このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.
玉川学園・玉川大学
P.S. あまりスポットのあたらない人を調べると面白いかも…
例えば、静御前、巴御前、大姫と木曾義高、北条政子、など
日本大学 一色美絵
始めまして、Tawaraと申します。アメリカ在住です。
子供の歴史の教科書に神風が出てきたらしいのですが、
その本当は何処から来たのか知りたくて、あなたのサイトを拝見しました。
しかし、その記述がないので、もしお分かりになるのでしたら、それが
何処から来たのか教えて下さい。
元が攻めてきた時に風が吹いて日本が勝った事が2度ある・・・?
と言うのは本当でしょうか?
因みにアメリカの歴史の教科書では神風は”特攻隊”の事を記されているそうです。
これは、はっきり違っていますね? よろしくお願いいたします。
Tawara
第2次の戦いである弘安の役の時には,さすがの日本側も防塁を海岸線に築くなど準備を怠りませんでした.それでも4400隻の軍船と14万の軍隊を送ってきた元軍の勢いは猛烈でした.日本側も善戦しますがやはり元軍は強大でした. ところがこの時に大嵐が吹き、一夜にして元軍は壊滅状態になりました. 人はこれを「神風(かみかぜ)」とよび,日本は神によって守られている国だと思うようになったのです. この時から人々が日本という「国」を意識するようになったといわれています.
太平洋戦争のときには,日本軍が劣勢になると軍は「神風」がふくと盛んに国民に宣伝しました.しかしふきませんでした. その代わりとでもいいましょうか「神風特別攻撃隊」という,爆弾を抱えて敵艦に突っ込むという戦闘方法を考え出したのです.これは末期的状況のなかからうまれたものです. 歴史のかなたに去った事とはいえ,こういう時代があった事や突っ込んでいった若者のことも忘れてはいけませんね. ちなみに,このとき日本では「神風特別攻撃隊」は「じんぷう〜」とよんでいました.
これでよろいいでしょうか?お子様への説明はそちら様からよろしくお願いいたします.
ゲンボー先生より
こんばんは はじめまして私は足柄峠のある小山町に住んでいるのですが足柄峠がこんなに歴史とロマンにあふれたところだと知らず感激致しましたところで小山町は金太郎発祥の地として金太郎ゆかりの名所等が多数ありますが実は金太郎伝説は全国20数ヶ所にあるそうなのですどの説が正しいのかはわかりませんがそもそも坂田金時はほんとうに実在していたのでしょうか?
社会人 akko
ゲンボー先生
坂田金時はakkoさんがお住まいの「小山」で産まれました.鬼退治で有名な源頼光の家来として活躍しましたが,九州遠征のおり今の岡山県勝田郡勝央町で病没しました.もちろん実在の人物で,幼名を金太郎と言いました.これまた鬼退治で有名な渡辺綱( 源頼光の家来)の紹介で 源頼光の家来になりました.まあとにかく源頼光さんのまわりには酒呑童子をやっつけただの,鬼を退治しただの,妖怪の手をぶった切っただのと,スゴイことばかりで普通の人はついていけなかったんじゃないでしょうか・・・ところが,なんてたって,金太郎は子供の頃から熊を相手に相撲を取っていたくらいですから・・だから,この人達のお仲間に入れてもらえたんだと思います・・・(笑)
足柄峠は古東海道の間道として長い間人々の行き来がありました.矢倉沢往還はその支線です.
今は大山道とか国道246に姿を変え,場所も移動してしまいました.それだけに訪れる人も少なく,往時の様子がそのまま残っているところも少なくありません.akkoさんも時間があったら歩いてごらんなさい.きっと新鮮な発見があると思います。
ゲンボー先生
侍所、問注所、政所はどこにあったのですか?大倉幕府跡付近ですか?教えて下さい!!
ゲンボー先生
まず,3つの役所ですが侍所が1180年に一番早く作られました.ついで公文所(政所)と問注所が1184年に作られました.
