やらなければならない羽目になった山木館襲撃

-吾妻鏡より- 

1180年(治承四年)※太陰暦で表示します

8月17日 

佐々木太郎定綱,次郎経高,四郎高綱,と安達盛長,それに北条時政たちの軍勢が北条氏の館からそれほど遠くない伊豆の目代(目代=もくだい=国主にかわって国を治める人)山木兼隆(やまきかねたか)の館を襲ったのはこの日の夜だった.三島神社のお祭りがあって,館の家来達が手薄になったからである.成功の合図は「のろし」だったが,いつまでたってもその合図がない・・・いらだった頼朝は加藤次郎景廉,佐々木三郎盛綱,堀の籐次親家の3人を目代の屋敷に送った.たった3人の援軍であった.しかし,これで北条の館に残ったのは頼朝ただひとりである.

頼朝が流された「韮山」(にらやま)の地図です.山木の館や北条の館がすぐ近くにあることが分かりますね.頼朝はこの場所で見張られていたのですが,味方になった北条氏が山木の館をおそうことが,それほど難しくないことが分かりますね.(地図をクリックすると写真を見ることができます)

8月18日

夜明け頃,ようやく山木の館方面に「のろし」があがった.「成功だ」やがて,疲れはてた武士達が山木兼隆とその家来たちの首を持ち帰ってきた.頼朝はその首を見て武士達の苦労をねぎらった.しかし,喜んではいられない.目代と言えば国の主も同然,頼朝を敵と思う武士達の数は多く,中でも伊東祐親(いとうすけちか)は娘を頼朝に「たぶらかされた」という個人的なうらみもあって頼朝の命を狙っていた.また,相模(神奈川県)には平家方の大豪族である大庭景親(おおばかげちか)が,謀反人(むほんにん=主人に逆らうもの=この場合平家に逆らうこと)である頼朝の首をとろうとしているからである.

この日,頼朝は目代の政治を停止することを伊豆の豪族達に伝えた.目代山木兼隆の死と頼朝の挙兵を知った土肥の武士達が頼朝の味方になるためにやってきた.

8月19日

相模・伊豆の武士およそ300人が頼朝のところにやってきた.いずれも頼朝の家来となって平家方の軍勢と戦う意気込みである.中には平家方の有力豪族である大庭一族の大庭景義も加わっている.吾妻鏡では,「これみな将のたのむところなり,それぞれ命令を受け,家を忘れ親を忘れること」と書いてある.つまり,このたびの頼朝の挙兵に従ったからには,たとえ親・兄弟が敵となっても,頼朝のために戦え!という意味である.

8月22日

この日,頼朝が最も頼みとする三浦義明の息子次郎義澄・十郎義連,和田義盛たち三浦の軍勢が頼朝の軍に加わるために三浦半島から出発した.

ここまでのいきさつと解説

治承4年5月(1180年)天皇になれないでいた皇太子「以仁王」(もちひとおう)と,源頼政(みなもとのよりまさ)は平家をたおすために立ち上がりましたが.すぐにばれてしまい,二人とも討ち取られてしまいました.

しかし,二人は討ち取ったものの,以仁王が生前に出した「平家を討てという命令書」は日本中をかけまわっています.そこで,平家は「生かしておくと危険な頼朝を殺せ」と言う命令をだしました.頼朝の選ぶ道は二つしかありません.このまま逃げて一生隠れて生活するか「イチかバチかで立ち上がるか」です.頼朝は後者を選びました.つつましくも平和な暮らしを望んでいた頼朝は,伊豆の目代(もくだい=国司の代理人)をおそわなくてはならない羽目になってしまったのです.

