このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.
玉川学園・玉川大学
鎌倉時代の、徴兵制について知りたいのですが、お教えいただけないでしょうか?あとよろしければ、軍事体制についてもお教えねがいます。
ゲンボー先生
悠登さん メールをありがとう
鎌倉時代に徴兵制はありません.徴兵制度は明治6年(1873)に地租改正とともに明治政府から発令されました.じゃあ戦のときの雑兵はどうすんだあ・・・ということになりますが,そのときは各豪族が支配している農民を使うのです.また隷属的身分の人間も主人の身の回りの面倒や,場合によっては戦うこともありました.これらを所従とか下人といいます.
彼らの本業は農業で,戦のときに主人に従って戦ったのです.それはある意味では徴兵かもしれませんが,基本的に「主人を守る」「領地を確保する」「生活が向上するか,奴婢となるか」の,彼らにとっても切実な問題で,近代社会おける徴兵とは意味合いが異なります.
軍事体制と呼ばれるような機構もありせん.律令制下には軍団がありましたが,この時代には有名無実で全く機能していません.鎌倉時代は先に述べたように各豪族単位が軍団の基本的単位です.
これらの寄り集まりが軍団といえば軍団で,元寇の時も司令官(守護)がいて大まかな命令は下していましたが,実際の戦闘は各個バラバラに戦っていました.元という組織された強力な軍団に対してさえゲリラ戦に近い形で戦ったというわけで,負けるのはあたりまえでした.嵐やら向こうの都合でいなくなったのは本当にラッキーだったのです.武士が組織だって戦闘するのは戦国時代になってからの話です.
でも,かえってそれが面白いんだなあ,人間的で・・・竹崎季長なんてほんとに愛すべき人間だと思います.
ゲンボー先生
教育実習で鎌倉幕府を教える為、いろいろと資料を探していたところこのページにあたりました。とても、参考になりました。自分なりのまとめ方をしているのですが、このページに書いてあること(乱と役の違い)などの話を授業で使わせていただいてもよろしいでしょうか?お願いします。
一つ質問なのですが、資料集を見ていたら承久の乱の後鳥羽上皇の義時追討の命令と北条政子の御家人に対する演説の日が4日しか違わないのですが、当時京都と鎌倉間はどのくらいで行き来できたものなのですか?教えてください
ゲンボー先生
どうぞ資料を使ってください,良い教壇実習をしてくださいね.
鎌倉に武士の政権ができると,鎌倉を中心とした交通・運輸網が形成され,西の京都と東の鎌倉を結ぶ幹線道路として東海道が発達しました.幕府はその初期に駅路の法を定め,各駅に伝馬をおきました.これは幕府と朝廷,あるいは後に六波羅探題となる幕府の出張所との連絡のためです.
この伝馬を乗り継いで突っ走るわけですが,最短レコードが承久の乱の時で,三日半です.
義時追討の宣旨が下ったのが1221年5月15日,その宣旨が鎌倉に届いたのが5月19日.幕府側についたために殺された伊賀光季と,親幕府側の貴族である西園寺家からの急使はその前に着いていました,わずか三日半という速さです.
「頭一つ分早く」幕府は京都の情勢を知り,対応が後手に回らずに済んだというわけです.今も昔も情報を早く知った方が勝ち.ですね.
ちなみに庶民は宿駅に泊まりながら1日約35〜40キロを歩きましたから,鎌倉,京都間は14日〜16日です.
飛脚は7日です.そして前述の早馬が4〜5日というわけですね.
参考:承久の乱はなぜおきたか?
ゲンボー先生 ※この項目には日数の誤りがありましたので訂正しました(H16.9.29)
先日久しぶりに大英博物館に行ってきました。今年はJAPAN2001というイベントが各地で催され大英博物館でも「富士山」の絵の特集などしてるらしいということで覗きに行きました。
最初の説明、日本史の年表のようなものがあり、何気に見ると・・・1185−Kamakuraと鎌倉時代の始まりが、1185年になってました。
私のこどもの頃の記憶「いい国つくろう鎌倉幕府」は一体?そこで、インターネットで検索し、このサイトを見つけたのですがやはり正式な始まりは1192年となるのでしょうか?
それとも学者さんによっては、平氏が滅びた1184年が平安の最後で1185年が鎌倉幕府の始まりなのでしょうか?
