御成敗式目の要点

分かりやすいように箇条書きにしました。

1.それまで公家の法律だった律令を、武士の習慣や実態にあわせて作ったものが「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)です。

2.御成敗式目は元仁2年(1224年)に執権となった北条泰時が、連署(れんしょ)北条時房や評定衆(ひょうじょうしゅう)とともに編纂(へんさん)したものです。※連署=執権とともに政治を行う役職 評定衆=有力な御家人や学者がメンバーとなり執権を助ける  編纂=調べて編集すること    

3.御成敗式目は貞永元年(1232年)に制定されました。はじめは35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51箇条になりました。

4.御成敗式目は写しが作られた後、各国の守護を通して全ての地頭に配布されました。したがって、全ての地頭がその内容をよく知っていたと言われています。※地頭には御家人が命じられていました

5.御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代と長く武士の法律の手本とされました。

6.領地は武士にとっての命であり、先祖から受け継いだ土地を認めてもらうこと、新しい領地をもらうことの二つが最も大切なことでした。ですから御成敗式目の中で最も大切なのが第7条の将軍によって与えられた土地を保障することと、第8条の20年間実効支配すれば誰からも奪われないという部分になります。

7.いったん相続した土地でも親が返せと言えば返せる「悔返し」(くいかえし)や、子供のいない女性が養子をもらって土地を相続するなど、親の権利を優先していたこと。また、女性にも大きく権利が認められていることは注目すべき部分です。

※日本で女性の地位が低く見られるようになったのは江戸時代からであり、1563年に日本にやってきたルイス・フロイスは「日本の女性が男性と対等の権利を持っている」と記録に書いています。時代は異なりますが女性の地頭がいた鎌倉時代は男女同権の時代であったとも言えます。

8.御家人同士の裁判はできるだけ公平に行っていたことが分かります。有力者の口ぞえやニセの証拠を排除しています。また、一族に関係者のいる裁判官は退席することが決められていました。

9.また、頼朝以来のこととして御家人が勝手に朝廷から官位を受けることを禁止しています。これは御家人が従うのは将軍のみであることを示しています。

10.幕府に味方するものには手厚く保護を与え、敵対するものは謀反人、悪人などとして徹底的に取り締まる姿勢がうかがえます。

11.現代と同じく強盗殺人、放火殺人が重罪で死刑が相当であることが分かります。

12.歩いている女性がさらわれてしまうことが禁止されていると言うことは、そういことが多かったことをあらわしています。

ここからは「裁判の方法について」

13.御家人同士の土地や財産に関する民事裁判は「問注所」で行われましたが、殺人や傷害などの刑事裁判は「侍所」で行われました。また、鎌倉市中の民事裁判は「政所」で行われました。近畿地方や中国・四国・九州での裁判は京都の「六波羅探題」で行われましたが、裁決はすべて鎌倉で行われました。

14.問注所や政所にはそれぞれ「奉行人」と言われる専門の役人がいて、裁判の手続きをしました。

15.訴人(訴えた人)が訴え状を出せば、論人(訴えられた人)は書類で反論しました。これを3回繰り返したので「三問三答」といいます。そのあと訴人と論人との両者対決の口頭弁論が行われました。

まだまだ、ありますが後は皆さんが一つ一つを調べて新しい発見をしてください。分かったことや、もっと知りたいことがあったらメールをください。


現代語訳「御成敗式目」全文

御成敗式目が生まれるまでの道のり 

鎌倉時代の勉強をしよう 

玉川大学・玉川学園・
協同:多賀歴史研究所 多賀譲治