幕府の仕組みは簡素だといわれますが,本当に簡素で幕府創建の頃にはこの3つしかありません.なぜなら幕府が武士の利益を守る保障組織で余計なものは不要だったからです.とにかく初めの頃は平家を筆頭に,旧来の勢力やライバルと戦わなくてはなりませんから「軍事司令部」が必要で,それが「侍所」というわけです.初めは和田義盛が長官でしたが,武士を束ねていくリーダーシップに欠けるところからすぐに梶原景時にかわってしまいました.
その後,景時が失脚するとふたたび義盛が実権を握りますが,和田合戦の後は三浦や北条といった,時の権力者がその任につくという重要な役所でした.
政所は従三位以上の貴族なら誰でも開設できる役所です.つまり大貴族が自家の所有する領地や,年間の予算などに采配する部門です.幕府の組織が当初は頼朝の私的機関だった事がよくわかります.
問注所は御家人どうしの領地争いや,犯罪を裁くいわば裁判所ですが,はじめの頃はすべて頼朝が裁可を下していたと言われています.
いずれの役所も全ては頼朝中心の私的な機関として発足しましたが,後に幕府の影響力が強まるとともに扱う仕事量も各段に増えて,頼朝の館内いわゆる大倉御所にあったものが他へ移転しました.
政所は鶴岡八幡宮のすぐそばで北条氏と三浦氏の館のあったすぐ近くです.現在はマンションになっています.
問注所は現在の鎌倉駅から海岸よりに有る御成小学校の近くにありました.(一時は三浦康信の館に置かれました)
侍所は幕府内にありました。
ゲンボー先生
参考資料 下のリンクで幕府組織の変遷を説明しています.
はじめまして、今回質問があってメールを送らせて頂きました尚子と申します。第二代目執権北条義時についてのことです。
彼の妻について調べていたのですが結婚した年、結婚相手について詳しいことがわからなかったのです。
ゲンボー先生
尚子さん.メールをありがとうございます.
義時の妻については謎が多いのです.
義時の子供には江間太郎(泰時3代執権)と政村(7代執権)らがいます.嫡子泰時が当初「江間」姓を名乗っていることから,義時が伊豆時代に産まれた子供であることは間違いありません.義時も伊豆時代には江間小四郎と江間姓を名乗っていましたから.
ところで泰時の母(つまり義時の奥さん)が誰かというと,伊東祐親の4女八重姫という説があります.八重姫は父祐親が在京中に頼朝との間に千鶴丸という男の子を産んだ女性です.(頼朝は1167年〜1175年の間伊東氏に招かれ小御所に住んでいました)
帰郷した祐親は怒り千鶴丸を川に沈めて殺し,別の家に八重姫を嫁がせたといいます.その家が江間(北条)だと言われています.
一説によると八重姫は6年後に頼朝のところへ出奔しますが,その時にはすでに政子が頼朝の奥さんになっていたため,悲嘆して鹿野川の支流に使えてきた女性たちと入水し果てたと言われています.別の説によると千鶴丸を失った八重姫は6ヶ月後に入水したともあります.これですと江間小四郎(義時)と結婚できるわけはありません.ちなみに八重姫と義時は叔母,甥の関係になります.
※余談ですが千鶴丸は殺されずに甲斐源氏の辺見氏に預けられて,これが後の島津氏になったという説もあります.
いずれにせよ・・話としてはどれもありそうで・・・なさそうで・・・歴史の彼方に埋もれています.新しい資料が出てくれば分かるかもしれませんね・・
後妻には伊賀朝光の娘がきました.この女性との間に産まれたのが政村で,義時亡き後に異母兄の泰時と執権の座を争います.ちなみにこの時には政子が後押しした泰時が執権になりました.政村はその後連署となり時宗の前の執権になります.
※義時の死因はこの後妻によって毒を盛られたという説があります.