私としては、大英博物館とは世界的なものなので間違いとは思いたくないし、ただ、学者の見解の違いによって日本の歴史が変わるのも・・・
そして間違ったことを世界の人に伝えられたくない、というのがあって
先生へ質問のメールを送らせていただいております。
すみませんが時間がございましたらお返答お願いします。
平山
ゲンボー先生
平山様
メールをありがとうございます.
大英博物館にそう書かれていたということは影響が大きいですね.
結論からいいますと,1192年が幕府成立の年というのはいささか「古い説」になりつつあります.というより教科書その他でそうなっているし,日本国民全員が「イイクニつくろうカマクラバクフ」と覚えさせられちゃったので,引っ込みがつかない・・・というのが現状だと思います.
古今東西の歴史を振り返れば分かるように,「このときに」新政権が成立したというのは意外に少ないものです.特に鎌倉幕府は140年の間,日本を完全に統治しているわけではないので,「なおさら」分かりにくくなっています.
私のホームページを見ていただければ分かるように政権としての「幕府」という言葉すら江戸時代の学者によってつけられたもので,当時の武士達は自分達の政権を「幕府」とは呼んでいませんでした.頼朝の頃に幕府といったら,それは将軍の住む館のことをさすのです.ですが分かりやすくするために、ここでは便宜上「幕府」をつかいましょう・・
いわゆる鎌倉幕府は関東の武士団の利権を守る「集団安全保障」の組織であり,全国区の組織ではありませんでした.教科書では「頼朝が征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開き,武士の時代になった」と書かれていますが,これはほとんど「幻想」に近いものです.
形式的にいっても頼朝は3年間で将軍を退いていますから,その段階で「幕府」は一旦なくなるわけです.
承久の乱以後も支配地が拡大し,幕府の権限が強くなったといっても,西日本は相変わらず朝廷や院の影響力が大きかったのです.
御家人の多くも,将軍と主従関係を持ちながら,領地内に国衙領(こくがりょう=国の支配体系化にある領地)を残し,いわゆる在庁官人として官位を持つ者が沢山いました.
つまり,この当時の日本は「朝廷の支配する地域と社会」.それに「武士政権が支配する土地と社会」の,二重構造になっていたと理解していただけるのが一番分かり易いと思います.
したがって,頼朝が征夷大将軍になった年というのはあまり意味を持たず,頼朝が従う豪族に御恩をした年,公文所と侍所ができた年,朝廷から東海,関東の支配権が認められた年,平家が滅ぼされた年,守護地頭を置いた年.と諸説入り乱れる結果となりました.
鎌倉の武士政権をどう捉えるかによって,成立の年も微妙に違ってくるというわけです.
1185年というのは中でも最も説得力を持つ年だと思います.私のホームページでは以下のように紹介しました.
(形式的にせよ全国的に影響力をおよぼすのは,頼朝が日本国総地頭/日本国総追捕使に任じられた1185年です.所謂「守護/地頭」の設置ということになります.これにより全国の国衙領/荘園に御家人を配置できるようになったからです.もっとも西国における平氏所領以外の設置は承久の乱以後になりますが・・・ )
これでよろしいでしょうか?分からないことがありましたらまたメールをください.
※大英博物館は20年前にフランスで教師をしていた時に,ドーバー海峡を渡ってよく行きました.「博物館とはかくあるべし」と強烈な印象を持ったのを思い出します.平山様は,行きたい時に行けて「うらやましい・・・」
ゲンボー先生
はじめまして、よろしくお願い申し上げます.
さて、以前より、私が疑問に思っていることについてお答えください。
それは、昨年と今年のNHKの大河ドラマに起因します。
昨年、徳川三代の中で、家康は秀忠に、“足軽ならば足軽大将に、足軽大将になれば武士に、武士ならば一国一城の主に、一国一城の主になれば、天下を取ろうと思うもの”男とはそういうものだ。ということを言っており、まこと感動いたしました。
しかし、今年の北条時宗では執権政治の中で、実権は握ってるようだが、形の上では、朝廷より将軍を招いたり、執権政治ではなく、江戸幕府のように、実質的にも天下をとり、目の上のたんこぶの朝廷までも制圧しようとしないのか大変疑問です。
江戸幕府は、最終的には大政奉還までしたのですから。この部分だけ考えても天下の統一の内容、考え方がぜんぜん違います。
なぜ、ここまで違うのか、お答え下さい。
ゲンボー先生
松原様
メールをありがとうございます.また返事が遅くなって申し訳ありません.5〜6月は全国の小学校で「鎌倉時代」と「お米の学習」が始まるため,質問が山のようにやってきます.(お米のページももっているのです・・)
では私の考えを述べさせていただきます.
