血みどろ戦いだった石橋山

-死にものぐるいで戦った頼朝軍-

 

-吾妻鏡より-

1180年(治承四年)

8月23日

頼朝以下300名は神奈川県の真鶴岬(まなづるみさき)付近にある「石橋山」に野営することとなったが,夜になって大雨となる.谷一つを超えた場所に大庭景親(おおばかげちか)の軍勢3000が前方に立ちふさがり,後ろからは伊東祐親(いとうすけちか)の軍勢300が迫っている.頼みとする三浦の軍勢は増水した酒匂川の岸でなかなか川を越えられなかった.

三浦の軍勢が迫っていることを知った大庭景親は,夜になって頼朝軍をおそうことを命令し,ここに石橋山の合戦が繰り広げられた.戦いは深夜におよび真田の与一義忠並びに武藤三郎、及び家来の豊三家安たちが戦死した.深夜の土砂降りの中,しかも急斜面を敵味方入り交じっての血みどろの戦いであった.

夜明け頃,総くずれになった頼朝軍はちりじりに敗走したのである.その時頼朝に従った武士は土肥実平(といさねひら)以下わずか6名であった.

1180年 8月24日

大庭の軍勢は早朝から小さな戦闘を続けながら頼朝を追ったが,この地域の道に詳しい土肥実平の導きによって頼朝等はひとまず土肥城(館)に逃げ延びることができた.しかしこの城に大庭が攻めてくるのも時間の問題と,箱根を目指して更に逃亡を続けた.椙山(すぎやま)というところに隠れていたところ,大庭軍に加わっていた梶原景時が「ここには誰もいない」と,追っ手を別の山へ導くあいだに,頼朝は洞窟(どうくつ)に隠れて逃げるチャンスをうかがっていた.夜になって箱根神社の別当の弟「求実」が頼朝を見つけて箱根神社まで道案内をして救出した.

ここまでのいきさつと解説

とにかく三浦の軍勢と合流しないことには命が危ない頼朝軍でしたが,運悪く三浦の援軍が大雨で増水した酒匂川でうろうろしているあいだに,大庭景親と伊東祐親の軍勢のはさみ撃ちにあってしまいました,石橋山は現在では「みかん畑」になるほどの急斜面です.こんなところを合戦の場に選んだのは小数の頼朝軍が有利に戦うためなのかとも思いますが・・・真っ暗やみの土砂降りの中を,何時間も急斜面を上ったり降りたりしながら殺しあっていたのかと思うと,「壮絶」という言葉を通り越して「凄絶」(せいぜつ=たとえようもなくすさまじいこと)の2文字がうかんできます.真田(さなだ)の与一忠義は一たんは敵をねじ伏せたのですが,血で固まって抜けなくなった「よろいどうし」(小刀)を必死に抜こうとしている間に別の武士によって殺されてしまいました.

与一が殺されたあたり.手前の「のぼり」が佐名田(真田)与一(さなだよいち)を祭る廟(びょう=霊を祭るところ)の位置

与一が眠る与一塚.遠く相模灘(さがみなだ)が見渡せます.

石橋山頂上付近の林.こんな林の中で戦い,頼朝一行は必死に逃げていきました.

石橋山から見える相模湾と三浦半島.同じ風景を大庭の軍勢も頼朝の軍勢も見たことでしょう.

頼朝の推定逃走ルート

石橋山〜箱根神社/箱根神社〜真鶴〜安房(千葉県)

頼朝の幸運は続きます.土肥城につくまでのあいだ,椙山(すぎやま)の内堀口のあたりで一度敵と戦いました.この時は頼朝も弓をもって戦ったと記録されています.頼朝はこの戦闘で戦死してもおかしくない状況でしたが何とか逃げ切ることができました.それはこの山中の道に詳しい土肥実平がいたからです.(土肥実平は義朝時代から源氏と関係の深かった中村氏一族で,ちょうど石橋山を含む湯河原一帯を治めていた豪族です)

また,梶原景時(かじわらかげとき)のように,大庭の軍勢にありながら頼朝に心をよせる武士がいたのも,頼朝にとって幸運なことでした.相模の武士,飯田家義と言う人は夜中にこっそり頼朝たちのところに現れ「家来にしてくれ」とたのんでいます.(梶原景時は頼朝一行を見つけたのですが「ここには誰もいない」といって,追っ手を別のところへ導きました.後に景時は頼朝の御家人になりました.)

この地域の地理に詳しい土肥(とい)一族が味方にいたこと,敵の中にも味方がいたこと.頼朝の祖父「源為義」(みなもとのためよし)以来関係の深かった箱根神社の別当が救援(きゅうえん=助けること)の手を差し伸べたこと.これら全てが頼朝に味方したのです.

歴史の歯車がちょっと狂って頼朝が死んでいたら,日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう.歴史に「もし」はないのですが,こうした状況を知れば知るほど「生きていなくてはだめ」なんだなあとつくづくゲンボー先生は思いました.

なぜ.敵のなかに味方がいたの?

関東地方の武士の多くはもともと開拓農民でした.利根川.荒川.多摩川.相模川といった川すじの低地に水路を掘り,水田や畑を開いていった人々の子孫です.その大きさには差はありましたが豪族としてそれぞれの地域をまとめていました.

ところが平安時代の中期から後期にかけては国司という国ごとの最高職(現在の知事にあたる.ただし選挙で選ばれるのではなく朝廷が貴族に命じる)や目代(国主の代理人)が勝手に税をとったり,領地を奪ったりということが当たり前のようになっていたのです.伊豆の国の目代山木は平家の権威(けんい=権力の力)を利用して勝手な政治をしていましたね.

ですから,一般の豪族からすれば祖先の血筋が平家とか源氏とかということにはあまり関係なく,自分達の生活が良くなるのなら誰が支配者になっても良かったのです.そんな状況で源氏の正統である頼朝が伊豆の目代を殺害したという話が瞬く間(またくま)に関東中の豪族に知れ渡りました.ですから,表向きは平家方の軍勢にいながらも,平氏に反感を持つものや,うまくいけば頼朝の恩賞(おんしょう)にあずかるかもしれないという思惑(おもわく=心のなかで思っていること)を持っている者がかなりいました.なかには親子や一族で分かれながらそれぞれに味方している豪族もいるのです.どちらかが生き残るからです.皆さんは「ずるい」と思いますか?

警察もない,裁判もない,法律すら守られないような社会を生き抜くためには,このくらいの「したたかさ」がなくては生きてはいかれませんでした.頼朝の挙兵から鎌倉入城までのいきさつはこうした豪族達の損得勘定(そんとくかんじょう)や,頼朝の心のゆれがとてもハッキリとわかって小説やドラマよりも面白いと先生は思うのです.


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