5

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

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国家機関としての幕府の役割についてと公家法制との比較において、幕府法制の特徴と売買の目的物である土地が金融質と見なされる可能性ついて教えてください。三木田

ゲンボー先生

そもそも幕府とは将軍の居館を示す名称で,征夷大将軍が開く政治の機関と位置づけられたのは江戸時代の中期以降です.つまり鎌倉の武士政権は幕府ではないわけです.

じゃあいったい何なのよ?・・・ということになりますが,適当な単語がないので説明すると「関東の武士団が頼朝を中心として創った武士を守るための安全保障機関」ということになります.

頼朝はすでに近衛の大将になり,征夷大将軍になったわけですから,占領地域である関東や蝦夷地である東北は大手を振って政治を行うことができるわけです.・・とはいっても彼の所属は朝廷ですから,あくまでも朝廷のシステムの上で政治を行わなくてはなりません.頼朝に限らず御家人の多くには官位や職名がついているのはその証です.これは頼朝以後もず〜っと続きます.

彼らは,自分の領地を守るために,ある土地は国衙領,またある土地は寄進して荘園にしました.国衙領では介とか掾などの職に免税の特典があったり,周りににらみをきかせることもできるわけで,大変に都合の良いものです.また,有力者に寄進した場合は庄司となって実効支配していたわけですね.

地頭とは幕府側(便宜上,幕府を使います)の役職名です.これによって将軍にも領地が安堵されたことになるわけです.

つまり,当時の武士は(特に関東地方)は時と場合によって自分の立場をうまく使って領地を守っていたわけで,その最強の保証が将軍との主従関係だったわけです.なぜなら圧倒的な軍事力が背景にあったからです.

当時は律令があってもないようなもので,結局は強いものが生き残る時代ですから,鎌倉幕府の保証は大変にありがたかったわけです.しかも頼朝は問注所を設け公平な裁きを行っていましたし,個々の御家人のことをよく知っていたために絶大な信頼を寄せられていたわけです.ですから将軍とは呼ばれずに「鎌倉殿」と呼ばれたのです.

このような,組織を朝廷はどう見ていたか?ということですが「しぶしぶ」認めていたわけで・・彼らの正当性を形の上で保証する官位や官職を与えることで,かろうじて権威を保っていたんですね.

国家の法制は律令であり武士の法制は「御成敗式目」や「お触れ」と言うことになります.これは地域と時代によって異なりますが,国家に払われるべき税や,朝廷の実効支配が行き届くところには律令が適用されていました.しかし,武士が強いところや武士社会そのもの,あるいは武士に関係する人々には御成敗式目やお触れが適用されました.両者の関係はその内容や地域によって異なっていたわけです.当然,幕府の力が強くなれば武士の法律がはばを利かせるわけですね.武士の法律の特徴は教科書にもあるように「分かりやすく」「実際的」でした.たとえば「ばくちを打ってはいけない」とか「酒壺は一家に一個にしろ」とか「道路に転がっている死体はちゃんと葬れ」とか・・細かいでしょ・・律令にはそんなこと書いてありませんからね・・他にも土地の相続についてとか,嫡男を決めるときのきまりとか・・色々あります.

土地が借金の担保になるというのは,さほど不思議なことではありません.というか当然そうなってしまうでしょうね.土地と言ってもその時代すでに公地はなく,武士つまり豪族(農民)が持っている荘園や国衙領は殆どが私有地です.国衙領というと国家のものという響きがしますが,実際には私有地で税を国府に払う領地と言うことにすぎません.あえて言うなら国府の直轄地である「保」が公地になるか?ならないか?というところでしょう.もしくは天皇領や院の領・・

朝廷や貴族は,荘園だろうが国衙領だろうが,荘園領主や国府にお金が入ればいいのであって,土地の持ち主が誰であろうと関係ありません.ですから領地を売買してはいけないという法律はなかったのです.

しかし,武士政権にとってみれば,政権を支える御家人がホームレスになっちゃうわけですから,これは困るわけです.仕方がないから「徳政令」を出しちゃった・・以後,土地の入質や売買は禁止されましたが,今度は誰も武士に金を貸さなくなってしまったのはあなたも知っての通りです.このことは,当時の武士が鎌倉時代のはじめの頃の武士とかなり質的に違ってきていることを物語っています.

初期の武士ならば自分の領地に関して「あれこれ言わせない」という気概がありましたし,第一,誰もそんなことを考えることはありませんでした.一所懸命の地は父祖や自らが開拓し守ってきた土地です.新たにもらった土地は戦で命をかけて得たものです.その土地を売買しようがあげちゃおうが,それはその持ち主の権限だからです.

ところが鎌倉時代の後期には御家人の窮乏が顕在化して「売買しても構わない」ということから,実際に父祖伝来の土地を担保にしたり売ったりしたご先祖不幸者の御家人が多く出現したわけです.

ゲンボー先生


栃木県に鎌倉時代の施設を再現する仕事をしています.小中学生の史跡見学・散策・体験学習とその理解のサポート施設として、展示スペースの他に、屋外スペースに畑やかまど等のスペースを設け当時の食事等についても、体験できるスペースをと考えています。そのころの人の食事を教えてください.高橋

ゲンボー先生

鎌倉時代に食べられていた食材と料理を簡単に教えましょう.栃木は内陸ですから新鮮な海の魚はありません.(残念・・笑)

以下,中世の栃木で手に入ったと思われる食材と簡単なレシピ

(鳥の部)

鶴の料理(酒と味噌で味付けしたもの)

白鳥の料理(餅を加えて塩と味噌で味付けしたもの)

ニワトリの料理(古酒で酒炒りにしたもの)

ニワトリの料理(鍋)

青鷺の料理(イモのズイキやなすを加えたもの)

雁の料理(骨でスープをとり野菜を加えた料理)

雉の料理(塩・胡椒・野菜を入れた鍋)※胡椒は中国を経て古くから日本に入っていた。(貴重品)

鶉の料理(味噌焼きもしくは醤で煮しめたもの)

 

(けものの部)

狢汁(酒粕を使った泥焼き)

イヌの料理(レシピ無し)

イノシシの料理(塩焼き.鍋.味噌焼きなど)

鹿の料理 (塩焼き.鍋.味噌焼きなど)

うさぎ  熊  猫  

(魚の部)

川鱸の料理(うしお煮など)

鯉の洗い(ふくさ味噌のたれ)

フナの料理(寿司・酢を加えた煮物,など)

鮎の料理(塩焼き・味噌焼き・酒炒りなど)

ウナギの料理(醤煮)

はや(塩焼き・味噌焼き)

干し魚(イワシなど)干し貝 塩魚(ぶりや鯖など) サケの薫製

やつめうなぎ  ウグイ  川蟹 川海老

・・・と・・ここまでは簡単な料理法をつけておきました.