鎌倉の武士政権はその成立の時から,滅亡の時まで「関東武士の権益保護組織」としての性格が非常に強いものでした.
石橋山の合戦で奇跡的に命をとりとめ九死に一生を得,安房,上総に渡った頼朝に数万の軍勢が味方についたのも「本領安堵」「新恩給与」という武士にとっての大きなメリットがあったからに他ありません.
問注所の存在は永年にわたって苦しんできた「境界争い」「役人の横暴」「相続のいざこざ」に終止符をうつものでした.頼朝はどんな些細な争いごとにも,双方の意見を聞いて公平な判断をくだしています.関東の武士が「鎌倉殿」と敬慕していた理由がここにあり,またこれが鎌倉幕府の根幹的な部分であると言っても過言ではありません.
先ほど「関東武士の権益保護組織」と書きましたが「関東武士の集団安全保障機構」とよんでも良いかも知れません.国司や目代といった朝廷側権力や鎌倉側に敵対する武士団に対抗する組織です.
新興開拓農場主だった関東の豪族は,頼朝と主従関係を結ぶことによって,それまで不安定だった経済的,政治的.軍事的な問題を解決しようとしたのです.
もともと征夷大将軍という位は,朝廷内の臨時職であり,頼朝自身は前右大将という号を好んで使っています.
断っておきますが「幕府」という言葉は政権を表す言葉としては一度も使われていません.鎌倉時代の人々は鎌倉の武士政権が「幕府」という名称の組織であるとは思っていませんでした.「鎌倉幕府」の呼称は江戸時代の学者によってつけられたものです.※頼朝の頃の幕府とは将軍の住む館のことをさします.
私達は便宜上「幕府」という言葉を使っていますが,江戸幕府のような全国を支配した組織とは根本的にちがうことを認識しておかなくてはなりません.
さて,ここまでくればお分かりのように,鎌倉幕府は執権政治になっても基本的には朝廷をたて,朝廷の権威を利用しながら,武士の権益を広げていきました.
ですから当時の日本は「関東/東北地方=武士の実質的支配地域」と「関西/西国=朝廷の支配地域+鎌倉側の支配地」という地理的な政権の勢力と,「御家人=鎌倉政権下」「他の階級=朝廷の政権下」という具合に社会的階級における政権勢力という二重の支配構造であったわけなのです.
武家政権は名を捨てて実をとる道を進みます.というか弱まったとは言え朝廷の力がまだまだ大きかったと言うべきでしょう.朝廷や天皇の権威もまだまだ大きく,前時代からの思想上の倫理感も大きく影響しているかと思います.
承久の乱の時,父義時に「敵軍に天皇がいたらどうするか」とたずねた泰時に,「その時は弓の弦を切って降参せよ,だが,それ以外の時は千人が一人になっても奮戦せよ」と義時が述べたと言われるように,武士にとって天皇を誅し朝廷を滅ぼすなどと言うことは及びもつかぬ事柄であったと思います.しかし,そういいながらも乱後に新補地頭を配置し実益をあげていく「したたかさ」があるわけで,私などはこうしたことがあるから鎌倉時代が面白いと思うのです.
ゲンボー先生
・「一所懸命」について
先生のページに出ていますからそちらをよく読んで下さい.「武士と荘園」のページをよく読むとさらに分かると思います.
・武士の心がけで特に大切にしていたものは?
ゲンボー先生
なんと言っても「弓馬の道」です,戦いの技術を高めておかなければ自分の首がすっ飛んでしまうからです.
狙ったとおりに矢を射ること,思ったとおりに馬を動かすこと・・どちらも大切な訓練でした.この訓練を怠らないことが「心がけ」の第一です.
その2は「状況判断」でしょう.戦の時にどちらにつくかを早く判断しなければなりません.