流人(るにん)とはいえ源氏の直系である頼朝は数人の家来をしたがえ,けっこう自由できままな生活をしていました.その証拠に関東の豪族達と時々狩りをしたり,ガールフレンドとデートなどをしています.伊豆の有力豪族である伊東祐親が頼朝の敵になった一番の理由は,自分が京都に行っている間に,お嬢さんと頼朝の間に子供ができちゃったからなのです.可哀相にその子供は流人頼朝の子供であると言う理由で,殺されてしまったと言われています.父親としては「頼朝を許せない」ですね.この気持ちは良く分かります.(伊東祐親は平氏です.都の平家の手前もあって頼朝との結婚には反対でした)

後に頼朝は,身柄をあずけていた北条時政の娘である政子さんと仲良くなりました.おやじの時政は猛反対です,「謀反人(むほんにん)頼朝は我々平家の敵だ.しかもその監視役の娘が奥さんになるなどとんでもない!」(北条氏もまた平氏です)・・・とまあこんな具合です.

そんなわけで,時政は政子を頼朝から離して別のところへ住わせてしまいました.ところが,政子さん,愛する頼朝のところへ逃げて帰ってきてしまったのです.さすがの時政もあきらめて二人の結婚を許しました.そして二人の間に大姫というお嬢さんが産まれました.1177年,頼朝が32才,政子が22才くらいの時の話です.

平和に暮らしたかった頼朝ですが,回りの状況がそれを許しませんでした.ある日「文覚上人」(もんがくしょうにん=文覚というお坊さん)が頼朝を訪ねて,ふところから頭蓋骨をとりだし「これこそあなたの父上,義朝(よしとも)殿の首.かたきを討ちなさい.」「後白河上皇も平氏を討てと言っております」などと頼朝を「けしかけ」にきました.義朝の頭蓋骨も後白河上皇のはなしもどちらもインチキくさい話だったので,頼朝も「あの坊主め変なことを言いおって・・・」と文覚が帰ってから回りの人にこぼしています.この時,頼朝は平和な生活をこわしたくなかったのです.

1180年4月に京都で後白河法皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)と,平家の政権でただ一人源氏であった源頼政(みなもとのよりまさ)が手を組んで平氏打倒の戦いをはじめました.戦いは失敗して以仁王も頼政も死んでしまいましたが,以仁王が生前に書いていた「平氏打倒の令旨」(りょうじ=皇子の出す命令書)(平氏をやっつけろと言う皇子の命令)が,諸国の源氏に向けて出されていました.木曽の義仲や甲斐(山梨)の武田源氏はもちろん,伊豆の頼朝にもその命令書は届きました.しかし,この時点になっても頼朝に戦う意志はなかったと言われています.

ところが1180年6月になると,義朝の子である頼朝も危なくなってきました.京都にいた乳母の妹の子,三好康信(みよしやすのぶ)からも頼朝に「危ないから奥州に逃げなさい」と言う手紙が届きました.ここにきて,ついに頼朝は頼りになりそうな関東の豪族達に挙兵への協力を頼みました.しかしいくつかの豪族からこの話がもれてしまい,京都から帰ってきた相模の有力豪族,大庭景親の耳に入ってしまいました.大庭景親は関東に逃げてきた頼政の孫達を捕まえる命令を受けていたのです.当然,大庭景親は謀反人(むほんにん)頼朝を討つための行動を開始します.

追いつめられた頼朝はついに,伊豆の国の事実上の最高権力者であり,伊豆の豪族達に嫌われていた目代の山木兼隆をおそう決意を固めたのでした.この時,山木襲撃に従った武士は時政を中心にした北条氏や頼朝に使えていた佐々木兄弟や安達盛長達でした.

頼朝たちにとって頼みの綱はなんと言っても南関東の大豪族三浦氏であることは言うまでもありません.三浦の介義明は頼朝に味方することを誓い,援軍を送りましたが8月23日の石橋山の合戦には間に合いませんでした.頼朝は北条氏や土肥実平らの兵士300人足らずで三浦と合流するために小田原方面に進みました.後ろからは伊東祐親の軍勢300名,前からは大庭景親の軍勢3000名が迫っていました.さあ!頼朝さん,どうする!!!

いよいよ明日は石橋山の合戦

 

石橋山から相模灘を見る.


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