(その他)

蝉の汁(柚の葉を入れた味噌煮)

饂飩(うどん)  納豆(なっとう)  納豆汁  梅干し  昆布  餅(もち)  豆腐(とうふ) そーめん きしめん  そば

(調味料)

塩  醤(ひしお・数種類あり)  味噌(数種類あり)  酒  酢  魚醤(ぎょしょう)  甘草(かんぞう)  甘葛(あまずら) 山椒(さんしょう)

(薬味)

柚(ゆず) ショウガ ノビル 茗荷(みょうが) ねぎ 山椒 シソ 蓼(たで)  山葵(わさび)

(野菜の部)

筍(たけのこ)  韮(にら)  葱(ねぎ)  茗荷  百合根  三つ葉  芹(せり) アザミ

ふき  よもぎ  高菜  母子草  薺(なずな) アブラナ 大根 ゴボウ  ジュンサイ ワラビ

ゼンマイ ウド タラ 里芋 山芋  蓮根  蕪(かぶ) 冬瓜  キュウリ 白瓜 茄子(なす)

 

(貝の部)

しじみ  タニシ  川蜷

(豆の部)

大豆  小豆  緑豆  ささげ  豌豆

(穀類の部)

米 ヒエ アワ 麦 そば きび

(木の実)

トチ クリ クルミ ハシバミ シイ  ヒシノミ(木の実ではないが) 蓮の実

(果樹の部)

柿  桃  梅 棗(なつめ) 枇杷 梨 キンカン 蜜柑

茶(果樹ではないが・・)

(菓子の部)※当時菓子と言えば一般的には果物のことです.

まくわ瓜 イチゴ 柿 桃 ブドウ ヤマモモ まんじゅう もち   

(酒の部)

濁り酒  清酒

(ご飯の部)

一般には武士は米のご飯は(玄米)

農民は麦飯.もしくはお粥・・貧しいものは雑穀やイモ(里芋)

鎌倉時代は一日2食.室町期になると武士階級で3食が始まる.

しかし,戦時においては鎌倉時代も「腹がへっては戦はできぬ」と「食えるときに喰う」で3食〜5食.

 

上の表を見ていただければ分かるように,今日の輸入品以外のものはかなり揃っていたと言うことになります.(沿海部では更にこれらに海の幸が加わります)また中には,現代では食べなくなったものもあります.鎌倉時代は江戸時代のようにけものの肉を喰ってはいけないなどとつまらないことを言わなかったので「食えるものは喰う」だったわけですね.今と同じです・・(笑)

鎌倉時代は交通の発達と共に食の物産が大きく移動した時代でもあります.もちろん技術としての料理法もですぞ・・したがって内陸の栃木でもくさらないもの以外はほとんどあったと考えて良いのです.しかも宇都宮氏は藤原北家流の一族で鎌倉御家人と宇都宮検校の両職を兼務している名家です.一族には歌人が多く宇都宮歌壇として有名です.ですから京や鎌倉のウマイもんは,随分入っていたことでしょう.

私たちは「昔の食事」というと,つい「貧しいものを喰っていたんだろう」という既成概念がはたらいて粗末な食事を考えてしまいがちですが,人間の営みの重要な部分である「食」については,それぞれの身分で限られた条件を生かし,精一杯おいしく食べる工夫がされていました.これはいつの時代も同じです.

上記の詳しいレシピを見た知り合いの料理人(腕の立つ方です)は「私たちが持っている技術のほとんどすべてがこの中にある」といいました.もちろんレシピがあるのは上流階級の料理ですが,鎌倉後期から室町にかけてはかなり一般にも浸透していきました.

高橋さんにお願いがあるのですが,「昔の人はこんな粗末なものを食べて飢えをしのいでいた」みたいな,これまでの偏った食事・・どこの博物館にでもあるようなつまらない食事にはしないでくださいね.

もっと詳しく知りたければ,またどうぞ.

ゲンボー先生


こんにちわ、県相の加藤です.自分は北条氏に興味があのですがなんだか良く判らない所があります

1、北条義時はなんで江間小四郎と言われているんですか?

2、家の中では皆はどのように呼び合っていたんでしょう、時政が義時を呼ぶ時は小四郎だったんでしょうか?それとも義時ですか?兄弟間での呼び方も知りたいです.

3、男の子には○○五郎○○とか見ますが女の子には無かったのですか?

4、他の御家人同士では名前ですか?それとも名字ですか?

5、当時の布団ってどんな感じなんでしょう

6、髷…というのか良く判りませんがそれっていつほどくものなんですか?ずっと結びっぱなしなんでしょうか?

ゲンボー先生

1、北条義時はなんで江間小四郎と言われているんですか?

北条氏のいた静岡県の韮山には今でも北条と江間という二つの地名が残っています.二つの場所は鹿野川を隔てていますが,どちらも北条氏の領地です.義時は江間にあった館で育ったため江間小四郎と呼ばれたのです.当時としてはこのように名前を地名で呼び合うことはごく当たり前のことでした.

2、家の中では皆はどのように呼び合っていたんでしょう、時政が義時を呼ぶ時は小四郎だったんでしょうか?それとも義時ですか?兄弟間での呼び方も知りたいです.

そうでしょうね.その家で養われている間は「小四郎」でしょうね.元服(成人)すると正式な名前である諱(いみな)がつけられます.ところで諱は目上の者が目下を呼ぶときの名ですから,同輩や家来,あるいは家族からは決して呼ばれない名前です.ですから,北条義時とは通常は呼ばれていませんでした.

鎌倉時代に限らず人の呼び名は今のように姓名で呼ぶことよりも,肩書きや地名で呼ばれることが多かったのですよ.例えば「相州殿」(そうしゅう=北条氏)とか「武衛」(ぶえい=頼朝が若い頃)がその例です.また,法名(ほうみょう=お坊さんの名前) で呼ばれることやそのお寺の名前で呼ばれることもあります.最明寺殿(さいみょうじどの)と呼ばれた北条時頼がその例です.しかし,兄弟・友人とか親子の時は「おやじ」とか「小四郎」と家族間の呼び名だったのです.じゃないと堅苦しい・・

関連項目 名前の呼び方(土肥実平の場合) ※もっと詳しく書いてあります

3、男の子には○○五郎○○とか見ますが女の子には無かったのですか?

ありません.しかし,頼朝の娘のように大姫(長女)・乙姫(次女)のように「乙」は2番目という意味がありますので,順番らしいつけかたもないわけではありません.

4、他の御家人同士では名前ですか?それとも名字ですか?

これは二人の間柄によります.かしこまったときには2に書いたように肩書きや名字〜殿で呼ばれていたでしょう.しかし,親しい間柄だと名前で呼び合っていました.

5、当時の布団ってどんな感じなんでしょう

身分の高い人は畳がベッドでした.季節によってうすい布から厚い布までが布団として使われましたが,布団は蒲団とも書くように現在の綿の変わりに「ガマの穂」(がまのほ=フワフワの綿毛がとれる)や麻のクズ,高貴な人は絹の繊維を中綿にした布団を使っていました.庶民は筵(むしろ)のようなものがベッドで,布団といっても寒いときは厚着をするとか,厚めの布を重ねて掛けていたり先ほど述べたような「ガマの穂」や「繊維クズ」をいれた布団を使っていたようです.

綿の入った布団が現れるのは江戸時代で,一般に広まるのは明治時代以後です.昔の日本はたいした暖房器具も寝具もなく冬などはさぞかし寒かったことでしょう.でも,慣れてしまえばそれまでかも・・・

6、髷(まげ)…というのか良く判りませんがそれっていつほどくものなんですか?ずっと結びっぱなしなんでしょうか?

髪を洗うとき,散髪するとき以外はいつでも髷を結っているのです.それどころか普通の男性は烏帽子(えぼし)という帽子をいつもつけていたのです.烏帽子をとるのは寝るときだけです・・・

ゲンボー先生


Hi... I am from Laguradia community college from New York city. I am going to introduce about KAMAKURA period in my school; so, I want to know about economic system and Family system of KAMAKURA. For example, how did people get food by money or exchange some things...? How did people get married.... arrange or voluntary... How people divorce...or... If you know bout those information...could you tell me...