頼朝が旗揚げした時,最後のほうまで態度を保留していた武士は,その後は犯罪者扱いされました.ところが,石橋山の合戦の時は大庭軍について反頼朝だった豪族も,千葉で勢力を盛りかえした時に早々と「わび」をいれて味方になった者は御家人にされて,働きによっては恩賞も与えました.
その3は領地を守り抜く気概でしょうか.武士にとって,というよりもともと開拓農民であった豪族にとって,農地は命と同じものでした.これがないと一家も食っていけませんし,一族の繁栄もないからです.もちろん,新しい領地を得ることも大切なことですね.竹崎季長などはその典型でしょう.
もっと知りたいことがあったらいつでもメールをください.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
兄の義平,父の義朝,祖父の為義,その祖父というように鎌倉は頼朝の系譜の所領でした.そんなわけで関東地方に頼朝が入れる土地は鎌倉しかなかったのです.
一方が海,三方が山に囲まれた〜は,頼朝が館を設ける条件ではなかったのです.
頼朝の墓の説明書きに「頼朝と希義の墓所の土と石を交換した」と書かれていて、その説明板の下に大きな石に小さな石がたくさんのっけてあり、まわりをレンガで囲まれてるものがありましたが、それは関係あるのですか。以上のお答えお願いします。かなえ
君が見た頼朝の墓は江戸時代に島津氏によって作られたものです.本来のお墓は階段の下にある白旗神社の場所にありました.明治時代までは法華堂とよばれ最も位の高い人のお墓だったのです.三浦氏も最後にこの法華堂に立てこもって滅びました.なぜならそこが頼朝の廟だったからです.ゲンボー先生
ゲンボー先生
かなえさん,メールをありがとう.
幕府という言葉自体はあったのです.幕府は本来将軍の居場所をあらわします.吾妻鏡では「幕府」は将軍である頼朝の館のことをさしていいます.しかし,政権そのものは幕府とは呼ばれていません.つまり江戸時代の幕府とは意味が違うのです.
その,将軍はず〜っと「鎌倉殿」と呼ばれていました.役所の機関は「侍所」「政所」「問注所」とそのものずばりで呼ばれていました.また,その時代の長官の名前や肩書きで呼ばれる場合もありました.
大倉幕府には頼朝の居館がありました.政所の前身である公文所は三位以上の貴族が持つ私的な機関で,幕府と呼ばれている組織が頼朝個人の機関から発足したことが分かります.もちろん政務を司る館もありました.
頼朝亡き後,有力御家人による集団指導体制が組織されますが,形の上であっても将軍が最高位にあることが大切だったのは,鎌倉政権の基盤が将軍と御家人間の個々に結ばれた主従関係だったからなのです.執権政治になっても形式的には全く同じです.ですから一般の御家人は歴代の将軍を鎌倉殿と呼んだのです.
正式に鎌倉政権を呼ぶ名称はないし,不必要だったのです,御家人は鎌倉殿の命令により戦い,仕事に励みました.恩賞も鎌倉殿からうけました.もちろん実質的な支配者が北条氏であることは承知の上です.言い方をかえれば北条氏はそうした仕組みを利用して,実質的な支配をしていたと言っても良いのです.
鎌倉の政権は本質的には関東武士の安全保障の組織なのであって,全国を支配していたわけではありません.ここが複雑なところで,普通の人には分かりにくいところなのですが,形の上では朝廷が唯一の政権なのです.鎌倉幕府と江戸時代の学者が命名してしまったためにずいぶん誤解が生じているわけで,その影響は今日の教科書にまであらわれています.
今日でも議会はあっても軍隊が大きな影響力を持って政治を行っている国がありますね,あれに近い形だと思えば分かりやすいかもしれません.
ゲンボー先生より
HP拝見させていただきました。今私は歴史に残る残らないをふくめて住居の研究をしているのですが鎌倉時代や平安時代の町屋、庶民住宅の図など具体的なものに近い資料などはないでしょうか?特に内部空間とかを知りたいと思っています研究内容は天井など高さによって生まれたことで制限されるものです
ゲンボー先生
丸山さんメールをありがとう.
最近の調査で中世の館趾,あるいは集落趾が発見されていますが,内部の状況までは良く分かっていません.ただ,建築の基本的な単位となる度量衡が今日と少し変わっていることが確認されています.
