速報 由比が浜墓地群工房趾遺跡発掘調査

玉川学園・玉川大学 協力 玉川文化財研究所


 

由比が浜は鎌倉の町の前面に広がる浜で,鎌倉時代には「前浜」と呼ばれていました.鎌倉の中心路である若宮大路はここから始まり鶴岡八幡宮まで一直線につながっています.発掘は一の鳥居付近で行われました.

鎌倉地図(前浜はグレーの線まで)

調査の全景(砂地のために土留めを行っています)地表約2メートル下から遺跡が姿を現しました.

 

方形竪穴住居とよばれる独特の小屋あとです.(左写真)柱の穴がいたるところから出てきます.(右写真)

 

方形竪穴住居の重なりを調べています(左写真) 出土した「切り石」は墓地と関係がありそうです.(写真右)

 

砂層に残る地震による断層(斜めの線がそのあとです.左には青線を入れました)(左右写真)

 

砂運びも楽じゃありません.(左写真) 測量は調査にとって大切な作業のひとつです.(右写真)

 

表面を保護するために水をまきます.(左写真) 住居の中からは生活に使った陶器が出てきます(右写真)

 

鎌倉時代の後期に一般庶民にも使われるようになった青磁は,中国との貿易で入ってきました.(左写真)

鉄の鍋や包丁,それに刀などが出土しています.鉄器ですが何でしょう?(右写真)

 

小屋を作る時に掘り出されたおびただしい数の人骨.頭蓋骨は集められていました.下に墓地があったのです.(左右写真)

 

掘り返されて捨てられた人骨(左右写真)

下層から出てきた墓地

 

埋葬された大人の人骨(左写真)  埋葬された子供の人骨(右写真)どちらもお棺に入れて丁寧に葬ってありました.

 

 

こちらは一度に穴に放り込まれた状態で出てきたおびただしい数の人骨.大量の人が一度に死んだことを表しています.疫病や大地震などの災害が考えられます.(合掌)

工房で作られていたもの

 

刀のつばの部分にさしておく「こうがい」です.整髪に使います.(左写真) 右は飾り物で使い道は不明です.どちらも鹿骨製です.

化粧品の入れ物と思われています.可愛いですね.

 

こんなものも出ましたよ「さいころ」です.「1」の反対側はちゃんと「6」でした.


これまでの発掘で分ったこと

1.鎌倉時代の中期ごろの前浜は集団墓地だったということ.

2.それらの墓地には供養塔や墓碑がないこと.

3.集団墓地にあるとき大量の死者が埋葬されたこと.疫病か災害で亡くなった人々と予想されます.

4.人口の増加とともにその墓地の上にも家が作られていったこと.

5.あとから来た人が人骨を掘り返していること.

6.頭蓋骨だけは供養したらしいこと.

7.住居以外に商店や工房があったらしいこと.

8.無計画,無秩序にそれらが作られていったこと.


参考資料「鎌倉におきた地震」

・1240/03/17,延応2/02/22

・1241/03/20,仁治2/02/07 (大地震)

・1241/05/15,仁治2/04/03 (大地震)由比ケ浜の鶴岡拝殿が破壊.

・1247/12/24,宝治1/11/26 (大地震)

・1253/03/25,建長5/02/25 (大地震)

・1253/05/08,建長5/04/10 (大地震)

・1293/05/20,正応6/04/13 (大地震)建長寺などが焼失し,死者が2万3000人に及ぶ.

・1305/04/30,嘉元3/04/06 (大地震)

・1307/04/04,徳治2/03/02 (大地震)

・1316/08/11,正和5/07/23 (大地震)

・1323/06/07,元亨3/05/03 (大地震)


詳しいことは今後の研究にまかされますが,当時の庶民が雑草のように生きていたことや,死者に対する感覚が現代人とかなり違うことの一端に触れたような気がします.また,人口の急増による都市の膨張など,今日の都市問題に共通する部分もあります.

今後の研究に大いに期待しましょう.


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 制作・著作 玉川学園 多賀譲治