ところで,伊豆長岡町南江間にある北條寺には義時と奥さんの墓がありますが,奥さんの説明には佐伯氏娘と書かれています.伊賀の方とは別人?いずれにせよ北条義時という人は,頼朝亡き後に伊豆の小豪族北条氏を三浦氏や千葉氏に並ぶ大豪族に仕上げた人物ですが,女性については??の部分があります・・・
ゲンボー先生
京都女子大学のこげぱんです。演習の授業で北条政子について調べるのですが、私は義母で後年政子と権力闘争を繰り広げた牧の方について発表したいと思ってます。彼女の性格といった私的なことについてもっと知りたいのです!教えてください!!
ゲンボー先生
メールをありがとう.
牧の方は牧宗親の娘で,北条時政の後室でした.美貌のため時政の寵愛を受けていました.しかし時政とともに実朝を殺し自分の娘婿を将軍に擁立しようと画策したため,政子,義時姉弟によって時政とともに伊豆韮山に幽閉され最後は自殺したとあります.
牧の方のエピソード
1.頼朝は伊豆時代に政子以外の女性とも関係を持っていました.有名なのは伊東祐親の4女八重姫で,おやじの祐親が京都に行っている間に頼朝の子千鶴丸という男のを産んでいます.千鶴丸は怒った祐親によって殺され,八重姫は後に入水して果てたと言われています.・・しかし生きていて北条義時の奥さんになったという説もあります.
それ以外には「亀の前」という女性がいて,頼朝が鎌倉に落ち着ついたので彼女を呼び寄せ小坪というところに住まわせようとしました.このことを奥さんの政子に告げ口したのが牧の方です.怒った政子は亀の前の屋敷を壊させてしまいました.すごいですね(笑)
2.京都守護の平賀朝雅は牧の方の娘婿です.この 朝雅と幕府の有力御家人畠山重忠の息子重保が口論になり,それを聞いた牧の方が怒って時政をけしかけ,畠山親子をだまし討ちにします.これに荷担した有力御家人の稲毛三郎重成も翌日北条の軍勢に滅ぼされました.稲毛氏は畠山とも北条とも親戚関係にあった武蔵の有力御家人です.このことを知った幕府の御家人たちは,畠山親子のあまりの哀れさに涙したとあります.これも牧の方がそそのかしたことが発端です.もっとも,時政としても理由をくっつけて武蔵の国の実権を握りたかったということもあったと思います.
牧の方はやったことの結果が以上のようなことのために,歴史書などではあまり良くは書かれていません.それどころか「悪女」というレッテルすら貼られています.
しかし,ゲンボー先生はそうは思えません.今の倫理観から言うと讒言(ざんげん)つまりチクリですね・・これは良くはありませんが,鎌倉時代のような「いつだまされるか」「いつ殺されるか」という時代にあっては,男だって讒言しまくっている時代ですから(今でもそうかもしれない)女性が讒言するくらいはごく普通の出来事だったと思いますよ.今だって旦那に「あの人はこれこれだって〜」などといっているではありませんか.現代のようにうわさ話とかうっぷんばらしならその場で終わってしまいますが,鎌倉時代では命がかかっているので大変です.人のことを安易に信用したら首がふっとぶのです.だから互いに姻戚関係を結んで安全を保障し合ったのです.姻戚関係を結べそうなところなら手当たり次第という感じです.先生は幕府が作られる時のことを調べていますが,関係があまりに複雑なのでいささか閉口気味です.
特にこれといった権力を持たない大多数の女性にとっては,夫に頼るもしくは夫を操縦することによってのみその力を発揮したのです.未亡人の政子もしかりです.幸い牧の方は若く美貌,時政はもうお爺ちゃん.コロリといっちゃたのか時政自身の野望と合致したのか.とにかく牧の方の思うとおりに事は運んでいきました.しかし,畠山親子を殺すなど,最後はあまりにも強引・・・多くの御家人のひんしゅくを買って話はパーになりました.でも,時政夫婦を追放したのが息子の義時と娘の政子とは・・・やはり現代人には理解できないことが多すぎます・・・
君はどう思いますか?女性としての意見を聞かせてください.