Thank you

Genbow

Thank you for your e-mail

1. The Kamakura era is a time when the economy advances. Japanese farmland, public territory, nobility, and the large temple where power of Imperial Court reaches are roughly classified into 2 types of manor with private ownership. The armed peasant appeared in the latter term of the Heian era. And the thane who has power like them became the Bushi (samurai). The Kamakura Bakufu (shogunate) is the organization that protects the right of the Bushi, because it retains the tax collection right in the dominant area of the Bushi and it had jurisdiction to police that right. This strengthens the power of the Bushi. The manor lords earnings decrease. Furthermore, the influence of the Bushi who would like to increase earnings extends to a dominant area. This encourages industry other than agriculture. As a result, everywhere in Japan the production of ceramic ware, iron, and lacquerware becomes popular. With tax not being paid in some kind of produce (for example rice, etc.), money arises as a form of payment. They pay to the manor lord (who lives in Kyoto and Nara) with exchange and are packed. As a mechanism of exchange, a money system and money traffic advances the net economy. The system provides a guarantee of safety.

The Japanese merchant ship discovered in 1976 in the Korean Sea was found stacking the china and porcelain of national treasure class as it returned to Japan. But, the most influential commodity in the ship is money made in China. In Japan after the Heian era money was not cast. Therefore money was being imported from China. The monetary economy starts advancing to the extent that Japan imports mass money.

2. Meals in the Kamakura era are taken twice a day. Japan, where sea and mountain terrain are plentiful, is naturally inclined to many kinds of food. The populace that lives in the city buys vegetables, fish, meat, etc. with money. In the farm village, the populace lives self-sufficiently on vegetables and fish. But processed food and the like have to be bought from the itinerant merchant or the market.

3. The system of marriage is unusual. It is not a monogamy system. The Kamakura era is a maternal society. The man goes around to the houses of several women. At the house of beautiful people there is a room of the lady inside the residence. Children are reared at the house of women. Therefore nobility ask that daughters marry a man of high rank.

4. There is no concept of divorce. When either person in the marriage divides, divorce is formed. Medieval Japan was not the feudal system like the Edo era. In addition, even in religion shintoism and Buddhism and Christianity ethical characteristics are not strong. It was natural for man and woman to have a free relationship. However, intensity is required from the monk. The monk is strictly prohibited from marriage with a woman. However, in the latter term of Kamakura era, a sect that permits monks to marry also appears.


鎌倉時代の書道以外の芸術についてレポートをまとめています.教えてください.大学1年生 真実

ゲンボー先生

真実さん,メールをありがとう.

古来「三筆」を最高の手本とし目標とした「書」の上手下手は,その人の格をも決める重要な事柄でした.で,このことが大切なのですが,古代や中世の人々は書も含めて,今日「芸術作品」とよばれているもののほとんどが,彼らにとって「鑑賞」するためのものではなかったということです.

例えば鎌倉時代の芸術ということで必ず引き合いに出される「運慶」とその弟子「快慶」の彫刻ですが,彼らの作品は当時の人の感覚でいえば「より仏に近いもの」つまり「人間」を表しながらも「いかに人間以上のものを表現するか」という点に集約され,この点でいえば「芸術」と「宗教」が一体だったと言うことになります.昔の人にも優れた作品かそうでないかは分かるわけで,運慶をはじめ,優れた仏師達の作った作品が霊験あらたかであるが故に珍重されたという訳なのです.

では絵についてはどうでしょう.平安時代までに残されている絵のほとんどは「仏画」です.仏画であるが故にデフォルメされたものが多かったのですが,鎌倉時代となると突如として「写実的」なものが現れました.しかも宗教画ではない個人の活躍を表したいわゆる「絵詞」(えことば)です.

これは,武士の成長と大きく関わっているからでしょう. 華美を廃し質実剛健を旨とした武士の精神社会が確立されると,「中身」や「真実」を重んじる文化が誕生しました.有名な「蒙古襲来絵図」や「男衾三郎絵詞」はその典型です.彼らにすればそれらは文字に変わる記録にすぎません.どれだけ自分の活躍が正確に描写されているかが大切なのであって,芸術性云々は考えてもいなかったことでしょう.描くほうの絵師も注文主のニーズを満たし,かつそれ以上に格好良く描写することが命題なのであって,自分の作品が後世に残って評価されるなどとは露ほども考えていなかったのではないでしょうか.

話は「書」に戻りますが,古来より高貴な者の「たしなみ」としての書なのであって,美しい文字はあくまでも中身とセットなのです.素晴らしい和歌を創作することや経典を写す清澄な心・・そうした状況や環境とが一体となって書が評価されたので,「文字」そのものが芸術の対象とされるのは後世になってからのことです.

私は,芸術の本質が芸術のためにあるのではなく,古代や中世の人がそうであったように,実生活や精神生活に根ざし,密着しているものであるところに「本当の価値がある」と思っています.そうなると,今の社会にも五百年.千年先に芸術として評価されるものが沢山あるのではないでしょうか・・そう思いませんか?

レポート頑張ってください.

ゲンボー先生


リセ・インターナショナル・サン ジェルマン・オ・レ (フランスのパリ郊外にある国際学校)の恵美理です.こんにちは。私はこの国際学校に通っている生徒です。今、日本語の授業で鎌倉期の隠者の生活について発表しなくてはならないのですが、そのために その頃の隠遁生活、そして隠者の文学について調べているのですが、なかなか見つかりません。どうか、ゲンボ−先生詳しく教えて下さい。

ゲンボ−先生

恵美理さん.メールをありがとう.

先生も今から26年ほど前にNormandie にあるEcol des rochs に滞在し,日本語を教えていたことがあります.日本人で初めてフランスにソメイヨシノを植えたのも先生です・・えへん!(100本).ベルサイユに日本の桜を植える2年前です.新聞にも出ましたが当時ソメイヨシノは輸入が禁止されていて,実は「密輸」に等しかった(笑).このページには世界の各国から質問がきますが,フランスからは初めてです.

さて,ご質問の件です.「隠遁者」はいたと思いますが,文学もその人の名前も分からないのです.この時代の文学は貴族など,ごく一部のインテリによって書かれており,武士はもとより一般庶民は文学とは無縁でした.しいて言えば「和歌」を作るくらいです.そうしてみると一時代前の紫式部や清少納言はすごいですね.しかも世界初の女流作家だ・・これは日本が世界に誇っていいことなのです.フランス人にも教えてやってください.しかし,肝心の隠遁者の文学・・・

山にこもって修行する僧が近いかもしれませんが,それはあくまでも修行であって隠遁ではありません・・・高級武士や貴族の中に追放された人はいますが,文学を残していない・・・ん・・あった,あった.

承久の乱で追放された後鳥羽上皇,建武の親政の直前に島流しになった後醍醐天皇・・この人たちは自ら望んだ隠遁ではありませんが歌を残しています.日本の和歌は立派な文学ですから,これが質問の回答になりそうですね.

特に隠岐に流された後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を藤原定家に命じて作らせるほどの達人でした.そして隠岐島(おきのしま=流罪地)でもたくさんの歌を残しています.

「桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな」これは新古今和歌集に治められている上皇自らの歌です.上皇は流罪になる際に資料や2000首の歌を持ち出して,隠岐で自らが和歌集を編纂しました.これは定家に作らせた「新古今和歌集」と異なる「隠岐本新古今和歌集」と呼ばれるものです.

