御成敗式目が生まれるまでの道のり
ー日本は法律の国だったー
(604年)聖徳太子が十七条の憲法を定める (飛鳥時代)
(689年)「浄御原令」(きよみのはらりょう)ができる (飛鳥時代)
(701年)「大宝律令」(たいほうりつりょう)がこの頃できる (飛鳥時代)
(718年)「養老律令」(ようろうりつりょう)ができる(奈良時代)
(869年)「貞観格式」(じょうがんきゃくしき)ができる(平安時代)
(820年)「弘仁格式」(こうにんきゃくしき)ができる(平安時代)
(927年)「延喜格式」(えんぎきゃくしき)ができる (平安時代)
(1232年)「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)ができる (鎌倉時代)
「憲法」(けんぽう)とは国の基本を定めた根本の法律です。細かいことは書いてありません。聖徳太子の十七条の憲法では「天皇中心にした政治」「仏教の教えを大切にする」国を目指すと書いてありました。
「令」(りょう)とは役所の役割と役人の仕事の内容を定めた法です。
「律」(りつ)は犯罪の種類や刑罰を定めた法です。
「格」(きゃく)とは、社会の変化にあわせて、律令を部分的にまとめなおしたものです。
「式」(しき)とは律令を行うときに、実際にあわせてより細かく取り決めたものです。たとえば令で「位によって給料の額が異なる」と書いてあったら「何位のなになにはいくら」と具体的に取り決めたものが「式」になります。なかでも有名なのは延喜格式で、一般には延喜式(えんぎしき)と呼ばれています。
「和をもって尊しとなす〜」と聖徳太子が作られた十七条の憲法をはじめとして、日本では古くから法律が国の政治や人々の生活のよりどころとなってきました。皆さんが学習している鎌倉時代にも法律はもちろんありましたが、なにより特徴的なのは武士の生活にあわせた、分かりやすいものであったということでしょう。それが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)なのです。
それまでの法律は「律令」と言って、言葉もむずかしく貴族や役人にしか分からないようなものでした。一般の人はもちろん武士にとってもよく分からないものでした。
飛鳥時代の終わり頃から鎌倉時代の初めころまで、日本はながいあいだ律令によって政治が行われていました。その間には貴族たちに都合のよいように利用されていた時代もあります。国司(こくし=今でいうと知事のような役人)になった貴族の中には、庶民から重い税をとったり奴隷(どれい)のようにこきつかった者もいました。また、力の弱そうな豪族(ごうぞく=有力な農民)の土地をうばう者すらいました。あまりひどいので住民から朝廷に訴えられた(うったえられた)国司もいたほどです。
関東地方は平安時代の中頃から開拓(かいたく)が始まった新しい土地です。人々はまずはじめに利根川、荒川、多摩川、相模川などの大きな川や、その支流を開拓し水田や畑を作っていきました。今は超高層ビルが建っている都心もその当時は雑木林です。やがて、川から用水を引き原野を切りひらき農地も広がってきました。ですが、そういう土地ですから「どこからどこまでが誰の土地」ということがはっきりしなかったり、貴重な水の取り分をめぐって争いがたえませんでした。そこで有力な農民は仲間をふやして武装していきました。これが板東武者と呼ばれる関東の武士の始まりです。武士は一族やその領地をまもるために「しかたなし」に生まれたものでもあるのです。
武士は自分たちを守るために一族を中心に仲間をふやし結束を固めていきました。そのトップが源氏とか平氏と呼ばれる血筋の良い人たちだったのです。源氏や平氏はもともとは天皇の子供ですが、たくさん生まれたときなどに臣戚(しんせき=天皇の家来)になった人たちです。源氏や平氏の中には国司として地方にいく者もいました。こうした人たちの中にはそのまま地方に残った人もいました。豪族たちは積極的に源氏や平氏と親戚(しんせき)関係になりますます結束を固めましたが、やはり争いは残っていました。このようなところでは法律はあっても無いようなものです。武士たちは安心して暮らせる世の中を待ち望んでいました。
そこへ登場したのが源頼朝というわけです。頼朝は平家から命をねらわれていたために伊豆で兵を挙(あ)げましたが、それは地方の武士、なかでも相模(さがみ=現在の神奈川県の一部)や下総(しもふさ=現在の千葉県の一部)の有力武士の後押しがあったからなのです。相模の有力な武士である三浦氏や中村氏、それに千葉氏一族が中心となって、武士に有利な勢力を関東に築こうとしたのです。平氏を打倒(だとう=たおすこと)するためには源氏の嫡流(ちゃくりゅう=正当なあとつぎ)である頼朝はとても大切な存在でした。
※このことをくわしく知りたい人は幕府を創った相模の武士団へ・・
頼朝は戦のはじめから、手柄(てがら)のあった者の領地を認めたり、敵からうばった土地を分け与えることを書いた「下文」(くだしぶみ)を与えています。「自分の領地を保証してくれる」「新しい領地がもらえる」ということは武士にとって最も大切なことでした。あてにならなかった国府の役人やわけの分からない「律令」より、頼朝が書いてくれた「下文」のほうがはるかに有効で有りがたかったのです。このことを知った関東の多くの武士団が頼朝に味方しました。
石橋山で九死に一生を得、おびえながら逃げ込んだ安房(あわ=千葉県の東部)からわずか一月で頼朝の軍勢が数万に成長した理由がここにあります。
※このことをくわしく知りたい人は鎌倉幕府が出来るまでへ
頼朝は平氏との合戦の前に武士の組織を作りました。これまでバラバラだった関東の武士が頼朝を中心に初めてまとまりました。更に頼朝は平氏との戦いに勝ったのちに国ごとに守護、荘園や国衙領(こくがりょう)ごとに地頭を置きました。この時に守護・地頭が配置されたところは、すでに武士の支配地だったところや平家からうばった場所に限られていましたが、頼朝はこのことによって全国の武士をまとめる足がかりを作りました。※国衙領=朝廷に税を納める国府の支配下にある領地(農園)のこと(荘園ではない領地)
※このことをくわしく知りたい人は移り変わる幕府の組織へ
やがて、承久の乱で関東の武士たち(御家人)が朝廷の軍に勝つと、武士の支配地は近畿地方を中心に西日本に急速に増えていきました。それにしたがって、それまでそこにいた人々との間のいざこざが増えていきました。また、家や土地の相続問題や御家人の仕事を明らかにしておくことも必要になってきました。こうして作られたのが「御成敗式目」です。
※承久の乱のことをくわしく知りたい人は承久の乱はなぜ起きたのか・乱の後は何が変わったのかへ
御成敗式目は北条泰時を中心に有力な御家人、学者、役人たちによって作られましたが、律令にくらべてこれまで武士が習慣としてきた約束事や、生活、心情にあったものになっています。式目を読めば分かるように「土地のこと」「相続のこと」「仕事のこと」が中心で、鎌倉時代の武士が一番大切にしていることがなんであるかがよく分かります。武士にとって「土地」は命でもあるわけで、これを守るために仕事があるといっても言いすぎではありません。御成敗式目は武士の生活を守るための法律と言っても良いのです。
玉川大学・玉川学園・
協同:多賀歴史研究所 多賀譲治