ゲンボー先生
数々の参考文献によりますと、当時は火種を確保していたということですが、もっと具体的に詳しく知りたいと思いまして、質問します。火種の作り方も様々なようですが、例えば、山中で火をおす時には一般的にどのような方法で火をおこしていたのでしょうか。また、火鉢などの中で眠らせる
方法以外にも火種の保存方法があるのでしょうか?教えて下さい。研究生 真織
真織さん.メールをありがとう.
当時の風俗を見ますと,男は腰に小さな巾着袋付けています.この中に小銭や火おこしのセットが入っているのです.この巾着と刀を持つことが当時の成人男性の印でした.
火おこしセットとは「火打ち石」「火打ち鉄」「付け木」「火口」のことで,これはご存知ですね.当時の人はこれを使って数十秒で火をおこしました.もちろん山中でも同じです.ですから現代の我々が思うほど火おこしは大変なことではありません.
火の保存の最もポピュラーな方法は「かまど」や「囲炉裏」の灰中に保存しておく方法です.囲炉裏の火は絶やさないという風習も古くからあり中には数百年も続いたという例もありました.
※余談ですが,現在東京都八王子市で古墳時代の集落祉を発掘していますが,焼失家屋がずいぶん多く発見されています.当時の人は火の扱いにはずいぶん気を配っていたと思いますよ.ですから保存は火種の状態で,炎のあがったような状態では決してなかったと思います.
ゲンボー先生
ゲンボ―先生のファンです。私も、鎌倉の住人で一際興味をそそられます。鎌倉道のお話は一度歩いてみたいと思いながら、繰り返し読んでいますし、小学生向きのお話が楽しいなあ...と喜んでいます。
今日はちょっと伺いたいことが、鎌倉 安国論寺の前の古道に『北斗尊星』と掘られた石碑があります。北斗七星信仰があったと思いますが、それは陰陽道でしょうか?
鎌倉という地域、または鎌倉時代とどういう関係が有って、それはどういう信仰なのでしょうか。お教えくださいませ。宮城
ゲンボー先生
宮城様
私にファンがいるとは思いもしませんでした・・(笑)
このページには小学校の3年生から70歳台の方まで質問を寄せられていますが,小学生に納得してもらえるように答えるのが一番大変です.小学生といえども安易には答えたくないので苦慮しますが反面楽しさもあります.
もちろん成人の方からの質問も大歓迎です.宮城様のご質問も答え甲斐のある質問ですね・・(笑)
正直申し上げて私は陰陽道には詳しくありません.ですからおたずねの碑については十分にお答えできませんが,分かる範囲のことのみ申し上げます.
北斗信仰や北辰信仰は中国の道教から発生し真言密教や天台宗と結びついて我が国に伝えられたと言われています.日本では特に修験道に広まり盛んになりました.古くは「役小角」が有名ですね.もちろん陰陽道とも深い関わりを持っています.
安国論寺(日蓮宗)にあった碑と言うことから考えると,おそらく修験道との関係かと思われます.それは彼らが法術を使う際に唱えるのが法華経だからです.
しかし陰陽道との関わりにも捨てがたいものがあります.なぜならば幕府は陰陽道を重視しており,吾妻鑑を読むと政治上の重大事件や寺社の建築や行事のとりおこないなどの際には必ずと言ってよいほど、陰陽師に吉凶の判断を伺っているからです.いずれにせよ今度鎌倉に行ったときに私も確認してみたいと思います.
宮城様もお時間あがりましたら,安国論寺のご住職に尋ねてみてください.もっとくわしい関わりが分かるかもしれません.