後鳥羽上皇が初めて隠岐にきたときの歌.「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風こころして吹け」からも分かるように,上皇は大変に力強い性格の人でした.と同時に歌作りなど繊細な感覚を持っていた人です.上皇はついに隠岐から都に帰ることはできませんでした.六〇年の生涯を隠岐で終えたのです.このあたりをもっと詳しく調べればおもしろいレポートができると思いますよ.先生もアドバイスしますから自らの手で書いてください.

ゲンボー先生

EMILIEお返事どうもありがとうございました。ゲンボ−先生のアドバイスに従いながら調べてみます。もちろんレポ−トは手書きでやります。お父さんや先生が言うように日本人に比べたら書くことも少ないし、漢字も忘れにくいから....と言うことで打って宿題やレポ−トを出すことがないので。。。ご心配なく....

レポ−トができたら送ってもいいですけど、時間がかかるかもしれないですけど、いいですか? あと、本文にもどりますけど、 隠者は山など、人がいない所で一人で暮らしているんですよね。。。食事とかは自分で耕したりしてやりくりしていたんでしょうかね?後、服装とかは動物の皮なんかきてたんですか?最後に、その隠者達とかは自分の住んでいる社会がいやである朝「もうここでは生きていない」とかおもってやまにこもるんですか?それとも、何か失敗をしてしまったりして、世間から変な目で見られるからとかという事から始るんですか?

それでは、レポ−ト頑張ります。  EMILIE

ゲンボ−先生

恵美理さん.隠者と一言に言ってもいろいろなパターンがあります.自ら社会と決別して「自己の社会」を目指す人.君の言うとおり「ある朝突然に」という人もいたかもしれません・・源平の戦いで息子と同年齢くらいの若い武将を殺した熊谷二郎は,のちに侍がイヤになって出家しています.たぶん他にも原因はあったと思いますが・・・

また,もっと他の原因があって隠者にならざるをえなくなった人・・・動機も様々でした.自ら〜と言う人は「人間関係を嫌う」「修行のため」.他の原因としては「失脚」「逃亡」「流人」などでしょうね・・

自分で耕すと言っても限界があります.修行のためとか流人の場合(特に高位の人)は近隣の人や,お付きの人が衣食の世話をしました.それ以外はどうしていたんでしょう・・おそらく乞食同然の生活だったでしょうね.飢え死にとか病死,自殺・・ 恵美理さんが一人で山に入ったときのことを想像してみてください.一人で生活できますか?

中世には福祉なんてものはありませんから,食いっぱぐれたら「盗賊」「奴隷」「ニセ坊主」「乞食」のどれかです・・・「隠遁」というのは,よほど何かで保証されていない限りできるものではありません.よく仙人になって山にすむ・・と言う話がありますが,あれは希有のことで,ふもとの人が世話をしているんですよ・・いくらなんでも生身の人間が「かすみ」ばっかり食べていて生きていけるわけがない(笑)

服ですか?毛皮はないでしょうね.ふつうの服です.何着持っているかはその人次第でしょう.当然冬を越さなくてはならないですから,拾ってくるか盗んでくるか貰うかのどれかです.先にも書きましたが位の高い流人にはお付きがいましたから,この人達が調達してきたのです.後鳥羽上皇には地元の奥さんもいましたよ・・そうそう流人時代の頼朝にもお付きがいましたし,乳母の家や母方からの仕送りもありました・・様々ですね・・

また,分からないことや知りたいことがあったらメールを下さい.レポートの手書きは大正解です.頑張ってください.

ゲンボ−先生


久しぶりです。 覚えていますか?恵美理です。隠者の宿題が終わったので下書きおくります。

隠者文学とは、打ち続く戦乱の醜さに耐えられず世を捨てて、全てのものは変化し続けて,永遠不変ではないと考え仏に救いを求めた人々がかえって自由に現実を見つめ、優れた文学を生み出した事である。

「方丈記」を書いた鴨長明は安元の大火、治承の辻風、福原遷都,養和,寿永の飢饉と疫病元暦の大地震など五つの災害や動乱を若い頃から経験し、改めてこの世のはかなさ,無常さを思い知らされ出家したのであった。この他にも、自ら社会と決別して「自己の社会」を目指す人、又出家をせざるおえない人など動機は様々であった。出家遁世した後、鴨長明は京の東南にあたる日野の外山方丈の草庵に日野家に援助して(スポンサ−になって)貰いながら、暮らしたのである。

出家遁世した者の多くは彼のように、スポンサ−がいたり、又は元から金持ちであったり、その他には兼好みたいに、不動産業(質の良い水田を買ってその上がりで物を買っていた)などという風に、生活していた。それもそのはず、いくら住みにくい世から離れて隠れ住んでいても、その社会にかかわらず自己の力だけでは生きて行けないからである。

この他にも、承久の乱で追放された後鳥羽,建武の親政の直前に島流しになった後醍醐天皇らは,自ら望んだ隠遁ではなかったが,鴨長明みたいに優れており,歌を残し,特に後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を藤原定家に命じられ作らされるほどの腕前があった。彼は乳母の家や母方からの仕送りもあり,又地元には奥さんもいたため,生活するのには困っていなかったようである。経済的の面ではこのように遣り繰りをしていましたが、一日の過ごし方はと言うと、鴨長明の場合仏道修行と和歌、管弦楽を楽しむ心安らかな暮らしをしていた事が彼の作品から読み取る事が出来る。

しかし、ポジティブな面だけではない。それはなぜかと言うと、彼の作品の後半から、自分が日野で送る心安らかな草庵生活に報着する自分の不徹底さを反省し、又この動乱の時代を背景に世を捨てた自分を嘆いているからである。

隠者の一日(調べた事を頼りにして私が想像したものである。)

早朝、鳥達の囀りに吊られ目をさます。こういった風に一日がはじめる事が多い。

彼は又今日も心安らかな一日が過ごせると思いつつ、外へでてみる。四月の中旬であるこの頃は花などが咲き始め桜も満開で,木なども緑の葉で覆われていて心地よい。その上すがすがしい風が木々葉っぱをゆらしている。こういった景色を見て、思わずもし隠者が死ぬのであれば,桜の木下で安らかに眠りたいといった思いから、彼は「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」と歌った。そして自然を観察し、自然の音を聞きという風に自然にひたってから(自然に囲まれ暮らしているのですごく敏感になっている)部屋に戻り,朝食を食べる。それを終えると,部屋の隅のほうに置いている阿弥陀絵像や仏像のほうに座り、永遠に祈るのであった。

これは,一首の仏道修行である。ほかには、近くの滝の下で修行することもたまにあった。精神を安らぎ終えると,管弦楽などを弾いたりして楽しむ。又、自分の詠んだ歌などを詠みかえしたり、出家遁世した時に待ってきた作品(論語や古今など)を読み「こんな安らかな生活を送っている私は…世から逃げて仏に助けをもとめるなんて、、、みっともない」と反省などもした。しかしこういった反省をしていると、戦乱が耐えなく続いていたその中で「今日も一日無事でいられるのか」と寂しい思いと共に、人の命のはかなさを改めて思わされるのであった。そんな空しい人生であるのであるからこそ残りの時間をこの自然の事を語りながら楽しく生きようと考え直し花などを見つめるのであった。そして、又一句「見渡せば 山もと霞む みなせ川 夕べは秋と 何思ひけん」と読み,それを紙に書き止めたのである。すぐに歌をかける場合もあれば、ものすごく考えた上で出来る作品もあった。そして、日が暮れ,夕食を食べ、それから,寝てと言う風に,毎日を過ごしていたのである。

 


鎌倉時代の尾張の特産品,紀州の特産物,三河の特産物を教えてください。お願いします。

徳島文理大学 豊史

ゲンボ−先生

豊史さん.メールをありがとう.

