頼朝が鎌倉に幕府を開くためのバックボーンである関東地方,特に神奈川県が当時どのような状況にあったかを調べてみました.
神奈川県は境川(さかいがわ)をほぼ境界(きょうかい)にして東の川崎市(かわさきし),横浜市(よこはまし)は武蔵の国(むさし=昔の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)に属しています.境川より西の相模原市(さがみはらし),厚木市(あつぎし),綾瀬市(あやせし),大和市(やまとし),座間市(ざまし).海老名市(えびなし),秦野市(はだのし),津久井郡(つくいぐん),伊勢原市(いせはらし),平塚市(ひらつかし),茅ヶ崎市(ちがさきし),藤沢市(ふじさわし),小田原市(おだわらし),南足柄市(みなみあしがらし)と(境川の東ですが)鎌倉市(かまくらし),逗子市(ずしし),三浦市(みうらし),横須賀市(よこすかし),が相模の国(さがみ)になります.
1.荘園がたくさんありました.
「荘園」はそれまで全ての土地は天皇のものであるという公地公民の制度がくずれた平安時代に発生しました.有力な貴族や寺社が持っている特権(不輸/不入の権)(ふゆ・ふにゅうのけん)にたよることよって,朝廷に重い税を払うことや中央から派遣(はけん=つかわされること)された役人の横暴(おうぼう=無理なことをおしとおすこと)から一族と領地を守ろうとしたのです.
荘園のことを詳しく勉強したい人はこちら 荘園のページに行く
記録に残っている一番古い荘園は「後三年の役」(ごさんねんのえき=1083年におきた戦争.東北地方の豪族の争いに,源義家を中心とする関東の武士団がかい入し,勢力をのばそうとした)の勇者と伝えられる鎌倉景正(かまくらかげまさ)が現在の藤沢市にあたる大庭(おおば)の開拓地を伊勢神宮(いせじんぐう)に寄進(きしん=名目上の持ち主になってもらうこと)したとあります.これを大庭御厨(おおばのみくりや)といいます.厨(くりや)と言うのは調理場と言う意味ですがこの場合は伊勢神宮に祭られている神様の食べ物を作るところ,ということになります.荘園の一種です.大庭御厨には12の郷(ごう=村)があったと記録されています.12の村があったということですからずいぶん広いことが分かりますね.
次に川崎市の高津区,中原区一帯に「稲毛の庄」(いなげのしょう)という荘園がありました.多摩区にある小澤城(おざわじょう)を本拠とする稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)の領地でした.稲毛の庄には小田郷(おだのごう),稲毛郷(いなげのごう),井田郷(いだのごう)という3つの村がありました.(いずれも現在の川崎市,横浜市に地名が残っています)
記録によると田地263町歩,荒田262町歩,新田50町歩という広い農地があったようです.(1町歩=約1ヘクタール)稲毛の庄からは毎年「絹の織物」が寄進先の九条家に納められていたと記録されています.当時,多摩川の付近は絹の産地でもあったようです.東京都の調布市や川崎市多摩区の調布(ちょうふ)という地名は古代からこの地域が絹の産地であったことを物語っていると言われています.また神奈川県の中央部には糟谷庄(かすやのしょう)という大きな荘園もありました.武蔵や相模の国は元々いくつかの大きな豪族が支配してた地域でしたが,特に平安時代の中ごろより荒れ地が開墾されて新しい農地が広がっていきました.それらの開墾を行ってきた豪族がそれぞれ武士団を作っていたのです.そして,自分達の領地を有力な貴族や大きな寺社に寄進して重い税をのがれたり,逆に国府の支配下に入って郡司や郷司といった役人となって免税(めんぜい=税金を払わなくてもいいこと)の権利を得ようとしました.