ゲンボー先生
こんなに早くお返事がくるとは......!ほんとにファンなんですよ。もっとも、最近のHPでどうも複数の方がおられるような気がしていますが。
確かに日蓮宗と関係が有りそうです。本日、中央図書館(鎌倉)で調べましたところ、どうもそのあたりのような。本当にさっさと住職さんに伺うべきでした.分かりましたら、またご連絡いたしますが。お忙しい方に、お手数かけました。
有難うございました。宮城
ゲンボー先生、はじめまして!私は音楽大学に通っています、マリといいます。今回、鎌倉時代の彫刻についてレポートを書こうと思っているのですが、後期の彫刻についてがイマイチ分かりません。鎌倉時代といえば、運慶・快慶が有名ですが、鎌倉後期はどんな人が活躍したのですか?また、作風や主な作品なども知りたいです。色々な宗教との関連など、分からないことだらけなので、是非教えてください!よろしくお願いします。
ゲンボー先生
マリさん、メールをありがとう。
鎌倉時代は日本のルネッサンスと言われています。実際にはヨーロッパのルネッサンスより200年以上も前ですからこちらのほうがスゴイ!
仏像彫刻は飛鳥時代に始まり奈良朝・平安朝と発展を遂げましたが、末世と呼ばれた平安時代後期より写実的なものに変化してきました。それはちょうど武士の勃興と時を同じくするもので、これまでの貴族好みの優美なものから武士らしい力強さにあふれたものに変わってきたのです。
京都の六波羅蜜寺にある「空也上人」の彫像はその極致で、履いている草鞋のよりから、前傾している足の指が踏ん張っている様子、浮き出た血管、風邪になびくずだ袋など、木枯らし吹く京の町を念仏を唱えながら歩く空也の壮絶な姿をありありと表現しています。(空也像を彫ったのは運慶の四男康勝です。)
おそらくこれはミケランジェロやダビンチにも匹敵・・いや、それ以上の作品ではないでしょうか・・ホンモノを見たことがありますか?まだだったらいつか見てください。
さて、その鎌倉彫刻ですが世の中が安定し、武士の生活に余裕が出来ると共にまたまた変化をしてきました。写実的で力強い慶派も時代のニーズを写し、写実性に加えて優美さとか簡潔さということが加わってきたのです。仏像ではありませんが北条時頼座像や頼朝座像(といわれている)がそれです。つまり溢れんばかりのエネルギーを表現していたものがより洗練された形に変化したと言うわけですが、訴えるものが弱くなったとも言えます。
文化はその時代を映しだす鏡です。新しい力に満ちた時代には力強く写実的なものが・・繁栄したときには美しくきらびやかな・・衰退するときには廃頽的なものになります。時代が新しくなればなるほど進歩するというのは間違いで、立ち上がりの時期がもっとも充実しているのです。
さて、そうしたことから考えると鎌倉時代後期の仏師の名前が知られていない理由が分かるかと思います。運慶のあとは湛慶・康運・康弁・康勝(空也像作者)・運賀・運助の運慶子息たちが慶派を・・・快慶の弟子、行快・栄快・肥後定慶(師弟関係は不明)がそれぞれの流派を継承していきました。次の世代としては湛幸・慶秀らが、14世紀になると康誉・康峻ら南都仏師(奈良)、あるいは東寺仏師(京都)の名が知られていますが、初期のころの力強さはありません。 鎌倉時代の写実性はどちらかと言えば絵画にその影響を長く残しています。蒙古襲来絵詞はその好例と言えます。
鎌倉時代以降の仏像には見るべき物が極端に減り、やがて仏師は職人の一つに加えられていくようになりました。東大寺の大仏も奈良時代に創建された大仏や、鎌倉時代に再建されたものはさぞかし素晴らしいものだったに違いありません・・・現在の大仏は江戸時代のもです・・・
余談ですが、こうして見ると鎌倉時代は日本の社会が大きく変化した時代だったと言うことが分かりますね・・
さて、大筋を説明しましたのであとは君が詳しく調べてください。困ったことがあったらまたメールをください・・
ゲンボー先生
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