特産品といって良いかどうかですが,この時代の荘園の年貢から列挙しました.

尾張=絹・糸(原料不明)・漆器(尾張の年貢の50%以上が絹です)

紀伊=米・絹・綿・油・薪・炭・角材(紀伊の年貢の50%以上が米です)

三河=米・絹(三河では米と絹がほぼ半々というところでしょうか)

年貢以外に「贄」(にえ)という朝廷に差し出す海産物を主とした貢ぎがあります.

尾張=塩・鮎・鯛・貝・その他の魚

紀伊=あわび・鰹・鯛・塩・鰯・鮎・海草・その他の魚

三河=わかめ・鯛・塩・貝.その他の魚

こうしてみると黒潮の影響を受けて温暖な紀伊が豊かであることが分かりますね.

その他にどこでも「鉄」は生産されていたようです.これでいいですか?

ゲンボー先生


県相の加藤ですこの前の質問に答えて下さって有り難うございました.それでまた質問なのですが・・

1、天皇って戦わないイメージが強いのですが普通に戦ったりしたんですか?

1-1 戦ったとしたら天皇は殺せないから相手は誰を狙ったんですか?

天皇自らが戦闘することはありません.相手はそれ以外の者すべてを敵として戦います.天皇を罰することはできません,がそれ以外の者は罰せられます.上皇や法皇も命までは取られませんが流罪になることはありました.

2、三浦と和田は仲が悪いと聞いたのですがなんでなんですか?

和田は三浦の一族で本来は仲良しのはずでした・・しかし,和田合戦の時に三浦は和田を裏切り北条側についたのです.そのいきさつは自分で調べてください.

3、義盛や時政などは兵力をもっているけれど京から来た広元や康信はどうだったのしょう?

和田義盛や北条時政は豪族ですから兵力を持っていますが,大江広元や三好康信は京都から呼び寄せた官僚(役人)です.館を守る警備の者はいましたが,豪族のように古くからの家来はいませんでした.豪族になぜ家来がいたのかは分かりますね・・・

4、↑と似ているのですが広元とかは稽古とかはしたんですか?

しなかったでしょう・・自衛隊も装備をして戦う訓練をしているのは自衛官で,防衛庁の官僚は背広を着て予算のことや,防衛計画を立てる側ですから,自らが訓練することはありません.それと同じです.

このぐらいですよろしくお願いします(>u<)


私は2年ほど前、横浜市金沢区に転居してきたものです。歴史の表舞台のすぐそばに住み始めて鎌倉時代に興味を持つようになりました。鎌倉幕府が繁栄していた頃、その周りの地域はどういう様子だったのですか?「房総あたりの物資が六浦の港に着き鎌倉にわたった」と何かの本で読んだことがあります。また金沢は幕府へ供給するための武器を作る鍛冶匠が多く住んでいたと聞いたことがあります。図書館などで中世のこのあたりのことを書いている本を借りたりしていますが、まとまりがつきません。むらかみ

ゲンボ−先生

村上様,メールをありがとうございました.

最近の研究で鎌倉時代は私たちの想像以上に経済が発達していたことがわかってきました.農業はもとより鉄や絹などの生産も全国に広まり,物流が盛んなった時期でもあったのです.経済の発達に伴う陸上交通網の整備はもちろんのこと,海上交通の発達にもめざましいものがありました.宋や元の大型船が来航する博多以外の海外貿易港も各地に開かれました.六浦もそのうちの一つです.

鎌倉という一大消費都市に,国内各地の物産や,陶磁器をはじめとする海外(特に宋・元)からの商品は当初,博多をハブ港として,一旦荷揚げしてから日本の各地に小・中型船に載せ替えて運ばれていました.遠浅の鎌倉では滑川河口や後に建設された和賀江島港がそれらの船のための港に該当します,

しかし,それでは効率が悪いので大型船が直接入港できる六浦に港を作ったのです.当時,海外貿易を行っていたのは主に律宗の寺であったため,六浦は鎌倉「極楽寺」が権益を握っていたようです.しかし,幕府にとっても重要な港であったため,この地は北条氏の影響下におかれました.

六浦に荷揚げされた諸国の物産は金沢街道をとおり,朝比奈切り通しを越えて鎌倉に運ばれました.鎌倉からは漆器や刀などが運ばれていたようです.特に鎌倉の漆器は質が高かったようです.

以前は庶民が常滑や素焼きの土器を使い,高級品の青磁や白磁は武士や寺院などで使用されていたと思われていました.もちろん美術的にも優れたものはそうでしたが,じつは一般庶民も中級品程度の青磁や白磁,それに漆器を使っていたことが分かってきました.都市生活者の生活レベルは,地方よりも少し良かったようです.つまり膨大な量の輸入品や国内産品の主な消費者は「庶民」と言うことになるわけですね・・

六浦はまた,房総半島との交通の要でもありました.内陸に大きく入り込んだ東京湾は陸上交通の妨げでもありました.更に今日の山の手地区内側は湿地帯であり,相模・武蔵から上総,下総,安房へ行くには船で行くのが一番安全且つ確実,しかも早い手段だったのです.

以前私は安房の鋸南で漁師から「あっち」(横須賀のこと)に行くのはエンジンつきボートで2〜30分といわれて,ビックリしたことがあります.つまり,千葉のあっちと神奈川のこっちは,実に近い関係にあった訳なのです.どうりで鎌倉時代に三浦氏と千葉氏が仲良しだったり,頼朝が石橋山の合戦で敗れた後に,三浦氏の影響下にあった安房に逃げたかがよく分かりました.私たちは陸上に住んでいるためについ陸側から交通を眺めてしまいますが,海の側から見る視点も必要なのだなあ・・とつくづく感じた次第です.潮の流れにのればあっという間に向こうについちゃうのです・・

お住まいの,金沢は鎌倉を中心とする当時の経済圏を結ぶ要の場所です.お寺をはじめ墓地群やさまざまな旧跡がありますが、そうした視点をお持ちになって調べてみるとそれぞれのつながりが明らかになってくるのではないかと思います.

何か面白いことが分かりましたら,私にも教えてください.

追伸.私のページにある「海の道・陸の道」を参考にしてください.十三湊が主ですが当時の海上交通についてふれています.また「中世の都市を歩く」は草戸千軒町の様子ですが,鎌倉や六浦の庶民の居住区もほぼ同じような景観だったと思いますので,こちらも参考にしてください.