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足上(あしのかみ)郡 |
大井荘(大井町) |
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狩野荘(南足柄郡) |
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足下(あしのしも)郡 |
大友荘(小田原市) |
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成田荘(小田原市) |
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曽我荘(小田原市) |
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早川荘(小田原市) |
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余綾(ゆるき・よろき)郡 |
中村荘(中井町) |
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河匂荘(二宮町) |
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大住(おおすみ)郡 |
波多野荘(秦野市) |
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旧国府別宮(平塚市) |
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前取荘(平塚市) |
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糟谷荘(伊勢原市) |
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豊田荘(平塚市) |
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石田荘(伊勢原市/厚木市) |
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愛甲(あいこう)郡 |
愛甲荘(厚木市) |
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毛利荘(厚木市) |
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一宮荘(寒川町) |
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高座(こうざ)郡 |
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渋谷荘(藤沢市/綾瀬市) |
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国分寺荘(海老名市) |
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鎌倉(かまくら)郡 |
吉田荘(横浜市戸塚区) |
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玉輪荘(鎌倉市) |
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山内荘(鎌倉市) |
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三浦(みうら)郡 |
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三崎荘(三浦市) |
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久良岐(くらき・くら)郡 |
六浦荘(横浜市金沢区) |
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橘樹(たちばな)郡 |
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賀勢荘(川崎市幸区) |
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橘御厨(川崎市高津区) |
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河崎荘(川崎市川崎区) |
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都筑(つづき)郡 |
榛谷御厨(横浜市旭区) |
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恩田御厨(横浜市緑区) |
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小山田荘(東京都町田市) |
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庄(荘園)・御厨の以外に馬を育てる「牧」(まき)がありました.横浜市都筑区の「石川牧」や小机(こづくえ)にあったと言われる「立野牧」などが知られています.
さて以上は荘園という「国に税を払わなくてもよい」私有地ですが,これ以外に朝廷,つまり国司が管轄する土地がありました,それらを国衙領(こくがりょう)といいます.平安時代以後には全ての農地が荘園になってしまったように思われがちですが,案外そうでもなく領主(豪族)のなかには有力者に土地を寄進しないで,国府の管轄下にいる者も多くいました.豪族の中には一部は荘園に,一部は国衙領にと上手に使い分けをしている者さえいました.
また,「保」とは中央の役所が所有する領地のことで,これも国衙領とともに国府の管轄下(かんかつか=権限によって支配されること)にありました.
自分の領地が荘園であるか国衙領であるかに関らず,豪族達は権利を守るために武装しました.そして互いに団結(だんけつ)するために豪族どうしで親戚関係(しんせきかんけい)になったり,身分の高い人と親戚関係になることをすすめました(ほとんどが平安時代後期に国司としてやってきた平氏と親戚関係になりました).このようにして武士の多くは互いに結びつき領地や一族を守ろうとしたのです.
しかし,寄進先の貴族や寺社の力が弱くなったり,国司(あるいは目代=もくだい=国司の代理)が替わったりすると,とたんに立場が弱くなって領地を奪われたり,重い税金をかけられたりするなど不安定な生活が続きました.平清盛が政権を握(にぎ)っても良い生活ができたのは都にいる平氏だけです.平時忠は「平家に非ずんば人に非ず」と言いましたが,地方にいた平氏はこの場合平氏の仲間ではないと思われていました.それどころか家来の一部として扱われる始末です.
そういう状態(じょうたい)の時に源頼朝(みなもとのよりとも)が兵をあげたのです.石橋山の合戦(いしばしやまのかっせん)までは頼朝軍は300しかいませんでしたから,多くの武士は様子を見ていました.中には頼朝を討(う)って恩賞をもらおうとした武士もいましたが,当時としては当たり前のことだったのです.ところが房総(千葉県)に逃げて上総の介広常が2万4千の軍勢をひきつれ頼朝軍に加わってからは,関東地方のほとんど全ての豪族が頼朝軍に加わりました.中には石橋山の合戦で頼朝の追討軍(ついとうぐん=やっつける軍)に加わっていた者までがやってきたという状態です.上の表や地図上に表された荘園の持ち主である相模の豪族達も同じく頼朝に従いました.なぜなら「頼朝」は「武士の権利を守る」ことを表明(ひょうめい=あきらかにすること)し実行していったからです.