それによると現在の一間は6尺,つまり1.82メートルですが,鎌倉期における一間は7尺,つまり2.1メートルあったということです.ただし,これには地方色があり,場所によって多少差があることを理解しておいて下さい.かりに天井があった場合,この単位で当てはめれば高さが分かるでしょう.
さて,当時の絵巻物を見ますと,ほぼその内部構造がわかります.「法然上人絵伝」の漆間時国の館,竹崎季長絵詞に描かれた安達泰盛の館,等々です.また,絵を見れば建築方法やおよその長さが割り出せると思います.トライしてみてはいかがでしょう.
御存じのように鎌倉時代は寝殿造りから書院造りへとの移行期になりますが,一般的な武士の家は農家です.したがって間仕切りはしてあっても,天井はなかったと思われます.ただし,町屋に居を構えた武士の家は,後期には天井があったかもしれませんね.
武家住宅にはその頃は天井が張られていたと思うのですが
前述のようにこの時代の武士は基本的に農民的性格を色濃く残していますから,地方の一般的な武士の家は農家です.大豪族になると寝殿造りを模したような住居に住んでいましたから,部分的には天井があったかも知れません.農家であれば「新見庄」地下人,谷内の屋敷と地頭方政所の指図の2枚があります.
その高さなどまた町屋にはどのような内部空間だったかということです
これは,私の説明より先ほど記した絵巻物を見た方が早いと思います.高さは,先ほどのスケールをあててみてあなたなりに算出してみて下さい.良い研究になると思いますよ.「一遍聖絵」や「粉河寺縁起絵巻」「慕帰絵」「松崎天神縁起絵巻」「 春日権現験記」などが良いかと思います.
申し訳ありませんが,私は建築史専門ではないのでこれ以上のことはお答えできません.逆に丸山さんが研究した結果を教えていただけたらと思います.もしあなたの研究に結果が出たら,全国の子供達にも教えてあげてもらえたらと思います.その時に,その気になったらメールをください.
勉強頑張って下さい.
ゲンボー先生
調べ物をしているうちに、ゲンボー先生の小学生とのやりとりのページにはいってきたのですが、分かりやすくて、教科書に載っていないような質問にも答えてくださるようなので、小学生ではありませんがよろしければ、私に力を貸してください!!
ゲンボー先生
メールをありがとう.大人もたくさん質問してきます.高校生も大歓迎!ところで君は男の子?それとも女の子?
質問1 源頼朝と義経の仲違いの原因は何ですか?判官びいきの心情があった
にもかかわらず、なぜほとんどの鎌倉武士は頼朝にしたがったのですか?
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/start/index.html
をよんでごらん.頼朝と義経じゃ政治家としてのレベルが違いすぎます.判官びいきは江戸時代に歌舞伎が演じられてからのものです.所領を安堵し戦功に応じて新しい領地を与えてくれるという頼朝と,戦闘はうまいが上皇の口車の乗せられてしまう義経では,普通の御家人はついていくはずがないのです.なんで鎌倉に武士政権が出来たか,その根本が分かれば君の疑問もすぐに解けます.
質問2 源氏3代が滅んだ後、北条義時追討の院宣がだされましたが、北条氏に反発していた武士が多かったにもかかわらず、なぜほとんどの鎌倉武士は義時に味方したのですか?
これも1と同じです,特に執権政治なってから「武士のための」「武士による」政権の特色が強まりましたから(頼朝は皇族の血をひく武家の棟梁ですから,一般の武士とは一線を画していました),分別のつく御家人ならば当然鎌倉方につくはずです.承久の乱は勝つべくして勝った戦です.
質問3 静御前が「吉野山、峰の白雪踏み分けて・・・・・・・」と即興の唄を歌った時、なぜ頼朝はおこったのですか?また、鎌倉武士たちはなぜ頼朝の怒りを恐れずに拍手喝采を送ったのですか?判官びいきの心情が知りたいです。
これは判官びいきというより,静がただの白拍子ではなく舞いも上手く,教養もありしかも美女だったから,字も満足に読めないような(もちろん読める人もいましたよ)関東の武士にしてみれば「ため息」のでるような光景だったのでしょう.思わず拍手喝采したのだと思いますよ.