ゲンボー先生


はじめまして。ゲンボー先生のホームページを楽しく拝見しております。武部と申します。学校を卒業して何年もたったオッサンです。歴史好きのサラリーマンなのですが、どうしても知りたいことがあり、メールを差し上げました。

常々、「年貢」や「軍役」ということに興味を持っています。でも、歴史の参考書を読んでも、いまひとつイメージが固まりません。中世末期以降は、検地の結果に基づく「石高」をベースに、領主が領民から年貢を取り立てる一方、中央政権に対し、それに見合った軍役を負担するという構図が出来上がったと解釈しています。

 しかし、それ以前がどうだったかということが、よくわからないのです。「石高」が一般化する前に、銭を基準にした「貫高」というもので所領の価値が示されたという話は耳にしますが、貫高の前はどうやって所領の価値を測っていたのでしょう。農地は場所によって単位面積当たりの収穫量が違うと思います。公平な課税をするためには、何らかの形で所領の価値基準を示す必要があったと考えているのですが、実際にはどうだったのでしょう。

 奈津子さんという学生さんからの質問に対する先生のお答えで、地頭が集めた年貢は、荘園領主に納められるのとは別に、「一反につき五升の兵糧米を幕府に送っていた」とありました。これまで「反」というのは、田んぼの面積だと思っていたのですが、収穫高を表すこともあったのでしょうか。だとすれば、「一反」は何俵に相当するのかをお教え下さい。

 また、所領を与えられた御家人は、「御恩と奉公」という考え方から、いざ鎌倉の有事には一族郎党を率いて参陣するのが原則だったと高校時代に教わりました。この場合、御家人が引き連れる軍勢には、与えられた所領の広さ(あるいは価値)と相対関係があったのでしょうか。それとも、御家人たちの自主性に任されていたのでしょうか。

 それから、古い時代の物の価値を現代感覚で表現するにはどんな方法があるか、お知恵を貸していただけないでしょうか。例えば、「米五升」とは、現代感覚にするとどれくらいなのでしょう。米価の歴史についてはかなり詳細な研究があるので、それを現代の米価に置き換えて計算して見たのですが、どうもしっくり来ません。近世以降ですと、大工さんの手間賃を基準にして比較したりするようですが、中世の人件費について、まとまった史料のようなものはあるのでしょうか。お心当たりがあれば、お教えください。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

武部さん,メールを有り難うございます. なかなか難しい質問ですね・・・・

ご存じのように鎌倉時代には度量衡の統一はなされていません.升でも地域によって容積が異なっていたのです.したがって米の取れ高を客観的に計る手段はありません.元寇の際,諸国の武士団に防塁築塁の割り当て分担が田地の広さに比例して行われたことからも,当時の賦課金は耕地面積を元にしていたらしいことが分かります.ちなみに防塁は田一反につき1寸,一町につき一尺と決められていたようです.今日残る防塁を見ると石の種類が微妙に異なっていることが確認できますが,それを見るとその部分を担当した御家人の領地の広さが分かってとても面白いものです.

鎌倉時代は各地に産業が興り,経済が活発になった時期です.通貨としての銭の流通量も飛躍的にのび末期には為替も登場しました.当然のことながら農村も貨幣経済にさらされ,土地経済に頼る御家人が経済的に破綻していく一つの原因にもなっています.西国では農産物以外に絹や鉄の生産などが各荘園ごとに行われ,税も物納であったり貨幣であったりと,その時期,その地域によって非常に多彩だったのではないかと考えられるようになりました.

ご質問に「一反」のことがありましたが,それはやはり面積です.しかし面積のはかり方も正確ではありませんから,そこいらへんはアバウトだったわけです.江戸時代のように石高がすべてで年貢も正確に取り立てていた時代とは異なるために,農民や領主それぞれが都合のよい解釈をしていたことは想像に難くありません.

それでも既得権を持つ領主としてみれば(自墾地系荘園のような)荘園内の領地を正確に把握したいのは当然のことですので,東大寺のような古くからの領主は何度となく使いを送って農地の広さを確認しています.

こうしてみると近世になって検地を行い,田を上田,下田などと分けた理由がよく分かりますね・・・今日の過酷な(笑)税制の基盤ですね・・

「いざ鎌倉」の際の参加人数は決められていません.しかし当然のことながら戦で負けるわけにはいきませんから,武士としては可能な限りの人数を出したと思われます.武士にとってみれば「ご恩」が命ですから,最大限の力を発揮したことでしょう.

米五升の件ですが,東大寺には油を量る升が30種類くらいあったそうです.全部同じ単位ですよ・・・つまり米五升は所によって異なる・・それほど度量衡はまちまちだったのです.しかし商人などはその点をよく知っていって「あっちの五升はこっちの六升」てなぐあいに換算していたと思われます.

中世の人件費は草戸千軒などの木簡から少しずつ解明されていますが,私の手元にはありません.広島(福山)に行かれたらぜひ県立博物館を訪れてみてください.もう行かれましたか?

答えにならないような答えで申し訳ありません.これまで文献に頼っていた歴史学は考古学の発達に伴いずいぶんと書き換えられれる部分が増えてきたのです.いろいろな角度から光が当たって,ようやく中世の人々の姿が目の前に浮かび上がってきた.・・という感じです.

ゲンボー先生

丁寧なご返事、ありがとうございます。サラリーマンの悲しさで、「課税」と言えば「公平・公正」、「御恩と奉公」も現代の労使関係と対比して考えてしまいがちですが、鎌倉時代の経済や人間関係は、もっとアバウトでおおらかなものだったのですね。豊臣秀吉の天下統一以降、身分が固まったり、石高制で収入をお上にきっちり把握されたりという仕組みができて、中世に比べ近世はずいぶん窮屈な世の中に変わったのだという認識を新たにしました。武部

 


わたしは社会人ですが、よろしければ教えてください。地頭と守護の職名は鎌倉時代の初め、頼朝が設置したと学んでいますが、それはその時に初めて出てきた概念なのでしょうか。平安時代には地頭や守護の名称は使われていなかったのでしょうか。

ゲンボー先生

地頭は土地のほとりという意味で,土地の持ち主を表す言葉です.この言葉そのものは平安時代から使用されています.頼朝は地方での国の象徴である目代を滅ぼし,在庁官人をその支配下におさめ御家人とし,領地の支配者として「地頭」を任命しました.これは豪族にとって最も大切な本領安堵や新恩給与といった保障を具現化する職名でした.

しかし,これは東国や中部地方など頼朝の支配地の中だけのことであって,近畿以西,頼朝の力の及ばない地域の地頭はあくまでも幕府の手先として送られてきた侵入者に他なりません.

守護の場合は,当初は追捕使とか鎌倉殿勧農使とよばれているように,義経追捕や地頭を束ねる職として始まりましたが,地頭の権限の弱い地域におけるまとめ役,地頭の保護者としての性格が強かったと思います.

概念としては国司=守護 荘官=地頭,ですからもともとあった国の職種(官職)の武士バージョンとでもいうべきでしょうか・・

頼朝は守護と地頭を配しながら,巧みに国の支配権の入れ替えを行っていったのです.

ゲンボー先生


ゲンボー先生いつも楽しく拝見させて頂いています。私は、北海道に住んでいる川上と申します。よろしくお願いいたします。

義経は、判官贔屓からか、チンギスカン伝説や北行伝説などがあります。しかしながら、あるホームページには「1189(文治5)頼朝の圧力に屈したその子泰衡によって依川の館を襲撃され自刃。義経の首は黒漆塗りの首桶に酒漬けにされて、6月鎌倉の腰越に送られ、和田義盛と梶原景時が首実検したという。」とありました。つまり義経の死は和田義盛と梶原景時とによって確認がなされたという事です。

そこで質問なんですが、この当時武将の死亡を確認するのは首実検だけだったのでしょうか。他の体の部分は確認しなかったのでしょうか。

さらに、義経の場合ですが、奥州で死亡して鎌倉までその首を運んだわけですが、その方法として「義経の首は黒漆塗りの首桶に酒漬けにされて」という状態でなされたとありますが、この搬送方法はこの時代常識としてあったものなのでしょうか。自信がないのですが、義経の首は「酒漬け」ではなく「塩漬け」にされて運ばれた、という記述を見たことがあったのですがそれは どうなのでしょうか。

また、「黒漆塗りの首桶に酒漬けにされて」という方法によって、2ヶ月も経過した義経の首を義経自身か否か確認できるものなのか教えて下さい。よろしくお願いいたします。

ゲンボー先生

川上様,メールをありがとうございます.ご存じのとおり義経は文治5年4月30日(1189年6月15日)に衣川の合戦で戦死し,その首は一月半後の文治5年6月13 日(1189年7月27日)に鎌倉に運ばれたと記録に残っています.

