1180年(治承四年)
8月26日
畠山重忠,河越重頼,江戸重長のひきいる軍勢数千が,三浦氏本城の衣笠城(きぬがさじょう=横須賀の近くにあります)を夕刻に攻撃した.
大手門は三浦義澄、十郎義連、西の木戸口は和田の太郎義盛、金田の大夫頼次、中の陣は長江の太郎義景、大多和の三郎義久等が守りましたが,多勢に無勢で城を捨て逃げ去りました.
そして本城にいる三浦義明を守ろうとしましたが「源家代々の家人である私は,いまその貴種である頼朝公の旗揚げの時にめぐりあえて本当に幸せである.私ももう89才であるからこの先は長くはない.今この老命を頼朝公に投げ打って、子々孫々の誉れとしたい.お前達は急いでこの場を逃げて頼朝公のところへ行け,私はここに残り重頼等の大軍と戦って目にもの見せてくれよう」義澄たちは涙を流し別れを惜しんだ.その後全員が衣笠城より離脱し船で安房に向かった.(以下省略)
8月27日
風雨の中三浦の介義明は(年八十九)、河越の太郎重頼、江戸の太郎重長等によって討ち取られた.義澄たちは安房の国に逃げることができた.北条殿,岡崎の四郎義實、近藤七国平等も土肥の郷岩浦より船に乗って,三浦氏と同じく房州目指した.偶然にも海上で船を並べ互いの無事を喜びあった.大庭景親は数千騎を率いて三浦に攻めたが,すでに義澄たちが逃げてしまったあとなので帰ってしまった.(以下省略)
8月28日
頼朝公は土肥の真鶴崎より船に乗り,安房の国を目指すこととなった.土肥実平は、貞恒という者に船を用意させた.同じく真鶴より弥太郎遠平を政子の元につかわし,頼朝公が無事であることを伝えさせた.
8月29日
頼朝公、土肥実平を供とし、舟で安房の国の平北郡猟の島に着ついた.北条殿以下の人々これを迎え無事を喜びあった.
※場所については諸説が有ります
その入り江の高みに建てられた鳥居(大波によって半壊している)コンクリート製だから大正時代以後のものでしょうね.高さ約2メートル.
9月01日
頼朝公は北条殿達に上総の介広常が早く参じるように申しつけろと命じた.また,安房の国の住人安西三郎景益に対しても安房の役人どもを頼朝に服従させ,逆らう者は捕らえよと手紙を出した.
9月02日
政子は伊豆の山中から秋戸の村にやってきて,真鶴よりつかわされた弥太郎遠平と会い,頼朝公の無事を伝えられた.しかし,安房へ向いその先の消息は知らないと告げられたので,喜びと悲しみとで複雑な気持ちになってしまった.
9月03日
頼朝公は大庭景親の軍勢に加わらなかった小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊嶋権守清元、葛西三郎清重等に頼朝の元に集まれと手紙を出した.途中に敵である江戸、河越の領地があるため海路を使うようにとの指示もあった.
夜半.平家に心を寄せる上総の住人長狭六郎常伴が宿舎を襲うとのうわさがあったので,逆に三浦次郎義澄が先手を討って常伴を討ち取った.
9月04日
安房の役人である安西三郎景益は頼朝公の書状を読み,一族ならびに高位の役人(豪族)を引き連れて頼朝公のところへ参上した.
景益がいうには安易に上総にはいれば長狭の六郎のような,頼朝公の命を狙う者がうろうろしていますので,まず使者を出して迎えのために参上せよと命じなさいと進言した.そのため頼朝公はひとまず景益の屋敷に行くこととなった.そして和田義盛を上総の介広常(かずさのすけひろつね)への使者とした.また安達盛長を千葉の介常胤(ちばのすけつねたね)への使者とし,両名とも急いで各々の目的地を目指した.