それを見た頼朝が「なんだよ,オレのいうことも満足に分からなかった義経の女じゃないか」と頭に来たのも無理からぬことです.しかし,それも政子に「私たちだってそうだったじゃない」とかいわれて「そうか,むにゃむにゃ・・・」てなことになってしまいましたね.ここいらの出来事はとても人間臭くていいですね.先生はすきです.
しかし,その後の静は哀れでした,義経の子を身ごもっていた静は産まれた子供を殺されたあと.義経を頼って奥州にいこうとしますが,今の埼玉県の北葛飾郡あたりで義経の死を知らされて尼になってしまうのです.
ゲンボー先生
過去のことは過ぎ去った時代の終わったことではありません.そのことから学ぶことは沢山あります.歴史は未来を学ぶ学問なのです.だから面白いのです.
いつでもメールをください(ゲンボー先生)
私達は日蓮が書いた「御書」を教材に、鎌倉時代の歴史と文化を学ぶ会を昨年、立ち上げた者です。11月に行った第1回では、「種種御振舞御書」をテキストに、鎌倉名越の松葉ヶ谷にあった草庵から,竜の口の刑場までをたどってみました。地元という事もあり、鎌倉時代を実感する事ができ大いに盛り上がりました。
2回目では、「十字御書」をテキストに、十字・・むしもち・・を探ってみる事になりました。
「十字一百まい・菓子一籠給い了んぬ、正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め・此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく・日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく・徳もまさり人にも愛せられ候なり。」ここで言われる十字・むしもち・とは、いかなるもので、いかなる味なのか、できることなら実際に作ってみたいと思っています。またなぜ十字と書いてむしもちと呼ぶのか、教えてください。ちなみに、この御書は、建治四年ごろの御述作とされています。
ゲンボー先生
松村 様
メールを有り難うございました.
十字=蒸餅の由来ですが,日持ちさせるために十字に切れ目を入れたところからこの名がついたと言われていますが実体については諸説あります.十字はキリスト教伝来以前より魔よけの印象・呪符として使われていました。中国には「十字」のついていない餅は食べないという言い伝えもあります。
鎌倉時代には宋や元(元冦中にあっても,民間の貿易は続いていました)との貿易が盛んになり,菓子類の製法も多く取り入れられ飛躍的に菓子の種類と量が増えました.これらを唐果子(からくだもの)といいます.特筆すべきは砂糖の輸入が盛んになり消費量が増大したことです.とはいってもまだまだ一般庶民の口に入るものではなかったようです.
蒸餅は当時広まった饅頭のことだとする説があります.ただし餡などを包んだものではなく,砂糖で味付けした「砂糖饅頭」です.砂糖饅頭については記述があります.原料は糯米ではなく当然小麦です.後に記された「 和漢三才図会」によると蒸餅はパンのようなものとされていますから,そのころの日本人が蒸餅といえばお餅ではなくて小麦粉で作った饅頭のことだったのではないでしょうか.
私が思うには,黒砂糖をまぜて作った蒸しパンのようなものかと思います.(精白された白糖は貴重品だからです)これは私が子供の頃にパン屋さんで売っていたような記憶があります.(今でもあるか?)蒸しパンは四角でしたが十字は丸かったのでしょう.それでてっぺんを十字に切って日持ちをよくした・・・もしくは魔よけの印とつけた・・・
ちなみに頼朝が息子の頼家の鹿狩りを祝って,牧狩りに参加した御家人に祝いとして蒸餅を配ったとありますから,やはり饅頭のようなお菓子だったと思います.無骨な板東武者が初めて口にする甘い砂糖饅頭.みんなびっくりしたでしょうね・・・その時の顔や気持ちが分かるような気がします.中には自分が食べないで奥さんや子供に持って帰った武士もいたことでしょう・・きっと・・・答えらしい答えにならなくて申し訳ありません.これで宜しいでしょうか?
松村 弘子 様
昨日,十字についてメールを差し上げたゲンボー先生です.
あれから,いろいろ考えたのですが,十字の切れ目は蒸し上がってから入れたのではなく,蒸す前に入れたのではないかということです.饅頭は鎌倉時代後期に我が国に到来していますが問題は酵母です.当時の酵母は中国伝来の小麦粉から作った「饅頭種」が第一に考えられます,次に日本で作られた米が原料の「酒種」です.いずれにせよ天然酵母ですから今のイーストのような強力な醗酵ではなかったと考えられます.しかも「中身無し」ですから,醗酵を促進するために切れ目を入れたのではないかと思います.(ちなみに薯を入れて作る饅頭は室町時代に作られたようです,今の「かるかん」とか「しほせ」の系統でしょうか・・)
お願いですが,松村様が作られるのでしたら,いくつか実験されて一番うまくいったものを教えて下さい.酒酵母については福岡県八女地方に「甘酒」を生地に練り込んで作る饅頭があるそうですから,それでいけると思います.