運搬の際に酒漬けとあるのはおそらく奥州の作法かと思います.通常は川上様が書いているとおり塩漬けです.(義経の場合は明らかに酒漬けだったと記録にあります)

この季節に酒のみの保存で実際に一月半もつかは実験しなくてはなりません・・東北地方は緯度から言うと醸造酒のエリアなので今のようなアルコール度数の高い焼酎はなかったと思います.40日間持たせるとすればおそらく塩も入っていたかと思いますが,これはあくまでも私の予想です.

いずれにせよ義経は自害のあとお堂を焼いているので,首とは言っても炭化したかそれに近い状態であったと思われます.今のようにDNA鑑定や歯形の鑑定など無い時代ですから,はっきり断定できたかどうかは怪しいものです.ただ首実検をしたのが和田義盛や梶原景時と言った,義経をよく思っていない人物だったというところが面白いですね.義経シンパにやらせたら本人でなくとも「ご本人です」とやるかもしれないからでしょう.二人は義経の首をまじまじと見たことでしょうね(笑).

しかし,頼朝の興味はそれが義経かどうかというより,すでに藤原氏をどうやって討つかというところにあったと思います.たとえ義経が生きていたとしてももはや何も脅威ではないのですから.

頼朝としては,もともと無力化した義経が,もっとも望んでいた藤原氏の庇護を受けたと言うことが大切なことで,更に頼朝の実弟をうったことは,言いがかりをつける上でもっとも良い材料となったのです.思う壺とはまさにこのことで,ここいらあたりが頼朝のすごいところですね.彼の冷徹さに加え,おそらく大江広元あたりのブレーンが考えた手なのでしょう・・興味は尽きません・・しかし,そうなると義経は益々可哀想ですね・・やはり生かしておいてジンギスカンになったというのがいいですね・・(笑)

当時の人々の首に対する思いは現代人の我々とは大きく異なるようです.私のページにもありますが鎌倉の由比ヶ浜で発見された集団墓地では,後の時期に掘り起こされた部分があるのですが,そこから出た人骨はバラバラになっていました.しかし,首(頭蓋骨)だけは集めて葬ってあったのです.

当時の人は首こそにその人の霊が宿っていると考えていたのでしょう.例の実朝の首も秦野市に首塚(みしるしづか)として本来の墓以外に葬られています.現代人の感覚では首と胴体をいっしょにまとめて葬るところでしょうが,祟りをおそれたか,本体である首は動かさないのか・・いずれにせよ実朝は今でも首と胴体は離ればなれです・・・

首実検は敵将の確認と言うこともありますが,敵を完全に倒したという精神的な証でもあるわけです.おそらく他の部分では納得がいかなかったと思います.モンゴルは殺した敵の数を確認するために耳を切り落としたといわれていますが,日本の場合はあくまでも「首」にこだわっていました.

ゲンボー先生

ゲンボー先生こんなに早くメールを頂き有り難うございました。しかも、懇切丁寧に答えていただき感謝申し上げます。実は、最近小学校6年生の娘が、歴史の授業で「判官贔屓」という言葉を習ってきました。娘が「お父さんこの言葉を知っているかい」といいますので、義経は、奥州で亡くなってその首は鎌倉に塩漬けになっておくられたんだよ、とうる覚えの知識をいってしまいました。娘がそのことを学校の先生に伝えたら、先生は義経が奥州で死亡し、首が鎌倉に送られたことを知らなかったそうです。なぜ先生が知らなかったのか不明です。私の住んでいる所は、虻田町の洞爺湖温泉町で2000年に有珠山が噴火した町です。私の町の隣に洞爺村がありますが、そこにはキムンドの滝という義経が休憩をしたという伝説の場所があります。もしかしたら、娘の先生は義経の北行伝説を信じているのかも知れません、が未確認です。

話が脱線してしまいましたが、娘の先生が娘を通じて私に義経の資料があったら教えて下さいと言ってきました。しかし、私も義経の事を詳しく知っているわけではないので困ってしまいました。そこで、いつも拝見しているゲンボー先生に聞いてみようと思いメールを出させていただきました。先生はお忙しいので返信が来るのはいつになるのかなと思っていたところ、こんなに早く、しかも丁寧に答えていただいたので、ただただ感動しています。鎌倉時代については興味がありますので、今後ともよろしくお願いいたします。川上

 


はじめまして。私は現在大学生で教育実習で鎌倉の事について生徒に教えています。次回の授業で、御恩と奉公について説明しようと思うのですが、生徒が実際に御家人になって御恩と奉公の関係のシュミレーションができるような教材を作りたいと思っています。

そこで一つ質問があります。

御家人と将軍が御恩と奉公の関係で結ばれていることは有名ですが、そもそも御家人になる際には様々な手続きが必要だということを少し本で読みました。具体的に将軍に謁見したりすると書いてあったのですが、もう少し詳しく知りたいと思っています。教えてください。お忙しい中、申し訳ありませんが、次回の授業で使いたいのでなるべく早いお返事をお待ちしています。

よろしくお願いいたします。みき

ゲンボー先生

みきさん,メールをありがとう.

教育実習ですか・・懐かしいなあ・・シミュレーションをやるのはとても良いアイデアですね,ぜひ頑張ってください.御家人になるのに手続きなどありません.頼朝のために命を捧げて戦う意思を表せば良いのです.もちろん独立し領地を持っている豪族に限りますが,大小は無関係です.頼朝以後も基本的にはこれと同じです.君は多分江戸時代の将軍と旗本・御家人のことと混同しているのだと思います.

私の新しいページ「幕府を創った相模の武士団」をよく読んでください.当初,三浦氏や上総氏をのぞいて頼朝に従ったのは弱小武士団ばかりです.頼朝が力を持ってから大豪族が加わりましたが,頼朝は彼らの領地の広さよりも,忠誠心や仕事ぶり,人物について評価していました.当時としては大変に合理的な考え方を持っていたといえますね.だから関東の武士団が頼朝を信頼し仲間に加わっていったのです.

もちろん将軍に謁見できるのは基本的に当主である御家人だけですが,その子供や友人も御家人と一緒なら謁見できました.頼朝は御家人をとても大切にしていましたから杓子定規ではありませんでした.

北条氏も基本的には御家人ですから他の御家人とイーブンなのですが,執権になってからは将軍の権威をうまく利用して他の御家人より優位になりました.しかし,終末期以外の執権は御家人の状況をよく把握し,無力な将軍にかわって御家人の要求をうまく満たしていきました.

御家人制度は鎌倉幕府の根幹です.これが分からなければ鎌倉幕府を本当に理解したとは言えないのです.そしてその制度のもっとも大切な部分が「ご恩」です.このご恩について子供たちに理解をさせて上げてください.そのためには御家人と呼ばれる豪族たちの置かれていた立場や社会情勢が理解されていなくてはならないのです. 私のページは子供向けに簡単にしてありますが最新の発見や説を紹介しています.また私自身の研究成果も盛り込んであります.まず君がしっかり理解をしてください.

分からないことがあったらまたメールをください.


黄金の島「ジパング」と東方見聞録などで紹介され、たくさんの人がジパングを目指して航海をはじめました。その結果世界に及ぼした影響はどの本にものっています。しかし、日本に与えた影響についてはほとんど書いてありません。今レポートでそのことについて調べているので資料がなくて困ってます。参考になる図書や情報がありましたら至急教えて下さい。早華

ゲンボー先生

早華さん.メールをありがとう.東方見聞録が日本に与えた影響はマルコポーロが没してから350年後に表れます.