9月05日
頼朝公は洲崎明神に参り「使者に出した者達が無事帰ってきたならば,明神に功田を寄付する」との御願書を奉じた.
9月06日
夜になって和田義盛が帰り,上総の介広常は千葉の介常胤と相談してから態度を決めるとの返答があった事を伝える.
9月07日
木曽の源義仲が頼朝公が石橋山において戦ったことを聞き及んで,木曽(長野)で兵を挙げた.(略)
9月08日
使者として甲斐の国に進発した北條時政は甲斐(山梨)の源氏等を伴い信濃(長野)の国に到着した.頼朝軍に参加する者はこれを味方に入れ,逆らう者はことごとく討つことを命じた.
9月09日
安達盛長が千葉より帰って報告した.千葉の介常胤の屋敷に着くとすぐに部屋に案内された.部屋には息子の胤正と胤頼を両脇に従え常胤が座っていた.常胤は安達盛長の話を聞いていたがしばらく言葉を出さなかった.まず,二人の息子が頼朝公が危機を脱し安房に来たことを喜び,頼朝公に参軍することを待っていた,であるから,早く命令書を出してほしいことを安達盛長に伝えた.
そのあと千葉の介常胤が「源氏が絶えて後,再び頼朝公が源氏を再興することを聞き及び,嬉しくて涙が止まらない」とはじめて口を開いた.その後祝いの酒をのみ,「ここは頼朝公にとって決して安心できる土地ではありません,早く相模の鎌倉に行かれなさい」と伝える旨を盛長に申し付けた.そして,すぐに軍勢を整えて頼朝公のところへ馳せ参じることを約束した.
ここまでのいきさつと解説 石橋山で九死に一生を得た頼朝は数名の家来を連れて真鶴から小舟で安房の国(千葉県の館山あたり)に逃げました.この場所はかねてから,失敗した時に落ち合う約束をしていた場所です.戦争では何があるかわからないから,勝っても負けても「次にどうするか」ということを常に考えています.(晴れていれば真鶴岬から三浦半島,房総半島が見えます.海流の関係で真鶴から安房までは一日とはかかりません.おそらく相模の漁師は安房方面にもちょくちょく行っていたことでしょう.また三浦半島と安房の距離はもっと近く,当時の船でも2〜3時間もあればついてしまいます.水田の少ない安房には大豪族がおらず対岸の三浦氏の勢力が及んでいたということが,実感としてわかります.)
安房には千葉氏.上総氏という平治の乱の時に父義朝の軍に加わった豪族がいます.また頼朝をバックアップしている三浦氏の影響が強いところでもあります.今でも千葉県に行くと「安房は千葉県の他地域とは言葉も風習もちがう」といわれています.山がちで海との関係が深かった安房と,水田や畑が多い農業地帯の上総,下総とはおのずと文化が違うのでしょう.安房は千葉県にありながら,神奈川県や紀伊半島と関係の深い土地です.それは「黒潮」という海の道でつながっているからなのです.
頼朝一行は敵の目を避けて浦賀水道を越えて安房の目立たない浜につきました.でないと,全員殺されてしまうからです.千葉の介常胤は早くから頼朝に味方することを誓っていましたが,強大な力を誇る上総の介広常のほうは様子を見ていました.様子を見ると言うことは頼朝の立場が悪くなったら討ち取ってしまう,ということなのです.
そう言う状況ですから,安房に着いた頼朝一行はまず姿を隠します.そして使者をやって先に逃げた北条氏や三浦氏一行と会ったのです.頼朝の命を狙う者は多く,どこに行くにしても「頼朝さんは危ないからまず,使者をたてて様子を見よう」という慎重ぶりでした.そこで千葉の介常胤が「頼朝さんが一番安全なのはお父さんもおじいさんもいた鎌倉しかありません.早く軍勢を整えて鎌倉へ行きなさい」といったのです.鎌倉なら昔から源氏の土地でもあるし皆も安心というわけですね.