※このいきさつを詳しく知りたい人はこちら 「鎌倉幕府ができるまで」
2.道が発達しました.
鎌倉に武士の政権ができると関東地方の鎌倉に向かう道が整備(せいび)されました.これを鎌倉街道(かまくらかいどう)といいます.
鎌倉街道は鎌倉と東北/関東/中部/近畿を結び付ける重要(じゅうよう)な道路として発達しました.特に関東地方では武士団の移動が素早くできるという軍事的な目的の強い道路でした.その証拠に尾根や山道では凹状に掘られ,平野部では両側に2メートル程度の土手を築(きず)いているところがありました.それは当時の馬に乗った人がちょうど隠れる高さなのです.町田市の小野路町にはいまでも凹状の道が尾根筋(おねすじ=おかや山のうえ)に残っています.(上の地図をクリックしてみてください)
しかし,平和な状態が続くと,ただ軍事目的だけではなく,生活物資などの運搬にも大いに利用される経済道路としても発達していきました.鎌倉街道には2里〜3里の間隔(かんかく)で宿があり,そこには簡単(かんたん)な休息所や宿屋,それに飛脚(ひきゃく=手紙をとどける人)のための馬を用意する「駅」もありました.特に京都と結ばれている東海道の整備が進み,江戸時代の五十三次(ごじゅうさんつぎ)の原形(げんけい)が鎌倉時代にできたといわれています.
相模には懐島(ふところじま)・平塚(ひらつか)・大磯(おおいそ)・小磯(こいそ)・渋見(しぶみ)・国府津(こうづ)・酒匂(さかわ)・小田原(おだわら)・湯本(ゆもと)・葦河(あしかわ=箱根)の宿があり,それぞれがにぎわっていたと記録にあります.また,人の集まるところには「市」(いち=商店があつまること)がたち,多くの商人が集まって一層のにぎわいをみせていたことでしょう.また,あまり知られてはいませんが,海の交通も発達していました.特に三浦半島(みうらはんとう)と房総半島(ぼうそうはんとう=千葉)を結ぶ航路(こうろ)は相模と安房(あわ),上総(かずさ)を結ぶ大切な交通路です.更に国府津や鎌倉の和賀江島(わかえじま)は大形船が着岸(ちゃくがん)できる港として整備されました.和賀江島では博多(はかた)を経由した日宋貿易(にっそうぼうえき=中国との貿易)も行われていました.
和賀江島に近い「由比が浜」の遺跡からは多くの青磁(せいじ=中国の焼き物=焼く温度が高いために薄くて丈夫できれい=美しい緑色をしている)や白磁(はくじ=青磁と同じく中国の焼きもので色が白い)が見つかりました.
私たちは「交通」というと,つい街道など陸上交通のことをイメージしますが,島国の日本は古代から海上の交通が発達していました.鎌倉時代になると海上交通はますます発展し,地方の特産品が船を使って運ばれました.「津々浦々」(つつうらうら)というのは「全国すみずみまで」という意味がありますが,津も浦もともに港のことを指しています.(津とは船着き場のことで,浦とは入り江を意味します)そうした言葉がうまれるほど海上の交通は日常の交通・運搬(うんぱん=ものを運ぶこと)の手段(しゅだん=方法)だったわけです.
頼朝が鎌倉に武士の政権を作るまでは坂東(ばんどう=東国のこと)は遅れた開拓地(かいたくち)だったのですが,鎌倉時代の中期〜後期にかけては交通網の整備も進み,経済的にも充実(じゅうじつ)した地域(ちいき)になってきました.特に鎌倉を抱える相模の国はその中心的な地域へと発展していったのです.
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