それが南蛮貿易です.

東方見聞録によって日本の存在が知られてから,ヨーロッパには黄金の国ジパングが伝説的存在として知られていましたが,その実体が明らかになったのは,ザビエルやフロイスの報告によってです.

特にルイス フロイスの報告は詳細を究め,かつ正確でしたのでほぼ正しい姿で日本が報告されました.当時は大航海時代にもあたり,スペイン・ポルトガルの商船が「われも,われも」と日本を目指してきたのです.

日本との貿易は対等の立場で行われ,南蛮貿易によって互いの地に新しい物産や文化が伝えられました.ここいらあたりが南米やアフリカへの侵略とは大きく異なるところです.

当時のヨーロッパは日本を文明国として見ていました.

東方見聞録は,350年後の交流のきっかけ・・と言えますね.


鎌倉時代の経済問題について知りたいのですが、なかなか良い資料が見つかりません・・。詳しく教えて頂けないでしょうか。それと、荘園制下の農民はどのような日常生活をおくっていたのですか?二つ同時の質問で申し訳ありませんm(_ _)m どうかよろしくお願いします。   大学生 のぶえ

ゲンボー先生

のぶえさん.メールをありがとう.

鎌倉時代の経済と一言で言っても時期と地域によって大きく異なります.

ですから平均的なところでお答えしましょうね・・

まず,農民は農業だけではなく林業,漁業,手工業など多様な仕事をしていました.農繁期は農業に釘付けになりますが,季節によって山の木の切り出し,川や海での漁.もちろん山での猟もありましたよ.

それに蚕を飼ったり,木製品をつくったり,漆塗りを行ったり,鍛冶をしました.やがて技術に長けたものが職人集団をつくったり,行商に出たりするようになります.

私たちが思っているより,鎌倉時代は意外に経済が発達していたのです.

さて農民はそれらの産物のなかから一定量を領主に納めなくてはなりません,それの取り立てが地頭というわけです.地頭の中には乱暴なものもいれば紳士的なものもいました.教科書や本などでは主に地頭の横暴が取り上げられていますが,それはめだつからですね・・頭の良い地頭は農民をうまく使い,相場にもたけていました.彼らは農民とうまくつきあいながら自分の権利を広げていったのです.

さて農民側ですが「自作農」もいれば「小作農」もいます.生活のレベルは言わなくても分かりますね・・戦の時,自作農は郎党として参加します.小作農や使用人は裸足で駆け回る一兵卒です.

農民の日常は記録がないために分かりませんが,農業による暦をもとに生活していたと思われます.端午の節句(5月5日)の時には菖蒲や柊の葉を家の入り口に垂らして子どもの成長を祈ったり,刈り取りには秋祭りがつきものでした.つまり基本的に江戸時代の農民の生活とあまり変わらないということですね..それより身分制度にしばられず,戸籍にしばられることもなかったのでその点については江戸時代の農民よりは楽だった思います.

私たちは古い時代の方が不便で遅れていると思いがちですが,実際にはそうでもありません.それどころか四公六民や五公五民といわれる過酷で逃れることのできない税体系下におかれた江戸時代の農民の方が大変だったと思います.

ゲンボー先生


以前、鎌倉時代の六浦の繁栄について教えていただきました。ありがとうございました。便利な交通手段があるということは、庶民の行き来も頻繁だったのでしょうか。例えば千葉の人が引っ越してきてこちらにすむとか、こっちの人が房総に店を構えるとか。また、海を渡って房総の人と三浦の人が結婚するというようなことはなかったのでしょうか。昔はほとんど交通手段がないので、すぐ近くで縁組みが行われていたと思われますが、もし海を渡ってお嫁入りというようなことがあればとても珍しい気がするのです。それと今、貿易が盛んな横浜に外国人が多くすんでいるように六浦にも外国人が多くすんでいたのでしょうか。いろいろ想像してしまいます。 むらかみ

ゲンボー先生

村上様

お久しぶりです.

三浦半島と安房は密接な関係にあります.今日でも千葉県の上総・下総地方と安房の言葉は大きく異なります.千葉の人に聞くと安房の方言は神奈川県に近いとのことです.また気質も神奈川県ぽい(笑)と言っていました.

おそらく古代から両者には人や物の行き来があったと考えられます.三浦半島も安房もともに水田耕地の割合が低く,畑作や漁業が盛んという点に類似を見ることができます.漁業に舟はつきもので,同じ漁場で漁をしたり,水揚げ地を互いに利用したりと言うことは容易に考えられます.特に江戸時代になると「ほしか=肥料にする干したイワシ」は両地方の特産物になり交流も深かかったと思われます.

横須賀市立博物館に行かれると,それらのことを含めて三浦半島の歴史が良く分かります.まだでしたらぜひ一度行かれることをお奨めします.

鎌倉時代に「ほしか」はありませんが,安房が三浦氏の影響下にあったのは紛れもない事実です・・しかし,記録が残っていないためにおたずねの件は分からないというのが答えになります.

引っ越しということがあったかどうかは難しいですが,商人の往来は当然あったと考えるのはごく自然なことだと思います.

外国人のことですが当時は入国管理もないし往来は自由でした.博多あたりには元の圧迫から逃れた宗の人が沢山いたと伝えられています.

鎌倉の町にもいたのですから,商才に長けた中国人が貿易港である六浦にいないわけがないと思います.

ゲンボー先生


千葉県立千城台高校亜由美 鎌倉時代の人々には、現在のように決まった休日はありましたか?

ゲンボー先生

亜由美さん.メールをありがとう.

江戸時代においては商人の休日はお盆と正月だけです.それ以外は必要なときに主人に断って,許可が出たら休めました.

農民は農閑期が休みですが,江戸時代には過酷な年貢があったので大部分の農民にとっての休みはありません.お祭り.お盆.正月くらいでしょう.ただ,庄屋や名主,あるいは本百姓という土地持ちはもう少し余裕があったと思います.武士には役人としての仕事がありましたからこれも休みを取るのは大変です.ただし仕事の内容によっては曜日が決まっていて休みの日もありました.

さて鎌倉時代ですが,まず農民に年貢はありましたが江戸時代のように一律ではなく,支配する武士や貴族,寺社によって異なっていました.ですから楽なところもあります.しかも身分や職業が固定化されていないので,農民でありながら商人とか職人がいたわけです.

農閑期にも仕事はありましたが,江戸時代みたいに締め付けがなかった分だけ自由もありました.しかし,これも支配者によりけりです.有名な「あてがわ庄」の農民の訴えにあるように地頭の中には農民に過酷な年貢をかけるものもいたのです.そうしたところの農民は苦しかったでしょうね.これは関東から関西地方に任命された地頭に多かったようです.自分の権利を拡大していく過程で農民を圧迫しまくったわけですね・・

鎌倉方の武士には鎌倉や六波羅探題などでの役人としての仕事がありました.これにあたると忙しい!しかし,これとて毎日の仕事ではありません.休みの日もありました.とにかく,その地域や身分によって休みの取れる日にちが異なっていたというのが答えです.

日曜日が休みというのはキリスト教の「安息日」からきています.ですから日本でも明治になって日曜日ができて「休日」という概念ができたのです.それでも一般人には日曜日も働いていた時代が長く続いたのですよ・・・

ゲンボー先生


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