「饅頭種」については「小麦粉に水を入れて作った」としか分かりません.おそらく今のような純度の高い粉ではなく全粒粉のようなものではないでしょうか.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
いわゆる初期荘園は近畿地方を中心に,北陸,中国,四国,九州に及びます,後に開拓地である関東地方,東北地方に広まります.荘園は通常「〜庄」と呼ばれますが,神社領は「〜御厨」(みくりや),牧場は「〜牧」と呼ばれています.しかし,ここで注意しなくてはならないのは,日本中の農地が荘園になったのではないということです.
国府の支配下にある領地を「国衙」(こくが)といいますが,この数も大変に多かったのです.また,国府の直轄地を「保」(ほ・ほう)とよび,国府経営の経済的基盤になる土地もありました.(保も国衙領のカテゴリーに入るものとして扱われています.)
多くの豪族達は生き残りをかけて,一部は中央の有力者に寄進し,一部は国衙領にするという安全策をとっています.名前の下に介(すけ),尉(じょう)という職名がついているのはそうした人々で「在庁官人」と呼ばれています.
朝廷は国司を中央から派遣はしましたが,在地の豪族の力を利用して徴税や土木工事を行っていたのです.
ゲンボー先生
はじめましてこんにちわ。私は、東北地方の歴史・文化を調べておりますが、鎌倉時代における東北地方の庶民の生活はどんな様子だったのかを教えていただきたく存じます。
奥州藤原が繁栄していた時代、倒されたあとの時代でも大きな違いがあったと推測しますが。また、文献として参考になるものがあれば、あわせて教えてください。
ゲンボー先生
高橋様.メールをありがとうございました.
大変に申し訳ありませんが,東北地方のことはよく知りません.生半可なことをお教えしてしまうといけないので,説明は控えさせてください.
ただ,頼朝が泰衡討伐を行った後の論功行賞で陸奥・出羽両国の田文など基本台帳の復元と国内の田畑の検注を行っていること,国府以下の政庁の仕事は前例通りにすることを命じていることから,藤原氏時代においても形の上では律令制下の支配形態を保っていたようです.
関東と大きく違うのは藤原氏という大豪族が強大な力を持って他の豪族を統率していたことであり,あたかもそれは一つの国のようであったことでしょうか.
関東地方は頼朝によってはじめて豪族が統率されたのであって,それまでは,ある意味で小さな戦国時代のようなものでした.
だからこそ,集団安全保障機構の幕府を作ったようなものなのであって,頼朝が秀衡存命中に手が出せなかったのは,秀衡が優れた政治家であり司令官であったこと以上に,関東武士の統率ができていなかったということがあります.
斯様に奥州は一つにまとまっていたわけですから,冷害や台風などの天災時をのぞいてかなり安定した生活をおくっていたと考えられます.
近年,十三湊の発掘調査が進み,奥州の流通経済が思った以上に大がかりで,豊かであったことが分かってきました.
都や鎌倉から離れているためにわからないことがあって,子供達はどうしても「昔の東北=冷涼=未開地」というイメージで見てしまいがちですが,実際にはそうではないことがこれからの調査や研究で明らかになることと思います.
その後の東北地方ですが,すべての郡,郷,荘園は残ることなく関東武士が地頭として配置され,完全に頼朝の支配下におかれました.これは関東地方や西国の研究をしていての想像ですが,藤原氏時代より農民に対する支配力が強まり,農民に対する取り立ても厳しくなったのではないでしょうか?この点について高橋様がご存じでしたらぜひ教えていただきたいと思います.
いずれにせよ,奥州を傘下に入れた東国武士団の力が強大であったことに変わりはありません.幕府は頼朝亡き後,北条氏を中心とする関東武士による真の意味での武士政権を確立させますが,その背景には奥州の持つ大きな生産力があったことを忘れてはならないと思います.
ゲンボー先生
注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.